亜細亜の街角
古い教会が残されている静かな田舎町
Home 亜細亜の街角 | Laoag / Philippines / Mar 2009

ラワグ(ラオアグ)  (地域地図を開く)

ルソン島の最北部に位置し,南シナ海に面した北イコロス州は面積3504km2,人口55万人の小さな州である。日本でいうと鳥取県ほどの大きさである。州都ラワグ(Laoag)の人口は約10万人,スペイン統治時代の古い教会が数多く残されている静かな田舎町である。

北イコロス州はマルコス元大統領の出身地として知られている。彼の生地バタック(Batac)はラワグの南東に位置する町であり,現在はマルコスの冷蔵遺体が納められた霊廟と博物館がある。

ラワグの南,バタックの西にあるパオヤイ(Paoay)という町には世界遺産のサン・オウガスチン教会がある。また,ラワグの北にあるバンギ(Bangui)には風力発電用の風車群がある。北イロコス全体の風力発電設備は25Mw(原子力発電所1基は100万kw程度)になるという。

スペイン人がやって来る以前,ルソン島の北西部は金の産地であったため,多くのコミュニティがあり,中国人や日本人の商人が交易のため訪れている。

1571年にレガスピがマニラをスペイン植民地とし,その翌年には彼の孫のサルセドがマニラから北に向かって航海を進めている。サルセドはこの地域を武力で制圧し,祖父のレガスピからイコロスの統治権を譲り受けた。先住民の反乱は散発的にあったものの,地域は急速にスペイン化されていった。

バギオ→ラワグ 移動

昨夜も寒さのため冬服を着込んで寝ることになった。夕方の少し前に停電となリ,明かりのないYMCAのドミトリーに一人で過ごすことになるかと心配したが,幸い暗くなった頃には回復し,廊下の明かりを点けて過ごすことができた。

荷物をまとめてチェックアウトする。入り口の警備員は24時間体制で詰めており,カギは彼に預ける。フィリピンでは銀行や大規模商業施設は言うに及ばず,ほとんどの施設が警備員を配置している。それは,施設の信用に直結しており,彼らの常駐している施設には安心して入ることができる。

バギオから西海岸に出て北に向かうバス路線がもっとも充実しているのがパスタス・トランコである。ラワグまでの直行便があり,料金は410ペソである。距離はおよそ270kmなので,30km/$ほどに相当する。アジアのバスの中では少し高い部類に入る。06時発のバスは比較的新しく乗り心地はよい。外は十分に涼しいのにエアコンが入っておりとても寒い。1時間ほどで山を下るのでそれまでの辛抱ということになる。しかし,平地に下りてもまだ寒い。トイレ休憩の間に外で体を暖める。この時点では太陽の光はぬくもりを与えてくれる恵みであった。

07:45にサンフェルナンドを過ぎると,ときどききれいな海岸線が現れる。海が入り江のように内陸に入り込んでいるところでは養殖が行われているようだ。水はきれいで風景はなかなかのものだ。残念ながらバスの窓は泥はねの汚れが付いており,写真にはならない。

09:40にカンドンを通過する。この町には立派な教会がある。11:40にビガンに到着する。ここから先はタバコ畑がかなりの面積を占めており,絵になる風景となっている。大きな川(ビガン川)を渡るとすぐに聖ウイリアム大聖堂が右に見える。バスはそのまま直進し,T字路になった州庁舎の前で左折し,500mほど行ったところにあるパルタス・バスターミナルに到着した。

テキシカノ・ホテル

バスターミナルの周辺にはトライシクルのおじさんがたくさん客待ちをしている。1kmほど離れたカーサ・リアネ・インまでいくらとたずねると控えめに20ペソという答えが返ってきた。この町では10ペソでしょうと続けると特に反論はなかった。

トライシクルはきちんと区画整理された道を走り,目指す宿の前に到着する。荷物があるので15ペソで手を打つことにしよう。運転手のおじさんはにこにこしながら料金を受け取った。

この宿にチェックインしようとしてひと悶着があった。宿は家族経営でおばあさんが仕切っているようだ。料金を聞くとおばあさんは1000ペソだという。

「ガイドブックでは200ペソになっていますよ」と当該ページを見せると,おばあさんは紙に「220X24=5280」と書き,これを1000にしてあげるんだよと説明する。 これ以上の問答はムダだと思い,再びトライシクル(10ペソ)でテキシカノ・ホテルに移動する。

二階の250ペソの部屋はニ方向に窓があり,板張りの床もいい感じだ。部屋の広さは4.5畳,1ベッド,清潔,机もあったのでとてもコスト・パフォーマンスのよい宿であった。

部屋の外は共通の広いスペースになっており,テラスからは庭を見下ろすことができる。庭の向こうは州庁舎前のホセ・リサール通りである。共同のトイレとシャワーは部屋を出てすぐ近くにある。

シャワールームで服を脱いだり着たりするのが面倒なので,ちょっとエチケット違反ではあるが,腰にバスタオルを巻いた姿でシャワールームに出入りしていた。一日に数回は水浴びをするので,このスタイルはとても楽であった。

夕方になると気温は下がり,扇風機を弱にして微風の中でよく眠ることができた。唯一の難点は道路を走るバイクや車の音である。周囲が静かになるとエンジン音がずいぶんうるさく感じる。宿は幹線道路に面しているためこの騒音は深夜まで続いた。

フィリピン名物の名物のジープニーは近郊の町との間をつないでいるものの,街中は走っていない。騒音の大部分はトライシクル,そして時おり通る大型トラックによるものであろう。

足慣らしで町を歩く

宿で水浴びをし,一休みしてから行動を開始する。そろそろ15時近い時刻だ。ラワグは小さな町で中心部は1kmX500mほどの範囲に納まってしまう。

宿からリサール通りを東に向かい,州庁舎の前で南に折れ,ベルタワーと聖ウイリアム大聖堂の間のカストロ通りで東にもう一度折れるとマーケットに出る。これがおよそ1km強の散策コースとなる。

宿から歩き出すと南側の通りにジープニー乗り場があり,銀色の車体のジープニーが並んでいる。一般的にフィリッピンのジープニーは派手な塗装のものが多いのだが,この町のものはメッキを施された鉄板あるいはステンレスの地肌のままである。

側面にはある種の模様が描かれているが,それも全面というわけではない。フィリピンらしくないきれいな町にジープニーまでもが合わせているようだ。

ジープニーの始まりは,第二次世界大戦後に米軍から払い下げられたジープを改造して製作されたものである。それはボンネットスタイルというクラシックなスタイルである。

時代が進み,主に日本製の2-4トントラックのエンジンおよびシャーシを利用して製造されるようになっても基本的な形状は踏襲されている。ジープニーの後部はベンチ型の座席が二列に並び,収容乗客数は16人程度である。

中には座席の間に木製の小さなベンチを置いて乗客数を増やす工夫をしているものもある。街中での基本料金(4km未満)は8-10ペソ程度である。座席の外側にステップがあり,座席が混み合うとここに立つ乗客も多い。

通常,料金は運転手に手渡す。入り口付近の乗客はとても運転席までは手が届かないので,料金を近くの乗客に手渡すと,運転手までリレーされていく。おつりも同じルートで戻ってくる。ときには,車掌に相当する少年がステップに立ち,料金を集める場合もある。

ジープニーは今ではバスが通らない僻地の重要な交通手段となっている。また,バス路線があるところでも,どこでも止まってくれるジープニーが庶民の足として活躍している。

通りの両側は商店街になっており,高さはだいたい2-3階で揃っている。これも町がきれいに見える一因である。もちろん,通りには驚くほどゴミが少ない。フィリピンの町でも環境美化は可能だということを実感させられた。

州庁舎は街の中心となっている。白い二階建てのコロニアル風の建物で,天気が良かったこともあり,青空を背景に美しいたたずまいを見せている。両側にあるヤシの木も南国の建物らしさを演出している。

オーロラ・パーク|水の出ていない噴水

町の中心部,州庁舎の南側にある小さな公園はガイドブックには名前も記されていない。実際,公園を歩いてみてもこれといった面白いものは見つからない。

オーロラ・パーク|目的不明の細身の塔

聖ウイリアム大聖堂の結婚式

橋の手前には聖ウイリアム大聖堂がある。もともとは1ブロックがすべてこの聖堂の敷地だったようだが,北西部の一部と北側のカストロ通りに面したところは商業区域となっている。

聖ウイリアム大聖堂の建物は切妻屋根の長方形のもので初期の教会建築によくみられる様式である。起源はギリシャのバシリカと呼ばれる会堂である。ヨーロッパにも同じような様式の聖堂はあるが一般的に高さがある。

一般的にバシリカ様式の教会は西に入り口があり,東の奥に聖壇や聖障があることが多い。この聖堂はフィリピンに多い地震を考慮したためか横幅に比して高さは低い。

この聖堂はそれ以前の木造の教会に代わって1612年に建造されたという。ルネサンス様式ということで,漆くいの壁面と薄いクリーム色の円柱に飾られファザードはちょっと個性的だ。西に面しているので午後の陽射しにきれいに輝いている。周辺は駐車場になっており,これはちょっとジャマだ。

聖堂では結婚式が行われており,入り口から聖壇まで赤いじゅうたんと花飾りが続いている。バシリカ様式の教会は最奥部に後陣と呼ばれる半球状のドーム構造をもつことが多い。

この聖堂もそのような構造になっていた。奥の壁面がアーチ状に開口されており,その背後に後陣がある。東方教会の場合は開口部が扉もしくはカーテンなどで仕切られており,内部は覗けないようになっている。そこは至聖所であり,聖職者以外は立ち入ることは許されない。

聖壇ではイスに坐った新郎新婦が神父から説教を受けていた。参列者は30人ほどとちょっと寂しい。それでも写真とビデオの撮影が行われており,僕も堂々と写真を撮ることができた。

参列者が聖壇に集まり,結婚の誓いが行われる。カソリックにおいては結婚は神聖なものであり,「死が二人を分かつまで」という表現は現在にまでそのままの意味で生き続けている。結婚の誓いが終わると参列者は神父から聖体拝領の儀式を受ける。

このあとは参列者を交えての撮影会となる。女性の参列者はドレス姿,男性はバロン・タガログというシャツが正装である。この薄手のシャツはフィリピンではどのような公式の場でも正装として認められている。

絹のような光沢をもった繊維なので材料をいろいろ調べてみたら,最高級品のピニャ(ピ−ニャ)は繊維採取を目的としたパイナップルの葉脈繊維をから作られた布であることが分かった。

ほぼ白色に見えるピニャはいくつかの工程を経た繊維の生の色だという。繊維がとても繊細なピニャはとても大量生産に向いているとは考えられない。日本の芭蕉布,東南アジアの蓮糸なども同様である。

フィリピンでも一時期,生産者不足から入手が困難になったという。現在は切れやすい経糸を絹糸とした「絹ピニャ」など多くの工夫により,著名人だけではなく庶民の正装として利用されている。

聖ウイリアム大聖堂の正面祭壇

右側祭壇は聖母マリア像となっている

正面祭壇はキリスト像となっている

左側祭壇はキリスト像となっている

高校生のグループ

聖堂の外に出るとベンチに高校生のグループが坐っていたので一枚撮らせてもらう。フィリピンの高校は4年制で,日本でいうと中学2,3年プラス高校1,2年に相当する。制服のデザインは地域により異なるが,おおむね白いブラウス,膝下のスカート,スカートと同色のネクタイの組み合わせである。

Pan-Philippines Highway の起点

聖ウイリアム大聖堂の西側の道路の先はラワグ川(googlemap ではパドサン川となっている)の橋に続いている。この橋は周辺で唯一の橋であり,ラワグに来る時,バスが通った道だ。

多くの島々から構成されるフィリピンには「Pan-Philippines Highway」がある。フィリピンではハイウェイは幹線国道のことであり,いわゆる高速道路はエキスプレス・ウェイと呼ばれている。

この「Pan-Philippines Highway」の北の起点がラワグであり,ルソン島の中央部を縦断し,マニラからルソン東南部の地峡部を抜け,サマール島,レイテ島を経由してスリガオからミンダナオ島に入り,ダバオを経由してサンボアンガに至る。

今回の旅行ではこの道路をすべて走破しようとも考えていたが,見るべき町と日程の関係でルソン島北部とミンダナオ島の一部は回ることができなかった。

ルソン島北部でいうと,ラワグから北部海岸を経由してバナウェと結ばれているバガバックまでの間はほとんど見るべきものがないのでとても大回りをしてバスに揺られる気にはならなかった。しかし,今にして思うと,少し残念な気持ちにもなる。

ラワグ川にかかる橋が「Pan-Philippines Highway」の起点だと思うとちょっと感慨深い。鉄道の(ほとんど)無いフィリピンでは道路が最大の輸送手段であり,旅客輸送の約9割,貨物輸送の約5割を担っている。

道路網の基幹となる幹線国道及び2級国道の総延長は約3万km(幹線国道が1.8万km,2級国道が1.3万km)であり,舗装率は62%である。地方に行くと,国道でさえ1/3が未舗装の状態である。ちなみに,フィリピンの道路総延長は約20万km(日本は115万km)であり,舗装率は21%となっている。

橋は市内の道路からかなり高いところにあり,道路を上っていくと聖ウイリアム大聖堂の西側の一画が下に見える。さすがに鐘楼は他の建物の2倍ほどの高さをもっている。写真では(遠近の関係で)マックの看板がそれと比肩しうる高さに見える。

橋の上から見るラワグ川は乾季のため水量は少なく,流れもずいぶんゆっくりしている。まあ,流れがゆっくりしているのは河口に近いせいもある。

上流の方に小さな岩山があり,そこには「LOOAG」と記された巨大な文字看板が取り付けられている。ラワグの町は川の対岸にも広がっているので橋を渡ってみたが,特に写真にするようなものは見つからなかった。

タバコ畑に思う

ラワグ川を越えてしばらくするとタバコ畑が広がっている。ここのタバコはけっこう盛大に花を咲かせている。日本では葉の成熟を助けるため開花直後に花芽やわき芽を摘み取る。こころなしか葉も小さいような気がする。タバコはナス科・タバコ属の一年草であり,50種ほどが知られているが,タバコ生産のため栽培されているのはほとんどNicotiana tabacum である。それにしてもタバコ属の学名がニコチンというのは非常に分かりやすい。

日本ではタバコは重要な税源(国税,地方税を合わせて約2兆円)となっている。たばこ事業法により製造は日本たばこ産業 (JT) のみが行っており,JTと契約した農家だけが原料用として栽培することができる。農家が売り渡す葉タバコの全量購入をJTに義務づけている。

タバコの語源はスペイン語である。タバコが15世紀に新大陸からもたらされる以前からスペインでは薬草類をアラビア語由来のタバコと呼んでいた。「たばこミニ博物館」にタバコと人類の最初の関わりついて興味深い記事が掲載されていた。

南北アメリカ大陸に定着したインディオは,たびたび火山の爆発や落雷などが原因で起こる山火事にみまわれた。山火事が鎮火したあと、焼け残ったある種の葉っぱが芳香を放ち,煙を吸い込むと快い刺激を与えてくれることを知った。この葉っぱこそが「たばこ」であった。

新大陸に進出したヨーロッパ人は南北アメリカの先住民が喫う,嗅ぐ,噛むなどの方法でタバコを愛好していることを報告されている。タバコはヨーロッパから旧大陸に広まり,現在では世界中で5.5兆本もの紙巻タバコが消費されている。

タバコの煙には4000種類の化学物質が含まれ,そのうち200種類以上は有害物質である。特にニコチン,タール,一酸化炭素は三大有害物質とされている。タールはフィルターに付着するヤニのような成分で,ベンツピレンをはじめアミン類など数十種類の発ガン物質が含まれている。一酸化炭素は酸素の200倍もヘモグロビン(赤血球に含まれる酸素運搬物質)と結合するため,血液の酸素運搬機能を阻害し,組織の酸素欠乏を引き起こす。

ニコチンはアルカロイドの一種で依存症を引き起こす原因物質ある。少量では興奮作用,大量では鎮静作用を示す。ニコチンは中枢神経に存在するニコチン性アセチルコリン受容体 (nAChR) に作用する。

特に中脳辺縁系のドーパミン神経系に結合した場合は快感が引き起こされ依存症につながる。このメカニズムは麻薬(コカイン,ヘロイン,アンフェタミンなど)と同じであるが,薬理作用がそれほど強くないことから麻薬ではなく毒物に指定されている。

喫煙により血液中のニコチン濃度は急激に増加し,代謝により約30分ほどで半減する。その結果,イライラ,苦痛,不安,眠気などを感じるようになり,次のタバコが吸いたくなる。これは薬物やアルコールによる離脱症状と同じものである。

健康に対して重大な害のあるタバコの喫煙率を下げることは公衆衛生においては大きな意味をもっている。世界の喫煙人口は約13億人であり,主要先進国では減少傾向にあるものの,途上国では増加し続けている。

世界保健機関(WHO)は喫煙を原因とする病気による世界の年間推定死亡者数は約500万人以上と発表している。この数値については多くの議論があるところだが,喫煙集団が非喫煙集団に対して健康リスクが高いということは世界の共通認識となっている。

先進国では喫煙のもたらす健康被害のPRとタバコ価格を引き上げることにより喫煙率の低下を図っており,一定の成果を上げている。WHOの2009年版報告では日本の紙巻タバコの平均価格は3.31ドル(290円)と主要先進国では最低であった。1$=90円の円高でもこの状態である。英国は7.64ドル,フランスは7.38ドル,米国は(州により異なるが)4.58ドルとなっている。この数値を根拠に日本でもタバコの値上げが議論されている。

シンキング・ベルタワー(Sinking Bell Tower)

州庁舎の南にある小公園(オーロラ・パーク)を挟むように二本の道路があり,公園の南側で合流している。聖ウイリアム聖堂の前には通りを挟んで聖ウイリアム大聖堂付属の巨大な鐘楼がある。ガイドブックには1793年完成とあるので聖堂(1612年建造)に比して建造時期がずいぶんズレている。再建されたものなのかもしれない。

また,本体ともいうべき聖堂から80mも離れており,スペイン統治時代の教会建築としては異例である。4層のレンガ造りの塔は高さは45mもあり,古くからこの町のランドマークであったことだろう。

この鐘楼はその重さのせいか,毎年1インチづつ沈んでいるのでシンキング・ベルタワーと呼ばれている。しかし,毎年1インチ(2.54cm)の沈下はちょっと大げさではないだろうか。10年で25.4cmというのはいかにも大き過ぎる。

鐘楼そのものは古ぼけたレンガの塔で,白い漆くいもすっかり剥げ落ちて,灰色とレンガ色のまだら模様になっている。内部に入ることもできず,ただそこにあるだけのものである。もっとも,夜間はライトアップされており,夜景写真の練習には役立ってくれた。

二つのファストフード店

この通りにはチョウキングとジョリビーというフィリピン資本を代表するファスト・フード店がある。僕はフィリピンやマレーシアではよくジョリビーを利用していた。チョウキングは一度,おかゆを食べたが町の食堂よりひどい味だったので,その後は利用していない。最初のメニューが悪かったようだ。

公設市場

その先にはマーケットがある。公設市場のようなものかと訪ねてみたら,総二階の建物の中に衣料品を中心にたくさんの小さな店が集まっていた。建物の写真だけを撮って先を行くことにする。

公設市場周辺のにぎわい

早朝の小学校

06時に起床,騒音に若干悩まされたがよく眠ることができた。朝食は昨日見つけた固定式の屋台でハンバーガーとコーヒーをいただく。06:30だというのにこの屋台はちゃんと営業していた。チキンのハンバーグに目玉焼きを挟んでもらい(24ペソ),それにコーヒー(8ペソ)を含めて32ペソである。

早朝の町を散歩していると聖ウイリアム大聖堂の近くで小学校を見つけた。鉄筋コンクリートの真新しい校舎に囲まれた中庭で6年生による卒業式の予行練習が行われていた。3月はフィリピンの卒業シーズンである。

フィリピンの新学期は6月に始まり3月に終了する。米国の影響を受けながらこのような学期制になっているのは,夏休みをフィリピンの暑季にあたる3月の終わりから5月いっぱいにするためであろう。

雨季前のこの時期は雨が少なくフィリピンでもっとも暑い時期である。日本の夏の時期は雨季にあたり,それなりに気温は下がる。もっとも海の影響が強いフィリピンの暑季は大陸性気候のインドに比べるとはるかに楽である。

中庭では式次第にのっとり卒業生が予行練習を続けており,在校生の一部は校舎の廊下からそれを眺めている。この小学校にはグランドや体育館がないので在校生を含めて全員が集まるのは難しそうだ。

生徒たちが向いている先には小さな式壇があり,そこにはフィリピン国旗が掲げられ,Roque B.Ablan 小学校の文字が見える。生徒が一人一人式壇に上がり,先生と握手を交わしている。おそらく卒業証書の授与式であろう。

それにしてもこの中庭は狭い。来賓の父母を含め出席者をどこに収容するのかという素朴な疑問が出てくる。もしかしたら,町のコミュニティ・センターのような公共施設で式は行われるのかもしれない。

教室には子どもたちはいるが,授業は行われていない。写真大好きな子どもばかりで希望者が多い。黒板の前に並んでもらい集合写真にする。黒板にはラテン文字が書かれており,どうやらピリピノ語(タガログ語をベースにしたフィリピンの公用語)のようだ。

7000もの島からなるフィリピンには80ほどの地方語があり,子どもたちはその地方語で育ってきている。テレビの普及により公用語を耳にする機会が増えたとはいえ,学校教育の初歩は国語から始めなければならない。また,もう一つの公用語である英語教育も並行して開始される。

子どもの数が急激に増加しているフィリピンでは校舎と教員さらには教科書の不足が深刻だという。人口増加の歪はこんなところにも現れている。

教員の待遇も大きな課題である。母国で教員をするより香港やシンガポールでメイドをする方がずっと高い収入につながるという現実も教員不足に拍車をかけている。

このような人材流出に日本も一役かっている。2006年に締結された日・フィリピン経済連携協定に基づくフィリピン人看護師・介護福祉士候補者の受入れが始まっている。フィリピンではそのような人材は不足しているのか,過剰なのかは分からない。

少なくとも外国で教育を受けた人材を日本が吸収する仕組みをつくることの是非は,日本の事情だけではなく,その国の状況もよく勘案すべきものである。

サン・オウガスチン教会(パオヤイ教会)

宿の近くのジープニー乗り場からバオアイに向う。08:20に出発し,バタックが09:00,バオアイには09:10に到着した。料金は33ペソ,ガイドブックには16kmと記載されているのでジープニーの基本料金(4kmまで8.5ペソ)からすると妥当なものだ。

09:10にパオヤイの町でジープニーを下ろされた。運転手の教えてくれた方向に歩いていくとすぐに教会が見つかった。この「フィリピンのバロック教会群」の一つとして世界遺産に登録されている教会の正式名称は「St. Augustine Church in Paoay」であるがパオヤイ教会の方が分かりやすい。

パオヤイ教会はオウガスチン修道会により1694年に建築が始まり,1710年に完成した。1572年にレガスピの孫にあたるサルセドがこの地域を制圧してからすでに100年以上が経過している時期ということになる。もっとも教会の説明板には1593年に教区が決められたとある。

この建物のもっとも特徴のある部分は三方の壁面に数mおきに取り付けられた24個の「控え壁(buttress)」である。このバットレスという言葉は長い間,僕の中で消化し切れないしこりとなっていた。発端は20年以上前に見たイスタンブールの映像であった。ビザンチン時代に建造されたアヤ・ソフィアはオスマン帝国の時代にモスクに改装されたが,すでに建造から1000年を経過した建物の大ドームは崩壊の危機にあった。

オスマン全盛期の主席建築家のミマール・シナンは崩壊を食い止めるためドームを支える壁面に巨大なバットレスを付加したという説明があった。バットレスとはいったい何か調べてみたがどうしても分からなかった。

最近,NHKの世界遺産でパオヤイ教会が紹介されており,壁面の補強部分を「控え壁」と呼んでいた。これにより控え壁とバットレスは同じものであろうと見当を付けることができた。英文のサイトでパオヤイ教会を調べてようやく「buttress」を見つけることができた。辞書を引くとたしかに控え壁となっていた。

さて,フィリピン以前にスペインはすでに中南米の多くの地域を植民地にしており,各地に石造りの教会を造っている。しかし,地震の無いヨーロッパの建築技術は地震国では通用せず,地震のたびに大きな被害を受けることになった。

そのため,新大陸ではヨーロッパとは異なる耐震構造の建築が生み出された。フィリピンに造られた教会にはこの技術が使用された。17世紀から18世紀に建造された教会群が独特の形状をしているのはこのためである。

パオヤイ教会は特に耐震構造が外観からはっきり分かるようになっており,まさしく「地震のバロック」の形容にふさわしい。マニラで見たサン・オウガスチン教会(世界遺産)も小部屋の形で控え壁の構造をもっていた。

それでも教会の説明板には1706年と1927年の地震により被害を受けたと記載されている。おそらく激しい揺れに見舞われたのであろうが,耐震構造のため崩壊は免れたということであろう。

道路から近づくとパオヤイ教会の後ろの部分が見える。道路から見ると芝生の向こうに教会が見える構図であるが,芝生の向こう側はテニスコートになっている。実は控え壁の写真を撮るにはこのテニスコート側が一番良いのでコートの入った気の毒な構図になってしまう。

それでも機能一辺倒の無骨な構造をじっと見ていると,地震の多い国で石造建築を建てるための苦労が伝わってくるようだ。建物の正面は西に向いているので,午前中の光は建物の背後からの構図にとっては順光になる。逆に正面の写真は逆光になりあまりできは良くない。

パオヤイ教会は焼成レンガ,サンゴ石などを材料に建造された。背後の壁面はしっくいが剥離しており,材料のサンゴの形が残った石材がよく分かる。これらの石材は形が不ぞろいですき間が多い。つまり,間を埋めるものが無ければ成立しない建築方法である。

現在のような水と反応して硬化する(水硬性)セメントが発見されたのは1756年,ローマンセメントが実用化されたのは1796年のことである。さらに,現在のセメントにほぼ近いポルトランドセメントが発明されたのは1824年であり,その製造方法が確立されたのは1850年頃である。

古代から石造建築が主流であったヨーロッパでは石を接着する技術が必須であったかというとそうではなかった。ギリシャ建築はモルタルを使用しておらず,石材を加工し,凹凸をつけた中心部を合わせることによりズレを防いでいた。つまり石を単純に積み上げる空積みに近い建築方法であった。

巨大な石造建築物を残したローマは水和反応により固化する性質をもった石灰と火山灰の混合物を石材の接着や目地などに使用していた。しかし,ローマの巨大建築物を支えた基本技術はアーチという構造力学であり,モルタルは補助的な手段であったことだろう。

イタリアは地震の多い地域であり,粗末なモルタルが地震の揺れに対抗しえたとはあまり考えられない。ともあれ,ローマ時代にはある種のモルタルが使用されるようになり,それは18世紀の中ごろまでほとんど変化していない。

この「地震のバロック」が粗末な石材とセメントを使用して二回の地震に耐えられたのはやはり不細工に見える控え壁のおかげであろう。この構造体なしにはとても地震に耐えられるとは思えない。

建物の正面に回り,少し離れたところにある鐘楼と組み合わせた写真を撮る。逆光のため写りは良くないが午後までここにいるわけにはいかないので諦めるしかない。

正面入り口から中に入ると大きな鉢をもった天使像が出迎えてくれる。往時は分からないが現在の屋根は木造軸組みの上にトタンを乗せている。

建物の構造は単純なバシリカ様式であり,正面の聖壇はアーチ型天井となっている。そこにはライトアップされた十字架のイエス・キリスト像が輝いている。カソリックの教会には珍しく礼拝堂と聖壇の間は低い柵で仕切られている。

本体に比して控え壁はとても大きい

教会は焼成レンガ,サンゴ石などを材料に建造された

教会前広場の立派な樹木

高校生

パオヤイ教会の敷地を横切って何組もの女子高校生のグループが歩いて行く。なにかイベントがありそうなので後をついていく。彼女たちは舞台のある広場に向っていた。

通りには木製の模擬銃と長い棒を立てて持っている男子がおり,彼らは広場まで行進してきて舞台で何かの予行練習を始めた。女子は少し離れたところからそれを見学している。10分ほどで練習は終了し,彼らは校舎に戻っていた。それだけのことであった。

ゴールデン・シャワー(ナンバンサイカチ)

教会前の広場には見事に花盛りのナンバンサイカチ(Golden Shower)の木があった。この木は僕のお気に入りの南国の植物である。あまり意味の分からない日本名よりも英語のゴールデン・シャワーの方がずっとピンと来る。

サンダカンの公園ではわずかな花しか付けていないものを見たが,ここのものは青空を背景に(電線はジャマだけれど)本当に金色のシャワーのように咲いている。

マンゴーがたわわになっている

教会の南側には小学校があるが今日は登校日ではないようだ。ということでその南側のブロックを歩いてみることにする。小学校にはいない子どもたちはその辺りで遊んでいるはずだ。このブロックにはマンゴーの木が多く,いずれもたわわに実を付けている。

木の上でポーズをとる

まあ,かわいい

歩道に相当するところにイスが出ており,女の子が坐っている。カメラを向けると飛びっきりの笑顔で応えてくれた。

直立不動の子どもたち

次の4人の子どもたちは壁の前で直立不動になっている。子どもたちは写真が大好きで,画像を見せてあげるとケラケラ愉快に笑い転げる。写真に撮る時もそのふだんの笑顔がいいんだけれど・・・。

■調査中

廃屋の床を利用してトウモロコシを乾燥させる

廃墟となった家の床には乾燥のために一面にトウモロコシの粒が広げられていた。まるで,オレンジ色の床である。この乾燥は道路でも行われており,道路の中央部にトウモロコシの山ができている。

トウモロコシを脱穀する

近くでは脱穀作業が行われていた。エンジンの付いた専用の脱穀機に皮付きのトウモロコシをバケツで入れると,不思議なことに皮と芯は後ろ側に吐き出され,粒のトウモロコシは前から出てくる。もちろんそこには袋が用意されている。

作業者に聞くと粒の黄色のものは家畜用,白っぽいものは人間用だという。なるほど,それで黄色のものは道路や床で乾燥されていたのだ。この脱穀作業は細かいほこりがまき散らされるので,頭や顔を覆う帽子や布が必需品である。

道路にひろげてトウモロコシを乾燥させる

バタックに移動する

ジープニーをつかまえてバタックの街まで移動する。パオヤイからは隣町ということになるが,距離は4kmほどである。この道は故マルコス大統領にちなんでマルコス通りになっている。この他にもマルコスの名前を冠した建物はいくつもある。

マルコスの生家はバタックにあり,そこにはマルコス博物館があるはずだ。ジープニーの運転手にマルコス博物館に行きたいと告げると街の中心j部にあるジョリビーの前で下ろしてくれた。確かに向かいにはマルコス・フォト・ギャラリーという建物はあったがドアは閉ざされていた。

マルコスは大統領時代に戒厳令により憲法を停止し,1966-1986年の20年間フィリピンに君臨した独裁者である。1986年のエドゥサ革命によりイメルダ夫人とともにハワイに亡命し3年後に客死した。

20年間の独裁の間に多数の政治亡命者と数え切れないほどの市民を弾圧・殺害し,多額の国家財産を横領したマルコスに対する国民感情は非常に厳しいものがある。死後3年が経過してようやく遺体の帰国が認められたが,マルコス一家の望んだ「国立英雄墓地」への埋葬は認められなかった。

1947年に「共和国墓地」として開園し,1954年に改称された「国立英雄墓地」はフィリピンの戦没者,退役軍人および政治家,芸術家,科学者などの国民的英雄のための国立墓地となっている。ここに埋葬されている約4.3万人のうち,3.2万人は日本軍捕虜収容所で死亡したフィリピン陸軍将兵とされている。

2009年9月にイメルダ夫人は再度,英雄墓地に埋葬したいと嘆願書を提出し,アロヨ大統領が明確な態度を示していないことから物議をかもしている。

もちろん,マスコミはこぞって強い反対の論調である。マルコス退陣のあと大統領に就任したコーリー・アキノが亡くなってからわずか1月後に出された見苦しい亡霊の復活に,そして2010年の大統領選挙にフィリピンの人々がどのような判断を示すか注目される。

マルコス博物館(のような建物)は入れなかったので町を少し歩いてみる。古いたたずまいの教会と新しそうな白亜の教会が近くにある。

ホールではPre-school の卒業式典が行われていた

町のコンベンションセンターには「Batac : Home of great leaders」と記されていた。これはいったい何を意味するものなのかちょっと首をかしげたくなった。帰国後に調べてみると現在の北イロコス州の知事はマルコスの親族(おそらく息子)である。これならば,ありうることと納得した。

ホールではPre-school の卒業式典が行われており,母親に手を引かれた白いドレスの女の子と白いバロン・タガログの男の子が出てきた。子どもたちは関係者に握手をして卒業証書受け取っていた。フィリピン人はこのようなイベントをとても大切にする。

ちょっと遅い昼食はファストフードとなる

ランはやはり着生植物だね

■調査中

ラワグに戻り街の北側を歩く

帰りはジョリビーの前でミニバス(25ペソ)をつかまえて無事にラワグに戻ることができた。宿で大休止をして,北に向ってまっすぐ歩いてみた。どんどん北に歩いていくと,突き当たりの塀の向こうに立派なキワタの木を見つけた。

塀の一部が乗り越えられるようになっていたので先に行くことにした。塀の向こうは畑になっており,パンヤノキは農家の脇に立っていた。近づいてみると立派な枝振りの木である。

幹から水平に張り出した枝にはほとんど葉がなく,青い実が鈴なりになっている。一部の実は熟したのか薄茶色になっているが内部の綿は出ていない。どうも今回の旅行はキワタの木をずっと追いかけているような気がする。

近くのマンゴー園で収穫作業が行われていた

農家の周りには人はおらず,近くのマンゴー園で収穫作業が行われていた。マンゴーの木は高さが10mくらいで,男性が刃物の付いた棒で一つ一つ落としていく。

女性と子どもはそれを拾い集めている。木の下は枯れた草地になっており,まだ青いマンゴーは多少の衝撃には耐えられるようだ。

マンゴー(ウルシ科・マンゴー属)の原産地はインドからインドシナ半島周辺と推定されている。人類と古くから関わりのある果物で,インドでは4000年前には栽培されていた。

マンゴーは常緑高木で樹高は40m以上になる。樹高がそれほど高くなってしまうと果実の採取が困難になる。この果樹園のものはできるだけ枝を横方向に広げさせ,高さを押さえようとしている。日本のリンゴ園では樹高を低くする矮性栽培を行っている。

未熟果は非常に酸味が強いが,完熟するとほとんど酸味はなくなり,甘みが強くなる。品種によってはねっとりとした甘みと形容されるようになる。

男性が青いマンゴーを2個プレゼントしてくれた。さすがにただでもらうわけにはいかないので,お手伝いをしていた二人の子どもにヨーヨーを作ってあげた。

子どもたちが喜ぶ顔を見て,大人がさらに3個をザックに入れてくれた。この5個のマンゴーは表皮は青くても中は黄色に熟しており,ほどよい甘味と酸味がバランスしていた。

塀のこちら側はのどかな田園風景である


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