亜細亜の街角
パトラ織り,ヒンドゥー寺院,階段井戸と観光資源が多い
Home 亜細亜の街角 | Patan / India / Mar 2010

パタン  (参照地図を開く)

パタンは人口11万人,アフマダーバードから北西130qに位置する古い歴史をもつ町で,ダブルイカット(経緯絣)と呼ばれる精妙なパトラ織の工房,ラーニー・キヴァーヴ階段井戸,近郊のモデラーにあるスールヤ寺院など見どころは多い。ガイドブックにはまったく記載が無く,ネットで情報を集めて訪問することにした。

旧パタン(Anhilpur Patan)は745年にヒンドゥーのチャブダ王朝の時代に城塞都市として造営されたが,13世紀の初頭にイスラム勢力の攻撃により廃墟となる。

現在のパタンは1304年にデリー・スルタン王朝のグジャラート支配の拠点として旧パタンからほど近いところに造営された。14世末にデリー・スルタン王朝が滅亡するとパタンは一時期グジャラートを支配するスルタンの都となっている。

ビランガム(08:45/99km)→パタン(11:50) 移動

07時頃に開錠の音が聞こえたので部屋の外に出てチェックアウトする。昨日,パタン行きのバスの時間を確認しておいたら,05時以降に30分おきに出ているということだったので安心してバススタンドに行く。車掌の話ではパタン行きのバスは09時発だという。念のために窓口でメモに書いて確認すると08:45と記されて戻ってきた。

グジャラート州では携帯型のチケット印字マシンが普及しており,行き先を告げるとチケットを印字してくれる。料金は39Rpなので80kmくらいの移動かなと思っていたら,チケットには料金と一緒に距離が記載してあった。バススタンドに停車するといろいろな物売りがやってくる。いちおうボトル入りの水はもっているが,冷やした1Rpの袋入りの水についついひかれてしまった。

Hotel YUVRAJ

11:50にパタンのバススタンドに到着した。ここのバススタンドはかなり大きい。バススタンドの向かい側に薬屋があったのでインドのど飴を購入し,ついでに安いゲストハウスについてたずねると「YUVRAJ」を教えてくれた。確かにバススタンドを出て左側,交差点の向こうにある高い建物に「YUVRAJ」の名前が見える。

階段を登って3階の受付に到着する。事前に用意してあるコピーを見ながらパスポートの個人情報とビザ情報を記帳する。受付のフロアには真っ黒で大きな犬がいる。つながれているとはいえ,これはちょっと脅威だ。

宿のスタッフがいるときににおいいをかいでもらう。スタッフと一緒のところでにおいを覚えてもらうと不審者ではないと判断されるので近くを歩いても吠えられることはない。

受付のフロアにはインドらしい水彩画が飾ってあったので写真を撮らせてもらった。部屋は10畳,T/S付き,大きなWベッドでとても清潔である。200Rpの料金ではこれ以上は望めないほどのよい設備である。ファンも低速モードがありとても過ごしやすい。

天井の目立たない絵は蛍光塗料を使用したものであった。寝ようとして明かりを消すと見事な星空が浮かび上がってきた。ちょっと感動する。メガネをかけてしばらく星空を観察する。

宿から眺める風景

僕の泊まった宿は変則T字路の角にあるのでバルコニーからはバススタンド横の通りを眺めることができる。通りには3-4階建てのビルが並んでいる。道路は片側二車線ほどの幅をもっているが,露店と駐車している車両のため,かろうじて一車線が確保できている状態である。

白い服の集団

周辺の商店には白いドーティ(腰布),白いクルタ(長衣)を身に付け,頭には白い布を巻いた男性の集団がいる。まるでこれから巡礼に出かけるような服装である。

インドでは考えられないような事件も発生する。飲み物を求めて再訪すると,この店の周囲に人だかりができており,救急車がやってきた。一人のぐったりとした女性が救急車に乗せられていった。

近くの男性が僕に話しかけてきた。彼は頭上の電線を指差しながら,「私は医者だ,彼女はアフマダーバードの病院に搬送される,あの電線が切れて感電してしまったのだ」と説明してくれた。確かに一本の電線が切れて垂れ下がっていた。インドの電圧は200Vなので感電の影響は日本よりずっと大きい。

ちょっとおせっかいな男性

この食堂の前で英語のできるちょっとおせっかいな男性に会った。この男性は地域の観光情報に詳しい。モデラーのスールヤ寺院はここから30kmほど離れており,バスで行くことはできる。パトラ織りの工房ならオートリキシャーで10Rpだよといって地名を書いてくれた。それよりオートリキシャーの運転手に直接説明したほうが早いよと,彼は運転手に行き先を指示してくれた。

彼のメモには「Saharshfre Ling / Talav / Patola」と記載されていた。くだんの男性から料金は20Rpだよと伝えられた。彼にお礼を言ってお別れする。オートリキシャーはバススタンドから西に進む。途中で時計台のついた城門をくぐる。ここは町のランドマークの一つになる。

世界最高水準の染め織り技術

家長の男性が出迎えてくれ,工房に案内された。入り口近くに織りかけのサリーがあった。この織り機は織り手から見て右側が高くなっている。角度をつけることにより模様のチェックがしやすいのであろう。

染色された縦糸はすでに織機に取り付けられており,それに染色された横糸を通す。どちらの糸も模様に合わせて織り込む必要があり,大変な仕事である。

サリーの一部分がすでに織り上がっており,男性と息子さんは織りあがった部分の絵柄の微調整をしていた。特別な道具を使用して縦糸を少しずつ動かしている。

おじいさんの話では,縦糸は左右にぶれるのでそれを微調整して模様をくっきりさせる必要があるということだ。彼の言うように模様をくっきりと浮かび上がらせるためには高度な染色技術と織りの技術が要求される。

「パトラ織り」はグジャラート特産の染め織りであり,一般名称は「ダブル・イカット(経緯絣)」と呼ばれている。この染織は見たいものの一つであった。

日本でもなじみの深い絣は縦糸だけを染色するものである。それでも絣模様をきれいに出すには染と織りに熟練した技能が必要である。パタンはその代表的な生産地であるが,それでもこの伝統の染め織りの技術を継承しているのはもう3家族しか残されていないという。

材料は中国産の生糸で8本をより合わせて本糸にする。染めるときはすべて糸結び法を使用している。束になった白い糸を模様に合わせて木綿糸できつく括くってから染色する。

こうすると,括った部分には色がつかず,括っていない部分は染色される。この模様に合わせ糸でくくる工程も高度の技術が必要であり,一人前になるには8-10年ほどかかるという。

家屋に囲まれた広場は牛に占拠されている

グジャラートの布

インドとパキスタンにまたがるタール砂漠およびその周辺には多くの少数民族が居住しており,独特の民族衣装やパッチワーク,ミラーワークのような飾り布を見ることができる。このようなきれいな布は砂漠の南に位置するグジャラートでも見ることができる。しかし,情報があまりにも少ない。

ガイドブックには州都のアフマダバードとその南西部に点在するインダス文明の遺跡だけが紹介されており,少数民族やその文化についてはまったく触れられていない。確かにそのようなところにアクセスするのは個人旅行では困難なので,記載しないという理由もよく理解できる。

城門の近くで見かけたのは工業製品の布であり,おそらくプリントであろうが,とてもきれいなものだったので写真に残すことにした。パタンではこのように華やかな服装の女性が普通に見られる。

黒いスカーフの女性たち

グジャラートには特徴のある服装の女性が多い。向こうからちょっと地味な服装の女性集団がやってきた。砂漠やその周辺の少数民族は一般的に鮮やかな色彩の服装が多いので,この集団はちょっと特異に見えた。

特におそろいの黒いスカーフには何か民族のアイデンティティのようなものがあるのかもしれない。スカーフを太陽光を遮断するためのものと考えれば,ある種の合理性もあるが・・・・。

自転車に乗る女子生徒

新興住宅地の集まる地域では自転車で通学する女子生徒が何人も通りかかった。彼女たちの服装がおもしろいのでしばらく写真を撮るために通りで待っていた。しかし,待ち始めると通りかからないものである。ようやく来てくれてもフレームが間に合わないこともありけっこう苦労した。

彼女たちは細身のズボンの上にスカートを着用している。この年齢の女子学生にとっては肌を露出することは社会的な禁忌(ちょっと言葉が大げさかな)になっており,その結果がズボン+スカートの服装になっているようだ。日本でも最近では薄手のパンツやハーフパンツとスカートの組み合わせは珍しくない。インドではそのような組み合わせはずいぶん前から定着している。

バススタンドのにぎわい

バススタンドの周辺にはまともな朝食を出すところはない。小麦粉を練って野菜などを混ぜて油で揚げたもの。これは,ひどくまずい。チャーイでようやく流し込むような代物だ。しかし,これしか食べ物がないのだ。

今日はパタンから30kmほど離れたモデラーという村にあるスールヤ寺院を見学する計画である。比較的涼しい早朝に移動しようとする人々が多いので,インドのバススタンドは04時頃から動き出す。

バススタンドにはコンクリートのベンチがたくさんあり,女性の集まっている席は鮮やかな色彩に溢れている。モデラーという地名とスールヤ寺院というメモを車掌の制服を着た男性に見せるとバスを教えてくれた。車内で車掌にメモを見せると17Rpのチケットをくれた。それにはPATAN→MODHERA ,距離は33kmとなっていた。

大きな牛の群れ

バスから下車すると,三叉路の右側に大きな牛の群れが見えた。まず,こちらから写真にしようと空き地の方に下りていく。道の片側は家畜の糞が混じったワラがたくさん捨てられている。家の敷地内で家畜を飼っている人たちがこの場所に捨てに来るようだ。

幹線道路で写真を撮った牛車もこの道をゆっくり進んでいく。10歳くらいの少年が頭上のタライのような容器にワラを入れてやってきて,中身を空けていった。

羊とヤギの群れがやってきて大混雑となる

その先の空き地に見えたところは9割方干上がった貯水池であった。牛の群れはこれから移動するところのようだ。すでに別の集団は動き出している。これだけの数の牛に毎日草を食べさせるのは大変なことだろう。頭に白い布を巻き,上下とも白服のおじさんが牛を追っていく。この集団と残った集団の写真を撮る。そこに,羊とヤギの群れがやってきて大混雑となる。

記念写真を依頼される

牛飼いのおじさんの一人が僕に何かを話しかける。僕には彼のグジャラート語が分かるわけもなく,ちょっと困ったことになる。そこに,彼のお母さんと思われる人がやってきた。彼の要求は父母の写真を撮ってくれということだった。それならばお安い御用である。二人の写真を撮り,画像を見せてあげると感心しつつ喜んでいた。

町を歩いているとひっきりなしに写真の要求がくるので,その大半は無視せざるを得ない。でも,このようなつつましい要求にはできるだけ応えてあげたいものだ。

この辺りの農地は徹底的に囲われている

この辺りの農地は徹底的に囲われている。使用されているのは鋭いトゲをもった潅木の枯れ枝である。このトゲはとても鋭く,靴底を貫通するほどのものである。旅行中に二回ほどイタッという経験をした。人でも動物でもこの潅木の囲いには近づかない。

どうしてインドではこのように所有地を厳重に囲う習慣があるかということについて疑問に思っていた。まるで,「ここは私の所有地だ」と宣言しておかないと他の人に横取りされるというような感じである。そのため,農村地帯でも日本とずいぶん変わった風景となる。

モデラーのスールヤ寺院

道路に戻ると「Sun Temple」と表示された看板が出ている。観光客にとってはありがたい表示ではあるが,「Sun Temple」ではどうもピンとこない。世界遺産に登録されているコナーラクのスールヤ寺院を太陽寺院と呼ぶ人はいないだろう。スールヤは太陽を神格化したものであって太陽そのものではない。

入り口の看板には「インド人の入場料は5Rp,その他は100Rp,ガイドは1-5人で150Rp…」と書かれていた。インド人と外国人の格差は実に20倍,これをしょうがないと思うようになったのは年齢によるものなのかもしれない。

5年前だったら憤慨して入らなかったかもしれない。地元の人と外国人の料金格差だけに目を向けるのではなく,料金そのものが自分にとってそれだけの価値があるかどうかが判断の基準になりつつある。

モデラーのスールヤ寺院は11世紀に建造された。世界遺産のコナーラクのスールヤ寺院よりも200年ほど後のものである。正面は東を向いており,二本の門柱とそれに続く前殿とその背後の本殿からなっている。

前殿と本殿はほぼ同じような造りで,建物としては完全に分かれている。春分の日と秋分の日には日の出の太陽がスーリヤ神が祀られる本殿の最奥部に差し込む構造となっている。

寺院の周辺は整備された公園になっている。参道のような道を歩いていくと,寺院の手前に大きな貯水池がある。15mほどの深さの池の水面に向かって四方から階段が続いている。南北に長い池の西面の階段はスールヤ寺院の入り口の門柱に続いている。この階段池は午後に訪れたラーニー・キヴァーヴの階段井戸の構造とどこか類似している。

階段状の貯水池の周辺にも小塔や彫刻が多い

階段池の中段から上には多くの彫像や小さな祠堂があり,単に沐浴のための施設ではなく,祈りの場を兼ねていたようだ。使用されている石材は柔らかい赤砂岩のようだ。遠景からはちゃんとした彫像に見えても,近くから見ると相当風化が進んでおり,顔の表情は失われている。

階段池で使用されている石材は何種類かの標準化された大きさの石材であり,レンガを積み上げたようにも見える。これらの石材は漆くいのような接合剤を使用しないで単純に積み上げていく空積みのようだ。

おそらく池の斜面の部分は下から石材を積み上げたのではなく,地面を掘り下げ,土の斜面を整形してその上に石材を積んでいったのであろう。たくさんの小塔や彫像のおかげでこの階段池だけでもけっこう見ごたえがある。

一対の門柱は精緻なレリーフで装飾されている

階段池の西面を上ると階段はそのまま一対の門柱に続いている。この門柱にはすばらしく精緻な彫像やレリーフが施されている。高さは5mほどで下にいくほど太くなっている。この門柱は前殿を支える多数の石柱とほぼ同じ高さであり,同じ装飾が施されている。

それにしてもこの一本の柱を刻むためにどれだけの時間と技術が費やされたかを考えると,見る方も仇やおろそかにできない気持ちになる。もっとも,あまり熱心すぎる状態で見ていると,疲れてしまうので,やはり適当がいいね。

この寺院は前殿と本殿から構成されいる

この寺院は前殿と本殿から構成されており,両者は空間により隔てられている。どちらの建造物も基壇部分をもっているが,前殿から本殿に移動するときは数歩とはいえ,地面の上を歩かなければならない。

この分離構造はヒンドゥー寺院としては珍しい。どちらも赤砂岩でできており,感じは似ている。前殿は多数の石柱が見どころであり,本殿は内部ではなく外壁の装飾が見どころである。しかし,材質が柔らかい砂岩のため風化が進んでおり,装飾の細かい部分はかなり失われている。

本殿入口の両側は精緻な彫像とレリーフで飾られている

前殿は東西南北の四方に出入り口をもっている。上面図は正方形ではなく,東西南北の間を3つの角をもつように切り欠いてある。このような構造はヒンドゥー寺院ではよく見られ,本殿東面の両側も同じような構造をもっている。

前殿は基本的に石柱で屋根を支えるだけの構造であり,壁面をもたない。ただし,この切り欠きの腰の部分に高さ1.5mほどの飾り壁をもっている。この壁は建物の力学的構造にはまったく寄与しておらず,単に外側の装飾のために設けられている。

内部の24本の柱も精緻なレリーフが刻まれている

前殿の内部には24本(3本X2列X4面)の柱があり,それらはすべて精緻なレリーフで飾られている。それらはラーマヤナやマハーバーラタの場面だとされているが,風化がひどいので確認する術はない(はっきり見えてもやはり分からないかな)。

内側の8本の柱は円形のドームを支えている。この時期のインドにはアーチ式のドームを造る技術はなかったのか,ドームは持ち送りという上の石材を少しずつ内側に出していくという方法がとられている。その代わり,ドームの内側には円周上に凝った装飾が施されている。

儀礼の準備が行われている

レストハウスの近くでは小銃をもち盛装の10数人の警官もしくは軍人が整列している。隊長の号令により長靴のかかとを鳴らしながら隊列を変えていく。これは儀礼のリハーサルのようだ。近くの副隊長のような立場の人に聞くと州の首相がここにやってくるのでその出迎えの準備を進めているとのことであった。

インドは州を単位とした連邦政府であり,州の権限は米国と同じくらいに強いようだ。州の首相は大きな権力をもつので,このような出迎えの準備ということになるようだ。僕が公園から出ようとするとき,10台ほどの車列を連ねて首相が到着した。当然,写真を撮ることなどはできない。

貯水池は干上がりつつある

公園を出て周辺を歩いてみた。強い陽射しを避けるため人も水牛も日陰で暑さをやり過ごしている。日陰のないところにつながれた水牛はずいぶん気の毒に見える。

道路にはほとんど人影はない。子どもづれの女性がかん木の枝をたくさん入れた金属製の容器を頭上に乗せてやってくる。インドの村では燃料の大半はバイオマスでまかなわれている。かん木の枝,牛や水牛のフンを乾燥させたものなどだ。

スールヤ寺院の前に大きな牛の群れを見たところの先は大きな貯水池となっていた。乾季の今はほとんど干上がった状態であり,ほんの一部に水が残されている。この貯水池は広さが1haはあり,周囲を土手で囲って雨水を貯めるようにしている。残り少ない水辺には20羽ほどの水鳥とたくさんのカエルが生活している。

ラーニー・キヴァーヴに移動

午後はラーニー・キヴァーヴにある階段井戸を見に行った。バススタンドの近くでオートリキシャーの運転手と値段の交渉を始める。距離は約3kmなので適正価格はは15-20Rpである。しかし,どの運転手も50Rpだと言い張る。ようやく25Rpで行くという運転手を見つけた。オートリキシャーはバススタンドから東の方向に走り出した。途中で城壁の一部が見えた。道路周辺の農地は様々な方法で囲われている。

ラーニー・キヴァーヴの階段井戸公園の入場料はインド人が5Rp,外国人は100Rpである。午前中のスールヤ寺院と同じである。入り口でチケットを買い,中に入ろうとすると,先生に引率された中学生くらいの子どもたちが見学から戻ってきた。子どもたちに並んでもらい集合写真を撮る。子どもたちはとても礼儀正しくちゃんと整列してくれた。

不思議な建造物

ラーニー・キヴァーヴの階段井戸は不思議な建造物であった。上部から階段で一層ずつ降りていく構造であり,階段の上部は北,井戸は南側に位置している。それにより井戸の底では太陽光が井戸の壁に遮られ,涼しい環境を作ることができる。さらに,地中の温度は外気温に対してずっと低いので,何層かの天井を造ると井戸の底には冷気が溜まる。

アフマダバードの階段井戸はそのような天井をもった層構造と,明り取りの比較的小さな竪穴からできていた。ここの井戸は偶数層のテラス部分に二層あるいは四層分の天井構造を設け,その他の部分(階段部分と奇数層のテラス部分)は吹き抜け構造になっている。この構造のおかげで複数層の壁面を飾る彫像を一度に見ることができる。また,吹き抜けのため光が入るので写真にはとてもありがたい。

第三層の彫像,保存状態が良くなる

階段を降りていくと各層の左右の壁面には神々の彫像が並んでいる。天井があると各層の内部空間はかなり暗くなるが,天井が無いことは写真を撮るのに好都合である。午後の陽射しのため光の当たる面と当たらない面では写真写りが相当異なる。光の当たる面の彫像は陰影がついて立体的になるので,こちらの方が好ましい。

写真で左右の彫像を比較するとまったく同じポーズなので,彫像は鏡対称になっている。使用されている石材はスールヤ寺院と同じ赤砂岩であり,上層の彫像の細かい部分は風化で失われている。程度のよい彫像の表面には漆くいと思われる層があり,この彫像は漆くいで覆われていたようだ。この漆くいが保護膜となり彫像は風化から守られたようだ。

第三層まで下りてくると第一層から第三層までが吹き抜けの状態となっている。各層にはだいたい等間隔で神々の彫像が並んでおり,圧巻である。しかも下層のものほど保存状態はよいのでうれしい限りだ。第三層の女神像は往時の艶かしい体の線がそのまま残されている。

第四層と第六層のテラスには柱で支えられた天井構造が残されている。第四層のものは三層分の天井があるがアクセスするためには一つ上の層のテラスに続く狭い連絡通路を通らなければならない。この通路は進入禁止となっている。

第三層のテラスから第四層の天井構造を望む

第三層のテラスから見ると第一層の彫像の一部は欠けており,その上部の石組みは質感が異なっている。上部は崩れたものを修復したようだ。第四層のテラスから先は進入禁止となっていた。つまり階段井戸の最下層(第七層),およびその奥にある丸井戸(おそらく本物の井戸はこれであろう)までの壁面は第六層から立ち上がる天井の背後となリ,見ることができない。

これはちょっと残念であるが,安全対策のためには仕方がないことだ。第四層のテラスからの最奥部の写真を撮ってがまんするしかない。第六層の天井構造の向こう側は最下層から立ち上がる壁になっており,中央部は彫像などの装飾がなく,窓があるだけである。周辺の壁面とまったく異なったこの壁面は,修復されたものなのであろう。

井戸自体も層構造をもっている

施設の上部は平らな石が敷いてあり,周回歩道になっている。手すりの付いた柵の向こう側は垂直の壁となっており,近くによると足がすくむ。落ちたら命にかかわることになる。予想した通り井戸の本体は最も北側にあり,階段井戸の最下層である第七層はその手前にあるようだ。

つまり,階段井戸の最下層には水はなく,その壁の向こう側に本物の井戸があるという構造になっている。井戸は円形で垂直に掘られており,南側は第七層から立ち上がる壁になっているため完全な円ではない。井戸自体も層構造をもっており,階段井戸の壁面と同じように神々の彫像により飾られている。

田舎の風景であったが写真は少ない

階段井戸公園の外は両側が並木になった田舎道が続いている。周辺は畑になっており,乾季でも青々とした風景が続いている。パタンの町の方に歩き出すと三叉路があり,ここで道を間違えてしまったようだ。

帰り道をまちがえる

街並みが出てきても見覚えがない。道路をゆったりと歩く水牛の写真を撮りながら先に進む。バススタンドから東に進んで階段井戸に向ったはずなのに,いつのまにか西側にある時計台付きの城門のところに出てしまった。やれやれ,もう少し歩かなければならない。


ビランガム   亜細亜の街角   パランプール