Home 亜細亜の街角 | Chidambaram / India / Jun 2010

チダムバラム  (参照地図を開く)

プドゥチェリーから南に約70km,クンバコーナムとプドゥチェリーのほぼ中間に位置する人口6万人ほどの町である。市街地はコリダム川の西側,「ナタラージャ寺院」を中心に2km四方に広がっている。寺院の周壁は150m四方程度あるが,その周辺を沐浴池や緑地(非市街地)が囲んでおり,寺院の最大敷地面積は東西350m,南北500mにも及んでいる。

「ナタラージャ寺院」は東西南北に4つの塔門(ゴープラム)をもっており,北以外は周壁の近くに位置している。しかし,北塔門は周壁から200mほども離れており,周壁の北側に位置する沐浴池(50mX100m)のさらに北に位置している。英文版のwikipedia には「不思議なことにチダムバラム,カンチープーラム,スリ・カラハスティの3つの町の寺院はすべて東経79.45度に位置している」という記事も紹介されている。

クンバコーナム→チダムバラム 移動

クンバコーナムのバススタンドには朝食のとれるところはなかった。仕方がないのでそのまま移動することにする。しかし,バススタンドにもバスの前部にも英語の表記がないので近くの人に聞くしかない。インド人はおおむね旅行者には親切であり,目の前に停まっているバスがチダムバラムに行くと教えてくれた。

中に入るとすでに座席はない。網棚に荷物を置くこともできずどうしたものかと思案していると,車掌が最後尾の座席の下に入れてくれた。座席は途中で救いの神が現れた。車掌に肩をたたかれ隣の席の男性が下車するのでそこに座りなさいと言ってくれた。インドのバスでは車掌の権限は強く,他の乗客も同意してくれた。

マンスール・ロッジ

バスは11:30にチダムバラムに到着した。バススタンドからナータラージャ寺院への道をたずねると,すぐに分かった。たいした距離ではないが暑い中を荷物を持って歩くのはやはりしんどい。

シングルがないのでダブルの部屋になった。料金は300Rpと予算を超えており,値引き交渉にはまったく応じてもらえなかった。部屋は8畳,2ベッド,T/S付きで清潔である。しかし,設備は古ぼけており,このところとてもきれいで安い部屋に泊まっていたのでその落差は大きい。

荷車で行商する荒物屋

宿で一休みをしてから昼食に出かける。宿の階下に軽食堂がありピザのポスターが貼られていた。インドでは珍しくまともなピザに見えた。しかし,注文してみると冷凍のものをオーブンで暖めるだけで,女性の店員は携帯電話でおしゃべりに余念が無い。当然,ピザの味は不合格であった。もっともインドのこのようなところで本来のピザを求めるほうが無理というものだ。

ナータラージャ寺院の参道

寺院の東側は参道のようになっており,正面に東塔門がそびえている。しかし,参道の上には仮設の屋根がかけられており,東側からは塔門の写真を撮ることはできない。寺院は二重の周壁に囲まれており,塔門はその内側の周壁の一部となっている。外側の周壁は普通の門となっており,鉄格子の扉が閉じられているため内部には入れない。南インドの多くの寺院は12時から16時は閉鎖される。何人かの参拝客は鉄格子の前で座り込んでいる。

祭り用の山車はそれほど大きくはない

近くには祭り用の山車が置かれている。クンバコーナムで見かけたもの,あるいは東海岸のプリーで見かけたものに比べるとずいぶん小さい。

総選挙のポスター?

滞在中,よく見かけたので総選挙のポスターかなと思っていたらどうも違うようだ。インドの総選挙が行われたのは2009年5月である。この選挙では国民会議派を中心とする与党連合が545議席中261議席(改選前181議席)を獲得し,インド人民党を中心とする野党連合は159議席(改選前181議席)にとどまった。選挙後は第三勢力から与党連合への参加が増え,274議席と過半数を確保した。さらに左派勢力の閣外協力を含めると下院議席の6割を占めることになった。

政策的には大きな差はなかったものの,インド人民党はヒンドゥー至上主義を掲げているためイスラム教徒など少数派宗教との対立が深まるとの警戒感から支持は減少した。2008年のムンバイ同時テロを経験したインであるが国民は対立より共生を選択したようで喜ばしいことだ。

なんとなく食べられそうな果物

高さ10m以上の木になっていた青い果物はなんとなく食べることができるように思えた。大きさはサクランボより一回り大きく,一部は黄色く色づいていた。

荷車で昼寝をする

インド人の特技は固い床の上で寝ることができることだろう。駅の構内でも石の床に布を敷いて,寝ている人は少なくない。まして,木の荷台で寝ることなどは簡単なことなのだろう。暑い昼下がりを昼寝にあてるのはとても理にかなっている。

色の白い女の子

現在のインド人は先住民族のドラヴィダ人と3500年前頃に中央アジア方面からやってきたヨーロッパ系のアーリア人が混血したものとされている。しかし,民族的に大きな隔たりがある両者は簡単には混血せず,支配民族と非支配民族に分かれることになる。支配民族は自らの優位性と民族の純血を守るため,「ヴァルナ(肌の色による識別)」を創り出し,この制度は現在の「カースト制」に結び付いている。

アーリア人がやってきてから3500年後の現代インド人を民族的に大別するとアーリア系が72%,ドラヴィダ系が25%,モンゴロイド系が3%となっている。この3500年の間に土地支配と一部の混血によりアーリア人はインドの主要民族になっていたのだ。南インドはドラヴィダ人の血が色濃く残っている地域であるが,中には写真のように色白の子どももいる。

ナータラージャ寺院に再挑戦(16:00)

寺院は12時から16時まで閉鎖される。これは日中の暑い時間帯は参拝も大変だろうという配慮と解釈しておこう。もっとも今日は曇り空なので日差しの強さを心配する必要はない。東側の道路から来ると参道に相当する部分は仮設の屋根で覆われており,外側の門の近くには何ヶ所か履物を預ける所がある。

ナータラージャ寺院は二重の周壁により囲われている。本来は一番外側の周壁の一部であるはずの塔門が内側の周壁の一部となっており,外側の周壁にはほとんど装飾の無い鉄格子の門となっている。この鉄格子の扉により入り口は閉鎖される。周壁は聖と俗を分離するものであり,参拝者はその手前で履物を脱がなければならない。

塔門の上をカラスが舞う

外側の門をくぐると東塔門がそびえていると思いきや,ここにも柱で支えられたアーケードのような建造物がある。東塔門を撮るにはこのアーケードが切れるところに行かなければならず適当な距離がとれなくなる。

塔門の上にはたくさんのカラスが止まっており,なにかあるとやかましく鳴きながら一斉に飛び立つ。インドのカラスは日本のハシブトガラスと鳩の中間の大きさで,首の一部は灰色の輪が取り巻いている。体に比例して泣き声も小さい。人間の出す生ごみを漁るのは日本のものと同じでも,インドのカラスははるかに態度が控えめであり,人間社会とちゃんと共存している。

東塔門の下部

天気は曇り,気温はそれほどではないが湿度は高そうだ。モンスーンがそろそろタミールナドゥにも雨をもたらすのかもしれない。チダムバラムは雨が降っていないようだが,クンバコーラムはそれなりのまとまった雨が降った。

アーケードの先に出ると塔門はすぐ眼前に迫り,全景を撮ることはできなくなる。この塔門は奥行きが10mほどもあり,圧倒的な質感をもっている。塔門を飾る神像は中心線の両側は大小の神像が配置されており,それらはすべて片足を持ち上げた姿勢のナタラージャ(踊る姿のシヴァ神)となっている。しかし,中心線からみて外側には神殿構造はあるものの,神像は見当たらない。寺院の名にちなんで神像は「ナタラージャ」に限定しているようだ。

塔門下部の壁面を飾るレリーフ

塔門の下部にはシヴァ神とその眷属の彫像があり,何点かを写真にする。門の両側には垂直方向に50cmほどのレリーフが並んでおりこれはおもしろい。このレリーフの列はいくつもあり,気に入ったものを何点か写真を撮る。

シヴァ寺院なのでこれはドゥルガー女神

塔門の内部にも大きな神像が飾られている。シヴァ神の神妃は「パールバティ」であり,ガンジス川の女神であるガンガーとは姉妹とされ,心優しい美しい女神とされている。彼女は「ウマー」とも呼ばれており,サティー(シヴァ神の前妃)の生まれ変わりとされている。

ところが,「パールバティ」はときには「ドゥルガー」あるいは「カーリー」という恐ろしい闘いの女神に化身してしまう。アスラの王マヒシャが軍勢を率いて天界に攻め上がったとき,ドゥルガーは魔神討伐のため神々からさまざまな武器を授かり,トラ(ドゥン)を乗り物として次々とアスラの軍勢を滅ぼし,最後に水牛の姿をしたマヒシャを討ち取った。この像はその神話を具現化したものであろう。確かに彼女は水牛を踏みつけている。

巨大な吉祥紋

外側の探検が終わりいよいよ寺院の内部に入る。寺院の本体は壁と屋根により囲われており,内部構造は簡単には分からない。入り口にカメラの持ち込み禁止と記されている。近くには寺院の関係者と思われる人が参拝者をチェックしている。

僕はカメラをザックの中に入れて,ここを通してもらう。寺院本体はさらに二重の構造になっており,外側の回廊と内側の回廊をもっている。外側の回廊は多くの列柱が屋根を支えており,一部は屋根のない空間となっている。東の入り口から入ると真っ直ぐに内側の回廊にまで行くことができる。

シヴァ神の眷属

列柱のレリーフの中には素晴らしいものもあり,できれば写真に残しておきたかった。この回廊の周辺にはいくつかの小神殿が設けられている。そこではプージャが行われており,僕は階段の下からその様子を眺める。僕が入れるのは(おそらく)ここまでだろう。

内側の回廊は金色の屋根をもつ本殿の回りを囲んでおり,回廊と本殿の間は屋根の無い空間となっている。参拝者はこの本殿の回りを一回りする。本殿の入り口は南に面しており,階段の手前に金属製の柵が設けられている。一般の参拝者はこれ以上中には入れない。

参拝に来ている子どもたち

内部では数人のバラモンがプージャを行っている。入り口を形どるように灯明が灯されており,ご神体の周辺の灯明と合わせて艶かしい空間となっている。プージャが行われている間,参拝者は両手を頭の上で合わせる動作を繰り返している。プージャが終わると入り口のカーテンが閉められ内部は見えなくなる。それでも人々は見えないご神体が見えるかのように一心に祈り続けている。

シヴァガンガ池から北の塔門を見る

北側にあるシヴァガンガ池は乾季の今でも十分な水をたたえていた。入り口が東側にあることに気が付かず,一般の参拝者には開放されていないのではと誤解し,池の外側の周壁に上って池越しに東側の塔門の写真をとる。このときようやく東側に入り口があることに気が付いた。

中に入ると池の周りはガートになっており,ここで身を清めている人も何人かいる。池の水深は深いので,深みに入らないように鉄柵が設けられている。この鉄柵は写真のフレームにはありがたくないものだ。少し高いところから北側の塔門と周辺の建物の写真をとる。この構図はガイドブックに掲載されているものだ。

これからお参りなのかな

ナタラージャ寺院から出ると参道のところで親子連れに出会った。バイクを止めて母親が娘の髪飾りを直している。このお母さんは12歳くらいの子持ちとは思えないくらい若い。インドでは法的な結婚可能年齢は15歳となっている。しかし,女性の約半数は18歳未満で結婚しているという統計もある。

子どもの結婚相手を見つけることは親の重要な義務とされており,特にヒンドゥー教徒にとっては娘の結婚相手を見つけることは宗教的な義務となっている。そのため,インドでは親がアレンジする結婚が主流であり,恋愛結婚は例外的なものであり,不道徳なものだとされている。女性の結婚年齢は少しずつ高くなっているとはいえ,女性の大半は20代前半までに結婚してしまう。写真のお母さんは(女性の年齢を当てるのは難しいが)どうみても20代後半に見える。

結婚式にて

宿の近くのホールで結婚式のお祝いが行われていた。しかし,ここにいるのは花嫁だけである。正確には花嫁の結婚のお披露目ということになるだろう。写真とビデオの担当者も準備ができている。18:30からにぎやかな音楽が始まり,花嫁が壇上に姿を現したのは19時であった。今夜は親戚や知人,近所の人々からお祝いを受け取ることになる。

花嫁の両親と思われる二人が儀式に参加し,その後は出席している女性たちが一人ひとり花嫁に袋にはいったご祝儀を手渡し,その様子をビデオと写真が丁寧にフォローする。ご祝儀を渡した人々は階下に降りて食事をする。ぼくも一通り写真を撮ってから下に行くと食事をしていくように言われた。メインの食べ物は食感はおからに似たものであったが食材が推定できなかった。


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