亜細亜の街角
マルギランに泊まれず引き返す
Home 亜細亜の街角 | Andijon / Uzbekistan / Jul 2007

アンディジャン  (参照地図を開く)

ファルガナ(フェルガナは露語)は北部と東部が天山山脈,南部はパミール高原に囲まれた四国ほどの面積の盆地である。そこには天山に源をもつシルダリアをはじめ周辺の山岳部から多くの川が流れ込んでいる。乾燥地帯にありながら水に恵まれたこの地域はウズベキスタンの穀倉地帯となっている。紀元前から農業の盛んなこの地域は漢書にも大宛国として紀されている。

ファルガナにはウズベキスタンの人口の1/4にあたる600万人が居住しており,人口密度は日本とほぼ同等である。古くはイラン系(タジク人と同系)の民族がこの地域に住んでいたが,しだいにチュルク系のウズベク人に変わっていった。現在でも日常的にタジク語が話される地域もある。

本来はこの盆地全体が同じ文化を有する一つのまとまりであったが, 「中央アジア」がソ連邦に組み込まれていた時代に,ファルガナの分割を意図して国境が引かれた。その結果,ファルガナはウズベク,タジク,クルグスという3つの国に分割されることになった。

ソ連時代に巨大な灌漑水路網が整備され,これによりファルガナの綿花生産は急速に拡大した。逆に言うとあまりにも綿花栽培一辺倒になっており,ウズベキスタンの独立時は穀物の2/3,食肉の1/3,ジャガイモの1/2を輸入に依存していた。そのため,農業・産業の調整が必要となった。

マルギランは9世紀頃からタジク人の町として知られるようになった。町の名前もマルギーナーンというイラン系の呼び名であったが,チュルク化が進みマルギランに変わった。現在の人口は15万人,住民のほとんどがウズベク人である。この地域は養蚕が盛んで,マルギラン・アトラスといわれるカラフルな矢がすり模様の織物が有名である。

アンディジャンは人口35万人,12世紀から18世紀にかけてファルガナの中心であった。1902年の大地震により歴史的な建物はほとんど倒壊してしまい,現在の街並みには歴史を感じさせるものは少ない。

早くから帝政ロシアの支配下にあったアンディジャンでは,1898年にスーフィー教団のイシャーン(導師)に率いられた反ロシア大蜂起が発生たことで知られている。この反乱はロシア軍に鎮圧されたが,その100余年後に再び大きな反政府活動の舞台となった。

アンディシャンの暴動(2005年)

1991年に旧ソ連から独立して以来,旧共産党指導者のカリモフ大統領が政権を握っており,言論の自由は事実上存在しない。議会はカリモフ政権与党の大政翼賛会状態となっており政府への批判は完全に封じられている。

カリモフ政権はファルガナを中心とする国内のイスラム復興運動を弾圧する一方で,親米路線を進め,9.11米国同時多発テロ事件以後は米軍に基地を提供してきた。2005年5月13日にアンディジャンで発生した大規模な反政府暴動は,治安部隊による市民への無差別発砲により1000名以上の死者を出す大惨事となった。

カリモフ大統領は「現地の治安は回復された」と述べているが,欧米から強い非難を浴びた。アンディジャンが位置するファルガナ盆地はウズベキスタンの中でも特に貧しく,カリモフ政権に対する人々の不満と怒りは大きい。

ジャララバード→国境(60km)→アンディジャン移動

08時に起床,いつもの朝食(丸型パン,蜂蜜,トマト,メロン)をとって荷物をまとめる。Eさんと一緒にチェックアウトして国境のハナバード行きの乗り合いタクシー乗り場に行く。大宇(韓国の自動車メーカー)の軽自動車に3人が乗って一人50ソムである。国境まではおよそ30分,クルグス側の出国手続きはパスポートのチェックのみであった。ただし,Eさんはサブザックを開けさせられた。といっても何を調べるでもなく,単なる暇つぶしのようだ。クルグスの入国スタンプの横にちゃんと出国スタンプが押されていることを確認する。

20mほどの緩衝地帯を歩くと,ウズベクのゲートがある。係官がパスポートをチェックし一人ずつ中に入る。少し先にイミグレーションの建物があり,パスポート・チェックの間に税関申告書を書かされる。質問内容はすべてロシア語なのでまったく分からない。近くの係官が手伝ってくれてなんとか欄を埋めることができた。荷物の種類と数量,所持している外貨金額が主要な記載事項である。もっとも係官はT/Cを知らなかったけれど。

この申告書を二枚作成して,一枚は出国まで保管しなければならない。しばらく待っているとパスポートが戻ってきた。入国スタンプをチェックするとどこにもない。よく見るとスタンプはビザの上に押されていた。そんなのありかなあ・・・

国境からアンディシャンまでマルシュルートカとタクシーが走っている。タクシーは5000ソム,マルシュルートカは1000ソムなのでどちらを選択するかは自明だ。残ったクルグス・ソムはここで両替することができる。僕は442Ks=14,200Us,Eさんは10$=12,000Usで両替した。

08:30に国境に着いて,09:30に通過儀式は終了したのでわりとスムーズな国境通過といえる。アンディジャンまでは約1時間,立派なバスターミナルでEさんと分かれて,僕はマルギラン行きのバスに乗る。15分ほどでバスは道路わきに停まり,警察のチェックを受ける。何か不備な点があったらしく,再び動き出したのは1.5時間後であった。この間乗客にはなんの説明もなかった。

マルギランのバスターミナルで下車し,近くの人にマルギラン・ホテルをたずねると,バスターミナルのすぐ隣であった。しかし,管理人は「ロシア語はできるか,何泊するのか」などと聞いてから「ニエット」という答えであった。部屋が空いていないわけはないのでどうやら外国人お断りのようだ。

これは困った。ガイドブックには他の宿は記載されていない。近くの男性が僕が宿を捜しているのを知り,少し離れたシルク製品の工房に連れて行ってくれた。ここの2階に泊まれるというが,料金は25$ととても宿泊できるレベルではない。

ということでアンディジャンに戻るかコーカンに進むかしかなくなった。まあ,ファルガナをそんなに早く通過するのはしゃくなのでアンディジャンに戻ることにした。バスターミナルに戻ると,すぐに客引きにつかまり乗り合いタクシーに乗せられた。乗り合いタクシーは営業区間が決まってるのか,2回乗り換えてようやくアンディジャンに到着した。3回のタクシーで2000ソム,これはバスの2倍である。

アンディジャン・ホテル

アンディジャンの路上で降ろされ「ここはどこ」という状態だ。街の中心部までは2-3kmはありそうなので,警官に市内を回るマルシュルートカを教えてもらう。これがほとんどつかまらない。

ありがたいことに,乗用車が止まり,「アンディジャン・ホテルに行きたい」と伝えると,近くまで乗せていってくれた。アンディジャン・ホテルで部屋代を聞くとシングルで20,000ソムと言われた。それは高すぎる。

受付の男性は「ここにはもう一人日本人が泊まっている,彼と相部屋にするなら10,000になる」と提案してくれた。宿帳を見てEさんであることを確認し彼の意見に従う。部屋に荷物を置き,これでようやく宿が確保できた。

ウズベキスタンの厄介ごとは「外国人登録」である。クルグスタンは1回ですんだけれど,ここでは滞在する町ごとに登録が必要となる。これを怠ると最悪,国外追放の憂き目に会う。

アンディジャン・ホテルでは窓口にパスポートを預けると15分くらいで登録証(小さな紙切れ)をもってきてくれた。この登録証はウズベクを出るまで保存しておかなければならない。

出がけにホテルの壁に描かれていた絵を写真に撮る。内容はよく分からないが中世の宮廷の様子と遠征の様子と解釈した。

露店のカフェ

宿の裏手には広い公園があり,その手前には露店のカフェがある。アイスクーリームがあるので坐っていただく。すると警官が現れ,職務質問を受ける。パスポートを提示すると無線でどこかと連絡をとっている。英語を話せる通りがかりの人が通訳をしてくれる。

かれこれ10分ほども警官と付き合うことになりいい迷惑だ。そういえば,旅人から聞いた話では,ウズベクの警官の腐敗もかなりなものだという。まあ,そのような悪徳警官でなくて幸いだったとも言える。

正体不明の施設

大通りの露天

中央アジアでよく見かけた炭酸飲料販売機

街角で見かけた食材と食べ物

夕食は二人で近くの食堂でいただく

しばらくするとEさんが戻ってきたので,事情を説明して部屋を移動してもらった。夕食は二人で近くの食堂でいただく。ウズベクは牛肉のケバブ(串焼き)の店が多く食事には困らない。店の前で焼いているので,匂いにつられてしまう。ケバブ1本,ナン,トマトとキューリのサラダ,チャーイで800ソム(80円),宿代を除くと物価は安そうだ。

ここで働いているおばさんたちはウズベクの伝統的なゆったりとしたワンピースの上にメイドのような白いエプロンをしており,これは微笑ましい(もっともこの時点では僕はアキバのメイド喫茶なるものを知らなかった)。

州庁舎

06時に起床,僕はアンディジャンの町をほとんど見ていないので12時まで街を見学することにする。朝食はいつものようにパン,蜂蜜,サラダとなる。Eさんは生のトマトやキューリが苦手だというので,野菜抜きのさびしい朝食だ。

ホテルの前はちょっとした広場になっており,その向こうにあの州庁舎がある。2005年のアンディシャンの暴動(民主化要求?)ではこの州庁舎と広場が占拠され,軍隊の無差別発砲により1000人近い死者が発生した。州庁舎は新しく塗装され,当時の痕跡は遠くから見る限り残っていない。

33番のマルシュルートカ

広場の向こうの通りには33番のマルシュルートカがたくさん停車している。町の長距離バスステーションはここから3kmほど離れており,この33番で近くまで行くことができる。

貸衣装屋かな

少年が切り盛りしている露店

銀行が開くのを待っている

まずバザールに向かう。大きな通り(たぶんカームル・ヤシュム通り)に面した一画はさほどおもしろくない。銀行があり,ここでも早朝から大勢の女性が開店を待っている。女性たちの服装は伝統的なゆったりとしたワンピースだ。

昔はウズベクの女性服といえば絣柄と決まっていたのに,現在はプリントのものがほとんどになっている。クルグスでもそうであったように,ここでも既製服は売られていない。布地を買い,自分に合わせて縫製してもらうようだ。

ゆりかごというかベビーベッドというか

カシュガルでも見かけた中央に穴が開いているゆりかご(ベビー・ベッド)がここにもあった。カシュガルのものは乳児を寝かして左右に揺らすことができるタイプであったが,ここのものは四隅に足が付いているので揺らすことはできない。

中央の穴は何のためにあるか・・・それは,おしっこ用なのだ。ちょっと,特殊な木製の道具(男の子用と女の子用は違う)を使って穴から流すことができる。

店の上に下がっているものは何だろう

刃物砥ぎ屋の店の上に掛けられている伝統紋様をあしらった透かし彫りの薄い板がある。これはジャララバードでも見かけたが用途は不明だ。こんなときはが日本語ガイドが欲しいと思う。

日用品や金物屋が集まっている通り

アンディジャンのバザールはこんなものなのかと思っていたら大まちがい。大きな通りを左に折れるとバザールらしいところに出る。通りの両側には金物屋が軒を連ね,農機具やトタン板を加工した金属製品がずらりと並んでいる。

昔懐かしいブリキのバケツ,いろいろな形の中央に煙突が通っている湯沸かし器・・・道具屋の店先では人々の生活を想像することができるので楽しい。

鍛冶屋

日本ではとうに廃れてしまった村の鍛冶屋はここでは健在であった。鉄を熱し,たたいて道具の形に仕上げる手仕事はかっての日本の風物詩でもあった。

形が不ぞろいのクワ

鍛冶屋の店先にはクワが置かれている。手作りらしく同じ形状のものはない。この通りで店を出している男性からひっきりなしに声がかかる。

日本のものとはかなり形状が異なる鎌

刈り入れ用の鎌は刃の部分と柄につなぐ部分が分かれており,両者をビスで止めている。実用本位の素朴な道具は見ていて飽きない。しかし,時間がないので先に進まなければならない。

刃物砥ぎ屋

刃物研ぎのおじさんが店先でグラインダーを回して客のナイフを研いでいる。僕もカシュガルで買ったナイフを研いでもらうと,片刃であったものが両刃になっていた。さすがに刃はするどくなっている。

子どもたち

ウズベキスタンで撮った最初の子どもの写真である。といっても,前の訪問地のジャララバードもファルガナにあり,住民に差があるわけではない。ソビエト時代に住民の意志とは関係なく国境線が引かれてしまい,ファルガナは3つの国に分割されてしまった。

バザールの人々

ファルガナはコメの産地でもある

近くには穀物を扱う建物もある。コメの入った袋がたくさん並んでおり,その上に値札が立っている。650-800ソム/kgと国際価格に比してもそれほど高くはない。水に恵まれたファルガナはコメの産地でもある。

屋根付きの大きな市場

金物屋街の先に生鮮食品を扱う大きな屋根付きの市場がある。サマルカンドの青に似せたのか色鮮やかな青い屋根が人目を引く。この屋根は半透明のため中に入ると写真はすべてフィルターを通したように色が付いてしまう。

写真はフィルターを通したように色が付いてしまう

この市場は同心円状にコンクリート製の売り場が配列されており,買い物客は間の通路を通り品物を探すようになっている。全体の雰囲気が撮りたくて,一番外側の台の上にクツを脱いで上がる。

ここで働いている人々は陽気で気さくだ。写真を撮ることには何の問題もない。果物屋では味見をしてからぶどうとスモモを買う。スモモは2500ソム/kgと高いけれど味はすばらしい。赤い表皮と黄色い果肉,日本にもこの果物はありそうだ。

土釜でパンを焼く

通りを先に進むと土釜のパン屋さんがある。握りこぶしより少し大きいパンを土釜の中に張り付け,焼きあがると取り出す。中国の西域から中央アジアにかけて広く行われているパン焼きである。

女性たちの服装は華やかだ

中央アジアのパンはナンのように薄くて大きなもの,厚みのある大きなもの,丸くて小さなものの3種類がある。近くの簡易食堂では女性たちが朝食をとっている。女性たちの服も華やかだが,テーブルクロスもすばらしいデザインである。

二種類のタマネギ

メロンとスイカが溢れている

市場の少し先に広場がある。そこはメロンとハミ瓜で溢れていた。ラグビーボールと同じくらいの大きさ,同じ形状のハミ瓜が積んである。夏に東西のトルキスタンを旅行するなら,このメロン類を食べない手はない。ただし,とても大きいので一人で全部食べるのちょっと無理だ。

自転車の修理屋

モスク

広場の先には金曜モスクがある,と思ったらプレートには「Devonaboy Mosque」と記載されていた。この建物はモスクのイメージからはちょっと遠い近代的な匂いのする建物である。ちょうど改装中で中には入れない。職人がレンガを積み上げて窓枠の部分を埋めている。

職人のレンガ積みの技術は素晴らしい。直方体と何種類かの飾りレンガを用いて見事に壁面の模様を造り出していく。色タイルのような装飾材料を用いずにレンガの色の濃淡で造り出す模様はシンプルな美しさがある。

バーブル記念館

バーブル記念館は中庭だけが公開されていた。入口から入ると正面にバーブルの像と廟がある。アンディジャンのエミール(領主)となったバーブルはチムール帝国を再興すべく,周辺のウズベク族と抗争を繰り返したが成果はなかった。

そのため南下してアフガニスタン経由で北インドに侵入しムガール帝国を建国した。「ムガール」は他称で,モンゴル人を意味するペルシア語の「ムグール」が転訛したものである。

それはバーブルがチムール朝の王族とチンギス・ハーン家の両方の血筋をもっていたためである。実際には彼を含め歴代の君主は「チムールの一門」の称号を使用していた。

いちじく

記念館の中庭は取り立てて見るべきものはない。庭園の周囲を一回りしてお終いである。戻ってくると管理人のおじさんが庭のイチジクの木から熟れた実を一つもいでくれた。甘くねっとりとした味は日本のものとはちょっと違う。

街角の風景


ジャララバード   亜細亜の街角   コーカン