亜細亜の街角
齢80歳のブッダはこの地で涅槃に向った
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クシナガール  (参照地図を開く)

35歳で悟りを啓いたブッダはその後45年間に渡り修業と説法の生活を送っている。暑季と雨季には主として東の竹林精舎,西の祇園精舎に留まり,弟子たちと共に瞑想と修業に集中するとともに,教えと法を確認しあった。乾季にはそれらの地点を結ぶ楕円形状の地域を遊行し,苦しみや悩みをもった多くの人々にそれから逃れる方法について語っている。

80歳になったブッダは弟子のアーナンダを連れて祇園精舎を後にして生まれ故郷のルンビニを目指していた。しかし,食中毒のためクシナガールの地で,沙羅双樹の間に横になり入滅を迎えた。現在,その場所にはニルヴァーナ・ストゥーパと大涅槃寺がある。入滅後,遺体はラマパール・ストゥーパのあるところで荼毘に付され,八分された仏舎利は各地の仏塔に手厚く葬られた。

古代のインドでは歴史あるいは年代を記すという習慣がほとんどなかった。ブッダ入滅の時期についてもインドにはまったく手がかりのない状態である。わずかにギリシャの文献に記されているアショーカ王即位の記述があり,それが紀元前268年頃と分かり年代の基準となっている。アショーカ王は第三回の結集を行っており,そのことは仏典にも記されている。

この結集が入滅の何年後に行われたかが分かると入滅の時期が確定するが,仏典により大きな開きがあり,紀元前483-5年という説と紀元前382年とする説が並立しており,決着はついていない。後者は北伝の仏典をもとに日本で研究されたもので,前者より信頼性は高いとされている。後者によるとブッダの生涯は紀元前463年-383年ということになる。

ゴーラクプル(09:00)→クシナガール(10:30) 移動

何回か確認してようやくクシナガールを通るバスを見つけた。バスの料金は36Rp,50Rp札を出すと車掌はおつりの金額をチケットの裏に書いて支払おうとはしない。インドではチケットの裏側におつりの金額を記入し,下車時におつりを受け取るという仕組みが多い。突然,車掌がここがクーシナガールだというのであわてて網棚から荷物を降ろして下車する。おつりを請求しようとするするとバスは走り去ってしまった。

僕が下車したのは幹線道路と遺跡公園に向かう道が交差するところであり,そこにはサンチーにある三本横板の鳥居のような塔門がある。近くには覆鉢をもったブッダ像が置かれている。しかし,この幹線道路は拡張工事の最中であり,この像のすぐ脇まで地面は掘り下げられている。おそらく道路工事に合わせて,このブッダ像は移動することになるだろう。

ベトナム寺に宿泊

塔門をくぐって少し歩くとベトナム寺がある。正式名称は「ロン・ソン寺」というらしい。本堂に漢字で「林園」と記されていたので,この漢字の発音がロン・ソンということになるのであろう。入り口には「中国人仏教徒の宿泊所」と記されていた。ここは宿泊設備が整っており,寺院の右側が二階建ての宿泊所になっている。

ドアノブに付属しているカギは動作がちょっと不安定であり,ときどきまったく動かなくなる。カギの性格を研究し,そのような時はさらにもう少し押し込むと良いことがわかった。部屋は8畳,3ベッド,T/Sはとなりの部屋と共用である。時期が時期だけにほとんど宿泊客はいないようだ。

この寺には東アジア系の顔立ちの少年がいるので出身をたずねると,アッサムの東側の地域から来ているようだ。仏教発祥の地であるインドでは,仏教徒は人口の1%未満であり,その大半がチベットに近いラダックやシッキム周辺に居住している。また,ビハール州のようなカーストの厳しい地域では,カーストを生み出しているヒンドゥー教をすて,人々の平等をうたった仏教に改宗する人々も多い。

真っすぐな通りの片側に家屋が並んでいる

一休みしてから表通りに出てみる。真っすぐな通りの片側に家屋が並んでいる。食事がどこでとれるかは不安であったが,歩いてみてすぐに観光客用の食堂らしきものが見つかり一安心である。また水を売っている店も見つかった。この道を300mほど行くと左側に大涅槃寺の公園があるが,その手前にはいくつかの寺院がある。

ヒンドゥー寺院

最初の寺院は向って右側にあり,ちょっと変わった建物である。ストゥーパを建物の上に乗せた現代的な寺院はヒンドゥー寺院であった。写真を撮っている時はよもやこの通りにヒンドゥー寺院があるなどとは思いもつかず,変わった仏教寺院だなと考えていた。写真をパソコンで見て初めてストゥーパと思ったものはシカラであり,その上にあるものがシヴァ神の持ち物であるトリシュルであることが分かった。

ミャンマー寺

通りの左側に巨大な金泥のストゥーパがそびえている。ミャンマー寺院である。ミャンマーではパゴダ(ストゥーパ)信仰が盛んで,寺院は巨大なパゴダの付属品のような扱いになっている。ここのストゥーパは本国のものと比較してもまったく遜色の無いものである。このような巨大で高さのあるストゥーパは珍しいのか,インド人の観光客の姿も多い。

この境内には巨大なインド菩提樹の木が木陰を提供している。インドでよくあるように菩提樹の周囲はコンクリート製の台座が設けられている。この大きな木は樹齢が200年くらいかと推定したら,地元の人の話では100年であった。100年でこれほど大きなものになるのだと感心する。台座の上では数家族が布を広げて休んでいる。インドのこのスタイルはどこに行っても木陰があれば休憩することができる。

巨大な榕樹(ベンガル菩提樹)の大木がある

菩提樹の奥にはこれも巨大な榕樹の大木がある。榕樹は幹から気根を下ろし,それが地面に届くと太い幹に成長する。そのため複数の幹が一本の木を構成するようになる。ここの榕樹も幹は束ねたようになっており,みごとな景観をもっている。

大涅槃寺に続いく小道には小さな鐘が置かれている

この小道は大涅槃寺に続いている。そこには小さな鐘が置かれている。祇園精舎のように外から鐘つき棒で鳴らすのではなく,教会の鐘のように内部の金属棒を振って音を出すタイプである。インドの古代の鐘はおそらくこのタイプではなかったのかと想像する。

大涅槃寺

大涅槃寺はおそらくブッダが二本の沙羅の木の間に横たわったその場所に建立されたものなのであろう。周囲に点在するレンガ造りの遺構に合わせるように基壇部はレンガ色に仕上げてある。その上に漆くいで白く塗られた「大涅槃寺」と釣鐘型の「ニルヴァーナ・ストゥーパ」が置かれている。この二つの構造物は非常に近接しており,角度によっては一体のものに見える。

このストゥーパはタイの信者が寄進したものであり,当時は金泥で塗られていたという。1937年の写真では高さの低い直方体の涅槃堂であった。それを修復して上部に屋根を乗せ現在の大涅槃寺となったようだ。

入滅を迎えたブッダは二本の沙羅の木(学名:Shorea robusta)の間に横になり,閉じられた両眼は再び開かれることはなかった。入滅の瞬間,沙羅の木の黄色みを帯びた花は真っ白に変わったとされている。この故事から平家物語の冒頭の一節にある「沙羅双樹の花の色…」となる。沙羅の木はフタバガキ科サラノキ属の落葉高木で,インド中部からヒマラヤ地方にかけて分布し,成長すると高さ30mを越える大きな木となる。亜熱帯植物なので日本では温室でなければ花は咲かない。

大涅槃寺の中には横になった金色の仏陀像がある。大きさは4m程度である。その像にかけられている布はきれいな黄色で涅槃像とよく合う。「沙羅の木」とはどんなものかと探してみたが公園内にはそれらしいものはなかった。

大涅槃寺を中心に周辺は遺跡公園となっている

大涅槃寺を中心に周辺は遺跡公園になっている。そこには多くの僧院,寺院,ストゥーパが点在していたようだ。現在はそれらの基壇だけが残されている。このレンガは二千数百年の時を経ても非常に状態が良いので驚かされた。

やはり1937年の写真を見ると,これらの基壇は完全に埋まっていたことが分かる。そのおかげで風化を免れたようだ。これなら基壇だけでもほぼどのような機能のものなのか推測できる。小さなブロックに分かれているこのあたりは僧院跡であろう。小さなストゥーパを中心に瞑想のための小部屋が取り囲んでいる。

菩提樹の若木が育つ

一部のレンガは風化しており,そのすき間に菩提樹が根を下ろし,葉を広げている。さてさて,このように狭い隙間に根を下ろした菩提樹は大きく育つことができのであろうか。インドボダイジュは榕樹と似たような性質をもっているので,人の手が加わらなければおそらく根を地中にまで伸ばし,立派に成長することができるであろう。しかし,それでは遺構に対する影響が大きくなるので公園の管理人がどこかで伐ってしまうことだろう。

子どもたちが学校の行事としてたくさん訪問している

この公園には近隣の子どもたちが学校の行事としてたくさん訪問している。僕が大涅槃寺から出てくると,先生に引率された中学生くらいの子どもたちがやって来た。この集団は男女別に分かれて芝生の上に腰を下ろしていた。女子生徒は芝生の上に布を敷いている。カメラを向けるとこの生徒たちはほとんど無関心状態であった。

大涅槃寺の裏手は農地となっている

黄金佛と遺構

大涅槃寺の少し先で南に向かう道は東に折れる。その角のところがブッダが最後に説法した場所であるとされている。そこには寺院と僧坊の遺構がある。小さな建物があり,その中に金色のブッダ像が置かれている。この建物の扉は閉ざされていたが,小さな窓があり,仏像の撮影は可能であった。この仏像はいつの時代に作られたものかは不明であるが,独特の風貌をしている。

スリランカ寺

スリランカ寺には大きなストゥーパがある。覆鉢は半球形のおわん型になっており,なぜか天窓のような構造がある。靴を脱いで階段を上るとそのわけが分かった。ストゥーパの中は丸天井の空間になっており,天窓から光が入る構造になっている。鉄筋コンクリートで半円形の構造を造り,その上に装飾用レンガを貼った構造であろう。

内部の壁面にはブッダ像を中心に半円形にブッダの弟子と思われる人物の墨絵が飾ってある。スリランカなのに墨絵と思われるかもしれないが,この施設は日本・スリランカ仏教センターという名称になっており,さもありなんと僕は理解した。

大ストゥーパ

スリランカ寺から東に1kmのところにラマパール・ストゥーパがある。炎天下なので往復ともサイクルリキシャーのお世話になる。この大きな大きなストゥーパはブッダが荼毘に付された場所にあるという。

ストゥーパは焼きレンガを積み上げたもので,少しつぶれた半球状の形状であったようだ。その半周部分は高さ2mほどのところに平らな面をもっており,全体として何かの儀式に使用されるための施設のような感じを受ける。

残りの半周部分は平らな部分をもたない。つまり前半分と後ろ半分が異なるという不思議な構造をしている。ストゥーパとは本来は仏舎利を納めるためのものであった。この地で荼毘に付されたブッダの遺骨の一部はこの巨大なストゥーパのどこかに納められているのかもしれない。

ストゥーパの周辺はきれいな芝生となっている。この乾燥地帯で芝生を一年中緑に保つのは大変な努力が必要である。ここでは地下水を汲み上げて給水している。

甘露の水

サイクル・リキシャーでスリランカ寺に戻り売店で水を買う。炭酸飲料のようにきりりと冷えていなくても十分に甘露である。この一瞬が最高だね。宿に戻り日記作業をしているとファンが止まった。計画停電で復旧は20時だという。インドの電力事情はとみに悪く停電は日常茶飯事である。電気が止まると部屋には居られないので外に出ざるをえない。

ベトナム寺をゆっくり見学する

インドボダイジュの木は若葉を繁らせている

寺の周辺を回り,気に入った題材の写真を撮る。インドボダイジュの木は若葉を繁らせている。日の光が透けて見えるような美しさに魅せられる。

主要道路との交差点まで歩く

少年僧の読経(17:30)

少年僧が本堂に集まり読経が開始された。使用されているのはヒンディー語である。最前列に若い僧が座り,その後ろの両側に少年僧が並ぶ。読経はおよそ30分間続き,その後,少年僧たちは夕食をとったようだ。

停電の中,夕食探しはしたくないのでとなりのYAMAで夕食を済ませる。ベジタブル・フライドライスを注文したら必要量の2倍が皿に盛られているので驚いた。小皿をもらい半分をそちらに移す。この食堂は旅行会社も兼ねているのでネパール行きについてたずねるとゴーラクプルに戻り,スノウリ国境から入るルートしかないと教えられた。

朝の集団礼拝

少年僧の読経の声が聞こえてきたので下に降りる。全員が本堂に集まって読経をしている。今日の指導者は尼僧であった。昨日はずっと座っての読経であったが今朝は一部は立つことになった。このあと,少年僧は朝食である。僕もあとをついて食堂に行ったがあなたの食事は外でと言われた。

リン・ソン寺の中庭いっぱいに子どもたちが並んでいる。この子どもたちは付属学校の生徒だという。貧しい子どもたちのため無料で教育を行っているという。子どもたちは見習い僧に合わせて読経し,それが終わると教室に向かう。

子どもたちは外で授業を受けていた

今日はゴラクプールに戻り,スノウリでネパールに入り,ルンビニまで行くつもりだ。ブッダの入滅の地から生誕の地へ1日で移動することになる。08時過ぎにチェックアウトしたとき,子どもたちは外で授業を受けていた。もう少し日が高くなると,屋外での授業は難しくなる。


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