亜細亜の街角
何も無い村の民泊は得がたい経験となる
Home 亜細亜の街角 | Barskoon / Kyrgyz / Jul 2007

バルスコン (地域地図を開く)

バルスコンはイシィク・クリ(イシククル湖)の南岸にある小さな村だ。南岸といっても湖岸から村の中心部までは5kmほど離れている。

この村には特に見どころがあるわけではない。「なんとなくアジア」というホームページのキルギス編でこの村で宿泊したという記述があったのと,旅行人のシルクロードに簡単なガイドが書かれていたので訪れることにした。

キルギスタンで訪問した町はほとんど村のようなものだが,本当の村に行ってみたいと考えてここを選択した。問題は交通と宿泊施設である。どちらもまったく情報の無い状態で出発した。

カラコル(約70km)→バルスコン 移動

06時に起床,蜂蜜とジャム付きの大きな丸型パン,トマトとキューリのサラダというこのところの定番メニューで朝食をいただく。けっこう居心地の良かったヤク・トゥルホテルとも今日でお別れである。

08:15にチェックアウトして南BTに向かう。客待ちのマルシュルートカ(乗り合いのミニバス)の運転手に「バルスコンに行きたい」と告げると,「この車に乗りな」という答えであった。

09時にマルシュルートカは動き出した。出発時は11人だった乗客はどんどん増えて19人となり,さすがにこれ以上は乗せられなくなる。車は道路わきで手を振っている人を無視して先に進む。

運転手はイシィク・クリの南岸を回る幹線道路とバルスコン村への道の分岐点で車を止め,「この道をまっすぐ行きな」と教えてくれた。

彼が指し示してくれた方向は一面の草原となっており,その向こうに家屋が見える。そしてその背後にはテレスケイ・アラ・トーの雪山がそびえている。

さて,これから5kmをどうしようと思案していると車が通りかかり,村の中心部まで行ってくれた。運転手は僕のお礼をどうしても受け取らなかった。次は宿泊場所を探さなければならない。

宿探しに難儀する

村の通りにはほとんど人影は無い。商店があったので中に入り,「泊まれるところはありませんか」と身振りと英語でたずねる。商店主も買い物客も首を横に振るばかりだ。

次の商店でも同じ反応であった。「この村に泊まるのは無理かもしれない」と考え,湖岸の幹線道路の方に歩き出す。バルスコンから5kmほど離れたタムガの村なら宿泊は可能なはずだ。

老夫婦の家

道端でコンクリートをこねている男性がおり,もう一度たずねてみると隣の家を紹介してくれた。家の門をくぐると2つの建物がある。男性が大きな声で呼ぶと奥の家からおじいさんが出てきた。

男性は手短におじいさんと話し,おじいさんは僕が泊まることに同意したようだ。男性はごく簡単な英単語を並べてくれた。食事付きで1泊100ソムである。僕は2泊する予定だったので200ソム(600円)を支払う。

男性にお礼を言って家の中に入る。室内は靴を脱いで入るので清潔感がある。この家には大きな部屋と小さな部屋がある。大きな部屋は居間・食堂・寝室を兼ねていおり,小さな部屋は半分物置として使われている。

この家の住人は70代の老夫婦である。おじいさんは中肉・中背でまだ十分に元気だ。右足が痛むのか少し足を引きながら歩くけれど,馬車をあやつり農作業をしている。また,馬に乗ってどこかに出かけたりもしていた。

おばあさんは完全に太り過ぎである。自分の体重のため膝に過大な負担がかかりつらそうだ。坐った姿勢から容易に立ち上がれない。この家では日本のちゃぶ台のように床に坐って食事をするが,おばあさんは小さな背の低いイスに坐っていた。

この家では老夫婦と一緒に食事をした。2日間のメニューをまとめてみると次のようになる。
昼食:パン,バター,チーズ,蜂蜜,紅茶
夕食:パン,バター,ジャガイモ,ビスケット,紅茶
朝食:パン,バター,ジャガイモ,紅茶
昼食:パン,バター,ジャガイモ,紅茶
夕食:鳥とジャガイモのスープ,パン,蜂蜜,紅茶
朝食:鳥とジャガイモのスープ,パン,蜂蜜,紅茶

普段はパンとジャガイモが主食であり,僕が宿泊したので2日目は鳥が入ったらしい。パンは買い置きしているのでどんどん固くなってしまう。まあ,紅茶に浸して食べている分には問題はない。

おじいさんは紅茶の中にバターや大麦の粉を入れて食べることがあった。おじいさん,それはチベットの文化だよ。パミールで東西に隔てられてはいても,文化は人ともに伝播していくものだ。

お湯はイランでもちょくちょく見かけた独特の湯沸かし器を使用して沸かしていた。高さ70-80cmの金属容器の中央に穴が開いており,そこに炭火を入れる。その上にポットを乗せると湯が沸くようになっている。イランではポットに相当する部分が直接取り付けられている形のものもあった。まあ,金属製の七輪のようなものだ。

このポットのお湯で紅茶をいれ,残り湯を使って洗い物をする。鍋を暖める時は電熱器を使用するのに,ことお湯に関しては湯沸かし器の独壇場であった。もっとも,鳥とジャガイモのスープなどの大物を作るときは外のかまどを使用する。

寝床はとてもよかった。床の上に羊の毛皮を2枚敷いて,その上に布団を敷いてくれた。暖かくてとても寝心地はよい。おじいさんも同じようなスタイルの寝床である。

おばあさんは膝が悪いのでベッドを使用していた。昼間はベッドの上に寝具をたたんで積み上げ,カバーをかけてあるのでそれと気が付かなかった。

この家にはテレビもあった。キルギス語かロシア語の放送はまったく内容が分からない。夜の放送でおじいさんが「ヤポン」と教えてくれた。

画面を見るとNHKの画像がそのまま使用されており,新潟県で大きな地震(平成19年新潟県中越沖地震)が発生したというニュースが流れていた。ちょうど柏崎のあたりだなと思っていが,ここでは情報収集の手段が無い。

帰国後,関連情報をチェックしてみると,稼動中の原子力炉4基は緊急停止したようだ。点検中の3基と合わせ,7基の原子炉は「安定した状態」にあると東京電力は発表しているが,家屋,関連設備を含めて大きな影響があったようだ。

羊の毛皮を2枚敷いて,その上に布団を敷いた寝床はとても快適であった。06時に起きるとおばあさんはすでに起きていた。朝食前に中庭の探検に行く。母屋の裏手には納屋,ニワトリ小屋,馬小屋が並んでいる。

この季節は馬は外につながれている。昨日の夜にトイレに行ったとき,暗がり中から聞こえてきた馬の鼻息に驚かされたものだ。中庭には馬から外された馬車がある。

その先は杏,リンゴなどの果樹園になっている。果樹園には特に仕切りの柵が無いので,どこまでがこの家の地所なのかは分からない。小屋の裏手には刈り取ってきた夏草が山になっている。老夫婦といえども厳しい冬に備えてするべき作業はたくさんあるようだ。

村の家の造り

村の家は日干しレンガと木材を上手に組み合わせて造ってある。冬の寒さを防ぐためには日干しレンガと泥の組み合わせはこの地域最高の材料なのだろう。

屋根の庇を少し長く出しておけば雨が降っても壁はそれなりに保護されるのであろう。壁面を泥で平らにして,その上に漆くいを塗れば雨から壁面を守ることもできるし,白く美しい壁面も出来上がる。

子どもたちはそれほどカメラ慣れしていない

村の中にはほとんど人通りがない。ときどき家の前で子どもが遊んでいるだけだ。直径1mもありそうな大きな木が横になっており,その上に子どもが坐っている。

カメラを向けると緊張した面持ちでこちらを見ている。まだ写真慣れしていないことがファインダーからよく伝わってくる。

村はアンズの出荷で大忙しである

宿に戻ったら扉が施錠されている。村の大通りを北に歩くと,大きな貨物トラックが停まっている。近所の人たちが杏の入った箱をどんどん積み込んでいる。荷車や馬車で杏が持ち込まれるので,これはいい絵になる。

家の前では杏を木箱に入れる作業が行われている。ここの杏は粒が大きく,立派だ。オレンジ色が少し見えるくらいのところで収穫され,10kg単位で箱詰めされ,ロシアに送られるという。もっとも誰も重さを量ってはいない。

1箱の出荷価格は200ソム(600円),ここでは貴重な現金収入にちがいない。ロシアは石油と天然ガスで経済が好調なため,このようなところから果物を買い集める余裕がある。

アンズ(杏子,杏,英名アプリコット)はヒマラヤ西部からフェルガナ盆地にかけての地域を原産とする。ということはキルギスは原産地のほぼ中央に位置しているということになる。果実や葉の形状から分かるようにウメやスモモの近縁種であり,容易に交雑する。

近縁種のウメの果実は完熟しても果肉に甘みを生じず,種と果肉が容易に離れないのに対し,アンズは熟すと甘みが生じ,種と果肉が離れる。この性質のために果実として栽培されている。

世界的にはトルコ,イラン,ウズベキスタンが世界生産量の40%を占めている。とはいうものの,アンズは果実の酸味が強いので,生食ではなくその多くはジャムなどに加工されている。また,乾燥果物として旅行中にしばしば目に触れることがあった。

アンズの花はサクラよりも赤色が強く色彩は桃に似ている。僕などは苗字に「桜」が含まれているが,花としてはアンズの方が好きである。

衣服の行商人と子どもたちも集まっている

この村にはほとんど商店はない。わずかに食料品と日用品の店があるだけだ。そのため,このような衣類の行商も行われるようだ。

杏とともに村の子どもたちも集荷所によく集まってくる。2日間の写真を見比べてみると,同じ子どもが複数回写っていることに気が付いた。

村の中を散策する

キルギスはかって遊牧民の国であった。今でもバルスコンのような地方に行くと人々の足は馬である。特に男性にとっては乗馬は必須のアイテムであり,子どもの頃から慣れ親しんできている。

馬に乗った老人がこちらにやってきた。カメラを見せて写真の許しを請うとあっさりOKが出た。やはりこの国の男性は乗馬姿が一番絵になる。キルギスの山高帽もなかなかいい。彼の愛馬は毛並みから判断するとよく手入れされているようだ。馬もキルギス男性の身だしなみの一部なのかもしれない。

荷物の運搬にも馬車が活躍している。バススコンの村でもしばしば馬車を見かけた。僕が子どものころは田舎でこのような光景を目にしてきた。

畑の中の道を進むとイシククル湖が見える

村の大通りはほとんど車が通らない,それに対して馬車はけっこう見かけた。北西の畑をまっすぐ抜けるとイシィク・クリに出そうなので歩いてみる。しばらくは比較的広い農道が続く。天気が少し怪しくなってきたので放棄された家屋を避難場所にできるななどと計算しながら歩いて行く。

村の方向には山並みが連なっている。晴れていれば畑と山並みでいい絵になるのだが,今日の陽射しはほどんどない。そのため,写真に撮ると緑色はいま二つくらい鮮やかさが出ていない。

農地の主人公は小麦,ジャガイモそして牧草である。どのような管理をしているのか小麦畑は菜の花が多く,どちらがメインなのか分からない。農民の生産意欲はそれほど高いとは思われない。

キルギスは産業がまだほとんど育っておらず,地下資源も乏しいので経済基盤が脆弱である。国の経済は農業に大きく依存しており,就業人口の48%,国民総生産の45%を占めている。その一方で貧困層の62%が農村部に居住しており,急激な市場経済化に対応しきれず,その貧困度が悪化しつつある。

社会主義時代の集団農場が解体され自営農家となったが,それらの農家は小規模農業技術,農業経営に関する知識が乏しく,また農業機材の入手が困難なこともあり,生産性は非常に悪い。

その一方で市場経済の導入により,近隣諸国から流入する農産物との価格・品質競争にさらされ,キルギス農業は非常に厳しい状況に置かれている。

さらに,農畜産物の加工工場も古い経営体質を引きずっており,「売れるものを作るのではなく作れるものを売る」という状態にあり,食品加工業の振興を阻害する大きな要因になっている。

キルギスは国土の40%が標高3000mを超えており,耕作に適する土地は国土の7%に過ぎない。政府は2010年までの国家総合開発計画の中で農業開発と農産物加工業の育成を優先項目に挙げ,貧困農民の収入改善を図ろうとしている。(以上,外務省ODA情報)

雄大な自然と素朴な人情,我々はキルギスについてそのような一面的な知識や情報しか持ち合わせていない。しかし,130年近いロシア,ソビエト支配の負の遺産は15年程度では容易に解消できないでいる。

前方の草原の向こうに湖面が見えてきた。湖岸まであと1kmくらいであろうか。しかし,畑を潤すために水が入れられておりそこから先は行けなくなっている。残念であるが引き返すしかない。

薄日が差してきたので,刈り取って乾かしてある干草の山に背をあづけ,20分ほど横になっていた。ときどき聞こえる小鳥の鳴き声,頭上を通り過ぎる風の感触,高くて青い空,キルギスの大地に抱かれている幸せな時間である。

畑の干草の上でのんびりしていたら,いつの間にか空模様が怪しくなってきた。あわてて避難所(近くの廃屋)に逃げ込む。建物にはドアも窓もないが,とりあえず屋根だけは付いている。

ボズ・ユイの工房

杏の集積所で子どもたちとも知り合いになり,彼らの案内で村を回ることができた。おかげでボズ・ユイ(移動式住居,ロシア語ではユルタ)の製造工房を見ることができた。

最近のものは中に布団を敷くので,じゅうたんのように地面に敷くものが必要になる。工房のおばさんはフェルトと綿入りのキルトを組み合わせて敷物を作っていた。

完成品のボズ・ユイを見せてもらうと,内部には同じような敷物が敷かれており,誰かが寝ていた。円形のボズ・ユイは大きさが規格化されているので,敷物はぴったり内部に納まるようになっている。

外から見ると入口には本体の外側と同じ素材で作られたすだれが下がっており,何か意味ありげな紋様が描かれている。色調のせいかアイヌの伝統紋様に類似しているという印象を受けた。

もっとも,現在制作中のものは木製の扉が付いているし,側面は葦の茎でできていた。これは風通しが良いので夏用かなとも考えたが,この国で暑くて寝られないなどということはあるのかな。

集荷所で出会った子どもたちにヨーヨーをプレゼントする

何人か子どもたちの写真を撮ったので,お礼に庭先でヨーヨーを作ってあげる。予定では5人のはずだったのに,大人から「自分にも作ってくれ」とせがまれ,10個くらい作ることになった。残りは断るのに苦労した。

不思議な形状の電柱

馬車は乗り合いになっている

一台の馬車がやってくると同じ方向に向かう子どもたちが乗せてもらった。ここでは馬車は乗り合い状態である。住民数の少ない村なので,ほとんどが顔見知りの関係なのかもしれない。

カメラと知らないおじさんに緊張している

杏は大きいがリンゴは小さい

それにしてもこの村の杏は大きい。それに対してリンゴは摘果をしないため,数は多くても小さい。杏と比較してもいい勝負である。家の庭先で家族が杏を摘み取っており,女の子が木の上に坐っている。

これはいい絵になるとカメラを構えると,彼女は下に下りてしまう。もう一度,上に登ってもらいやらせの写真を撮る。彼女の兄と姉がやってきたので集合写真になる。もちろん,水をもらいヨーヨーでお礼をする。

午前中は閑散としていた通りは午後になると荷車に杏を乗せた人々が通るようになる。なるほど,午前中に摘んで午後に運ぶというわけだ。翌日も午前中は人通りが少なかった。

親は忙しいので子どもたちは自分で遊ぶ

この時期,親は杏の収穫で忙しいのか子どもたちだけで遊んでいる光景をしばしば目にした。もっとも,日本のように親の見守りの下で遊ぶという文化はないので,普段からこんなものなのかもしれない。

多くの家屋は塀と門で囲われており,仮に門が開いていてもおいそれと入っていく雰囲気ではない。杏の木の多い庭をもった家の前で3人の子どもたちが遊んでいたので声をかけて中に入る。言葉の通じない外国人がカメラを構えるのであるから警戒するのは当然である。

表通りでは変な外国人がいるという情報は子どもたちの間には伝わったらしく,けっこう簡単に写真が撮れるようになった。

日本語で話しかけられる

次の杏の出荷場所を見学していると,日本語で話しかけられた。彼女はビシュケクの大学で日本語を学んでおり,今は夏休みだという。彼女の家に案内された。門の前に古い型式の車が停まっている。

中に入るとここの中庭でも杏の出荷が行われていた。ここの作業はちょっと規模が大きい。女子大生の家族が作業を指示している。彼女の兄がやって来て挨拶をする。

彼は立派な英語を話し,「今は忙しくて手を離せない,明日の午前中はイシィク・クリの保養所を見に行きましょう」と誘ってくれた。断る理由も無いのでお受けすることにした。

彼は「良かったら,泊まってください」とも言ってくれたが,老夫婦の家は別に問題は無いので,こちらはお断りした。この村では29番地のこの家とインフォメーション・センターで宿泊ができるようだ。

宿での食事

宿に戻り画像用メモリーの内容をHDにコピーしているとおばあさんが昼食だと言う。今日の3食目を少し食べて腹ごなしに村を歩く。2日目になると子どもたちもカメラを持った外国人にも慣れたのか,写真は撮りやすくなる。

宿に戻るとおばあさんの妹さんとその娘さんが来ていた。昨日もお孫さんと思われる中学生くらいの娘さんが来ていたので,親戚の人たちがよくこの家を訪れるようだ。

すでに夕食は出来上がっていたので,成り行きのままに今日5回目の食事をいただく。鶏肉入りのジャガイモのスープは,おそらく羊の脂が入れられているのであろう。僕にはちょっと脂がきついけれど味は悪くない。なんといってもジャガイモは僕の大好物だ。

おじいさんは野良仕事に行っており,19時過ぎに戻ってきた。彼は皿の中から肉を優先して食べ,脂肪の多いスープをおいしそうに飲んでいた。ジャガイモはほとんど食べない。これが遊牧民の伝統的な食生活なのかな。

それに対して僕は脂肪よりはジャガイモの方がずっと好みであり,二人で食べるものを分け合っていた。ジャガイモ自体にも脂肪の旨味が浸みこんでおりこれはおいしい。

夕食後,おじいさんは翌日の移動のためのマルシュルートカの時間を確認してくれた。08時らしい。おじいさんはまた,小屋の裏手にある干草の山を見せてくれた。山は昨日よりずっと大きくなっており,これがおじいさんの一日の仕事の成果のようだ。

彼は果樹園の下草を馬に与えようとする。少し足の悪い彼に代わって僕がレーキ(こんな言葉をよく覚えていたと感心する)を使って,下草を集め,今日たくさん働かされたであろう馬くんに草をご馳走する。

午前中の散歩

ちょっとおめかしをしたご夫婦

どこかにお出かけするのであろうか。ちょっとおめかしをしたご夫婦がベンチに腰を下ろしている。幹線道路に向かう車を待っているのかな。「写真を撮っていいですか」と聞くと,笑顔で応じてくれた。おばあさんの刺繍入りの上着はとても感じがいい。

イシククル湖を案内される

翌日は寄り道をして遅くなったけれど,昨日の約束があるので日本語女子大生の家に行く。彼女の兄が車を運転し,湖岸の保養地に向かう。今日も天気ははっきりせず,湖面の色も,対岸の山並みもいま一つである。1時間ほど保養地を案内してもらい村に戻る。

昼過ぎに日本語女学生の家を再び訪ねてみた。彼女は裏庭で母親と一緒に羊の腸を洗っていた。羊の小腸は長い。その中には半分消化された草が詰まっているので,端から手の幅で持ち上げて中のものを押し出していく。

緑の物体が無くなると水と塩水で何回も洗う。羊の腸は半透明の長い筒状の物体になる。この中に肉を入れるとウインナー・ソーセージや白ソーセージができる。だがまてよ,キルギス人の大半はイスラム教徒ではないか。まあ,中に入れる肉は豚でなくても良いのかもしれない。

羊の腸洗いを見学していると,この家では遅い昼食が始まる。ぼくも誘われてトマト・スープ味のマカロニをいただく。中庭で杏の箱詰め作業をしていた人たちが入れ替わり食事に来る。

英語女子大生に「折り紙を知っていますか」と訊ねると,「妹が得意なのよ」と教えてくれる。玄関の横で折り紙を出すと,中学生くらいの妹さんはちゃんとツルを折ることができた。

そればかりではなく,ロシア語の折り紙教本をもとに新しい折り紙を作ることもできた。折り紙の折り方は文章や絵を見ただけではなかなか難しいので,彼女の器用さに驚く。

ロバ車で水を運ぶ

ロバ車で水を運んでいる少年たちがいる。水道が各家庭に行き渡っているわけではないので,ドラム缶に入れ家まで運ぶようだ。

今日も杏の集荷作業は続く

今日は食べ物も商われていたく

彼の家の前でおばさんがスープスタイルのラグマンを商っていた。子どもたちの食べている様子を見ていると彼が1杯注文してくれた。味は10ソムの値段相応というところだ。

天気が良くなったのでイシククル湖を見に行く

粒よりの杏である

私たちも撮って

馬車の後ろに取り付けられた二輪車はリヤカー?


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