亜細亜の街角
スービック経済特区の雇用に支えられた町
Home 亜細亜の街角 | Olongapo / Philippines / Mar 2009

オロンガポ&スービック  (地域地図を開く)

オロンガポとスービックはバターン半島の西側の付け根に位置している。マニラから北西に80kmのところにあり,かってはスービック湾を囲むように米国海軍最大の海外基地があった。この海軍基地は陸地面積が7000ha,スービック湾の内水面を含めると15,000haという広大なものであった。

ところが,沖縄本島(面積1206km2)には28もの米軍施設があり,その総面積は約23,000haとなっている。本島面積の19%が米軍基地に占められているのだ。うかつであった,沖縄本島の米軍基地はスービックよりはるかに大きなものだったのだ。

太平洋戦争末期の沖縄戦(1945年)では10万人近い民間人が亡くなり,その後,60年以上が経過し,冷戦も終結している。しかし,この小さな島に日本の米軍基地の75%が集中する異常な状況はほとんど変わっていない。

日本の安全保障のため沖縄の基地は不可欠とはいえ,あまりにも過大な負担を沖縄の人々にかけ続けたきた。どうすれば沖縄の負担を軽減できるかを日本国民として考えていかなければならない。

オロンガポ市はスービック湾の東側に位置し,米軍基地の雇用が町の経済を支えていた。スービックはもともとスペインの海軍基地があったところで,1898年の米西戦争の結果,管理権は米国に移った。

フィリピン独立後の1947年に締結された「比米軍事協定」により米国海軍の正式な基地として法的地位が確立した。スービックから60kmほど北東にあるアンヘレス市には同様にクラーク空軍基地があった。

1991年にピナツボ火山の噴火によりクラーク空軍基地は降灰のため壊滅的な被害を受けた。同年フィリピン上院は米比友好協力安全保障条約の継続を否決し,1992年に米軍は撤退した。

二つの米軍基地は隣接する地域に大きな雇用機会をもたらしていた。スービックの場合,オロンガポ市の基地関連雇用は約5万人(基地の直接雇用4万人,風俗関連が1万人)と推計されていた。米軍の撤退によりこれらの雇用が失われ大きな社会問題となった。

フィリピン政府は「外国投資法及び基地転換計画法」を制定し,米軍の残した港湾施設,修理ドック,3000m級の滑走路を有する空港,多数の兵舎等の施設を利用した経済特別区として再開発を進めた。

法人税の低減,輸出入関税の撤廃により,台湾,日本,韓国,米国などの多数の企業が進出し,10年を待たずに米軍基地時代とほぼ同数の雇用が生み出されるようになった。また,米軍の残した施設を利用した観光開発も進められている。

1993年に訪れた時,基地返還直後のオロンガポの町は見る影も無いほど寂れていたが,現在では経済特別区の雇用により活気を取り戻している。そのためかバスターミナル周辺の宿は700-900ペソと高く,宿探しにずいぶん苦労した。

バランガ→オロンガポ 移動

06:40にチェックアウとしてビクトリー・ライナーのバスターミナルに向う。バスターミナルは橋のすぐそばにあり,インドキワタの木が盛大に実を付けていた。この季節にはほとんど葉を落としているにはずなのに,ここのものは若葉がずいぶん繁っている。

それでも細長い実を隠すほどではない。この実は熟すと開裂し,中から綿状の繊維が出てくる。この木はまだ熟し方が不足しているのか白い繊維質はほとんど見られない。

07時発のバスは「オーディナリー」,つまりエアコン無しのエコノミークラスである。エアコン嫌いの僕にとってはありがたいバスだ。バスは北に向かって走り出したが,車内からは「死の行進」の道標をほとんど確認することはできなかった。

右側に養殖場の池が現れる。エビ養殖場のように水中に酸素を供給する水車設備はなく,大きな池が何面も続いているだけである。フィリピンではミルクフィッシュ呼ばれる魚の養殖も盛んなので,そちらかもしれない。

バスはサンフェルナンドに向かう幹線道路から西に折れ,山道に入り,北部のピナツボ山からバターン半島の南端まで延びる山群を越えてオロンガポに到着した。所要時間は約1.5時間,まだ時刻は08:30である。

Mark T

オロンガポの中心部には大きなロータリーがあり,ビクトリー・ライナーのバスターミナルはそのすぐ北側にある。このあたりならスービックよりは安い宿が見つかるだろう。

しかし,Arlenes は900ペソ,Sunshine は700ペソ,う〜ん,これでは高くて泊まれないな。どうも500ペソ(1000円)あたりに精神的な障壁があるようだ。

ロータリーの南東側にあるVilla Galore GH はMark Tに変わっており,エアコン無しの部屋で500ペソである。部屋に案内されてみると天井と枕元の壁が鏡張りになっている。これは日本を真似たフィリピン版のラブホテルである。

さてさて,どうしようかと思案してみたものの,他に宿のあてはないし,部屋そのものは清潔なのでここに一泊することにした。部屋は10畳,ダブルベッド,トイレ・シャワー付きである。

町の中心部のロータリー

オロンガポの中部のロータリーには巨大な男性の胸像が置かれている。この像は「オロンガポ」という地名の元になったとされる,勇敢で人々から愛された「族長アポ」のものとフィリピン通のサイトでは書かれていた。

周辺にある4体の像を含め先住民のように見える。一口に先住民と言ってもフィリピンの民族構成はかなり複雑で,ネグリト,原始マレー,古マレー,新マレー四層構造になっている。

ネグリトはBC3.0-2.5万年頃に最初に移住していた集団で,マレー半島からインドネシア,フィリピンの山間部に居住している。身長は低く,肌色は暗褐色か黒色,毛髪は縮れ毛というように身体的特徴はネグロイドに類似している。しかし,アフリカのネグロイドとの類縁関係は薄いとされている。

東南アジア島嶼部の先住民族であるネグリトは,その後にやってきたマレー系集団(古モンゴロイド,南方系モンゴロイド)により山間部に追いやられたと考えられている。

マレー系集団はその移動時期から3つに区分されているが文化的な差異はあっても身体的な差異は顕著ではない。移住してきた集団は時代が新しいものほど勢力が強く,現在平地で暮らしているフィリピン人はほとんどBC500年頃から紀元後にかけて移動してきた新マレーの子孫である。

ロータリーの北側にビクトリーライナーの立派なバスターミナルがある。そこからはマニラ,バギオ,バランガ行きに加え,近郊各地へのバスが出ている。僕の次の訪問予定地はバギオなので移動の足は大丈夫のようだ。

スービック・メインゲート

中心部のロータリーから西にリサール通りが走っており,1.5kmほどでスービックとオロンガポを隔てている水路に架かる橋に出る。オロンガポに行くにはその少し手前のロータリーでマグサイサイ・ドライブに入るのが一般的だ。

オロンガポとスービックの入り口ともいうべきメイン・ゲートを結ぶジープニーはこのルートを走っている。この黄色の車体のジープニーは頻発しており,移動には不自由しない。もっとも黄色のジープニーは水路を越えてスービックに入ることはない。水路の手前が終点となる。

現在はスービック経済特区となっている

おなじみのジョリビーの看板も見える

ドゥンガリー・ビーチ

バスターミナルからはキュービ国際空港行きのミニバスが出ている。このバスはスービック湾に沿って半周し空港の南側を通る。滑走路の西の外れに内陸部に向う道路との合流点がありここで下車する。

この合流点では警官が車両をチェックしていた。この親切な警官は道をたずねるとていねいに教えてくれた。合流点から歩いて10分ほどでドゥンガリ・ビーチに到着する。

スービックでは車による移動があたり前で道路を歩いている人はほとんどいない。周辺には米軍兵士のためのビーチがいくつかある。一番近いドゥンガリはゴミの少ないきれいなビーチであった。

遊泳許可範囲は浮きをロープでつないだフェンスで囲まれている。遠浅の海の透明度は高い。家族連れに混じって20人くらいの若い女性の集団が遊びに来ていた。

彼女たちはビキニとショートパンツといういでたちである。東アジアや南アジアでは宗教にかかわらず女性のこのような姿を見ることはまずありえない。キリスト教と米国統治の影響なのだろう。

米軍の残した正負の遺産

この海水浴場も隣接する飛行場も米軍の残した正の遺産の一部である。その一方,環境汚染という米軍が残した負の遺産もある。撤退前に米軍によりスービックとクラークの環境汚染が調査されたことがある。

およそ100年間,米軍基地として使用されたスービックではアスベスト,石油系炭化水素,PCB,殺虫剤,農薬,重金属(鉛,水銀)など多くの有害物質が使用された。

これらの一部は不適切な処分あるいは流失により土壌や地下水を汚染している。米国の「スーパーファンド法」は土壌や地下水を汚染した企業は原状回復の義務を負わされる。

土壌汚染は日本でもときどき話題となる。汚染された土壌を除去・処分し新しい土壌で埋め戻す費用は莫大なものになる。スービックでは実際に浅井戸の水を使用した人々に健康被害が発生している。

調査報告書は「基地協定は基地使用ないし撤退にあたり,明確な環境責任を米国に課していない」として,汚染除去義務については米国法の埒外にあるとしている。つまり,フィリピン政府は米国の法律や米軍の内部規則に基づき被害請求をすることはできないとしている。

コレヒドール通りを歩く

合流点に戻りバット・キングダムを目指す。ガイドブックにしたがいコレヒドール通りを南東に歩き出す。この道沿いにはフィリピンでは珍しく大きな木がたくさんある。米軍基地になっていたため木材伐採から守られたのだ。

大きな木には樹種を示すプレートが取り付けてある。それほど発達していないけれど板根状の根をもつ大木は「Kupang」となっている。この木はたくさん見られたので1970年代に大量に日本に輸入されたフィリピン・ラワンなのかな。

散らばっているのは種子ではなく花であろう

それぞれの種子には一枚の羽が付いている

道路わきにたくさんの種子が落ちていた。それぞれの種子には一枚の羽が付いている。この植物の繁殖戦略は種子を風により遠くに運んでもらうことのようだ。

羽は左右対称ではない,片側が長く伸びている。このため一枚羽にもかかわらず種子は回転しながら落下し,地面に到着するまでの時間は種子単独の落下よりずっと長くなる。

そのような戦略も適度な風がないと効果が出にくい。この地面にはたくさんの種子がまとまっている。緑色のものは今年の種子であり,黒くなっているものは古いものだ。

■調査中

コレヒドール通りの両側は原生林のようになっている

道路の山側はほとんど原生林のように植物が絡み合いながら繁茂している。いわゆるジャングルであり,とてもここに入り込みたいとは思わない。

道路の周辺の植物を観察しながらゆっくり歩いているとフィリピン・オナガザルのビューポイントの看板がある。看板にはサルを観察する時の注意事項が記されている。とはいうものの,近くにはサルがいる気配は無い。

バット・キングダム

ガイドブックに記載されているバット・キングダムもこの近くのはずなのだが一向に「コウモリの木」も見つからない。たまたま通りかかった人にたずねると,「バット・キングダムならずっとむこうだよ」という答えである。

「ガイドブックにはこのあたりとなっていますよ」と反論すると,「確かにあちらだよ,信用しなさい」と言われ,引き返すことにした。さきほどの合流点が近づくと確かに標識があった。来る時はこの標識を見落としたようだ。

合流点からコレヒドール通りの一本北側のサンバレス・ハイウェイを上ると5分ほどで「コウモリの木」が見えた。これこれ,ガイドブックくん,ここのコウモリは頻繁にねぐらを変えるとでもいうのかい。

それは奇妙な光景であった。翼を広げると50cmはありそうなコウモリが空港側の斜面に生えている10数本の枯れ木にぶら下がっている。風が吹くと黒いかたまりが揺れるのでなんとも不気味だ。

コウモリはまるで観光客に見てもらおうとしているかのように,道路近くの木に集団を作っている。このコウモリはフルーツ・バットなので特にねぐらの木に悪さをするわけではないが,なぜか彼らが集まると木は枯れてしまうようだ。少し先には新しくねぐらになった木があり,それらは葉が少なく明らかに弱っているようだ。

NOKIA杯バスケットボール

合流点に戻りミニバスでメインゲートまで戻る。島側のウオターフロントまで歩く途中にNOKIAの垂れ幕のある体育館があった。中に入るとバスケットボールの試合が行われていた。

米国統治時代を経験しているフィリピンでもっとも人気があり,スポーツ人口の多いのがバスケット・ボールである。どこの町に行っても屋根付きのバスケット・コートを見かけるし,ゴールリングとバックボードだけのものならば本当にどこにでもあると言ってよい。

1938年に発足したPBA(Philippine Basketball Association)と呼ばれるプロリーグもあり,1つのシーズンがフィリピン人選手だけが参加するフィリピン・カップと外国人選手の参加が認められるフィエスタ・カンファレンスの2つで構成されている(wikipedia)。

■調査中

プルメリア(インドソケイ)

ウオター・フロント

メイン・ゲートの前の通りをまっすぐ南西に歩くとウオター・フロントに出る。ちょうど桟橋があり,グランデ島から戻ってきた観光用クルーザーがゆっくりとこちらに向って進んでくる。

地元の若い女性のグループが遊びに来ていた

海沿いは公園になっており,地元の若い女性のグループが遊びに来ていた。集合写真を一枚撮るとグループの中に坐らされ,おしゃべりをすることになった。このあたり,フィリピンの人々はとても気さくだ。残念ながら僕の頭にはこのようなときの会話はほとんど記憶に残らない。

何かのはずみで,近くにやってきた移動販売のアイスクリーム屋から9人分を買って彼女たちにおごることになった。しかし,1個20ペソのアイスクリームはひどいものであった。彼女たちも「10ペソのものよりひどいわね」などと話していた。

空港方面には巨大なクレーンが林立している

埠頭からはスービック湾をはさんで空港方面を眺望することができる。こちらには巨大なクレーンが林立している。埠頭から陸側をみると瀟洒な白い建物があり,この眺めもいいね。

新しいモニュメントは内容不明である

埠頭から陸側をみると瀟洒な白い建物が見える

巨大な埠頭

あまりのんびりもしていられないので彼女たちとお別れして,近くに見える大きな埠頭の方に歩き出す。このコンクリートで固めた埠頭は巨大かつとても長い。幅は10m以上もあり,湾側には幅の広いレールが先端まで続いている。

往時はこの埠頭に巨大な艦船が停泊し,このレールを使用して補給品を積み込んでいたのであろう。今となっては巨大すぎる埠頭であり,クレーン設備も無いのでここは貨物埠頭としても使用されていないようだ。

この要塞遺跡はスペイン時代のものなのかな

船の錨がおもしろい雰囲気を出している

公設市場

オロンガポ中心部ロータリーの南東側に公設市場がある。さすがは20万人の台所を預かる市場は大きく盛況であった。市場ではやはり魚屋がおもしろい。おっ,マグロの兜首がおいてある。でも,胴体はすでに売られてしまったようだ。

こでは大きな魚は輪切りにされるか深い切れ目を入れられている。フィリピンでは小さな魚を焼くことはあっても,大きな魚の切り身を焼く習慣はあまり無いようだ。輪切りのものはスープかから揚げにされる。調味料の違いからか魚の煮付けのようなものにはあまりお目にかからなかった。

刺身にできそうなくらい新鮮なマグロやカツオがスープやから揚げにされるのはとても惜しい気がする。それでも,豪快なバーベキューはある。ミンダナオ島のスリガオではカツオ一本をそのままバーベキューにしたものを見かけた。

あの厚い魚体の中まで火を通すためには表面はかなり焦げ付いてしまう。いったいどのような味になるのか興味があったので一かけらをいただいた。意外というかやはりというか,軽い塩味が効いていてデリシャスであった。

フィリピンで自炊をするなら,新鮮な魚が食べ放題である。個人的にはミルクフィッシュなどはニシンに似ているので,焼いて酢醤油でいただくととても良さそうに思われるが,まだ試したことはない。

子どもは母親のそばにいるか市場で遊んでいる

市場ではたくさんの女性たちが働いている。彼女たちの子どもは母親のそばにいるか,市場で遊んでいる。そんな子どもたちの写真を撮るのも楽しい。

サンパギータ

売りもののサンパギータの花がつるされていた。この小さな白い花は香がいいので,糸に通されて教会などでよく飾られている。サンパギータは1937年にフィリピンの国花に制定されている。

和名はマツリカ(茉莉花),モクセイ科・ソケイ属のジャスミンの仲間である。タガログ語の「Sumpa-kita(永遠の愛を誓う)」がそのまま花の名前になっている。これは花言葉ではなく,そのものずばりの素晴らしい名前だ。

「自由人」というブログにフィリピンに伝わるサンパギータの哀しい伝説が紹介されている。

昔,ある大国の美しい王女には結婚の約束をした勇敢な恋人がいました。しかし隣国と戦争が始まり,恋人は出征していきました。恋人の帰りを待ちわびる王女のもとへ恋人の戦死の知らせが届くと王女は自害しました。国民は海の見える丘の上に王女の墓をつくりました。やがて王女の墓から甘い香りのする純白のサンパギータの花が咲くようになりました。

いかにも「永遠の愛を誓う」という名前にふさわしい伝説である。僕は今までこの花輪を見るとフィリピンでよく見かけるとても香りのよい花くらいのことしか思い浮かばなかったが,名前のいわれや伝説を知ると新たな気持ちで見るようになることだろう。

屋外市場

市場の外には木製の台の上に商品を並べた野菜屋が並んでいる。形と色はともかく種類は日本と変わりない。タマネギは概してずいぶん小さい。日本のタマネギは大きくて見栄えがするが,それは多くの農薬に頼る栽培の成果である。

タマネギは日本を含め東アジアではなくてはならない野菜であるが,日本で栽培が始まったのは明治時代という新参者の野菜である。しかし,世界的にみると古代エジプトの時代にはすでに栽培されており,それがギリシャ,ヨーロッパ世界に伝わっていった。

タマネギの原産地はというと,中央アジアが有力とされているが,栽培起源があまりにも古くて野生種を特定できていない。この地域を旅行すると3-5cmほどの小さなタマネギをよく見かける。中にはネギの根本が少し膨らんだ程度のものもある。

このような小さなものが原始型のタマネギであり,日本のような大玉のものを栽培するには大変な苦労があるのだ。特に暑い気候で立派なタマネギを栽培するのは大量の農薬が欠かせない。

日本のタマネギの半分以上を生産している北海道は夏場の栽培なので,いきおい農薬の散布回数も10回程度に増える。それに対して本州以南のものは冬から春にかけての栽培なので農薬も5回程度で済む。

1990年にタイの農村を訪問した農民作家の山下 惣一 さんは日本に輸出するため農薬にまみれたタマネギ畑を見て,「タマネギ畑で涙して」を著している。

日本人の野菜に対する商品志向は明らかに外観重視である。虫食い穴がある葉物野菜は敬遠され,自然に実ると曲がってしまうキュウリもスーパーからは締め出されている。そのように見栄えのよい野菜を作るためにどれほどの農薬が使用されるかについては関心が薄いようである。

多くの農薬は生物にとっては毒物である。国の定めた基準値以下ならば安全というものではない(確率的に許容できるレベルということになる)。できるだけ農薬を減らした野菜が望ましいのは明らかである。見た目の良い野菜か,農薬の少ない野菜か,消費者の目はなかなか開かないようだ。


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