亜細亜の街角
アジアとヨーロッパ建築が融合した旧市街
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ビガン  (地域地図を開く)

ルソン島の北西部,南シナ海に面した南イロコス州(Ilocos Sur)は面積2596km2,人口63万人の小さな州である。とはいうもののフィリピンは80もの州に分割されており,面積でいうと54番目,人口でいうと42番目の州ということになる。

ラワグのある北イロコス州と同様に1572年にレガスピの孫のサルセドにより制圧され,ビガンはイロコス植民地の心臓部となった。スペイン統治時代の街並みは南シナ海交易で繁栄していた地域にふさわしく,スペイン,中国,ラテンアメリカの影響が見られる。

スペインの統治拠点となったマニラやセブにも同様の街並みが存在したが,太平洋戦争により完全に破壊されている。太平洋戦争末期,ビガンにも日本軍は駐留していた。そのまま米軍との交戦になれば,ビガンの町もマニラやセブと同じ運命をたどったところだが,日本軍が町から退去したことにより古い街並みは戦渦を逃れた。

現在のビガンは人口が約5万人,フィリピンの中でもっともスペイン統治時代の街並みが残るところとして知られており,199年に「ビガン歴史都市」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。歴史都市として世界遺産に登録されると,家屋の改築などにも大きな制約を受けるはずだが,その範囲がどこまでかについては分からない。

ラワグ→ビガン 移動

05時に起床,涼しいので昨夜はファンを切って寝た。04時頃から道路の騒音がひどくなる。06:30にチェックアウトしてパルタスのバスターミナルに行くとマニラ行きがちょうど動き出すところであった。

車掌にビガンと告げると有無を言わさずバスに乗せられてしまった。距離は約100km,料金は113ペソなので妥当なところだ。道路の周囲は収穫の終わった水田,タバコ畑,トウモロコシや豆畑と多彩である。バスは北から町に入り,ブルゴス通りで停車したので,そこで下ろしてもらった。

ビガン・ホテル

時刻はまだ08:30である。チェックインには早すぎる時間帯ではあるが,通りをそのまま東に歩き聖ポール大聖堂の横を通り,ビガン・ホテルに到着した。ガイドブックにはここ以外の安宿は掲載されていない。

4.5畳,1ベッド,トイレ・シャワー共同の部屋は清潔で居心地はよさそうだ。部屋に洗面台が付いているのもありがたい。料金は395ペソと少々高めであるが,この設備ではしかたがないだろう。窓は上半分が貝細工でできており,下は板を斜めに重ねて通気性を確保している。この貝細工の窓はこの街のシンボルの一つとなっている。

ファスト・フード店

とりあえず朝食が必要なのでそのまま外に出る。聖ポール大聖堂,その南側のブルゴス広場の周辺は観光地でもあり,ファスト・フード店には事欠かない。ざっと見渡した範囲でもジョリビー,マック,チョウキングそれに新顔のグリーン・ウイッチの店が見える。

今朝はブルゴス広場の隣にあるマックに入る。ごはん,フライドチキン,スプライトの組み合わせで50ペソである。マックでごはんとはいかにもフィリピンらしいメニューである。

いつものように,「ここで食べますか」,「飲み物は何になさいますか」,「飲み物もサイズはどれにしますか」などという定型的な質問が飛んでくる。さすがに慣れたが,この定型句はちょっと特殊な表現なので最初はかなりとまどってしまった。

ブルゴス広場がメナ・クリソロゴ通りの起点となっている

メナ・クリソロゴ通りを歩く

通りの北の外れには州観光案内所があり,そこの二階の窓が開いていたのでお願いして二階に案内してもらう。観光案内所なので対応は良い。二階は大きな部屋がいくつかあり,現在は使用されていない。

カピス貝の入った窓は意外と明るい。透けてくる光の中で貝殻の模様がわずかに浮かんでいる。これで窓の外側と内側の写真が揃うことになリ,案内してくれた職員にお礼を言って通りに出る。

南側にはなぜか消防自動車が停まっていた。周辺の路面が濡れていたので,石畳の埃などを水で洗い流しているようだ。世界遺産の景観を守るためのものだろう。右側のMax Restaurant の建物は薄い茶色の壁面,二階はテラスをもっており,他の建物とはかなり異なっている。それでも,二階の窓の半分はカピス貝を使用している。

メナ・クリソロゴ通りの両側の家屋はほとんどがスペイン統治時代のもので,もちろんその様式はバハイ・ナ・バトである。一階は土産物屋,骨董品屋,カフェなどになっており,二階は居住用となっている。屋根は瓦もしくはトタンとなっており,色は瓦の赤茶色に合わせている。

家の外観はどれも似たようなものだが,壁の漆くいの状態はかなり差がある。手入れの悪い建物の壁は漆くいがはがれてモルタルの地肌が見える。あれっ,スペインの時代には現在のようなセメントはなかったはずなんだが・・・。

自動車の往来は禁止されているこの通りもカレッサはOKのようだ。観光客を乗せたカレッサがこちらにやってくる。カレッサは聖ポール大聖堂の西側と南側にたくさん停められていた。陽射しによって場所を変えるようだ。

たくさんの馬は所かまわず小便をする。アスファルトの路面に流れ出し,近くまで行くとけっこう臭う。これは観光都市としてはちょっと困ったことだが,馬のトイレは作れないのでどうしようもない。

二階の窓の外にエアコンの室外機が取り付けられている建物もある。う〜ん,これはちょっと景観を損ねているね。僕などは暑季にあたる現在でもファンだけで十分なのだが,フィリピン人でも一度,エアコンの涼しさを体験すると,暑さに対する抵抗力がずっと落ちてしまうようだ。

アジアとヨーロッパが融合した家屋

ビガン歴史地区の家屋は不思議な構造と窓をもっている。一見すると白壁のコロニアル風建築物なのだが,一階は石造り,二階は木造となっているものが多いのだ。そのため白を基調としながらも外観は一階と二階では少し異なっている。

この様式の建物は「Bahay Na Bato(バハイ・ナ・バト,house of stone)」と呼ばれている。おそらくスペイン語の言葉を転用したタガログ語であろう。バハイ・ナ・バトはフィリピンのコロニアル建築を代表するものであり,ビガンだけではなくマニラのインストラムロスやセブなどスペイン人が居住していた地域では普通に見られるものであった。

スペイン人がやってくる以前,フィリピン先住民の家屋は「Bahay Kubo(バハイ・クボ)」と呼ばれる,高床式,ニッパヤシ葺きのものであった。現地で入手できる植物性の材料だけで造られるこの家屋はフィリピンの気候によく適応したものであり,台風,洪水,地震などの災害が発生しても容易に再建可能なものであった。

フィリピンにやってきたスペイン人は本国の石造建築をそのまま持ち込んでみたが,すぐに地震により長持ちのしないものであることを知るようになった。その結果,考え出したのがバハイ・ナ・バトである。

一階は頑丈な石造りもしくはレンガ造りにして,二階は軽い木造とすることにより,耐震性を強化した。中には一階も木造のものもあったようだが,ビガンでは見かけなかった。家人の生活空間は二階であり,一階は馬車や荷車を置くスペースとして使用されていた。もっとも現在は事務所,商店ときにはフィリピン名物のサリサリ・ストアにも使用されている。

居住区となった二階は石造りに比べてはるかに涼しいものであったが,さらに風通しを考慮してスライド式の大きな窓が四方に設けられている。

この時期,ガラスはまだ簡単に入手できるものではなかったようだ。そのため,窓を格子状に小さく区切り,そこにカピス貝(和名はマドガイ,学名はPlacuna placenta)の貝殻を加工したものを取り付けて,明り取りの機能を持たせた。日本でいうと障子の文化に近く,これはおそらく中国人の知恵であろう。

フィリピンは台風が多い国でもあり,窓に対しても一定の強度が必要であったことだろう。このカピス貝の窓は中国人の文化を取り入れたものである。このようにして,ヨーロッパの石造建築と東アジアの木造建築が融合したバハイ・ナ・バトができあがった。この様式の建築物はフィリピンの各地で見ることができる。

おそらく,フィリピンを旅行された方々はそれと知らずに目にしているにちがいない。残念ながらバハイ・ナ・バトが集中していた町の多くは太平洋戦争で破壊されてしまった。

戦禍を免れたビガンにだけバハイ・ナ・バトの街並みを見ることができる。情緒のある石畳のメナ・クリソロゴ通りの両側に連なるバハイ・ナ・バトの多くは土産物店やホテルなど,生活の場として現在も生き続けている。

このあたりがお土産の売れ筋なのであろう

クラシックなTシャツもある

帽子と布製品が定番のようだ

古道具屋もずいぶん多い

店の雰囲気作りに役に立っている

ここのものは売り物ではないだろう

なんとなくいい感じだね

このようなものを売り物にしてもいいのかな

カピス貝(和名はマドガイ)

バハイ・ナ・バトの窓に取り付けられている貝をフィリピンでは「カピス貝(Kapis shell)」と呼んでいる。この貝はフィリピン中央部のパナイ島にあるカピス州の特産品であることから「カピス貝」と呼ばれている。

もっともこの名前はフィリピン以外ではほとんど通用せず,日本語のサイトにもほとんど出てこない。和名の「マドガイ」で検索するとそれなりの情報が得られる。

マドガイ(Placuna placenta)はインド洋と東南アジアの沿岸部に分布するマドガイ科の二枚貝である。殻の大きさは10-20cmあり,極端に扁平な形をしている。左右で扁平率が異なっており,右殻は特に扁平となっている。表面は白色を帯びた半透明で真珠光沢があり,微細な放射条もある(日本大百科全書・小学館)。

扁平で光を透す性質をもっているので殻を加工して窓ガラスの代わりに利用されていた。そのため和名はマドガイ,英名はwindow-pane oyster あるいはwindow shell となっている。

現在でもフィリピンではこの貝を加工したランプ・シェードやのれんなどの細工物が土産品として販売されており,経済的に重要な資源となっている。そのような需要のためフィリピンでは乱獲状態となっており,資源の減少が懸念されている。

海をもつ熱帯アジアの国々では貧困層の多くが沿海に暮らし,生活の糧を沿岸資源に頼っている。往時は自給自足の生活を支えるためのものであった沿岸漁業は,次第に経済的な手段に変貌してきている。

エンジン付きの漁船,大量の魚を捕獲できる魚網などの登場により,多くの地域では持続可能な状態からはほど遠い乱獲が横行している。また,沿岸資源を支えているサンゴ礁やマングローブ林などの生態系も劣化している。

フィリピンにおける沿岸漁業はそのなかでも特にひどい状況が続いている。ほんの10数年前まではダイナマイト漁,青酸カリ漁,底曳網による乱獲など,資源の持続性などは一顧だにしないひどい事例が横行していた。

貧しい生活を支えるためには目の前にあるもののをあらゆる手段で捕獲するしかなかったという事情は理解できるが,そのような収奪的な漁業は結局,彼らの生活基盤を破壊するものであった。

僕には現在のフィリピンの漁業が持続可能なものなのかは判断する材料は持ち合わせていない。それでも,各地で収奪的な漁業から持続可能な漁業への転換が報告されており,少しは希望のもてる状況になっている。

地域が主体となって資源管理を行うための最大の障害は漁民の貧しさである。資源管理プロジェクトが発足すると漁獲量は必ず制限されるようになる。これは漁民にとっては死活問題であり,何らかの代替的な生活手段を講じることが必須条件となる。

海と陸を含め地域の資源で人々が持続的に暮らしていくにはどうすればよいかという視点が必要である。残念ながら,そのような取り組みはフィリピンでは非常に難しい。最大の障害は人口の急激な増加である。

これは自然資源の制約を超えた人口を抱える地域では必ず起きる問題である。自然資源を持続可能な方法で利用するためには,自然が再生産できるもの以上を取ってはならないという単純な原則が存在する。

それ以上のものを取り出すことは自然資本を食いつぶすということであり,一時的に収穫は増えても,すぐに限界が来る。20世紀は世界の人口が4倍に急増し,自然と人類の力関係が大きく変化した世紀であった。

人口の少ない時代は持続可能な生活も,同じ自然資源に依存する人口が増えるとどこかで破綻する。フィリピンの状況はまさしくそのようなものであり,今後も予測される人口の増加にどのように対応するかはまったく答えが見つかっていない状況である。

戦禍を逃れた町

Wikipedia の「ビガン歴史地区」のページには太平洋戦争の末期にビガンを戦禍から救おうとした日本軍将校の美談が掲載されている。僕なりに要約すると次のようになる。

太平洋戦争の末期にフィリピンに上陸した米軍と日本軍の間で激しい戦闘が繰り広げられた。日本軍は占領していた都市部から撤退せず,市街地に立てこもって抵抗することが多かった。米軍は市街戦に先立ち,徹底した砲爆撃を加えたため多くの都市が破壊された。

ビガンにも日本軍がおり,米軍の砲撃対象となっていた。しかし,ビガンのクレカンフ司教が「もうこの街の周辺には日本軍兵士はいない」と米軍に確約をしたためこの砲撃は取りやめになった。

クレカンフ司教は二人の日本人将校,高橋フジロウとナリオカ・サカエから,「現地で結婚した私たちは愛する家族を残して敗走するので,戦争によってこの美しい街が爆撃・破壊・略奪されることのないようお願いします」と懇願されたという。

ビガンの歴史的な街並みは二人の将校の撤退判断により救われたことになる。太平洋戦争時に日本軍が侵攻した東南アジア諸国の中で最も戦争被害の大きかったのはフィリピンである。日本軍による多くの蛮行が報告されている中で,ビガンは数少ない幸運の地である。

聖パウロ大聖堂

ガイドブックでは「聖ポール大聖堂」となっていたので聖ポールとは誰なんだと思っていた。英語のスペルをよく見ると「聖パウロ」のことと知り,なあんだということになった。聖パウロはキリストが十字架で処刑されてから改宗したのでいわゆる12使徒には含まれないが,初期キリスト教の最も重要な理論家となった。

多くの「信徒への手紙」を遺し,それらは新約聖書にも含まれている。彼がキリスト教に改宗した事件の舞台となったシリアのダマスカスには「聖アナニア教会」がある。

ビガンの聖パウロ大聖堂は典型的なバシリカ様式であり,東西を基軸として西に正面入り口,東に聖壇を置いている。この東西線は州庁舎,サルセド広場,聖パウロ大聖堂と続くビガンの軸線でもある。

ラワグの聖ウイリアム大聖堂と類似したファザードなので同じくルネサンス様式のものであろう。西向きのため午後にならないとよい写真にならない。掲載した正面からの写真は午後に改めて撮ったものである。ファザードにはレンガもしくはレンガ大の切石を積み上げたような線が浮かんでいるが,側面はサンゴ石を積み上げたようなので,漆くいで描かれた模様であろう。

大聖堂の鐘楼は向って右側のブルゴス広場の一部にあるため,鐘楼と合わせた構図は左前からとなる。もちろんこの構図もなかなか良いが,大聖堂だけを撮るなら右前からがもっとも良い。

大聖堂の前面は空間となっているので写真は撮りやすい。しかし,大聖堂の前庭を囲む低い塀は構図のジャマをする。そのため路面から1.5mほど高くなっているサルセド広場の端のところから撮るのがよい。時間帯によってはこの下にカレッサが並び,その小便が路面に模様を描き,臭いもひどい。

正面入り口から入ると最奥部の聖壇までがずいぶん遠く感じる。バシリカ様式らしく左右の壁面の内側にアーケードが長手方向に連なっている。このアーケードにより礼拝堂内部の空間は長手方向に三分割されている。アーケードと壁面の間はバシリカ様式を特徴付ける側廊になっている。

アーケードを支える柱には多くの聖人画が飾られており,正面から見ると聖壇に向って聖人の列が左右に並んでいる。これほどの聖人画をもつ礼拝堂は珍しい。それだけではない,入り口付近の小部屋には高さ1mほどもあるたくさんの聖母あるいは聖母子像が並べられており,聖母像の博物館のようになっている。

正面の聖壇は十字架をかつぐキリスト像を中心に多くの聖人や天使像で飾られており,これでもかというくらい聖人の像と絵画に出合える空間となっている。

Ten Comandments

聖パウロ大聖堂の横に十戒の石板を模したものがあった。この石板の英文の文章についてちょっと違和感があったのでwikioedia で英語の十戒を開いてみた。さすがにキリスト教が国教のように扱われている英語圏では,日本では考えられないくらい大量の情報が記されていた。

十戒の一つ一つの内容については分かりやすい文章となっており,英語ではこのように表現されるということが理解できた。その中で,Ten Comandments は多くの節からなるという記述があった。

旧約聖書の出エジプト記第5章に16節,申命記第5章に16節,出エジプト記第34章に17節が含まれている。それらはいずれも我々がふだん接している十戒の内容よりもかなり長い表現となっている。ユダヤ教やキリスト教各派ではそれらを下記の12節にまとめている。

01. I am the Lord your God.
02. You shall have no other gods before me.
03. You shall not make for yourself an idol.
04. You shall not make wrongful use of the name of your God.
05. Remember the Sabbath and keep it holy.
06. Honor your father and mother.
07. You shall not murder(kill).
08. You shall not commit adultery.
09. You shall not steal.
10. You shall not bear false witness against your neighbor.
11. You shall not covet your neighbor's wife.
12. You shall not covet anything that belongs to your neighbor.

12節を10にまとめるため,各宗派は異なった組み合わせで十戒としている。例えばユダヤ教では2と3,11と12は合わさっており,カソリックでは1,2,3が一つになっている。英国国教会,東方教会も異なった組み合わせの十戒をもっている。キリスト教の基本と思っていたが,なかなか難しいものだ。

ブルゴス広場の昼と夜

ブルゴス広場はメナ・クリソロゴ通りの始点となっている。ここでメナ・クリソロゴ通りはブルゴス通りとT字路の形で交差している。周辺の建物はほとんどがスペイン時代のバハイ・ナ・バト様式となっている。

世界遺産の主要部となっているメナ・クリソロゴ通りはほぼ南北方向に走っているので,午前中の早い時間帯は光が入らず,写真は撮りやすい。通りは古い石畳となっており,レンガ大に加工された石がきれいに敷き詰められている。この通りを保護するため自動車の通行は禁止されている。おかげで,観光客は二階の窓を見上げながら歩いても交通事故の心配はない。

聖ポール大聖堂はほぼ東西方向を向いており,正面入り口は西側となっている。つまり,正面からの写真は午後でなければ逆光になる。特別の制約を受けない場合,教会の建物は東西を軸線とすることが多く,聖ポール大聖堂もその基本形式を遵守している。

聖ポール大聖堂の鐘楼は通りを挟んで南側にあるブルゴス広場の一画に位置して。この広場には大きな樹木がたくさんあり,その枝にはランタンが吊るされている。また鎖状の電飾も取り付けられており,夜間は華やかな世界になる。

サルセド広場から眺める聖パウロ大聖堂

世界遺産の主要部ともいうべきクリソロゴ通りと聖パウロ大聖堂を見学したのであとはのんびりと町を歩くことにしよう。時刻はまだ11時である。東西に細長いサルセド広場は特に見るべきものはない。

ビガン市の紋章かな

サルセド広場の西側に南イロコス州の州庁舎がある。コロニアル風の立派な建物である。薄い茶色で塗装されているが個人的な趣味で言わせてもらうと,北イロコス州庁舎のようの白亜の建物の方がそれらしい。

右側にはほぼ同じ色の建物があり,その前に十戒の石板が置かれている。こちらはイロコス語(ルソン島北部の共通語)と思われる言語で記されている。この石板の前には車が停められており,正面写真は撮れなかった。

コンベンションセンターでは卒園式の練習が行われていた

さてさて明日の本番ではどうなることやら

Simbaan Abassit Chapel(Camposanto Chapel)

ケソン通りそのまま真っすぐ南下すると突き当たりに白い教会が見える。そこがケソン通りの終点である。建物の正面が本体より一段高くなっている,そこには大小の鐘が吊るされている。

この教会もずいぶん古そうなものだ。入り口の近くにユネスコ世界遺産の掲示板が置かれていた。この教会も「ビガン歴史都市」の一部のようだ。掲示板にはこの教会の歴史や由来については記されておらず,キリスト教における聖地巡礼の重要性について難解な英文が並んでいた。

掲示板の上部に記されている「Camposanto Chapel」がこの教会の名称である。教会の背後はかなりの面積をもった墓地となっているので,巡礼の目的がこの墓地の方にあることも考えられる。

Chapel は小礼拝堂を意味しており,この教会も小さな長方形の空間の奥は半球状のドームになっており,そこに聖壇があった。正面には十字架のキリスト像,その両側には聖母像や聖人像があるのでカソリックの礼拝堂であろう。

national Library の建物?

薪炭材は重要なエネルギー資源である

トタン屋根は熱くなるので洗濯物はすぐに乾く

後ろの女の子の表情がいいね

新市街の街並み

ココナッツの殻から白い胚乳を取り出す道具

消防署

バスの便はないと言われる

次の訪問予定地はビガンの南東部に位置するサガダかボントックである。そこはルソン島中央部を南北に走るコルディレラ山脈の中央部に位置するので公共交通について事前に確認しておく必要がある。

もちろん,いったん南のバギオに戻り,それから北上する観光ルートはまったく問題はない。しかし,このバギオ・ルートはかなり遠回りになるので,ビガンからLubuagan 経由の東回りで行くことができるなら,距離は半分以下になる。

市の観光案内所でこのルートの交通についてたずねると,「バスの便はない」というつれない返事であった。おそらくジープニーは走っていると推測されるが,安全を考えてバギオ経由にする。そうなると夜便でバギオに戻り,早朝便でサガダに向う選択になる。夜行バスのきらいな僕にとってはあまり好ましいことではない。

パルタスのバスターミナルはさきほどのCamposanto Chapel の南側にある。窓口で早朝の05時くらいにバギオに到着するバスをたずねたら23:30ということであった。

ただし,このバスはラワグ発なのでここではチケットが買えない。しかたがないので,翌日の22:30ビガン始発のチケット(300ペソ)を購入した。バギオには04時に到着するので寒いバスターミナルで夜明けを待つことになりそうだ。

次の問題は翌日の夕方までの宿をどうするかということである。宿のフロントで明日の18時まで部屋を使用したいと申し入れると1日分のフル・チャージ(395ペソ)を請求された。夕方までの部屋の確保はあきらめて,12時少し前にチェックアウトし,荷物はフロントで預かってもらうことにする。

にぎやかな行列がやってきた

翌日は06:30から朝食探しを兼ねて町歩きを開始する。こんなに朝早くから開いている食堂はファストフード店と市場周辺しかない。パルタスのバスターミナルの近くにある市場に行ってみるとおかゆの屋台があった。

怪しげなトッピングは除去していただく。他の食堂は営業していないので,この屋台はけっこう繁盛していた。学校に行く前の子どもたちもここで食べている。フィリピンは家で食事をとることが多いので,ちょっと珍しい光景である。

ガイドブックの地図には南西方向にミンドロ・ビーチの記載があったので,歩くことにする。昨日,市の観光案内所で確認したら「1kmくらいかな」という答えであった。しかし,海まではずいぶん遠かった。帰国後にgoogle-map で確認してみたら5kmほどあることが分かった。いいかげんな観光案内所のおじさんにすっかりだまされてしまった。ということでずいぶん遠い1kmを歩くことになった。

通りの周辺にはそれほど見るべきものはないのでどんどん先を行く。前方からにぎやかな楽隊がやってくる。先頭にはバトンガールと楽隊,その後ろには霊柩車,さらに大勢の人たちが歩いてくる。フィリピンでは教会でお葬式をしてから,墓地まで参列者が見送る習慣がある。

日本でいうと野辺送りのようなようなものだ。2009年に亡くなったアキノ元大統領の葬儀はマニラ大聖堂で行われ,その後,夫のベニグノ・アキノ氏の眠るスーカットのマニラ・メモリアル・パークに向った。

このとき沿道には20万人,30万人といわれる人々が雨の中で葬列を見送り,そのあとについて数万人の市民が歩いたという。墓地までの21kmを歩き通した人も多数いたという。

闘鶏用のオンドリの飼育

闘鶏用のオンドリを飼育しているところがあった。長方形の板を二枚合わせて三角形の小屋を作り,一つの小屋に一羽づつある長さのヒモでつながれたオンドリを入れる。

こうするとオンドリは自分の動ける範囲を縄張りだと思い,侵入してきたものに対して威嚇するようになる。この縄張り意識を育てることにより,他のものと激しく争う闘鶏用のオンドリが出来上がる。

闘鶏はフィリピンではもっとも盛んな庶民の娯楽となっている。闘鶏用のトリは特別の種であり,つがいで1万ペソほどもする。普通のニワトリが100ペソのフィリピンは桁外れの値段である。大きな町には決まって闘鶏場があり,そこでは金が賭けられる。男性のこの趣味はフィリピンの女性にとってはずいぶん厄介なものであろう。

村の子どもたち

ビガンは陶器造りも盛んだ

ところどろに素焼きの鉢や容器が大量に並べられている。ビガンは陶器製造でも有名な地域である。この地域は中国との交易が盛んであったため,古くからたくさんの中国人が移住してきている。

その中国人が伝えたのが陶器製造の技術である。まあ,ここに並んでいるものはそのような高等技術の産物ではない。土をこね,形を作り,乾燥させ,比較的低温で焼いてもできる代物だろう。

ネムノキの仲間

ネムノキ属(マメ科ネムノキ亜科)の仲間は150種ほど知られており,熱帯性のものが多く,その中で日本に自生しているのがネムノキ(Albizia julibrissin)である。葉は2回偶数羽状複葉,花は頭状花序的に枝先に集まって夏に咲き,淡紅色のおしべが長く美しい。ここにあるものは同じネムノキ属でも別種であろう。

■調査中

田舎の風景

道路の周辺に農地が増えてきた。現在は乾季であるが,畑のかなりの部分は青々としている。40cmほどに伸びたトウモロコシの畑に水が供給されていた。

灌漑の方法は水路の土手を切って畑を水浸しにするという単純なものだ。畝に沿ってすこしずつ水が畑を覆っていく。まだ,水の入っていないトウモロコシ畑の向こうに大きなマンゴーの木と農業用の小屋が見える。溢れる緑の田舎の風景はいつ見ても気持ちがいい。

Hidden Garden

「Hidden Garden」という看板が出ていた。進行方向に対して左方向なのでちょっと寄り道になる。ここは園芸店のようだ。ただし,敷地の内部は商品となっているさまざまな植物や花で飾られており,見学するとけっこう楽しい。中に入ると女性の案内が付いて,一回りして説明してくれる。

一回りすると園内の休憩所で一休みするようになっている。豚の串焼きがいい匂いを漂わせている。2本で30ペソ,これはとてもおいしい。おばさんに話を聞くと秘伝のタレ(ケチャップ,サトウ,ショウユがベースになっているという)が決め手だという。

隣でやっているマンゴーシェイクは700ccのグラスで80ペソだという。マンゴー1個を切ってもらうと35ペソだというのでお願いする。皮をむかずに三枚に下ろし(マンゴーの種は平べったい),実に縦横の切れ目を入れてくれた。こうするとスプーンで(上品に)すくい取って食べることができる。

これでガイド無しにのんびり園内を回ることができる。小さな着生植物は縦方向に数珠繋ぎになっている。これが何本も下がっているのでまるで緑の簾のようになっている。まだ小さな着生植物は丸くなった根の周辺に葉を伸ばしているので,まるでバトミントンの羽のようだ。

浅くて広い盆栽鉢に植えられた見事な盆栽がある。木は高さが60cmほどで見事な枝振りであり。最初に回ったとき「これは何ですか」とガイドにたずねると,「ボンサイ」という答えであった。

日本人が持ち込んだ文化なのかなとも思ったが,この辺りは中国人の移民も多い。盆栽発祥の地である中国から直接もたらされたとも考えられる。いずれにせよ,フィリピンでこのような作品を見ることができるとは,ちょっとした驚きである。

この園芸店の主力製品なのか,現在が旬なのかは分からないが,アナナスの仲間の鉢はずいぶんたくさんあった。ベニバナトケイソウ(トケイソウ科・トケイソウ属,学名はPassiflora coccinea Aubl.)がちょうどうまい具合に花を咲かせていた。南米原産の蔓性多年草で,日本では鉢植えとして育てるが,ここでは高さ3mくらいにも成長している。

田舎の集落の風景

■調査中

道路が滑走路を横切る

先を行くと道路が途切れ,その間が滑走路になっている。滑走路を道路が横切っているのだ。ここは1000mほどの滑走路を備えたミンドロ空港であり,セスナ機が利用している。滑走路は南北方向にあり,その北側200mほどのところで道路と交差しているのだ。

道路側には信号機のようなものは無く,これでは飛行機と自動車の衝突事故が起きる可能性がある。いくらフィリピンでもこんなことはありえないだろう。滑走路の北側の200mは使用されていないのだろう。

■調査中

ぼくはお昼寝中

トウモロコシを乾燥させる

魚を行商する

やっと海岸に到着する

海岸が近くなると小さなミンドロの集落となる。その小さな集落にそぐわない立派なミンドロ小学校が道路に面している。今日は学校は休みなのか,鉄柵の門は閉じられている。

やっとたどりついた海岸は黒っぽい砂浜となっており,数隻の小さなバンカーボートを除き,何も無いところであった。海だけは亜熱帯の陽光に青く輝いており,10分ほど砂浜に坐って鑑賞させてもらう。

立派な角をもったオスヤギ

少し沖合いに刺し網を積んだ小舟が浮かんでいる。いや,よく見ると小舟ではなく,竹を組み合わせた筏であった。この筏で漁に出るのだろうか。近くでは漁師が網の補修をしている。

う〜ん,ここまで歩いてきて,この風景だけではあまりにも寂しい。近くの空き地で草を食べている立派な角をもったオスヤギの写真でも撮りにいくか。

子どもたちのイベント

ミンドロの海岸からはトラシクル(20ペソ)で宿に戻り,昼前まで休息をとり,チェックアウトする。バスの時間は夜中なので荷物はフロントに預け,14時からコンベンション・ホールで行われる子どもたちのイベント見に行くことにする。

昨日とは異なりケソン通りに面した正面入り口から入ることになる。ホールにはイスが並べられており,後ろ半分は父兄席になっている。前半分は子どもたちの席で,舞台に上がっている子どもの分だけ空席となっている。

年長組みの劇はどうも森の恵みをテーマにしたものらしい。木が切られてしまうと,自分たちの生活がどうなるのか・・・,そんなテーマらしい。幼稚園児が理解するのはずいぶん重いテーマであろう。

昨日,練習を見学した子どもたちのダンスが始まった。体を動かす方はともかく,お歌の方は割りと様になっていた。父兄は自分の子どもが出てくると,舞台の近くに集まり,熱心に写真やビデオに収めている。

子どもを可愛がることにかけてはフィリピン人は日本の比ではない。どうも可愛がるが優先されすぎて,しつけの方はおろそかになる傾向がある。行儀の悪い他人の子どもを叱ったら,親から文句を言われた。フィリピン在住の外国人が自分の子どもをしつけのためきつく叱ったら,児童虐待として警察を呼ばれたとなどいう笑えない話もある。

また,頭は神聖なところとされ,子どもでも大人でも頭をゴツンとすることは厳禁である。子どもにはひたすら優しく接しなければこの国では摩擦の種になる。

フィリピンでは子どもを虐待することは非常に重い犯罪とされている。にもかかわらず,この国には奴隷制度に近い児童労働,近親者によるレイプ,組織的な児童買春などが横行している。また,虐待された子どもたちをケアする施設も多い。

この二面性をどのように評価すればよいのか理解に苦しむところだ。衣食足って礼節を知る,子どもの虐待の陰には深刻な貧困があるのは確かであるが・・・。

川というよりは水路のようだ

この水路のホテイアオイは白い花を咲かせている

カキ氷+コンデンスミルク+トッピング

暑い時間帯は昼寝が一番だね

Bantay Church & Bell Tower

州庁舎の前のケソン道路を北に向かい橋を渡りさらに行くと,地域の幹線道路(ラワグと南のサンフェルナンドを結ぶ)に突き当たる。この交差点の直近に「Well Come to Vigan」と記されたゲートがある。

交差点の北東側には「Bantay Church & Bell Tower」がある。正式名称は「St. Augustine Charch & Bell Tower」であるが,やはり地域名でいった方が分かりやすい。

この教会はガイドブックにはなく,近くを歩いていて偶然見つけたものだ。それなりに歴史のあるものらしい。僕が見学している時も一組の欧米人と一組の韓国人カップルに出会った。

名前の通り,ここには聖堂と鐘楼がある。聖堂はバシリカ様式で,西が正面,東が聖壇になっている。鐘楼は北に150mほど離れた少し小高い丘の上にある。

丘に続く石段のところにはアーチ状の円柱に囲まれた聖母像がある。聖堂の壁には聖堂と鐘楼,そして聖母像に関する歴史と不思議な出来事について記してあった。

それによると聖堂は1590年に建造されている。この地域ではもっとも古い教会の一つだ。第二次大戦では損傷を受け,1950年に修復されている。建築様式はネオゴシックとロマネスクの要素が組み合わされている。

聖母に関わる部分は意味がはっきりしないので割愛することにしよう。ヨーロッパではよく聖母像,聖母子像が見つかったという伝説があり,それらの像は奇跡の聖母像として聖堂に大切に祀られる。フィリピンの各地にも類似のものがあり,ここの聖母像もそのような来歴をもっているようだ。

レンガ造りの鐘楼は表面の漆くいがすっかり落ちており,レンガの地肌がむき出しになっている。歴史を感じさせるものであり,おそらく聖堂と同時に建造されたものであろう。地震や戦火によく耐えてきたものだ。鐘楼に続く石段の手前には黒い十字架があり,二つを組み合わせた構図はちょっと面白い。

聖堂の内部はシンプルな空間である。正面の聖壇中央には聖母像が納められており,これが奇跡の聖母像なのかもしれない。天井は新しいもので,鉄骨で組みトタンが使用されている。

それだけではあまりにも寂しい空間になるというので,両側の壁面の2mほど内側に屋根の鉄骨を支える金属製の柱を並べ,両側の柱をこれも金属製のアーチでつなげている。このアーチは力学的に天井を支えるというものではなく,装飾的な要素が大きい。

聖堂の外壁は完全にレンガがむき出しとなっており,そのすき間に多くの植物が根を下ろしている。フィリピン女性の一団がやってきて,外壁を周囲をゆっくりと巡って行った。


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