亜細亜の街角
慣れた食事でようやく腹具合が復調する
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コルカタ(旧名カルカッタ)  (参照地図を開く)

コルカタは西ベンガル州の州都で人口は458万人(2001年)とされているが,国連統計によると都市圏人口は1500万人を超えている。ベンガル州(1905年に東西に分割され東ベンガル州は現在のバングラデシュとなる)は英国の植民地支配の拠点となり,コルカタはその政治的中心地となった。

僕の経験の範囲ではコルカタはもっともインドらしいインドを見ることのできるところである。それは初めてインドを訪れた人にとっては強烈なカルチャー・ショックにつながる。

インドを最初に訪れる人たちは南インドなど比較的トラブルが少なく,人あたりの柔らかいところから始めるのが良いと思っている。ネパールでしつこい下痢に悩まされ,ようやくコルカタにやってきた僕にとって,サダルストリートの食事は体調を戻すのにずいぶん役に立ってくれた。

ダラン(08:00)→カーカルビッタ国境(12:00) 移動

どうにか下痢は制御範囲にある。昨日は夕食から戻ってベッドに横になるとなかなか起き上がることはできなかった。合計10時間くらいは寝ていたことになり,かなり体調は良くなった。問題は栄養補給であろう。こんな食生活では確実に栄養不足になる。現在の体重は50kgを切っているだろう。

ベッドの上で今日は移動しようかどうかを考えていた。07:30に停電となったのでそれを機に移動することにする。バスパークに到着すると発車間際のバスに乗せてくれた。カーカルビッタ行きなので気は楽だ。

荷物は網棚には乗らないので座席の間に置く。出発時はほとんど乗客はおらず,それがいくつかの町や村を回るとすぐに満員となる。

僕の席は荷物があるため狭い,隣に座られるとかなり窮屈になるが,この混みようではしかたがない。それでもカメラを取り出し,幅20cmほど開いている窓から写真を撮れたのは幸いであった。ネパールのタライ平原を横断するマヘンドラ・ハイウェイに出る。振動はそれほどひどくないので写真は撮りやすい。

ネパールは北のヒマラヤに水源があり,南に流れ下っている。そのためマヘンドラ・ハイウェイはたくさんの川を横切ることになる。乾季のため幅500mもある川原がほとんど干上がっている。

ネパールではここにしかない平原

ところどころに大きな森林が残っている。葉の大きな特定の樹種が大半を占めているので人の手が入っているのかもしれない。このような森林保護地域以外は農耕地となっている。ネパールの国土の17%を占めるタライ平原はほとんど開発されてしまった。

その昔,タライ平原はほとんど森林に覆われており,マラリアがはびこっているため開発の手は入らなかった。しかし,1960年代にWHOの支援によりハマダラ蚊が退治され,マラリアの脅威が緩和されると,一気に開発が進んでしまった。ネパールではここにしかない平原であり,インドに近いことから農業と商業がさかんになっている。

パルプ用の早生樹の大きな植林地域もある

幹線道路沿いの数多くの町や村に立ち寄り,そのたびに乗客は頻繁に乗り降りする。このバスは彼らの唯一の移動手段なのだろう。別のバスが何らかの原因で動かなくなり,その車両の乗客の大半がこちらの車両に乗り込むことになり混雑はひどくなる。すでに荷物でいっぱいのバスの屋根にも乗客が上ることになる。

国境が近づくと茶園が目につくようになる

カーカルビッタ国境が近づくと茶園が目につくようになる。国境のインド側のアッサムやシッキムはインドでも有数の紅茶の生産地である。国境の町カーカルビッダには12時に到着した。ダランからは4時間の行程であった。バススタンドは幹線道路から少し左に入ったところにあった。

ネパール・イミグレーション

バスから降りて幹線道路に戻るとネパールの国境ゲートが見える。このゲートの左側にネパール・イミグレーションがある。少し欠けたEDカードに必要事項を記入して出すとスタンプが押されて戻ってくる。内容をチェックするとビザと同じページに「departure」のシールが貼られていた。これはとても珍しい。これでネパール側の儀式は終了である。

ネパールのイミグレーションとインドのイミグレーションは700-800mほど離れており,間に500mほどの橋がある。この間は歩いてもいいし,インドのサイクル・リキシャー(20Rp)を利用してもよい。僕はサイクル・リキシャーのお世話になった。リキシャーはインド側のイミグレーションまで行ってくれる。

僕はインドの6か月マルチのビザをもっており,1か月以内のリエントリー・パーミットもとっていたので,ここで2枚の書類に記入し係官に出すと入国スタンプを押してくれる。

こちらのスタンプも珍しかった。普通,スタンプは四角とか楕円の枠線をもつものだがここのものはその枠線がない。そこに入国日付と係官のサインがあるだけだ。これでインド側の儀式も終了である。歩いて5分でT字路にぶつかり,そこからスィグリ行のバスに乗ることができる。

国境(13:15)→スィリグリ(14:30) 移動

発車間際の小型バスに乗り込む。車掌が料金を集めに来る。乗るとき25Rpと聞いたので100Rp札を渡すとおつりが返ってこない。しばらくして車掌に請求しても待てというだけである。そのうちスィリグリのバススタンドに到着してしてしまった。車掌におつりを請求し80Rpを受けとり,荷物をもって下車する。

バスから降りるとホテルの客引きが現れた。700ではどうだい,ノー・サンキュー,500ではどうだい,ノー・サンキュー,250ではどうだい,それならいいね。ということで「ヒマラヤン・レストハウス」に宿泊することにする。部屋は4畳,1ベッド,T/S付きではあるがシャワーからは水が出ない。まあまあ清潔といったところだ。

橋の下に広がる住宅地で遊んでいる子どもたち

近くの橋の下に広がる住宅地で子どもたちが遊んでいる。ここは貧しい人々の居住区となっており,あまり安全なところではない。ヨーヨーの道具を出すと大変なことになりそうなのでやめた。

宿の近くにはバススタンドがある。コルカタ行きのグリーン・ラインのバスが停車しており,これは4列シートなので楽そうだ。料金は各社とも325Rp,出発は19時か19時30分,所要時間は12時間である。鉄道のチケットは4kmほど離れたNJP(New Jalpaiguri)まで行かなければならない。二等寝台が取れるという保証も無いので,バスで移動することにする。

シルグリ(19:30)→コルカタ(09:00) 移動

コルカタ行きのバスチケットを購入する。座席は325,スリーパーは400なので迷わずスリーパーにする。初めてインドの寝台バスを利用することになる。バスは下は普通のリクライニングの座席,上が寝台となっている。リクライニングの4座席で寝台が1つの割合である。座席が36,寝台が8である。

広さは1畳より少し広いくらいのものだ。ずいぶん広い寝台だなと思っていたらそれは二人用であった。僕はインド人と一緒に横になる趣味は持ち合わせていない。そうなると荷物が困ったことになる。足元にメインザックとサブザック,それにとなりのインド人青年のバックが加わる。スペースをやりくりして横になる体制を構築する。出発時の乗車率はほぼ100%である。バスは2-3時間おきくらいにトイレ休憩をとるようになっている。

インド博物館

コルカタには何回も滞在しているのにすぐ近くの博物館には入ったことがないので,訪問してみることにする。入場料は150Rp,カメラ持ち込み料が50である。窓口で200Rpを払い入ろうとすると係員が「中でカメラ持ち込み料を払え」という。チケットの裏側に50Rp徴収のチェックがあるよといってもらちがあかない。結局,窓口で50を返してもらい中で支払うという面倒な手続きになった。

ザックの持込は禁止されており,窓口の向かいに預けるルールになっている。このとき水を全部飲んでおかなかったのがすぐ響いてくる。博物館はビクトリア朝時代の重厚な建物である。よく整備された中庭を二階建ての建物が囲んでいる。1階,2階とも中庭側が回廊になっており,そこから各展示室にアクセスすることができる。

ストゥーパに彫り込まれたブッダ像
11世紀,ビハール州

ヴァジラパニ神
10世紀オリッサ州

ブッダ像
10-11世紀,ビハール州

ブッダを象徴する菩提樹
紀元前2世紀,マディア・プラデシュ州

アショーカ王石柱の上部飾り
出土地不明

人間の役に立っている植物展示室

大型哺乳類の剥製・骨格標本・トロフィーの展示室

アスタブーヤ・ドゥルガー女神
11世紀,ビハール州

ウシュニシァヴィジャヤ女神
11世紀,ビハール州

アヴァロキテスヴァラ神
11世紀,ビハール州

カディラヴァニ・ターラ女神
10世紀,ビハール州

母子像

マハー・ヴィーラ
10世紀,マディア・プラデシュ州

コルカタ植物園

バススタンドを一回りしても目指すバスは見つからなかった。目の前には55Aのバスが停まっており,もしかして,ハウラーから出るというNo.55のバスがここからも出ているのではと近くにいる車掌にたずねると,55はここから植物園まで行くということであった。

このNo.55のバスはなかなかやってこなかった。30分ほど待ってようやく55がやってきた。「植物園に行きますか」と車掌に確認するとOKであった。あとは植物園を見逃さないことだなと思っていたら,バスの終点が植物園だと近くの乗客が教えてくれた。

コルカタ植物園は1786年にイギリス東インド会社が薬草などの研究のために造園した。広さは109haあり,世界でも屈指の規模をもっている。英国は自国にキュー王立植物園(キュー・ガーデン)をもち,世界中の植物資源を収集しここで育てている。

これは英国人が植物好きだからと言うわけではない。それは植民地政策の一環であった。植物園では世界各地から有望な資源植物(人間生活に有用なものを作ることができそうな植物)を集め,品種改良などを行っていた。

それと並行して植民地の各地に植物園を作り,情報交換を通して,それぞれの植民地に適した有用植物を選定し,プランテーションなどの形態により大規模な栽培を行っていた。やはり,世界に冠たる大英帝国は植民地戦略がしっかりしていた。広大な敷地内には12,000種の植物があるという。

コルカタ植物園の植物

蓮池の風景

世界最大のバニヨン樹(ベンガルボダイジュ)

コルカタ植物園はとても広くて,炎天下ということもあり歩いて回るのはかなり大変である。地図には距離が表示されていなかったが,歩いた感じでは入り口からの奥行きは2kmほどはある。ともあれ,大きなバニヨンを目指して歩き出す。内部の道路は舗装されており車も通行できる。しかし,車はほとんどおらず快適な散歩が楽しめると言いたいところだが,この暑さと湿度の中では大変な苦労である。

園内にたくさんある案内標識にしたがって右に曲がりしばらく行くと,芝生の向こう側に目指すバニヨンはあった。ちょうど正門からみると反対側ということになる。事前の知識でどのようなものかを知っているのでバニヨンと分かるが,それがないと普通の森に見えるだろう。

バニヨン(Ficus microcarpa)は日本語ではガジュマル,中国名は細葉榕あるいは榕樹とされている。クワ科・イチジク属の植物の総称であり,800種ほどあるとされている。僕は沖縄に行ったことがないのでガジュマルではピンとこない。やはり,榕樹が僕にはいちばんぴったりする呼び名だ。

中心の親木(すでに無くなっている)を中心にほぼ円形の広がりをもち,面積は1.5haを占めているという。半径50mの面積は0.8haなので半径70mの円ということになる。半径50mあたりのところに円形の柵が設けられているが,榕樹はそれを越えてどんどん先に枝を伸ばしている。

どうしてこのような巨大な木になるかというと榕樹は枝から多数の気根を出す。この気根が伸びて地面に達すると太い幹に成長する。つまり一本の親木から横に広がる枝を支える多数の幹を作り出すことができる。榕樹は鳥などにより運ばれた種が大きな木の幹などで発芽する。したがって,榕樹の戦略は上下への急速な成長であり,横への広がりではない。

しかし,枝から気根を出す性質を持っているので数本の幹で全体を支えるような状況はよく見られる。とはいうものの,自然状態ではここの榕樹のように大きな広がりにはならない。おそらく人の手が入っていることだろう。榕樹の枝を盆栽のように押さえて横に伸びさせると榕樹は新しい気根を出し,どんどん横方向に広がっていく。

榕樹は自力で大きな木に成長することもできるが,榕樹ではない大きな樹木に取り付くことが多い。榕樹はイチジクの仲間なのでたくさんの実を付ける。鳥などに食べられたものはフンと一緒に大きな木のどこかに落ちることもある。この空中から榕樹は上下に幹を伸ばす。下に伸びるものはいちおう「根」ということになるが上に伸びる幹と同じである。

成長の早い榕樹は親木の幹を伝って地上まで根を下ろし,さらに急速に成長する。ときには親木の幹を網目状に覆い,上層では親木の樹冠を越えて成長し日光を独占する。このため親木は枯れてしまう。その様子はまるで親木を絞め殺してしまっているようにも見えるので,「絞め殺し植物」などという物騒な名前ももっている。


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