オウギヤシ 亜細亜の街角|旅行記|プドチェリー|インド南部
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プドゥチェリー(ポンディチャリー)  (参照地図を開く)

南インドの中心地チェンナイから南へ約160kmの海岸沿いに位置している。17世紀にフランス領となり,インド独立まで約250年間フランス領ポンディチャリーとして存続してきた。インド返還後もポンディチャリーと呼ばれており,プドゥチェリーと改名されたのは2004年のことである。現在の人口は約20万人,インドらしくないきれいな街並みの町である。

旧市街は環状道路に囲まれており,その内側は直交する道路により区画されている。旧市街の中央を南北に運河が走り,往時はその東側がフランス人居住区,西側がインド人居住区となっていた。フランス風らしく高い建物が少なく,かつ街並みの清潔さがインドらしくない雰囲気に結び付いている。海岸は「プロムナード」になっており,夕涼みの家族連れでにぎわう。

チダムバラム(10:00)→プドチェリー(12:20) 移動

バススタンドから宿に向かうときはけっこう長い距離と感じたが,地理が分かるとそれほどでもない。時計塔のところで右に入りバススタンドに到着する。ここは近距離と長距離に分かれているようだ。僕は近距離のスタンドでプドゥチェリー行きをたずねると,あちらの方だよと教えてくれた。

そちらのスタンドでは冷たい飲み物があったのでスプライトをいただく。水も欲しいが水滴がつくのでザックの横に入れておけない。プドゥチェリー行きのバスはすぐに見つかった。比較的新しいバスであるがインド的に汚れている。メインザックは網棚にあげて,窓側の席をとる。このバスはほぼ満員の状態で10時に動き出した。

実のついたオオギヤシがあった

オオギヤシが固まっており,その多くは果実を付けていた。幹の最上部が成長点となっており,そこからシュロのような葉を上に伸ばし,同時に果実が数個付いた房が下がっている。果実の付いたオオギヤシの木は初めて見たのでちょっと感激である。

南インドでは収穫後の果実は市場で売られている。紫がかった茶色の実は直径15-20cmほど,固い表皮とヘタをもっており,確かにヤシの仲間である。 果実は3室ないしは4室に分かれており,そこに半透明の柔らかい果肉(胚乳)が2つずつ入っている。これを専用の刃物で上手に解体して露店で売られている。1個1Rp程度でほんのりと上品な甘味が楽しめる。

田植えの準備が行われている

6月初旬のタミールナドゥ州はまだ雨季には入っておらず,耕作地は恵みの雨待ちの状態であり,川は涸れてはいないものの流れはあまり感じられない。インドでは灌漑農地の拡大と化学肥料の投入により穀物生産は自給を達成し,コメは500万トン程度の輸出国となっている。

灌漑農地も1950年の約15%から2000年には30%を超えるまでに拡大した。しかし,残りの70%は天水に頼っており,モンスーンの雨が生産を大きく左右している。車窓から見える一部の水田は代掻きが終了している。ため池が見当たらないところから地下水を利用したものだろうと推測した。確かにタミールナドゥ州でも地下水を利用した灌漑農地は拡大しており,過剰使用により地下水位はどんどん下がっている。

オートリキシャーとの闘い

プドゥチェリーのバススタンドには12:20に到着した。バススタンドは町の中心部から3kmほど離れている。オートリキシャがたくさん停まっているところに行き,町までの料金をたずねると150Rpと言われた。あまりのひどさに交渉する気も失せて立ち去ろうとしたら,二人の運転手が追いかけてきて100,50と値段を下げてきた。

僕がノー・サンキューを繰り返していると「いくらならいいんだ」ときた。これもインドでは常套手段である。客が適正価格以上の値段をつけたらその値段で決まり,安ければ交渉が続行される。こんなときはちょっと安い値段をつけるのがよい。今回のオートリキシャーとの闘いではガイドブックに40Rpとあったのでその値段で押し通した。

ようやく「Chambres Tourstes」にたどりつく

予定してたインターナショナルGHは満室であった。インターナショナルGHの向かい側のマザーズGHも満室,その隣のGHは500Rpと言われお断りした。それ以外にはガイドブックには安宿は記載されていないので宿泊をあきらめ,オートリキシャーの運転手にバススタンドに戻るように伝えた。彼は300Rpの宿があるとリキシャーを走らせた。

Chambres Tourstes も部屋代はダブルなので400Rpと言われあきらめた。宿の女性と運転手がなにやら話をして300Rpということになった。部屋は8畳,2ベッド,T/S付きで清潔である。この町で,この程度のダブルの部屋なら400Rpは要求したくなるのは無理もない。この宿は正規の宿泊所ではないのかもしれない。そもそもチェックインが不要で宿帳ももっていないようだ。

運河沿いの道

とりあえず宿が地図のどのあたりかを知るために運河沿いの道に出る。この道はすぐ南側で終わっているのでかなり南であることが分かった。近くにサツサンガというレストランがあるので探してみると,見事に道をまちがえ海岸近くに出てしまった。それではと分かりやすいピザハットに行く。この通りは町の南側のメインの通りとなっており,覚えておいて損はない。

この国のピザハットは高級レストランの雰囲気である。かなり物価が高く1人分のピザの値段が70-150Rpほどする。夕食に響きそうなのでマルガリータを注文する。出てきたものは鉄鍋に入ったピザであった。ケーキサーバーのような道具で自分の皿に取る。ピザはすでに4等分されており,そのまま手づかみで食べる。さすがにピザハットの名前に恥じないまともなものであった。4切れたべると十分にお腹がいっぱいになる。

プドゥチェリーの海岸

プドゥチェリーの海岸は砂浜ではなく大きな岩の護岸となっている。インド洋からの波が海岸を削るのを防いでいるようだ。今日もかなりの波が大小の岩に向かって打ち寄せている。この構造はインド洋大津波の災害の結果なのかもしれない。

ここは,地元の人の憩いの場所になっている。アイスクリームやスナックの屋台も並んでいる。この大小の岩からできた人工の岩礁はゴミさえなければなかなかの景観になっている。しかし,インドはどこまでいってもインドである。自然の景観を守ろうとする意識は行政にも地元民にもまったくないようだ。岩場には彼らの投げ散らかした食べ物の包み紙やカップが散乱している。行政にもゴミ箱を用意するとか,屋台にゴミの回収を義務付けるといった意識はないようだ。

岩場の景観ももうじきゴミで埋まる

このインド洋の波を受ける岩場の景観ももうじきゴミで埋まることだろう。インド人の意識ではゴミはどこに捨ててもかまわないものなのだ。寺院の中でも平気で紙くずを捨てている。捨てられたゴミは誰かが始末してくれるという考えが広く行き渡っている。

インドも生活様式の変化により町ではプラスチックを含む大量のゴミが出るようになった。このままではノラ牛に頼ったインド式の生ごみリサイクル・システムも間に合わずゴミに囲まれた暮らしとなる。プドチェリーはインドの東海岸ではもっともきれいな町と思われる。街並みもフランス様式で整然としている。その町でもゴミに関してはこの状態なのだ。

ガンディー記念碑

4本の三角錐のスロープで支えられた台座の上に大きなガンディーの像が置かれ,その上で4本のアーチが交差するという斬新なデザインになっている。この4本のスロープは子どもたちが上ることができるくらいの傾斜になっている。ガンディー像の足元にはスロープを登ってきた子どもたちがおり,僕が記念碑の写真を撮ろうとすると手を振って応えている。このスロープは上に反った形となっているが子どもたちは器用にそれを滑り台のようにして降りている。

灯台

周囲の建物に隠れるほど低い灯台もある。その昔はこの高さの灯台で用が足りたのだろうか。

現代の石工たち

ガンディー記念碑の西側は広い庭園となっており,一部は公園になっている。その手前では新しい建造物を造るための石板の加工が行われていた。切り出されたきた石材は荒い表面をしているので金槌とたがねで平らにしていく。別の石工は石板の側面を整形している。

機械が人間に取って代わっている世界ではグラインダーや大型の加工機械の出番であろうが,ここはやはりインドである。1000年前いや2000年前と変わらない方法で石材を加工していく。確かに彼らの仕事の結果は,寺院の石柱と似たような雰囲気をもっている。

政府広場

「政府広場」などというごたいそうな名前となっているが,遊具の置かれた公園であった。母親に連れられた子どもたちが遊びに来ている。中には一人でシーソーに乗っている子どももおり,反対側を手で押して遊んであげる。しかし,日本でこんなことをしたらすぐに不審者にされてしまうね。

ATMが要求を受け付けてくれない

インド・ルピーが少なくなってきたのでATMからクレジットカードで引き出すことにする。最初に目に付いたのはA銀行であるが名前も知らないものだったので,近くのB銀行に行く。ATMを操作するとトランザクションは拒否され,日本のカードではキャッシュアドバンスは無理ということが分かった。C銀行でも結果は同じであった。インドのローカル銀行のATMは世界とつながっていないようだ。

インド滞在もあと2週間ほどで大きな金額が必要というわけではないので,ドルの現金を両替するため最初のA銀行に戻った。このA銀行には「ネットワーク化されたATM」という表現があったのでもう一度だけトライするとちゃんと動作し,所定の現金を入手することができた。出てきた明細を見ると引き出しが4500Rp,総計が4578Rpとなっていた。

宿の朝食(08:00)

宿で朝食をいただく。トースト,バター,ジャム,インスタントコーヒーで60Rpはなかなかいい値段だ。駅の近くまで行けばインド式の朝食が20-30Rpで食べられそうである。

この頃,風が強くなり雨が降り始めた。強い雨ではないがお出かけするにはためらわれる。部屋に戻り10時過ぎまでパソンコンのゲームでで過ごす。お出かけしようとすると再び雨が強くなり,これでは出かけるわけにはいかない。結局,午前中はパソコンで過ごすことにする。

ネットカフェ

ようやく雨が小降りになったのでネット屋に出かけることにする。さすがに地図を見ただけで目的地に行けるようになった。日本語のできるネット屋はこの町でも貴重品だ。「Coffee.Com」というしゃれた名前になっている。本来はカフェなのだが僕にとってはネットだけで十分だ。利用料金は1時間40Rpとこの町らしく高い。2時間15分ほど使用し,オレンジジュースを一杯飲むと150Rpになる。本当に物価の高いところだ。

プドゥチェリー駅

プドゥチェリーの中心部を卵形に囲む環状道路の南側を歩き駅に向かう。途中で運河と交差する。フランスがこの町を領有しているときは,運河の東側がフランス人地区,西側がインド人地区と分かれていた。確かに東側には大きな西洋風の建物が多いが,西側も見てくれの良い町並みになっている。街中のゴミはインドの他の町に比べると格段に少ない。

駅は西洋風のきれいな建物であった。ここでは駅舎の中に当日売りのチケット窓口のとなりが予窓口なっていた。所定の申請用紙に必要事項を記入する。この用紙は駅により異なっており,マドゥライで仕入れた用紙は使用できない。窓口に並んでいる人は5人であるが30分ほど時間がかかった。しかし,このくらいの待ち時間はインドでは当然と考えなければならない。

チケットを入手したが・・・

僕の申請用紙には列車番号は記載していない,日付は6月17日もしくは18日としておいた。窓口担当者は6月17日,マドガオン→ムンバイを打ち込み列車を確定してくれた。僕の頭の上の表示板には列車番号,13/06,マドガオン,ムンバイが表示され「available」となっている。これは寝台が取れたということを意味しているので一安心である。

ただし,出発時間を確認すると15:10だという。ホスペットからマドガオンに到着する時刻が13:30なので,乗り換え時間は1時間半ほどしかない。インドでは列車の遅れは当たり前のことなので,相当のリスクである。しかし,その夜にマーカーでチェックを入れると行き先がチェンナイになっている。これには驚いた。明日の朝にキャンセルしてこなければならない。また一つ仕事が増えた。

聖心教会

列車のチケットが取れたので一安心である(と思っていた)。プドゥチェリーではメール,ATMによるルピーの引き出し,列車のチケットという3つの課題があり,それをすべてクリアすることができた。

そのため,気持ちに余裕をもって駅の窓口の写真を撮り,ホーム間を結ぶ陸橋の上から近くの聖心教会の写真を撮る。なかなか写真写りの良い教会である。カソリックの聖堂らしく十字架プランを採用し入り口は南になっている。礼拝用のイスは入り口から祭壇まで,それに祭壇の左右に設けられている。祭壇の上に立つキリストの像と周囲の空間が荘厳である。

教会の周囲を行進する

教会の隣ではミサが行われており,そこは履物を脱いでお祈りする場所となっている。多くの女性たちが床に膝まづいて祈る姿も印象的であった。ミサが終了すると参列者は外に出て,男女二列に分かれて教会の前の通りに出て,教会の横の入り口まで行進した。女性たちのかつぐ台の上にはキリスト像が置かれており,その花道を作るように子どもたちが白い花を道にまいていく。なかなか絵になるイベントだったのでたくさん写真を撮らせてもらう。

夕食

夕食は宿から徒歩1分の「サツサンガ」というレストランでとる。確かに中庭にを囲むオープンの建物と中庭にテーブルが並べられており雰囲気はなかなかよい。カメラを持参しなかったので類似のレストランの写真にする。メニューを見せてもらって驚いた。パスタが200Rpを越えているのだ。おまけにサービス料と税金が12%も付いている。

一番安いスパゲティ・トマトソースを注文した。従業員の態度はインドとしてはとても洗練されており,日本のファミリーレストランと同レベルである。スパゲティの味もおそらくヨーロピアンが食べても納得するものだと思う。インドのファミリー・レストラン程度のところでスパゲティやピザを注文すると完全にインド化されたひどいものが出てくる。さすがは値段相当の味であったと報告しておく。


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