亜細亜の街角
標高1500m・・・平均気温20℃の避暑地
Home 亜細亜の街角 | Baguio / Philippines / Mar 2009

バギオ  (地域地図を開く)

バギオはマニラから北に250km,ルソン島北部の山間地に位置しする面積57.5km2,人口約30万人の都市である。マニラの避暑地として米国統治時代に開発されもので,その歴史は150年に満たない。2009年9月1日にはバギオ市制100年の記念式典が執り行われた。

標高1500mに位置するバギオは年間平均気温が20℃と過ごしやすく,フィリピンの夏期(3-5月)は政府機能の一部が移動してくるため,「夏の首都」という別名をもっている。

バギオは戦前から日本人とも深いつながりのある町である。マニラとバギオを結ぶ道路建設において,山間部の建設は難渋を極めた。米国人は日本人の勤勉さに着目し,移民労働者を大量に雇用した。

日本人労働者は劣悪な労働条件と過酷な自然環境にもめげず,多くの犠牲者を出しながらも1903年に完成させた。この道路は開発責任者の名前をとりケノン道路と名付けられたが,実質的には日本人が造り上げたものである。

左の地域地図において東回りでロザリオとバギオを結んでいるのがケノン道路である。google の地形図で見るとロザリオからバギオに向かう道路の7割は比較的開けた谷沿いのものであり,残りの3割が険しい谷沿いの道となっている。

ケノン道路はロザリオからの全行程が山岳道路であり,もろい地質のせいもあり自然災害によりしばしば寸断される。そのため,現在ではPugo を経由する西回りのマルコス・ハイウェイ(現在はBen Palispis ハイウェイと呼ばれているようだ)がバスが走る主要道路となっている。

バギオはルソン島北部に行く交通の要衝であり,バスターミナルにはマニラを始めとするルソン島南部地域およびビガンやボントックなどルソン島北部地域行きのバスが出ている。

町の中心部はバーハム公園を中心に設計された計画都市となっている。この公園はすり鉢の底の部分に位置する平地となっており,周辺はすべて傾斜地となっている。道路も複雑であり,歩いて回るにはやっかいなところだ。

オロンガポ→バギオ 移動

05:30にチェックアウトしてビクトリー・ライナーのバスターミナルに向う。バギオ行きの便は06:30,料金は420ペソに保険料5ペソを上乗せしてある。保険証の内容を読むと死亡および重後遺症の場合は2万ペソ,医療費は2000ペソとなっている。日本人の場合,これでは保険の意味をもたない。

朝食は近くのファストフード店でいただく。オロンガポはフィリピン式の食堂が少ないのでどうしてもファストフード店に頼ってしまう。この店は早朝06時にはもう営業している。

バスも03時くらいから動いており,朝の早い国民性のようだ。もっとも,バスの場合は早朝のものは涼しくて利用しやすいということもある。朝食は白いごはんが食べたいので注文したところフライドライスになっており,ちょっとがっかりである。

バスは定刻06:30の5分前に出発した。エアコンは適度に制御されており,それほど寒くはないので助かる。08時過ぎにサンフェルナンドのバスターミナルに到着する。方向からすると少しマニラの方向に戻ることになる。

サンフェルナンドは「バターン死の行進」の終点にあたり,近くでバランガで見かけた道標を見つけた。サンフェルナンドからアンヘレスを通り,北上していく。この辺りはピナツボ山の噴火による泥流が何本も流れたところであるが,道路を走っている限りではほとんどその影響は見られなかった。

11:45から30分の昼食休憩である。ここはバス会社と契約しているところであろう。大きな魚の頭を半分にして酸味のあるスープをかけたものとごはんで45ペソである。契約食堂ではこの値段は妥当であろう。このスープの酸味はタマリンドによるものであり,個人的にはとても好きな味の一つである。

ここの標高は50m,ここから1時間で1500mまで一気に上がる。横Gがずいぶんきつい。標高1000mを越えたあたりから周辺の地形を観察してみた。ここは日本人労働者が多くの犠牲者を出しながらも完成させたケノン道路であると感慨にふけっていたら,実際にはマルコス・ハイウェイであった。

日本人労働者が建造したケノン道路はロザリオから南回りでバギオに通じる険しい山岳道路であり,最短コースであるが,自然災害により寸断されることが多く,現在では北回りのマルコス・ハイウェイがメイン・ルートになっている。

標高が上がると雄大な景色が現れる。しかし,通路側の座席では写真にはならない。13:30にバスはバギオ・バスターミナルに到着した。ここには各社のバスターミナルが並んでいる。ターミナルの様子をチェックしながら坂道を上っていく。

YMCAのドミトリー

バギオはマニラの避暑地として発展した町であり,そのため安宿はおろか1000ペソ以下の宿を見つけるのは難しい。唯一の希望はYMCAのドミトリーである。バスターミナルから右側にSMバギオの巨大なショッピングモールを見ながら坂道を上り,セッション通りに出るとすぐにYMCAの建物が見えた。外観は三階建に見えるが,斜面を利用しているため,道路側より低いところに2フロアが加わっている。

建物の左側にある受付で「宿泊できますか」とたずねると,すぐにOKが出た。宿帳に記載するとき,前の宿泊者の日付が1週間ほど前になっていることに気が付いた。ここに宿泊する人は多くないようだ。2日分の料金の750ペソを支払うと,すぐにキーを渡してくれた。建物には24時間体制で警備員が詰めているので外出する時は彼にキーを預けていく仕組みになっている。

料金は1泊375ペソ,ドミトリーとしてはかなり高い部類に入る。事務所のフロアから一つ降りると体育館があり,その下のフロアにドミトリーの入り口がある。キーは2個あり,片方は入り口用になっている。内部には2つの部屋があり,下が女性用,上が男性用となっている。部屋に入るにはもう一つのカギが必要である。トイレとシャワールームは下のフロアにあり,どちらも清潔である。

ドミトリーの部屋は12畳ほどの大きさで7つのベッドが並んでいる。広い部屋の宿泊者は僕一人であった。もちろん下の女性部屋にも宿泊者はいない。つまり,広いドミトリーの建物の中にいるのは僕一人という状態であり,これはちょっと寂しい。ベッドは清潔で寝心地はよい。ただし,夜間はとても冷えるので,シーツを被るだけではまったく不十分である。

僕は半袖の上に長袖の上下を着て寝たが,寒さのあまりに冬用のフリースを着込むことになった。あまりの寒さに明け方の温度を測ってみたら20℃もある。20℃の夜はこんなに寒いとは・・・。日中でも25℃くらいまでしか温度は上がらないのでホットシャワーはとてもありがたかった。

フィリピンの夏とはいえ標高1500m,避暑地の夜は寒かった。日中は半袖でも十分な暖かさであるが,夕方になるとすぐに気温は下がり長袖が必要になる。

バギオは年間を通して気温の変化が非常に小さい。一日の最高気温が25℃,最低気温が15℃であり,ほとんど一年中同じようなものだ。これは東京の5月(最高気温23℃,最低気温15℃)に相当する。

バギオは5月から10月が雨季にあたり,8月の雨量は500mmを超える。それに対してマニラは3-5月がもっとも暑い時期(最高気温33℃,最低気温27℃)にあたり,首都機能の一部がバギオに移転する。

僕はマニラの暑さは平気だが,バギオの寒さには閉口した。宿泊したYMCAは少し厚手のシーツしか用意されておらず,夜の寒さに冬用のフリースを着込んで寝ることになった。

メインバスターミナル

バギオには二つのバスターミナルがある。一つはYMCAの近くのロータリーから南に下ったところにあるメイン・バスターミナルで,ボントックやバナウェのあるマウンテン・プロビンス方面以外のバスはすべてここから出ている。

主な路線は北部西海岸のビガン,サガダ方面,中部東海岸のアラミノスやハンドレッド・アイランド方面,マニラ方面である。ここには5-6社のバス会社が集まっており,それぞれ路線をもっている。料金もバス会社により異なる。

ターミナルには食堂や小さな商店があり食事も買物もここだけで済ませることができる。少しおなかがすいたのでフィリピン式のハンバーガーと7UP(合わせて31ペソ)をいただく。熱した鉄板の上でパンと冷凍のハンバーグをあたためるスタイルであるが,これはけっこうおいしい。

ジャパニーズ・ケークという名前で大判焼きが売られており,興味本位で1個(10ペソ)いただく。中は餡ではなくチーズであるり,これは不合格だ。日本の大判焼きは「Sweet Black Been」が入っているんだよと教えてあげたが,理解してもらえたかどうかは分からない。

歩道には果物の露店が出ており,イチゴは両手にいっぱいくらいの量で20ペソである。涼しい気候のバギオはイチゴの産地でもある。比較的小粒で酸味が強い。昔の日本でも路地物のイチゴはこのような味であり,とてもなつかしさを感じる。

この日はバスターミナルでずいぶん間食をしてしまったので,夕食はやはりここでゆで卵入りのおかゆ(28ペソ)をいたただく。これはなかなかのもので,ファストフードのチョウキングのものよりずっとおいしかった。

冷涼な気候を好むブロッコリーが見られる

お父さんと一緒

マグサイサイ通りを北に行ったところにあるダングワBT

もう一つのバスターミナルはセッション通りを北西に進み,マグサイサイ通りを北に行ったところにあるダングワ・バスターミナルである。ここからはボントックやバナウェ行きのバスが出ている。

バスターミナルは広場を囲むようになっており,いちおう食堂などもある。広場の入り口から向って正面にダングワ,左側にリザルドのチケット窓口がある。ここのトイレはちょっとひどかった。水も用意されていないのので久しぶりに紙を使用することになった。

バーン・ハイム公園

バギオの中心はバーン・ハイム公園である。公園の中央に100mX50mほどの池があり,その回りを緑地や芝生が囲んでいる。公園は地形に合わせて造られているので軸線は西に45度傾いている。

公園の南側にも緑地は広がっているがここは公園ではなくグラウンド,ローラースケート場,松林になっている。午前中に訪問した平和の塔はその林の中にある。また,学校のグランドもあり,授業の一環として,あるいはクラブ活動で汗を流す若者の姿も見られる。

公園内には自転車専用コースがある

公園および南の緑地はほとんど起伏のない平地になっており,それを取り巻くように幹線道路が走っている。公園と南側緑地の境界には道路があり,その一部は車両通行禁止となっており,自転車天国になっている。

道路わきには貸し自転車屋があり,人々は,といってもほとんどは子どもたちであるが,思いおもいにペダルをこいでいる。中にはフィリピンの街中で客を乗せて走るサイカー(サイドカー付きの自転車)もある。

なんといっても,この公園の周辺以外には平地はないので自転車はそれほど実用的ではない。また,フィリピンの道路は明らかに車優先であり,人々が安心して自転車に乗れるのはここしかないようだ。

池の遊覧ボートもけっこう混雑している

公園の池にはずいぶん色々なタイプのボートが浮かんでいる。白鳥型のボートは足踏み式で4人乗りなので家族連れで使用することができる。ふだんならばきれいな絵になるところであるが,天気がすっきりしておらず写真の色彩はいまいちである。

公園に遊びに来ていた子どもたち

ブラシノキ

池の周りには変わった花を付ける木がある。ヤナギのように枝を垂らしており,その中ほどに細い枝から放射状に何段もの赤い花をつけている。非常に分かりやすい形状と花をもつ植物なのですぐに名前が分かるかと思ったら,特定することはできなかった。

花と葉からオーストラリア原産のブラシノキ(フトモモ科・ブラシノキ属,Callistemon speciosus)に近いのだが,ブラシノキの枝はそれほど長く垂れ下がってはいないし,花の感じも少し異なっている。

こうなると近くからの拡大写真を残しておかなかったことが悔やまれる。オーストラリアに多いフトモモ科の植物はオシベが花弁のように華やかなものが多く,この旅行中も何種類かのものを写真に収めた。

■調査中

バギオの都市計画をまとめたバーン・ハイム

独立の英雄リサールの記念碑

池の北西側の芝生は人が歩き回るせいかかなりはげてしまっている。木陰を提供してくれる大きな木を囲むようにコンクリートのベンチがあり,人々はそこに腰をかけている。回りには食べ物を売る屋台が出ており,僕もゆでトウモロコシを買ってそこでいただく。

このブロックにはバギオの町を設計しこの公園に名を残すことになったバーンハイムの胸像と独立の英雄リサールの記念碑が池から見て直線に並んでいる。

制服姿の女子小学生

少し薄くなった芝生の上では3人の制服姿の女子小学生が遊びに興じている。セーラー服のように襟が背中を覆うブラウスと赤いチェックの制服はとてもキュートである。芝生ということもあり,遊ぶ時は裸足である。

遊んでいる写真を撮らせてもらったお礼に近くの水場から水を汲んできて(プラスチックのコップはいつもザックの中に入っている)ヨーヨーを作ってあげる。3個の予定であったが近くの子ども連れの家族が二組やってきて,合計5個作ることになった。

観光局でアボン・ホールの場所をたずねる

街の中心にはバギオの町を設計したバーンハム氏にちなんだバーンハム公園がある。地形に合わせているのでちょっと北西から南東方向が長い長方形になっている。公園の南側にも緑地は続いている。

僕は街の散策をかねて北側の角から入り,地図を見ないで歩いたためすぐに道をまちがえてしまい,南側緑地の角にある観光局に行くまでに1時間近くかかってしまった。まあ,おかげで公園の主要部は見ることができた。

観光局に足を運んだのは「アボン会館」の行き方をたずねるためである。20世紀の初めにマニラとバギオを結ぶ道路建設にたずさわった日本人移民労働者の一部は,工事完成後に現地の女性と結婚にて各地に日系人社会を作っていた。バギオには1200人ほど日本人が暮らしていたという。

しかし,太平洋戦争により在比日系人は敵国性市民となり,戦争末期には日本軍と行動をともにして自決した人たちも多い。戦後,日系人はフィリピン社会の憎しみを受けることとなり,日系人であることをひたしら隠して社会の底辺にひっそりと暮らしていた。

日本で教師をしていた「シスター・テレシア・海野」は定年退職後に悲惨な境遇に置かれた日系人を支援するため,1972年にバギオにやってきた。シスター海野は日系人を見つけ出し,支援活動を開始した。多くの日系人が彼女の活動により窮状から救われた。

彼女は日系人を支援するとともに,比日友好協会(1972年)および北ルソン比日基金(1987年)を創設した。フィリピンで客死(1989年)した彼女の人道的な活動を記念して建設されたのが「アボン会館」である。

観光局の受付で「アボン・ホールの場所は分かりますか」とたずねると,その女性は周囲の人としばらく話しをしてから,観光用の地図に印しを付け,電話番号を記してくれた。

自分のガイドブックの地図で照合すると,公園の西を走るレガルタ通りからホテル・バギオ・パレスの向かい道を入ったところである。こちらの地図にはアボング・ハウスというホテルがある。これと混同したのでは半信半疑で観光局を後にする。

バギオ博物館

観光局の隣には「バギオ博物館」がある。ここにはルソン島北部山岳地帯の少数民族に関する展示や日本人会の展示があるというので見学したかった。

しかし,門は施錠されており,開いているようには見えなかった。入り口がちがうのかと,背後に回ってみたが,やはりここしか入り口はなかった。翌日,訪問しても同じ状態であったので何らかの事情で閉館されているようだ。

バギオのページを書いているとき,2009年の4月末にここを訪問した人の写真を見つけた。入り口上部にある「Baguio-Mt.Provinces Museum」の看板が異なっていたので,改装中だったのかもしれない。

英霊追悼碑と平和の塔

昨日の観光局の前を通りガバナー・パック通りを行くと左側に「英霊追悼碑」が,右側の林の中に「平和の塔」がある。「英霊追悼碑」は比日国際友好協会が中心となって浄財を集め,1973年にフィリピン国立大学に隣接する日本庭園内に建立された。

現在は管理を北部ルソン比日基金に委託している。民間建立の慰霊碑でありながら,1973年から毎年慰霊祭が開催され,必ず日本大使館員が出席しているという。また,バギオ市の幹部も出席しているという。

太平洋戦争で最も多くの日本軍将兵が犠牲となった(約50万人)フィリピンでは日本大使館が確認しただけでも266基の慰霊碑があるという。その中でもこの施設はもっとも管理の行き届いたものの一つである。

日本人戦没者の慰霊碑を戦場となった国々に建てるのは一定の配慮が必要である。日本人が自国民の犠牲者を悼むように,それぞれの国の人々も戦争に対する国民感情と自国民の犠牲者を悼む気持ちを持っている。そのような人々の気持ちを斟酌する国際感覚が必要ということだ。

フィリピンでは110万人(フィリピン政府調査)もの人々が戦争の犠牲になっている。日本軍により殺害された人々も数多い。そのことを横に置いて,日本人戦没者だけの慰霊碑を建立したら,フィリピンの人々はどのような感情を抱くであろう。

戦後,フィリピンの日系人はひたすら出自を隠してひっそりと暮らさなければならなかったことは,フィリピン人の国民感情を端的に表している。日本国内と海外では慰霊碑,追悼碑に対する視線が異なることを認識しなければならない。

幸いなことにバギオの「英霊追悼碑」はバギオ周辺の戦闘で亡くなった日本人戦没者だけではなく,フィリピン全土で戦争の犠牲になった全ての日本人,日系人,フィリピン人そして連合国将兵への追悼の碑とされている。

施設の周囲は鉄柵で囲われており,定期的に手入れがされているようだ。ちょうど掃除の時間で扉が開いていたので,掃除のおじさんに断って中に入る。よく手入れされた日本庭園の中央に「英霊追悼碑」がある。午前中は完全な逆光になっているので午後に撮った写真を掲載する。

石碑には「英霊追悼碑」の文字が彫り込まれており,その下には「Filipino Japanese Friendship Memorial Shrine」と記された黒い石板が取り付けられている。

ガバナー・パック通りを挟んで「英霊追悼碑」の向かい側には松林に囲まれた「平和の塔」がある。この塔はライオニズムを通じて世界平和と理解のためにバギオと日本のライオンズクラブにより1973年に建立されたものだ。これは,「英霊追悼碑」と同じ年である。

道路を横断すると左手に銀細工で有名な「イバイ・シルバー・ショップ」があけれど,僕には用の無いところだ。五葉松の林の中の道をたどっていくと「平和の塔」があった。周辺は落ち葉などもなく掃除が行き届いている。しかし,石碑にはスプレーを使用した落書きがたくさんあり,気の毒な状態である。

中心部ロータリーを迂回する陸橋

ガバナー・パック通りをそのまま南に下るとマルコス・ハイウェイに出るが,その手前でバーンハム公園の西側を走るキサッド通りと交差する大きなロータリーがある。

このロータリーは4本の幹線道路がつながっており,かっては交通渋滞がひどかった。渋滞緩和のため,ロータリーをまたぐ陸橋(鉄橋)を造り,ガバナー・パック通りとマルコス・ハイウェイを直接結ぶようにしている。写真の左の道路は陸橋に向かい,右はロータリーに入るためのものだ。

学校の多い町

バギオは北ルソンの教育の中心地である。フィリピン大学バギオ校をはじめ7つの大学があり,2007年のデータでは人口30万人のうち14万人を学生が占めている。バスターミナルの通りを下っていくと右側にコルディエラ大学がある。ここは二つの通りが交差する三角地帯に位置している。

本館は8階建てくらいの近代的な建物である。この建物はバスターミナルの東側にあるショッピング・モールの「SMバギオ」のテラスから眺めることができる。 新しい感じの建物なので1990年の大地震以降に建てられたものなのであろう。

坂道を下ると博物館の前のロータリーに出る。その西側には通りをはさんでバギオ市立高校がある。フィリピンの学制は日本と異なっておりelementary school (小学校,6年),high school (高校,4年)であり,ここまでが義務教育となる。

高校の先はunivesty (総合大学)もしくはcolledge (単科大学)となる。大学進学率は約30%と高い。大学の授業料は11,000ペソから95,000ペソくらいまでの幅があり,国立は安く,市立は高い。また,学部により異なる。

フィリピンでは都市部の小学校はセキュリティのため塀を巡らし,門は施錠される。ここの二つの学校はどちらも入り口に警備員がおり中には入れない。ハイスクールは門のところから写真を撮ることができた。こちらも新しく,堂々とした外観である。

ローラー・スケートのリンク

公園の南東側の緑地にはローラー・スケートのリンクがある。リンクの直径は50mほどあり,内側と外側に遊具が置かれている。天上は半透明のプラスチック・ボードで覆われており全天候型の施設となっている。今日は休館日なのかここで遊ぶ子どもの姿は見られない。

地元の女子中学生がやってくる

四人組の一人がポーズをとってくれた

プリ・スクール(幼稚園)の卒業式

宿に戻ると着飾った子どもたちと親が建物から出てくる。実はYMCAの建物にはコンベンションホールがあり,そこでプリ・スクール(幼稚園)の卒園式が行われていた。

すでにセレモニーは終了しており,会場では記念写真を撮る親子が残っていた。僕もその記念写真に便乗して3枚ほど撮らせてもらう。子どもたちの服装は男子が白いシャツに黒ズボン,女子は白いドレスである。

3月のフィリピンは卒業式のシーズンにあたり,多くの学校では卒業式のセレモニーが晴れやかに行われていた。僕の見た範囲では日本のように形式ばった儀式ではなく,ずいぶん楽しいものであった。YMCAの建物の外では友だちと遊ぶ卒業生がおり,ここでも楽しい写真が撮れた。

アボン・ホール

公園の外周道路であるキサッド通りを北上し,途中で西側のレガルタ通りに出る。ホテル・バギオ・パレスの向かい坂道を上っていくとインターナショナル・スクールがあり,ここの警備員にたずねて行き方を教えてもらった。アボン会館は少し大きな民家のような建物で,入り口には「Filippino-Japanese Fundation of Northern Luzon, INC (Abong)」と記されている。

呼び鈴を鳴らすとスタッフが出てきて,「シスター・テレシア・海野」の活動について知りたいと告げると,フィリピン人のディレクターに会うことができた。停電のためビデオは見られないので,彼は本を持ち出してきた。

「バギオ日本人史」というべき大判の本には1900年代の初頭からのバギオにおける日本人コミュニティの活動が写真付きで記載されていた。ルソン島北部における日本人の歴史が記された貴重な本は2000ペソ,重さも800gあり,この先も旅を続ける計画の僕はとても持ち運ぶことはできないので断念した。

丘の上からは南方向が開けており,となりの丘の斜面に高密度に固まっている家屋を見ることができる。同時に緑の占める面積もかなり多い。バギオは町の中心部しか見なかったが,地図で見る限りではこのような地形が多いのだろう。

板張りの家はなんとなく日本の古い家屋を想起させる

坂を下っていくと古い木造の家屋を見つけた。板張りのこの家はなんとなく日本の古い家屋を想起させる。日本人とのつながりが深い土地柄なので,こんな風に考えるのかもしれない。

■調査中

■調査中

バギオ大聖堂

YMCAの建物の前の道を北に行くと丘の上に立つバギオ大聖堂に出る。正式名称は「Our Lady of Atonement Cathedral」というらしい。日本語にすると贖罪聖母大聖堂となるが,バギオ大聖堂の方がずっと分かりやすいので,地元でもそのように呼ばれている。

このバギオを代表する建物も1990年の大地震により大きな被害を受けた。この地震の規模はM7.7,死者・行方不明者は2000人を越え,バギオに通じる3本の主要道路はすべて寸断された。

特にロザリオから南回りでバギオに向うケノン道路の被害は大きく,14ヶ月もの間全面通行不能となった。この道路は戦前に多くの日本人労働者の犠牲の上に完成したものだ。

ケノン道路はバギオに向う最短コースであるが,険しい地形や脆い地質のため地震,台風などの災害に弱く,緊急復興工事の翌年も台風により大きな被害を受けている。

ケノン道路は地域住民のための生活道路として機能しているが,土砂崩れ,落石が頻発する危険な状態のため,現在でも10トン以上の車両の通行は禁止されている。僕はバギオに来る時,ケノン道路を通ったとばかり思っていたが,実際はロザリオから北回りのマルコス・ハイウェイだったようだ。

バギオの町でも多くの建物が全壊あるいは半壊した。バギオ大聖堂は倒壊を免れたが,地震以前の写真と比較してみると正面外観はかなり変わっていた。ネットで地震被害を調べていたら地震直後の写真が見つかったのでお借りしてきた。

石段の途中にこのような像がある

石段を上ったところに教会の建物があり,その途中に二人の女性(恐らく聖母マリアとマグダラのマリアであろう)に見守られている十字架のイエス・キリスト像がある。これも地震後の新作である。

周辺に他の建物が無いので教会の構造はよく分かる。長い長方形の建物と短い長方形の建物が交差し,上から見ると十字架の形になる。いわゆる十字架プランという教会建築様式である。

入り口のところに一対のかわいい陶器製の天使像がある

入り口のところに一対のかわいい陶器製の天使像がある。これはできが良い,思わずかがみこんで写真を撮ってしまう。黄色の長衣と青い羽が印象的だ。それにしても両手で抱えている鉢は何だろうね。

バギオ大聖堂の正面祭壇

入り口から見ると二列の礼拝用の長いすが奥まで続いている。十字架の交点から奥側は聖壇となっており,最奥部は半球状のドームになっている。これも十字架プランに忠実な構成である。半球状ドームの壁面にはステンドグラスが取り付けられており,とても明るい聖壇になっている。

祭壇には聖像は無く手前に十字架のイエス像がある

SM City Baguio

SMシティ・バギオは市内でも最新・最大のショッピングモールである。バギオ中心部のすり鉢の底にあるバーンハム公園から見て遮るもののない丘の上にあるのでとても良く目立つ。

市内の他の場所からも見ることができるのでランドマークとしてもありがたい建物である。丘の上の建物なので,逆にそこからは市内全域を眺望することができる。

僕はここでなら日本語環境のインターネットが利用できるかもしれないと思ってやってきた。残念ながら店内を一回りして複数のネットカフェにあたってみたが,どこも日本語環境はなかった。

西に面した2,3,4階にはテラスのような外廊下があり,中心部にはさらに半円状に張り出したテラスがある。ここからはバーンハム公園やその背後の丘に広がる家並みを眺めることができる。バギオの一級品の眺望を無料で楽しむことができるという旅人にとってはとてもありがたい場所だ。

公園を眼下にしているせいもあり,緑の多い街という印象を強くした。公園の北西側の大きな建物やすぐ下に見える学校の建物はほとんど新しい。これは1990年の大地震によるものであろう。

上層階のテラスにみられるようにSMバギオは側面に大きな開口部をもっており,最上階である4階の通路の屋根はテントになっている。

フィリピンの中では例外的に涼しい気候なので,建物内を閉鎖空間にして冷房を効かせる必要がないのだ。フィリピンのショッピングモールとしては特異な形態である。

内部はフィリピン各地にあるSMシティと同様に買物と食事,エンターテイメントが押し込まれた空間になっており,フィリピンの若者のデート・スタイルも観察することができる。

1階はスーパーマーケットになっている。店内の商品の配置,キャッシャーの対応などのシステムは日本と同じというより,米国と同じように見える。

人件費の安いフィリピンならではのサービスは,レジの外に商品を袋に詰める補助要員が付いていることである。フィリピンではエンジニアや事務職の給与は200-300ドル程度であり,地方の店員の給与は100ドルに満たない。

子ども向けのミニ遊園地もあり,かわいい被写体にも事欠かない。当然,子どもたちには親が同伴しているが,見知らぬ外国人が子どもたちにカメラを向けても笑って許してくれる。

セッション通りのにぎわい

ルソン島北部地域の土産物が並ぶ

日本では見かけない昆虫


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