亜細亜の街角
ラジャスターンとの国境近くの小さな町
Home 亜細亜の街角 | Palanpur / India / Mar 2010

パランプール  (参照地図を開く)

パランプールはアフマーダ・バードから北に130kmほどのところにある地域の交通の要衝である。ここからは東回りでジョドプールに,西回りでジャサルメールに移動することができる。ここはグジャラート州の北の外れであり,ラージャスターンとの州境まで40kmほどしかない。

僕がここを訪問しようとしたのは,ラジャースタンとの州境近くにポシナという村があり,そこには独自の文化をもつガラシア族やビール族という少数民族が暮らしているという情報が西遊旅行のサイトに記載されていたからだ。

結論として公共交通機関を使用してポシナ村に行くのは大変であり,途中で断念することになった。ポシナに行けなかったのは残念だが,パランプールの街の中でもガラシア族の民族衣装の女性たちを見ることができたのでまあ良しとしよう。

パタン(70km)→パランプール 移動

喉の調子は良くない,インドのど飴のおかげでなんとかもっているという感じだ。バススタンドには07:30に到着し,制服の車掌にパランプール行きのバスについてたずねてみた。しかし,どうも僕の発音が現地風ではないため,うまく通じない。地図を出して示すとパーランプール(というように聞こえた)か,それならあのバスだよと紹介してくれた。

早朝のバス移動は涼しくて助かる。窓が少し開いているため風が吹き込む。体を冷やさないようにと長袖を着込む。予想通り2時間でパランプールに到着した。ここが終点のようで乗客はすべて下車した。バススタンドで制服の車掌が話をしていたので,ゲストハウスはないかとたずねると「BANAS」を紹介してくれた。

BANAS GH

BANAS GH はバススタンドの南側の通りにあるが,Hotel Banas(こちらは食堂)に案内されてしまった。マネジャーが電話をしてくれたので,GHからボーイがやってきて,僕のメインザックをかついで案内してくれた。部屋代は150Rp,トイレとシャワー室をふくめて6畳の大きさである。ファンもコンセントもしっかりしており,問題はない。清潔度はまあまあといったところだ。

部屋の中にある洗面台の蛇口の水が止まらない。いくら力をいれて回しても蛇口は閉まらず水が出続けている。宿の管理人に助けを求めた。彼はいったん蛇口を出る方向に回し,次の瞬間に反対側に回した。今まで力まかせに蛇口を回していたが,軽く反ひねりを入れると水は簡単に止まった。この技はインドを旅行していると役に立つ。

北に歩くと鉄道駅に出る

バススタンドの前の道を北に5分も歩くと鉄道駅に到着する。その手前には露店の果物屋が並んでいる。台車の上にトマトを山積みしている店があった。夫婦と小さな男の子がいたので一枚撮らせてもらう。一面のトマトの赤い色が鮮やかである。母親と9歳くらいの女の子がいるトマトの店もあった。この一枚もけっこうお気に入りの一枚となった。

鉄道駅にて

パランプール駅はピンクがかった茶色の建物であった。駅舎の左側は建物の上部にドームを並べている。駅の中には列車の運行表がある。列車名は英語,ヒンディー,グジャラーティの併記となっているが,始発,終着,時間などの情報は英語で記載されているので僕でも利用可能に見える。すべての列車に固有名詞が付けられており,いったいインド全体ではどのくらいの列車名があるのだろう。

連絡橋の階段の横では軽食屋が店を出しており,上から仕事の状態を眺めることができた。インドでは(衛生的な配慮なのか)油で揚げる調理が非常に多い。熱した油はあらゆる食材を浄める働きがあると考えられているようだ。

駅の北東側にも商店街が続く

駅の北東側にも同じような商店街と露天街が続く。ヒンドゥー寺院に供えるマリーゴールドの花輪を作っているおばあさんの写真を撮らせてもらう。おばあさんはテントのように三方に布を張った台車の上で仕事をしていた。少し暗い中でマリーゴールドの色が鮮やかである。

少数民族の女性が大きなカゴに入れた小さな果実を商っていた。隣の男性も同じものを扱っていたので同じ民族の人と思われる。女性の服装は伝統的なものであるが,男性の服装は完全に洋風化している。この二人の背後には生地を扱うおばさんが店を出しており,三人は大きな布製のパラソルの日陰に入っている。

駅の東側には立派な塔が見える

駅の東に立派な塔が立っている。三層の建物の上にインド特有のチャトリと呼ばれる飾り屋根が乗っている。ムガール帝国の建造物にはこのチャトリが多用されている。タジマハール本体の四隅にあるドーム状の小屋根がチャトリである。基壇の四隅に立つ尖塔の上部も同じようにチャトリで飾られている。

ここの塔はどうも宗教的な意味合いがありそうだが,まったく単独で立っているためどのような目的のものなのか判断材料がない。周辺の建物とも関係ないようだ。すぐ近くにはヒンドゥー寺院があり高塔が見える。中に入ると建物はコンクリート製なのでありがたみは薄い。この寺院はかなり広い敷地をもっているものの,主神はどなたなのかさっぱり分からなかった。

シティ・パレスを紹介される

町を歩いている時に男性から「シティ・パレスには行ってみたかい」と声をかけられた。シティパレスは道路4を西に行き,陸橋を越えて1kmほど行ったところにあるようだ。おそらく,旧藩王の宮殿を市庁舎としたものであろう。時間があったので散歩方々歩いてみることにした。

幹線道路4は交通量は多いものの,歩道が付いているので安全に歩くことができる。陸橋にさしかかると下に鉄道線路が見える。パランプールは鉄道の要衝なのかニ方向に線路が伸びている。しかし,どちらも単線である。

インドでは鉄道事故が非常に多いのは単線区間が多いことと,信号機などの安全装置の故障,さらに人為的ミスの多さがその原因とされている。また,鉄道線路や橋の老朽化も事故につながっている。

シティ・パレスはシティ・ホールになっていた

シティ・ホールは想像通り昔のシティ・パレスを市庁舎に転用したものであった。駅舎と同じようにピンクがかった二階建ての大きな建物である。建物としては特に珍しいものではない。近くで新しい施設の工事が行われており,エプロンのような衣装を身に着けた女性たちが働いていた。彼女たちの仕事は砂のふるい分けと運搬,それにレンガの運搬である。

ガラシア族(ドゥングリ・ビール族とも呼ばれる)はインドの指定部族である。この指定部族はかっての「アン・タッチャブル」に相当する用語であろう。インド独立とともに「アン・タッチャブル」という言葉は使用禁止になっている。しかし,現在でもアウト・カースト階層に対する謂れなき職業差別は続いているようだ。

クリケットの少年たち

シティパレスの南西側には古風な建物があった。これは王の(最後の)居城であったところだという。その先の広場では少年たちがクリケットに興じている。クリケットは南アジアでもっともさかんなスポーツの一つである。正式には11人でチームを作り,野球と同じように守備チームがボールを投げ,攻撃チームがそれを打って得点を競うゲームである。

先攻,後攻を合わせて1イニングとしている。しかし,この一回の攻撃時間がハンパではない。国際ルールでは1日で試合を終わらせるため短縮しているが,伝統的な国別対抗戦などは最大5日間もかかるという。僕も二本打たせてもらった。バットは木製ながらかなり重く,野球のバットのようにスムーズにヘッドを回すことはできない。お礼にみんなの集合写真を撮りお別れする。

冷たい水を発見

帰りにも陸橋の手前のチャーイ屋で再び白ずくめの服装の男性に出会った。おいしそうにチャーイをすする三人の男性を写真にし,僕も再びお茶にする。白い上下服(上着はクルタ,腰布はドーティ),白い布を頭に巻いた男性が近くにいる。とても巡礼のようには見えないので,この服装が普段着なのであろう。

陸橋を下ったところにバススタンドにまっすぐ向かう路地がある。この路地の途中にジュース屋があり,冷えたボトルの水があった。この冷たい水を一口飲んだときのおいしさは筆舌につくしがたい。渇いた喉にとってはどんな高級な飲み物も冷たい水にかなわない。この店で1/3ほど水をいただき宿に戻る。

Hotel BANAS 再発見

街を注意深くチェックしてみたが夕食を食べられそうなところは「Hotel BANAS 」以外には見つからなかった。問題はその食堂がどこにあるかということだ。大体のところは分かっていたので幹線道路の交差点付近で聞いてみるとすぐに分かった。陸橋のある幹線道路4に面しており,夕方に陸橋から戻る路地の少し東側にあった。ここは6人掛けのテーブルが12ほど並ぶ大きなレストランである。

メニューはちゃんとあった。ターリーが50,ハーフ・ターリーが35であった。僕はハーフを注文したが食べきれる量ではなかった。注文を待っているとき通りの方からにぎやかな音楽が聞こえてきた。レストランの前には大勢の人々が集まっており,そこで甘いラッシーがふるまわれていた。今日はホーリーのお祭りである。

パランプール(07:00/80km)→Kheroj(09:30) 移動

今日は「ポシナ」に行くつもりである。06:45にバススタンドに行くとバスはすぐに見つかった。バスを教えてくれた車掌さんは「Datan」で乗り換えるように教えてくれた。バスの車掌は僕がポシナまで行きたいことを知ると,「Kheroj」までのチケットにしてくれた。

ここは「Datan」からさらに40kmほど離れており,バスの便を考えると日帰りの移動には無理があった。距離を勘案してポシナをあきらめ「Datan」周辺で写真を撮るのが正解であった。

「Datan」の周辺にはグジャラートでは珍しい山の風景もあるし,緑の農地もある。自然崇拝の祭壇なのだろう,願い事をするときに奉納する素焼きの馬が山になって積まれているところもあった。しかし,あと1時間ということでバスにそのまま乗り続けてしまった。

全然おもしろくないところ

09:30に「Kheroj」に到着した。ここは道路が三叉路になったところで,その周りにわずかの家屋があるだけのところだ。どうやら交通の要衝になっているようだ。ここから先はたぶん乗り合いジープでポシナに向かうことになるのだろう。

ポシナ方面への道路には竹の可動式バーがあり,近くには乗り合いジープが停まっている。現在は竹のバーは上げられているが,この関所のような構造は何のためにあるのだろう。すでに10時近くなっており,これからさらに先に行くのは無理だ。三叉路から近くの農地に入ってみる。

乾燥に強い植物だけが生き残ることができる

乾季の今は石ころだらけで完全の荒地の様相を呈しており,何かの枯れた茎が一列に並んでいるので農地だと分かる程度だ。農地の境界にはサボテンのような植物もしくはトゲだらけの潅木が植えられている。このアカシヤに似た木のトゲはすごい威力だ。枯れるとさらに威力を増し,うっかり踏んでしまったときには,靴底を簡単に貫通して「イテッ」ということになる。

乾燥に強い植物は数種あり,そのうち二つは花を咲かせていた。葉が退化してトゲをもった茎だけの植物はずいぶん可憐な花を咲かせていた。おしべより少し長く,丸くふくらんだ雌しべは,少し丸くなってそのまま果実となる。

アカシアの仲間が黄色の花をつけていた

アカシアの仲間と思われるかん木にも長い花序にたくさんの黄色の花をつけていた。アフリカのサバンナではアカシアの実は動物たちの貴重なたんぱく源になっているとのことであるが,この木はどのような実を付けるのであろうか。マメ科の樹木なのでおそらく種子は莢に入ったものになるのであろう。しかし,花の状態からはそのような実は想像できない。

大きな木の下で

数は少ないが,ところどころに大きな木が生えており,そこは人々の待ち合わせ場所になっている。僕が通りかかったときこの木は花盛りのようだった。地面には,ついいましがた落ちたと思われるみずみずしい白い花が散らばっている。特に匂いは無いようだ。しかし,上を見てもどこにも花は見当たらない。どうもがくの中に見えないように納まっているようだ。

アカシアは大きくなると横に枝を拡げる

さきほど花を撮影したアカシアの仲間と思われるかん木は大きく育つと水平方向に枝を広げるようになり,アフリカのものと類似した樹形となる。

ヤギは本当に何でも食べる

二つの集団のヤギがやってきた。この荒地の風景で何を食べるのか興味があった。アカシヤ似の鋭いトゲをもった植物の葉を起用に噛み取っている。キリンに比べてずっと口が小さいので,トゲをうまく避けて葉の部分をむしりとっている。中にはサボテン似の植物をそのままかじろうとしているものもいる。

集団の中には数匹のオスがおり,少年が二頭の頭をくっつけると羊族によく見られる頭突きを開始した。それほど迫力はないものの遺伝子の中で受け継がれてきた順位付けの本能が家畜になったヤギにも残されている。

Danta から先はバス便が少ない

この周辺で見ることができたのはこの程度のものである。あとは何もないのでさっさと戻ることにする。しかし,しばらく待ってもバスの便は望めないようだ。「Datan」方向に向かう乗り合いジープが来たので乗せてもらう。

ジープは1時間近く客待ちをしてからKheroj(11:45)→中継点(12:20)と移動した。この街道ジープの詰め込みようはひどいものだ。定員の2倍くらいの乗客を詰め込み,おまけに,屋根の上にも人がいる。僕は最後尾のベンチシートに乗せてもらったが,足の踏み場も無い状況であった。このジープはあまり長距離を走らず,20kmくらいを営業区間にしている。

貴金属店の商談

この辺りは貴金属店が軒を連ねている,ビジネスの進行に興味があったので 中を見せてもらう。客はすでに買う品目は確定しているので,店のスタッフはいくつかの種類を見せて客の反応をうかがう。指輪にする石をアルミの箱から取り出して感じを確かめている。

実は今回の旅行でインドに行くと告げたら,母から「インドは宝石が安いんでしょう,石の付いたネックレスを買ってきて」と頼まれたので,普段は訪れることのない貴金属店に入ってみたのだ。インドの貴金属店の品物はほとんど定価が付けられていない。値段は売り手と買い手の交渉により決まる。宝石などにはほとんど知識のない僕はとてもインドでは貴金属などは買うことはできないとあっさりあきらめた。

小学校を発見

宿の東側の地区を歩いてみる。ここは幹線道路になっており,昨日見たちょっと風変わりな塔が少し北側の交差点に立っている。のんびり歩いていると,いたるところから声がかかり,話し相手をさせられる。写真を撮れという要求も相変わらず多い。そのようなインド人的なだめもとの要求を適当にあしらいながら先を歩く。

子どもたちの声がしたので学校があることが分かった。ちょっと見では見過ごしたかも知れない建物である。そろそろ17時になるので二部制でも学校は終わる時間である。校門の内側で待っていると,全員がほぼ同時に出てきたので写真にならない。僕が階段を登り,下で騒いでいる子どもたちの写真を撮る。子どもたちはいくつかの方向に消えていく。残った集団を男女別にして写真にする。

ラクダは背が高いね

表通りを荷車を引いたラクダが通る。他の交通があるのでなかなかフレームを作ることができない。しばらくラクダと追いかけっこをして一枚をものにする。もっとも,そんなことをする必要はなかった。ラクダ車は少し先の広場で止まっていた。

ラクダはなかなか人の言うことをきかない動物である。そのため,鼻の両側から木製の杭のようなものを差し込んでいる。これを手綱で操作することにより制御することができる。

近くから見るとラクダはとても体高が高い。人間と比較してみると背中までが2mといったところだ。さらに首を持ち上げて歩くのでそこまでは2.5mくらいある。何といっても足が長い。足は細いけれど,足裏の部分は広がっており接地面積は広くなっている。このおかげで砂漠のような砂地の環境でもさほど苦労しないで歩くことができる。

野菜市場の内と外

この辺りは野菜と果物の露天が並んでいる。実は通りに面して青果市場があるのだ。こちらは建物の中に入っており,外ほど客は多くはない。庇を貸して母屋をとられるの例えのようだ。この季節の産物として僕が食べられるものはトマト,オレンジ,ブドウである。ザクロは小粒なのであまり買う気にはならない。

野菜はジャガイモとたまねぎ,ナスが主要な商品であり,小さなキャベツが出回っているのにはちょっと驚いた。冷涼な気候を好む菜の花の仲間はインドでの暑い気候では真価を発揮することはできない。それでもちゃんと巻いたキャベツになっている。この乾季のひどい暑さの中でどこで生産されているのか知りたいものだ。

少数民族の親子

色鮮やかなエプロンのような民族服を着た女性が子ども連れでやってきた。この民族服は少数民族のガラシア族(ドゥングリ・ビール族とも呼ばれる)のものである。彼女は気軽に写真に応じてくれた。2歳くらいの男の子が写真をいやがって泣き出してしまう。女性の服装もきれいだけれど,7歳くらいの女の子のちょっとはにかんだ表情はとてもすてきだ。

ちょうど近くにテーブルがあったので飲料水を使用して二人の子どもにヨーヨーを作ってあげる。僕のザックの中にはヨーヨー・セットとプラスチックのコップがはいっているので,水さえあればヨーヨーを作ってあげることができる。

表通りはどこも露天になっている

ストーカー少年たちに困り果てる

路地に入ると子どもたちが大勢出てくる。集合写真にするにも希望者が多すぎてフレームが決まらないほどだ。それでも何枚かのよさそうな写真を撮ることができた。問題は後ろに控えているギャラリーである。

小さい子どもたちは比較的,言うとことをよく聞いてくれるが,10歳を過ぎるとこちらの言うことはほとんど耳に入らないようだ。このような少年が10数人もぞろそろと付きまとわれると写真にならない。

子どもたちは自分の縄張りから外に出るとあきらめるものだが,インドでは300mほどは平気でついてくる。あまりのしつこさに「後をついてこないでくれ」と身振りを交えながら英語で言うがほとんど効き目はない。現地語以外は彼らの耳には入らないようだ。

立派な外観の家が並ぶ一画

門で区画された一画に立派な外観の家屋が並んでいる。これはとても壮観である。お金持ちの邸宅がここに集まっているようだ。例のストーカー少年たちも門の中に入ってきたが,すぐに居住者から追い出された。そのおかげで静かな気持ちで写真に専念することができた。

英語のできる仕立て屋のおじさんにつかまって店のイスに座ることになった。おじさんは「チャーイはどうだい」と聞くので「いただきます」と答えた。おじさんは近所のチャーイ屋から使い捨てのプラスチック容器とビニールに入ったチャーイを持ってきた。これで3人がお茶を楽しめる。

インドではこのような形で何回かチャーイをごちそうになった。インドではよく睡眠薬強盗による被害が発生しており,他人から飲食物をもらうことはある意味危険である。しかし,僕の方からアクセスした場合は100%安全だと思いながらチャーイをいただく。

このおじさんたちは来月にハルドワールに行くという。「ガンガーの水を運んでくるんですか」と聞くと,「容器に入れて聖なる水を運んでくるんだ」という答えであった。ハルドワールくらい上流に行くとガンガーの水も聖なる水という感じになる。

ここは女子小学校?

学校があった。門が開いているので中に入ってみる。ちょうど日陰の塀のところに子どもたちが並んでいたので一枚撮ってみる。一枚が仕上がると後は注文がたくさんくるのでそれをさばくことになる。

昼時なので太陽はほぼ真上にあるが何ヶ所かいい日陰で写真を撮る。先生も笑顔で黙認してくれた。それにしても,生徒は女子ばかりである。とても私立の女子校とは思えない。午前中は女子,午後は男子と区分されている???,まさかねえ・・・。

果物の行商に来たガラシア族の女性

宿の東南側には旧市街のようなところが残されており,そこでは人々の生活をある範囲で見ることができる。特に女性が洗濯をしたり,食器を洗ったりしているところは僕の好き題材である。

ここでは色鮮やかなエプロンのような民族服を着たガラシア族の女性が小さな果物の行商に来ていた。ポシナには行くことができなかったが,何人かのガラシア族の女性の写真を撮れたので,いちおうパランプールにやってきた目的は達成された。

インド式ショッピング・センター

表通りにはインド式のショッピング・センターがあった。コの字型の建物の間にアーチ状の幌を張ったような構造をしている。4階までは一種の吹き抜けの建物になっている。さすがにこのビルに入っているテナントの物価は高そうだ。

スイカの山に囲まれて三人の男性が坐っていた

道路沿いにテントがありスイカ屋が営業していた。スイカの山に囲まれて三人の男性が坐っていた。よくもまあこれだけたくさんのスイカを集めたものだと感心するほどの量である。

2トントラック一台では運びきれないほどの量だ。スイカは食べごろになってからどのくらい日持ちするのであろうか。その間にこれらのスイカがちゃんと売れるのか心配になる。

近くで営業しているさとうきびジュース屋で氷もマサラも入らないジュースをいただく。暑くて乾燥している気候にはさとうきびジュースはよく合う。この一杯で元気を取り戻し,さあもう少し歩こうかという気になる。

従業員の少年に5Rpかいと声をかけると,7Rpと言った後,代金はいらないと手を振る。どうやら店の主人が代金はいいよと言ってくれたようだ。主人には感謝の言葉を告げ,少年の写真を撮ってお別れする。

兄弟姉妹は12人

一軒の家の前で人々がしめ縄のようにロープに木の葉を取り付ける作業をしていた。なにか神事に関係するものらしい。木の葉の茎の部分を細いよったロープの間に差し込むようにして飾りを作っている。年配の人が僕にイスを勧めてくれたのでしばらくおじゃますることにした。

その男性が「ワシらは10人兄弟なんだよ,兄弟はこの家とこことここに住んでいるんだ」と教えてくれた。姉妹を含めると12人というすごさである。「これがワシらの母親さ」と紹介してくれたので,イスに座ってもらい写真を撮る。

兄弟の最年長者は60歳,ちょうど僕と同じくらいの年齢である。男性の指示で女の子が水をもってきた。水は暑い季節のもてなしであり,無下に断ることはできない。大きな金属製の容器の1/3ほどを飲ませてもらった。幸い腹具合はとくに異常はない。

日陰の寝台で子どもたちを集める

晴天の昼下がりに人の顔を撮るのはとても難しい。光の当たっている部分と影の部分の明るさの差異がとても大きいからである。このため,僕はこのような状況下では日陰で写真を撮るようにしている。日陰であれば明暗の差異は相対的に小さくなり,写真は顔の部分が明るく仕上がる。

問題は昼下がりにはそのような日陰が少ないことである。木陰で子どもたちの写真を撮ったときには見事にまだら模様になってしまった。ようやく日陰の寝台を見つけそこにもう一度並んでもらった。


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