亜細亜の街角
タール砂漠の中央に位置するかっての隊商都市
Home 亜細亜の街角 | Jaisalmer / India / Mar 2010

ジャイサルメール  (参照地図を開く)

ジョードプルからは西へ287km,ジャイサルメールはタール砂漠の中央部に位置する町である。12世紀にラージプートのジャイサル王によりより造営された城塞都市である。町の中心には7haほどの台地状の丘があり,その上が城壁に囲まれた王宮となっている。町は東西1km,南北1.2kmの城壁に囲まれており,この内部が旧市街となっている。

ジャイサルメールとはジャイサルのオアシスを意味する。ここはインドと中央アジア,アラビア,エジプトなどを結ぶ東西貿易の中継点として重要な地歩を占めていた。

13世末にイスラム勢力との戦いにより王国は滅亡するが,その後も中継貿易の拠点として町は繁栄を続けた。現在の人口は8万人,近代化から見放された辺境の町となっており,そのためラージャスターンの城塞都市の街並みが今に残されている。

パランプール(07:45/250km)→バルメル(14:30) 移動

バススタンドで二回聞いてバルメル行きのバスに乗ることができた。座席は一列5人掛けであるが,座席の間隔は少し広いようだ。車体は相当の年数が経っており,座席だけは新調したようだ。まだ座席にはビニールが張られたままだ。料金は155Rp,距離は250kmほどなので45km/$の計算になる。砂漠地帯のため乗降する客が少ないので昼食休憩をとっても14:30にはバルメルに到着した。

バルメルはちょっとした新興都市であった。バススタンド少し手前に鉄道駅があり,ホテルは鉄道駅の周辺に集まっている。駅前の通りの両側に何軒かのホテルがあるが,ほとんど満室と断られた。とてもここには宿泊できそうもないとあきらめて,ジャイサルメールまでそのまま移動することにした。

バルメル(180km)→ジャイサルメール(20:20) 移動

バススタンドに戻りジャイサルメール行きのバスを探すと簡単に見つかった。乗り込んでみるとほとんど座席は残っていない。乗客と物売りが交錯して後部座席に到達できない。特に水売りの男性はひどくジャマをしてくれたので思わず押しやってしまった。

最後の一つの座席が見つかりなんとか座ることができたのは幸いであった。後部座席にはカラフルな衣装の女性たちがたくさん座っている。

町を過ぎるとすぐに砂漠の風景が始まる。といってもタクラマカンやウズベキスタンのような本格的な砂漠ではなく,樹木と植生の多い地域である。半砂漠地帯というような感じを受ける。ときどき放牧中のラクダに出会う。飼い主の姿は近くには見えない。この半砂漠地帯で生きていける家畜はそう多くはない。ところどころにヤギの群れが見られるくらいだ。

レーヌーカー

バスはプライベート・バススタンドと思われるところで停車した。ここで降りるべきだったが,判断に手間取り,僕が荷物を持って降りようとするとバスは動き出し,南側の公共バススタンドまで行ってしまった。ここはさびしい場所でオートリキシャーが2台しかおらず,予定していた宿のレーヌーカーまでは1kmほどなのに30Rpも払わされた。

ガイドブックの最初に載っていたのでここに泊まることになった。部屋は6畳,2ベッド,T/S付きで清潔である。床は大理石でできており,ファンも回転数が制御できるので居心地がよい。部屋代は300と言われ難色を示すと250に下がった。3日間の滞在予定なので50Rpのディスカウントは大きい。屋上レストランからはライトアップされた城塞を見ることができる。しかし,三脚無しに撮影するのは難しかった。

アマル・サガール門に面した広場

宿の前の道を南に3分ほど歩くとアマル・サガール門に面した広場に出る。ジャイサルメールの旧市街はおよそ1km四方の城壁に囲まれており,正確な方向ではないが東西南北に4つの門がある。現在は西門にあたるアマル・サガール門が正門となっている。

この門をくぐったところにプライベート・バススタンドがあり,昨夜はそこで下車しないで,南門のところにある公共バススタンドまで行ってしまった。門に面した広場の周辺の建物は細かいレリーフで飾られているものもあり,ハーヴェーリーのような壁面装飾はこの町の多くの建物に見られるようだ。

路地で牛とすれちがうことになった

旧市街の道は迷路のようになっており,やはり地元の人に聞かなければ最初のハーヴェーリーには到達できない。教えられた通り,細い路地に入ると牛と出会ってしまった。牛はヒンドゥー教徒にとっては聖なる動物とされており,街中を堂々と歩いていても咎める人は誰もいない。牛のほうも特別に危害を加えられない限り攻撃することはない。

しかし,相手は角をもった大きな動物であり,路地ですれちがうときはかなり緊張する。実はバルメルの町で宿を探していたとき,広い通りで大きな雄牛とすれちがった。十分に距離はあったと判断していたが牛の方は何か気に入らないことがあるったのか,僕に向ってうるさいというように首を振った。幸い前にはサブザックを抱えていたので,それで衝撃は吸収されたが,そうでなかったら角で突かれることになった。

ナトマル・キ・ハーヴェーリー

ナトマル・キ・ハヴェーリーは二人の兄弟が建物の左と右を別々に建てたとされている。別々にの意味合いは「財政的半分ずつをに受け持って」程度の意味であろう。確かに左右対称に見えるが細かく見るとバルコニーの形や装飾が異なっている。

それにしてもこれだけのバルコニーと装飾を石材で造り出したとは驚きである。恐ろしく稠密な細工である。200年前ということは機械はないのですべて手仕事で仕上げたものだ。この細工はジャイサルメールの専門職人が担当していた。彼らはイスラム教徒のため,インド独立時にパキスタン側に出て行ってしまった。もうこの地域では財政的にも技術的にもこのような装飾は不可能になっている。

パトウォン・キ・ハーヴェーリー

イスラム勢力の支配下でラージプートの貴族たちは競うように精緻なレリーフや透かし彫りに飾られた私邸を建てていた。それがハーヴェリーと呼ばれる建物である。ハーヴェリーは石造りで外壁に非常に精緻な装飾が施されている。もちろん,イスラム勢力の支配下にあるので人や動物などの具体的な造形は一切なく,ひたすら細かい細工で飾られている。

このハーヴェーリーはジャイサルメールでもっとも豪華とされている。狭い通りを挟んで向かい合う建物と両者をつなぐアーチに支えられた渡り廊下の上部をバルコニー装飾で飾っている。左右の建物はまったく異なっており渡り廊下は単に二つの建物を後からつないだような印象を受ける。左側の建物は4階まであるように見えるが,4階の窓の向こうに青空が見えるので,4階は壁構造だけのようだ。

石材を使用してこれだけ細かい細工を施している

左の建物の壁面がもっとも広くて豪華である。しかし,建物の1階部分が4m近くあるため装飾された壁面ははるか頭上にある。通りの幅は3mほどしかなく,二つの建物に挟まれている部分の撮影は難しい。

午前中の日差しを考えながらいくつかの角度から写真を撮る。ところどころに開けた空間があり。そこが写真のポイントである。この芸術作品のような建物の壁面を横切るように何本もの電線が渡されている。これはインドでは避けられないこととはいえ,なんとか迂回ルートを考えてもらいたい。

バルコニーと透かし彫りの組み合わせで外を眺められる

この建物の内部は土産物屋になっており入ることができる。中庭にはじゅうたんと布が敷かれ,そこは土足禁止のエリアになっている。壁面はかなり高いのでこの時間でも日が入らず涼しい空間となっている。このハーヴェーリーの主はヒンドゥー教徒だったかもしれない。しかし,建物の様式はイスラム風である。

イスラム建築の一つの特徴は中庭である。女性は家族以外の男性の視線にさらされないようにするため,中庭構造が考え出された。そこが生活の中心であり,女性たちは他の男性に見られることがないので,素顔で生活することができる。

一般的にこのようなムスリムの家屋の外側はそっけない壁と門だけであるが,ジャイサルメールの場合は,バルコニーと透かし彫りにより外を眺められるように工夫したようだ。

城砦まで歩いてみる

一般の家屋はレンガもしくは黄色がかった茶色の石造りであり,そのため町の中は薄い茶色の風景となる。ほとんどの道路は石畳であり,車がほとんどいないこともあり,歩くのにはいいところだ。途中でヨーロピアンの15人ほどの団体にすれちがった。

近代化から取り残されてしまったことがこの町の魅力となっているが,観光客が増えるとじきにインドの他の観光地と同様に古きよき雰囲気は失われることだろう。家の前には道路より1mほど高くなった石のたたきがあり,女性が洗濯をしている。スペースが限られているのでこのようなことになるのであろう。

城塞の入り口付近

城塞は台地状の地形を利用しており,下部は地形に合わせて石材で覆っていく方法がとられている。中段はそのような石材が崩れてしまったのかガレキになっている。上部は高さ数mの石造りの壁面となっている。防御のためなのか半円形のやぐらを平面の壁でつなぐような造りになっている。

さすがに城門の部分は下から上まで石造りとなっている。この城門に通じる広い道路の片側にはオートリキシャーが停められており,反対側には土産物屋が並んでいる。城門をくぐった先には自動車駐車場と土産物屋の組み合わせになる。

不思議な紋様

当たり前であるが城門をくぐってもすぐに城内に入れるわけではない。広い道はすぐに狭くなり右にカーブして上りとなる。これも防御のためであろう。次の城門の上には不思議な紋様があった。最初は二匹の蛇が向かい合っているのかと思ったら,上部でつながった二つの曲線模様であった。城内には多くの人たちが居住しているためか,一部の有料区域を除き自由に歩くことができる。

ヒンドゥー寺院にて

城砦の内部にヒンドゥー寺院があり,ここでしばらく時間を過ごした。何やらプージャが行われており,ときどき人々が唱和する聖句が鐘や太鼓の音と一緒に聞こえてくる。ここのご神体はよく分からなかった。とりあえず写真を撮ってみた。壁面には老夫婦とご神体が一緒になった写真があったので,おそらく老夫婦がこの寺院を寄進したのでは推測する。

何人かの子どもたちがおり,控えめに写真の要求がきた。こういう控えめさはインドでは久しく経験していない。ここにあるのはひたすらの自己主張である。自己主張はインド人のアイデンティティ(自己存在証明)なのだ。大きなインド菩提樹の木は若葉を付けていた。まだ瑞々しいので思わずアップで撮ってしまった。

街を一望できる展望台を見つけた

街を一望できる展望台を見つけた。ガイドブックに載っている展望台とほぼ同じ位置であろう。見渡す限りに家屋が密集している。歩いて分かったようにほとんど空間が残されていない。北側はずっと家が立ち並び,西側は割りと近くから半砂漠の風景が始まっている。

展望台に据え付けられている大砲

一段低くなったところには丸い石の玉が置かれていた。これはもしや,大砲で飛ばすための砲丸なのでは・・・。真偽のほどは分からないが,展望台に据え付けられている本物の大砲の口径よりはだいぶ大きいようだ。

旧市街の西門と東門を結ぶメインストリート

城砦を十分に見せてもらったので宿に戻ることにする。しかし,記憶を頼りに道をたどっていくとガディサール門に出てしまった。言ってみれば西門に行こうとして東門に出てしまったようなものだ。

ここまで来たのならかってのオアシスの水源であったガディサール湖を見ておくべきだった。しかし,そのときはそんな知恵は回らず,それなら城砦を時計回りに半周して戻ろうなどと考え付いた。このルートは分かりやすかったが,城砦の壁にあまりにも近過ぎてよい写真にはならない。何枚か写真を撮りながらようやくアマル・ナガール門に続く大きな通り出た。

サンセット・ビューポイント

食料を買い込んで,その足でサンセット・ビューポイントに向かう。およその方角で歩いても相手は小高い丘なので分かるだろう。その判断は正しかった。しかし,丘が見えてからアクセスするのはけっこう苦労した。

このあたりは私有地の囲い込みがひどく,50mX100mとか100mX150mといったような広い土地が石の塀で囲われており,そこを迂回して歩くことになった。結局,行きは丘の西側を走る幹線道路からアクセスすることになった。サンセット・ビューポイントに登りだすと城塞がよく見える。

丘の上は有料地帯となっていた

丘の斜面を登ってみると,北側の1/3を除いてその向こうは広い範囲を石垣で囲ってあった。つまり,サンセットのビューポイントの大半は広く囲い込まれている状態であった。

僕は何の意味か分からず,石積みの低い部分を乗り越えて中に入り,遺跡の方に歩いていくと自転車に乗った男性がやってきて,「ここは有料だ,入場料とカメラ持ち込み料を合わせて40Rpを払え」とのたまう。

これで囲いの意味がようやく分かった。この広大な土地を遺跡とビューポイントをかねて有料としているのだ。僕は「No」と支払いを拒否すると,「それなら,出て行け」ということになった。言われなくても遺跡の写真を撮ったら出て行きますよと日本語でつぶやきながらその場を後にする。

きれいな夕日にはならない

元の囲われていないところで夕日の時間帯を待つことにする。18時を過ぎるとヨーロピアンの観光客が増えてきた。みんな,囲いの内側にいる。40Rpをこのために払ったんですかとは言えず,会話はほとんどない。

砂漠のせいなのか太陽はほとんど赤くならず,西日に染まったジャイサルメール城という写真にはならない。日が傾くと太陽は輝きを失っていくだけである。夕日の写真も撮れそうもないのでさっさと丘を降りることにした。

直近の移動計画

基本計画に対して3日間進んでいるので,ジャイサルメールから南に50kmほど離れたクーリー村に行くことにする。宿は十分にたくさんあるようだ。問題はクーリー村からジョドプールまでバスを乗り継いで一日で行くことができるかどうかである。ジャイサルメールからジョドプールまでは6時間の行程なので,早朝のバスでジャイサルメールに戻ってくることができればこの計画は可能と判断した。

町を横断してガディサール門へ

城壁の内側の道は折れ曲がり,チョーク呼ばれる交差点ではどちらに進むべきか迷うところがある。そのため,地元の人に2回道を確認した。とはいうものの狭い町である,適当に東に歩けばガディサール門に着くはずだ。ようやく昨日,間違いに気が付いたガディサール門が見えてきた。左右に何もない門だけの存在である。

大きな通りを横切り東に進むとガディサール湖の入り口となる立派な門が現れる。その手前に低い荷車に乗ったおばあさんがいた。荷車には「盲目の彼女は誰からも助けてもらえない」と書かれた板が立てられている。英語の表現なので外国人観光客をターゲットにバクシーシをお願いしているようだ。ポケットの中には5Rpのコインがあったので荷車の上に置いてある缶の中に入れてあげた。

乾季のガディサール湖の水は少ない

立派な門をくぐるとその先にガディサール湖の水面がある。乾季なので水はずいぶん少なくなっている。次の雨が来る前に干上がってしまいそうな状態だ。湖に面して石段のガートのような建造物があるが,現在は水辺からかなり離れている。雨の季節になると水面は石段のところまで広がるようだが,見る範囲では川はないのでどこから水が来るのか疑問だ。

ヘラサギとセイタカシギが整列している

この一帯はゴミが落ちていない。インドの水辺としてはちょっと信じられないくらいだ。水源としての機能は失われても,水環境は保全されているようだ。ここは動物たちの水のみ場である,水鳥たちの憩いの場でもあるようだ。ピンクの非常に長い脚をもったセイタカシギ(セイタカシギ科・セイタカシギ属)に混じって大きなヘラサギ(トキ科・ヘラサギ属)が集まっている。

石段のところで200mmのレンズを交換し,足音を立てないように鳥の群れに近づき,なんとか水鳥の撮影に成功する。しかし,もう少しと近づくとセイタカシギは一斉に飛び立ってしまった。これが,限界距離のようだ。少し湖を回りこんで距離を確保しながら撮影する。

水牛にあっちへ行けと脅される

近くの木陰で水牛が休んでいた。水牛は警戒心の強いおとなしい動物なので僕もさほど注意を払わず近づいてしまった。岩の上でレンズを交換し,ふと気が付くと,群れの一頭が立ち上がり,僕の方に歩いて来た。鼻息をたてて脅かす。まるで,「ここはおれたちの縄張りだ,よそ者は出て行け」といわんばかりである。この水牛の剣幕に驚いてゆっくりと距離を取りながら歩いていく。相当遠くになっても,水牛はまだこちらを睨んでいた。

ナマズの大群に驚く

湖の周囲は土手のようになっており歩くことができる。現在は土手を石垣にする工事が行われており,これが完成するとかなり興ざめの風景となるだろう。この土手からはさえぎるものが少なくジャサルメール城砦がよく見える。

湖の岸辺でインド人観光客が魚に餌を与えていた。彼の周辺には大量の魚が群がっており,これは写真にする価値がある。魚は50cmを超える大きなナマズで,東南アジアならば即刻食料にされるものだ。インドでは魚を食べる習慣が少なく,この砂漠地帯ではイスラムの戒律もあり,このナマズは食用にはならないようだ。男性がチャパティをちぎって投げ入れると,ナマズは二重,三重に重なりあい,身をくねらせながら餌をとろうとする。これはかなり壮観なものだ。

小さな診療所

間口一間の建物の前に女性や子どもが集まっている。中を覗いてみると,イスに座った男性が診察をしており,必要な薬を記入している。ここは簡易診療所であり,患者はここの処方箋に基づいて薬を買う仕組みのようだ。患者の付き添いなのだろうか,集団の中にはカラフルな色使いの衣装の女性たちが多かった。

州政府観光局の砂丘ツアーかと思ったら…

15:30に指定されたバローデ銀行の前で待つと15:45頃に州政府観光局のおじさんがやってきて案内してくれた。おじさんは僕をアマール・サガール門の外にある「Prince Hotel」に連れて行った。州政府観光局のツアーかと思ったら,ホテルと同系列の旅行会社のツアーに入れられたようだ。

途中までは速度制限用に設けられた道路の段差が数ヶ所にあり,老運転手は時速50kmくらいで運転していたが,障害物がなくなると70kmくらいにスピードアップした。車は17:30頃に砂丘の駐車場の手前1kmあたりのところで停車した。ここには50頭ほどのラクダが客待ちをしている。

ラクダ引きの攻撃をかわして歩き出す

ここから観光客はラクダに乗って砂丘に向かう仕組みのようだ。ラクダに乗っては砂丘の写真は撮れないので僕は断って,運転手とともに砂丘近くの駐車場に向かう。同行者はラクダ,あるいはラクダの引く車に乗って砂丘に向かう。

1kmほど先に駐車場があり,そこにも大勢のラクダ引きが待ち構えている。彼らから乗れ,乗れと攻められて大変であった。エジプトのピラミッドのラクダ使いもしつこかったが,インドのラクダ使いは腕をつかんで離してくれない。それを振り切るのは大変だった。まあ,彼らにも生活がかかかっているのは分かるけれど…。

砂丘はやはり歩きづらい

砂丘の砂は少し赤みを帯びた茶褐色である。さすがに粒子は細かい。ここはカメラにとっては過酷な場所だ。低い所は普通の砂地のように歩けるが,斜面は足元が崩れるのでかなり歩きづらい。

砂丘は風が砂を運んでできる。風上側は緩やかな傾斜になっており,風下側は切れ落ちた構造になっている。ここでは西側が風上にあたり,東側の切れ落ちた斜面は影になっている。写真には適した配置であるが砂丘そのものが踏み荒らされており,雰囲気が出ない。

砂丘の風上側はある程度砂がしまっており,なんとか歩ける。そこにはラクダの足跡が点々と残されている。ラクダは足の裏が柔らかく,かつ広くなっているので,砂に足が沈まないようにして歩くことができる。足跡は縦長の楕円形の上部にへこみを入れたような形状をしている。

初めて風紋を見る

風は休み無く砂を動かし表面に独特の模様を作り出す。これは風紋と呼ばれる。風上側は一面に風紋が描かれており,その中で荒らされていない部分の写真を撮る。このような風紋をはっきり見たのはこれが初めてだ。

砂丘とは緩やかな砂の丘の連なりのイメージがある。しかし,砂丘の背後にいくつもの砂丘が続いているような場所は少ない。道路と平行に少し歩いてそのような場所を見つける。満足とはいえないがそれなりに雰囲気のある写真が撮れたように思う。

この砂漠には観光客が捨てたプラスチックのゴミが散乱している。ここまできてゴミのポイ捨てをするインド人には美観の保全という考えはまったく無いようだ。ゴミは自分の捨てたいところに捨てる,このインド的な考え方はプラスチック製品の出現により環境を劣化させることになる。

植物の残渣ならば,その辺の牛やヤギが始末してくれるが,プラスチックは人間が始末するしかないのだ。程度のよい砂丘が見えるところに坐っていたインド人は,ゴミが多いねと嘆いていた。確かに足跡やゴミの無い砂丘を探すのは大変だった。


パランプール   亜細亜の街角   クーリー