亜細亜の街角
キルギスらしさを満喫できる町
Home 亜細亜の街角 | Karakol / Kyrgyz / Jul 2007

カラコル  (地域地図を開く)

イシィク・クリ(イシククル湖)の東にある地域最大の町で人口は65,000人。帝政ロシアの時代に各地から移民が入植し大きな町に発展した。街並みはロシア風に整然としており,モスクに混じってロシア正教の教会もある。町の名前はイシィク・クリに注ぐカラコル川に由来している。

カラコルの町にはそれほど見どころはない。カラコル峡谷やアルトゥン・アラシャンなど天山山脈に分け入る美しい峡谷がお勧めでなので,6月から9月に訪れるのがよい。

中央アジアを数回に渡って探検し,ここで客死した帝政ロシアの軍人ニコライ・ブルジェワルスキー(1839-88)の墓が近郊にあることから,ソ連邦時代の一時期はブルジェヴァリスクと呼ばれていた。

ブルジェワルスキーの墓に付属する博物館には,彼の足跡を印した立体地図がが飾られていた。それから判断すると彼の探検地域はジュンガル盆地,チベット高原,タクラマカン沙漠となっている。足跡を表す点線は3種類の色が使用されていたので,おそらく彼の探検は3次に渡って行われたのであろう。

カラコルで終わっている赤茶色の点線が第三次探検であろう。その足跡をたどるとモンゴル→河西回廊→青海湖→黄河源流地帯→ゴルムド→カカシリ→楼蘭→且末→和田→タクラマカン縦断→天山越え→カラコルと読み解ける。

現在でもこのルートを移動するのは大変なことなのに,彼は120年も前に走破したのである。探検家という人種は大変なものだということがよく分かる。

ブルジェワルスキーは玄奘三蔵と同ようにタクラマカンから天山山脈を越え,イシィク・クリの東岸にあるカラコルにたどり着いた。しかし,彼は途中の川水を喉の渇きのままに飲んだため腸チフスに感染し,猛烈な発熱と下痢で2週間後に死去したという。享年51歳であった。

彼は「私の遺骸はイシィク・クリ湖岸の眺めのよいところに埋めてくれ。墓標には探検家ブルジェワルスキーだけと記してくれ」と言い遺した。彼の遺言通り, 遺骸は見晴らしの良い湖岸の地に埋葬された。

旅と探検は性格を異にするものであるが,中央アジアに大きな足跡を残した先達に敬意を表して,ぜひ彼の墓を訪れるたいと考えていた。

チョルポンアタ(210km)→カラコル 移動

チョルポンアタの長距離BTにはカラコルとビシュケク方面の運行表が掲示してあった。ビシュケク→チョルポンアタ→カラコルのバスは11:52となっていたので11時から階下で待つことにする。

しかし,窓口でチケットを買おうとするとなんだか様子がおかしい。前の人が何やら窓口の担当者と長い間もめている。これは危ないと思い,メモを用意する。

それを見た乗客のロシア人女性が表のマルシュルートカの運転手と交渉し,乗り合いタクシー手配してくれた。彼女も運転手もバスはおろかマルシュルートカの便も無いと断言していた。

乗り合いタクシー以外には交通手段が無いのではしかたがない。もっとも,交渉の結果,カラコルまでの料金は100ソム(約300円)となったのでマルシュルートカと同じである。

右ハンドルのホンダ・オデッセイは4人の乗客を乗せて時速100km近い速度で走る。道路の北側はずっと農地が続いている。ところどころにある菜の花畑の黄色が目に鮮やかだ。

南側は湖面を挟んで雪山がほとんど一直線に連なっている。直線道路になると,前方には雪山と入道雲が見える。道路の両側はずっと林になっており,北側の農地を撮ろうとしてもシャッター・チャンスにはほとんどめぐり合わない。

乗り合いタクシーは210kmをおよそ2時間で走破し,カラコルのバスターミナルに到着した。カラコルには南と北にバスターミナルがあり,南ならば予定していたヤク・トゥルホテルまで500mほどの距離だ。

周りの人に南(テスケイ)と訊ねてもさっぱり要領を得ない。タクシーの運転手は一様にヤク・トゥルまでは100ソムだという。タクシーの値段からするとどうやら北BTであろうと推測し何人かの中で人の良さそうな運転手に50ソムお願いする。

ヤク・トゥルホテル

タクシーの運転手は格子状の道路を何回か曲がって目的地の近くまで来た。しかし,ヤク・トゥルの建物までは分からない。近所で2回車を止めて訊ねて回り,ちゃんとヤク・トゥルまで送ってくれた。

ヤク・トゥルのドミは無くなっており,本館は満室なのか他の理由があったのか離れとなっている平屋の個室(250ソム)に案内された。6畳,1ベッド,T/S共同,まあまあ清潔である。

ただし,トイレは広い中庭を横切り,つる性植物のアーチをくぐった先にあるのでとても夜中はそこまで行く気になれない。代わりに本館の宿泊客用のものを使用させてもらった。

シャワーも別の離れにある暗いシャワールームを使用してくれと言われた。どうもこの扱いは中庭でテントを張って泊まっている人たちと同じようだ。

僕はここに1泊して次の日にアルティ・アラシャンに泊まり,戻ってきて本館に2泊した。部屋(250ソム)は4.5畳,1ベッド,テーブルが付いて清潔である。こちらに泊まると,きれいなトイレとシャワーが使用できる。

宿の主人とアルティ・アラシャンツアーの男性がいるので,誰にどのように料金を支払ってよいのかよく分からない。結局,最初の1泊はツアーの男性から受け取るおつりの150ソムと相殺し,後の2泊は宿の主人に500ソムを支払った。なんともよく分からないシステムだ。

ヤク・トゥルの広い中庭はさまざまな草花で溢れていた。下働きの男性が一手に引き受けて世話をしている。大輪のバラはもう花が終わりかけているが,つるバラはみごとな群落を作っており,一部はきれいなアーチにもなっている。

盛りのユリの花は黄色のものとピンクのものが艶やかに咲き誇っている。ツタは制御不能までに成長し本館の大半を覆っている。昔懐かしいグーズベリーは種類がちがうのか熟すと赤紫になる。そのほか,「よくまあこれだけ」と思うくらい多様な草花が目を楽しませてくれる。

整然とした街並み

カラコルは帝政ロシア軍の砦が築かれてからロシア各地から移民が入植して発展した町らしく,市街地の道路は格子状にできている。惜しむらくは真北に対して45度の傾いているため太陽で方角を見るのは難しい。

それでも地図があれば簡単に街は散策することができる。ヤク・トゥルの部屋で休んでいると近くから澄んだ鐘の音が聞こえる。地図を見るととなりのブロックにロシア正教会があるので昼食もそこそこに外に出る。

木造のロシア正教会

この教会はユニークなことに木造であった。そういえば,ロシアのキジ島には18世紀に再建されたプレオブラジェンスカヤ教会があり,その後ロシア全土から木造建築が移築され,世界遺産にも登録されている。ロシア正教会にとって木造建築は特に珍しいものではないのだ。

入口の鉄格子の扉のところには老人が佇んでおり,僕は守衛かと思って「入ってもいいですか」と話しかけた。英語は通じなかったかもしれないが意志は通じたようで,老人は「さあ,お入りなさい」と手招きしてくれた。

緑の屋根,金色の小さなタマネギ型ドーム,その下は手の込んだ木造になっている。特に窓枠の部分は凝った造りになっている。手前の2階部分は鐘楼であろう,そこは鐘の音を聞かせるために窓ガラスが入っていない。

教会は四方を塀で囲まれており,その中庭はお花畑になっている。日本でもよく見るキスゲかカンゾウの仲間がオレンジの花をつけている。バラの花はこの国の花壇ではメジャーになっている。

教会の内部ではミサが行われていた。人々はよそいきの服装で参列している。女性の中にはスカーフを被っている人もいる。司教の朗々たる声が説教もしくは聖句を唱えている。

その間も司教の言葉をジャマしない程度に教会音楽が流れている。この歌声を聞いているとなんだか心が洗われるような気持ちになる。内部の壁面には多くのイコン(宗教的聖人画)が飾られている。さすがの僕もこのミサの風景を撮るのははばかられた。

マルシュ・バザール

ロシア正教会の北西のブロックにマルシュ・バザールがある。このバザールは半露店,バラックのような粗末なものだ。その周りには通常の家屋型の商店が並んでいる。

このバザールと周辺の商店を一回りすると自炊に必要な食材はすべてそろった。ジャムは30ソム,蜂蜜は50ソム,トマト,ニンジンとキューリはいずれも20ソム/kgである。野菜は同じ値段のものを混ぜて重さを計ってもらえるので便利だ。

丸くて大きなパンは2枚で10ソム,パンを乗せたワゴンがいくつか集まっており,大きさによりやはり値段が異なるようだ。おばさんたちから「私のワゴンから買って」とせがまれ選択に苦労する。今日の食材費は105ソムについた。しばらくは朝と夜はパンと野菜,昼食は肉入りの外食という日が続くことになる。

ミートパイ

この町では他の食材が豊富であったので食べることはなかった。ビシュケクでは2回いただき一回目はチキン,二回目は肉と野菜の組み合わせあった。値段は15ソムく。らいである

ラグマンは30ソム

昼食はその一画にある食堂でいただく。壁にロシア語のメニューがあり値段が書かれている。他の客が食べているものをチェックするとラグマンがある。「このラグマンはメニューのどれですか」とたずねて,30ソムであることを確かめる。

チョルポンアタの経験から買う前に値段を確認する原則を徹底するようになった。結論からいうと,チョルポンアタの物価が異常であり,他の町はビシュケクより高いところはなかった。

キルギスの飲料水事情

キルギスで驚いたことの一つはペットボトルの水である。ロシアの習慣なのか,はたまたた普通の水は買うものではないという考え方からからなのか,ペットボトルの水の大半は炭酸水である。

炭酸水は冷たいうちはおいしく飲めるけれど,暖まるとなんとも飲みづらい。炭酸水と非炭酸水を見分けることのできる表示はないので,いつも買うときに非炭酸水を注文するのだが2回に1回は外れであった。日記帳には「今日も炭酸水,ふたを開けると勢いよくガスが噴き出してきた」と書かれている。

山並みが近い

カラコルの街からは天山の山並みがよく見える。家屋にジャマされない場所を探して運動公園にやってきた。グランドの背後に山並みが連なっている。背後から湧いてくる夏雲が頂上を覆い隠すこともない。

公園の向こうのバザールでは両替ができた

キルギスでは米ドルが第二通貨のように使用されており,窓口でドルを出すと2分で今日のレート37.5で両替してくれる。両替レシートのようなものはない。

子どもも大人も写真好き

ハチミツ屋を発見

チョルポンアタから探していたハチミツを発見した。養蜂業者がじかに売りに来ているようで,商品は牛乳を集める大きなカンに入っており,客の容器に入れてくれる。しかし,すでに市場でハチミツは購入済みであった。

少し歩くと面白いものに出会える

ジュディ・オギュス探検に出発

アルトゥン・アラシャンから戻り母屋に泊まることになった。06時に起床し,蜂蜜をたっぷりつけたパンとトマト,キューリのサラダ(カットして塩を振っただけ)で朝食をいただく。野菜たくさんの健康食モードが続いている。

髪が伸びてきたのでマキシュ・バザールの床屋に行く。料金は35ソム(約100円),日本との料金の差は人件費の差に相当する。

午前中はジュディ・オギュス探検に出かける。ジュディ・オギュスは「七頭の牡牛」を意味し,カラコルから約20km離れた景勝地である。渓谷の入口にある赤っぽい色の岩の連なりを牡牛に例えたものだ。

出発前に少し時間があったので中央バザールに水を買いに行く。特別の日なのかバザールの前には大勢の人々が集まっている。女性たちが自宅でとれた季節の果物をバケツに入れて売っている。買う人もバケツの単位で買うので,おそらくジャムなどの保存食品にするのであろう。

マルシュルートカに乗り分岐点で降ろしてもらう

南BTからマルシュルートカに乗り,分岐点で降ろしてもらう。そのためには予め運転手に「ジュディ・オギュスに行きたい」と伝えておかなければならない。

問題はここからの交通手段だ。イシィク・クリの南岸を回る道路からジュディ・オギュス渓谷の入口までは12kmもある。この間はバスなどの交通機関はないので,まったく運任せとなる。

分岐点から南に歩き出すとトラックが通りかかったので3kmほどのところにあるジュディ・オギュス村まで乗せてもらう。村の家屋はほとんど正方形,屋根はトタンで葺かれている。

のどかな村の風景

緑の多い美しい村で,川沿いの景色などは田舎をそのまま絵にした風景となっている。牛乳集配缶を台車で運ぶ少女がいる。たぶん中身は水であろう。少し遠くから写真を撮ると,近所の男の子を呼んで一緒の写真を撮らされた。

馬車は現役の運搬手段である

馬車はこの村では現役の荷物運搬手段だ。カメラを向けると御者の男性はこやかに微笑んでくれた。

ちょっと変わった算盤(ソロバン)

商店の店先でちょっと変わった算盤(ソロバン)を見つけた。各桁の玉数は10個,日本のように5を表す玉はない,玉を通す金属棒は中心部が高く少し湾曲している。

このソロバンはロシアソロバンと呼ばれており,そのルーツは中国にあるとされている。しかし,文明の始まりから人類は数をどのように表し,どのようにしてすばやく計算するかに心を砕いてきた。ソロバンも小石を並べて計算する方法をコンパクトな器具にまとめたものなので,複数の地域で同時進化したものなのかもしれない。

乗り合いタクシーに拾われる

幹線道路に出て歩き出すとすぐに乗り合いタクシーが止まってくれた。料金は約10kmで30ソムと妥当なものだ。ということであっという間に目的地に到着した。

七頭の牡牛岩

「七頭の牡牛岩」の近くには広い敷地をもつサナトリウムがあり,その手前にジュディ・オギュス川が流れている。この川を5kmほど行くと「緑の高原」あるいは「花々の谷」と呼ばれる美しい草原に出るという。欧米人の旅行者がこれから谷の奥を目指して出発するところだ。ここはちょっとした観光地になっているらしく,川のそばにあるボズ・ユイ(ユルタ,パオと同じもの)は休憩所になっている。

「七頭の牡牛岩」はずいぶん赤みの強い岩が並んでいる。素朴なキルギスの農家とその背景の赤い岩はなかなか絵になる。空の青さと岩の赤のコントラストもすばらしい。

道路の反対側の斜面を登りそこから「七頭の牡牛岩」の写真を撮る。そこから見ると手前の緑の農地の後ろに屏風のように立つ赤い岩の感じがよく分かる。

僕の立っている斜面の上から少年が馬に乗って下りて来た。ちょうど赤い岩の前で止まってくれたのでいい写真になった。英語の「サンキュー」は彼にも分かってもらえたようで,彼は手を振って下っていった。

僕も道路に戻り奥の谷を目指して歩き出そうとすると男性に呼び止められ,パスポートの提示を求められた。私服だけれどもどうやら警官らしい。

「キルギスでは警官にパスポートを手渡してはいけない」,これはこの国を旅行した人たちの一致した忠告だ。「パスポートを返して欲しければ・・・」はワイロを求める常套手段だという。そのため,僕もパスポートのコピーをいつも持っている。

彼にそれを見せ,「パスポートは宿に預けてある」と説明する。すると彼は「外国人登録のチェックにパスポートが必要だ,それがないとこの先には行けない」と答える。パスポートはちゃんと持っていたが,今さら出すわけにもいかないのでお花畑はあきらめざるをえない。のんびり歩いて戻ることにしよう。

馬に乗れなければここでは暮らせない

赤い岩を観察する

赤い岩の横を通るときに岩の表面を川の手前から観察してみた。岩が削られて溝状になった筋が何本も走っている。45度ほど傾いた地層に沿って雨水が流れ落ちてこのような溝を刻んだようだ。赤い岩の地層はこの周辺を広く覆っているようだ。道路の反対側にも半分緑に隠された赤い丘が見える。

ユルタを組み立てる

養蜂業がさかんだ

車は何台も通るのに乗せてくれない。まあ,風景を見ながら歩くのでそれほど苦にはならない。3kmほど歩いたところに養蜂場があった。100個ほどの巣箱がトレーラーの上や近くの地面に並べられている。

網も被らないで男性が巣箱から蜂の巣を取り出して蜂蜜のたまり具合をチェックしている。近づいてみると日本のミツバチとほぼ同じ大きさである。ハチは周りを飛び回っているがこちらから危害を加えない限り,攻撃してくることはない。

花の蜜の主成分はショ糖(ブドウ糖と果糖が一つずつ結合したもので上白糖と同じ成分)である。ミツバチは吸い取った花の蜜を体内の転化酵素の働きで,果糖やブドウ糖を主成分とする蜂蜜に変える。

養蜂家は巣箱の中に何枚もの巣板(木枠)を垂直に並べておく。ミツバチはせっせと巣板を足がかりに六角形の巣房を作る。巣板の上部の巣房には蜂蜜が貯蔵され,下部の巣房は卵を孵したり幼虫を育てるために使用される。

十分に蜂蜜がたまった巣はふさがれるので,養蜂家はそれをチェックし,幼虫のいない巣房のふたを開いて蜂蜜を取り出す。採蜜は年中できるわけではなく,ミツバチの生理サイクルに合わせて行う必要がある。

この養蜂キャンプでは巣箱の中まで見せていただいたので,500ccのペットボトルに入った蜂蜜を1本(100ソム)いただく。使用中の小ビンが少なくなるとボトルから補充するようにして蜂蜜生活を楽しんだ。その先にも養蜂キャンプはたくさんあり,道路わきにはペットボトルが並んでいる。

ハチミツがあればパンと野菜だけでも食事はできる。しかし,このハチミツのペットボトルは次の訪問地バルスコンのホームステイ宅に忘れてきた。まあ,お世話になった老夫婦が食べてくれるであろうからそれもいいだろう。

帰り道は遠かった

小さな墓地もあった。ロシア人は墓碑に故人の写真を焼き付けることが多い。それはキルギスにも広まり,ここの墓碑にも写真が見える。通常,キリスト教やイスラム教の墓は長方形のものが多いけれど,ここのものは方形の台の上に碑文の書かれた石板が立っている。

2頭の仔牛が道路を歩いている。そこを車が通ったので2頭は離れ離れになってしまった。道路に残された仔牛は僕の後をついてくる。元いた場所からどんどん離れるので追い返そうとしたがうまくいかない。

僕が近づくと逃げるが,遠ざかると追いかけてくる。これでは全くいたちごっこだ。仕方が無いので石を近くに投げて追い払う。ごめんね,でもこれはキミのためなんだから。

草を運ぶ

ときどき小さな集落が現れる

絵になる乗馬姿

山並みを楽しむ余裕がある

北海道を思わせる一面のジャガイモ畑が広がる

村が近づくと道路の両側に広大なジャガイモ畑が広がっている。ちょうど白い花が咲いている。日本でもおなじみの風景である。アンデス原産のジャガイモはスペイン人が16世紀にヨーロッパに持ち込み,世界中に広まった。ヨーロッパではそれまで芋(植物の地下茎や根)を食べる習慣がなかったので食料として栽培されるまでにはずいぶん長い時間がかかった。

品種により白,薄紫,ピンクに近い色の花もある。ジャガイモはナス科に属するので花はナスの花にそっくりである。日本で栽培していてもまれに実がなることがある。僕も子どもの頃に畑で青いミニトマトのようなジャガイモの実を見つけて驚いた経験がある。

きれいにマニュキュアをしている

ブルジェワルスキーの墓碑

ジュディ・オギュスから戻り,急いで昼食を済ませブルジェワルスキーの墓碑を見に行く。バザールの北東にある公園の横からバスが出ている。いかにもロシア製という形状のバスに乗り込むと車内で30分ほど待つことになった。

出発してからおよそ20分,幹線道路わきで下車させられた。その横手の丘を上っていくとブルジェワルスキーの墓碑のある施設の入口がある。入場料50ソムを払って中に入る。この施設は数haの広さがあり,塀で囲まれた内部は樹木の多い庭園になっている。

中央の道をまっすぐ行くと,丘の斜面が落ち込み,イシィク・クリを眺望できる場所に出る。ブルジェワルスキーの墓碑はそこにあった。確かに遺言どおり「イシィク・クリ湖岸の眺めのよいところ」である。

コンクリートの柱と鎖で囲われた墓石の表面には彼の名前と彼の生きた「1839-1888」の数字が記されている。彼の墓はとても質素なものであった。

巨大な記念碑

墓のすぐ近くには高さ9mの巨大な記念碑が建っている。自然石をその形状のままに切り出し積み上げたもので,全体として一つの石に見えるように配慮されている。その頂には羽を広げた鷲の像があり,側面には彼のレリーフとロシア語が記されている。おそらく,「探検家ブルジェワルスキー」と書かれているにちがいない。

ブルジェワルスキー博物館

入口には2頭のアイベックスもしくはオオツノヒツジのブロンズ像が展示してある。角の形と一定間隔で節のようになっていることから「アイベックス」であろう。

山羊の原生種の一つとされており,現在でもアラビア半島,中央アジアの山岳地帯,ヒマラヤ山脈周辺などに生息している。立派な角をもっているためか中央アジアではよく造形化されている。パキスタン北部のギルギットの公園にもアイベックスの像がある。

敷地の中には彼の足跡と収集品の一部を展示している博物館がある。ブルジェワルスキー4度に渡る探検をしており,その足跡が分かる地図も展示されている。彼の足跡マップの前ではロシア系の老婦人が訪れた人々に説明をしている。僕は内容が分からないので,すきを見つけて写真を撮る。

帰国後にwikioedia で彼の業績をチェックしようとしたら日本語のものはなかった。この偉大な中央アジア探検家の足跡が日本語でできていないというのはちょっとした驚きである。


チョルポン・アタ   亜細亜の街角   アルティン・アラシャン