亜細亜の街角
9年ぶりのアンコールは整備が進んでいる
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シエムリアプ

ムアンコーン→ウボン→アランヤプラテート→シエムリアプ移動

ムアンコーン(ラオス)→パクセ(ラオス)→ウボン(タイ)→アランヤプラテート(タイ)→シエムリアプ(カンボジア)と移動する。ムアンコーンからメコン川を下るとすぐにカンボジアに入るが,ここは水路も陸路も外国人には国境は開かれていない。そのため,ずいぶん遠回りをしてカンボジアに入ることになった。

ムアンコーンからパクセまでは小型トラックバスで移動した。僕が乗るときにはすでに満員状態で,さらに何人かが乗ることになり,超満員の状態となる。中央にはコメの袋のようなものが置かれており,足の踏み場も無い。乗客を数えてみると大人だけで25人居る。ほとんど身動きのとれない状態となる。

バスはフェリー乗り場に到着した。実際にはフェリーとは名ばかりで,ボート3隻に板を渡して固定したものだ。いちおう,車が2台乗っても問題はなく,無事に対岸に到着した。ここから先はひたすら身動きのできない,がまんの2時間半であった。09時にパクセに到着。ようやく体を動かせる。

パクセでバス・ワンタオと繰り返すとトクトクに拾われた。なんと,ものの3分でバスターミナルに到着した。料金はしっかり2000キープ取られた。バスターミナルではワンタオ行きの小型トラックバスが待っている。これもすでに満員であり,中央のベンチに足を縮めて座ることになった。

バスはほとんど一直線の舗装道路を走る。乗客からここがワンタオだよと教えられたが,実際の国境はもっと先であった。バスは大きなターミナルに着いた。ここから国境まではバイクタクシーで移動したが,これも3分の距離であった。

ラオス側のイミグレーションの建物は新しく立派である。イミグレーションで手続きを終え,ここから歩いて国境を越えることになる。その前に余ったラオスキープをタイバーツに両替する必要がある。

両替所は見当たらないので大きな店に入り両替所をたずねると,その場で両替してくれた。銀行レートより4%ほと悪いが,ともあれ両替はできた。鉄柵のゲートをくぐって国境を越える。 タイに入ると雰囲気が変わる。果物が安い。マンゴスチンもランブータンも30〜35バーツ/kgとラオスの半額である。マンゴスチンは熱帯果物の中で持ったも好きなものであり,1kgを買って,その場でいただく。

入国手続きも終わっていないのにすっかりタイの人となる。タイのイミグレーションはこの市場の50mほど先にあり,手続きをして晴れて国境移動は終了する。

イミグレーションの前に中型のトラックバスが停まっており,ピブン行きは5分後に出るという。荷物を持って乗り込む。荷台の幅が小型より50cmほど広いのでずいぶん楽だ。接続の良さに昼食はお預けである。

バスは1時間でピブンのバスターミナルに到着する。このでも動き始めたバスの車掌に荷物を運ばれ,再び昼食なしでウボンに向かう。ウボン到着は12時30分,6時間の移動であった。

ウボンで1泊し翌日の06時にチェックアウトし,ホテルの外のトクトクで鉄道駅に向かう。これはけっこうな距離であった。コラート行きのキップは窓口ですぐに手に入った。キップには06時35分発,12時15分着と記載されている。

列車はすでに入線しており,列車番号は地元の乗客に教えてもらった。06時45分の出発時に乗車率は90%を越えている。車両はかなり古いものだ。窓は下に押し下げて開く方式であり,上から金属製のシールドが下りるようになっている

。シートの幅が広いのでゆったり座れ,快適である。線路の両側は森か水田が広がっている。しかし,乾季の今は水田は乾ききっている。水に恵まれないイサーンでは年1回,雨期にしか稲作はできない。

途中駅で乗客が乗り込み,立っている人が増えてくる。乳児を抱いた母親は片手に子ども,片手に荷物,背中にも荷物があり,いかにも大変そうである。回りの乗客は知らんぷりである。

これがインドであれば,座席を詰めて席を作ってあげることだろう。あまりのことに,僕の席を譲ってあげた。彼女は両手を合わせて感謝された。僕も旅先では多くの人の善意に支えられて旅を続けることができる。今日はその何十分の一でもお返しできた。

コラートには13時過ぎに到着した。あわてて荷物を持って列車を降りる。コラートからアランヤプラテートまではバスを乗り継いで行く計画である。コラート駅からバスターミナルまでリキシャーで移動。リキシャーのおじさんは一生懸命にペダルをこぐ。バスターミナルに着くと30バーツの約束に暑いからということで40バーツを請求された。おじさんの大変さは分かったので,間の35バーツを支払う。

バスターミナルには複数のバスが待機しており,サケオを連呼してようやく見つけることができた。このようなとき,文字を読めないのは大変だ。バスは猛スピードで片側1車線の道路を走る。サケオ到着は17時10分,バスの車掌は新設にもアランヤプラテート行きのバスを教えてくれた。感謝である。

アランヤプラテートで1泊し,トクトクで国境に向かう。タイ側のイミグレーションの近くには多数の露天が出ている。誰がここで買い物をするのかといぶっかっていたら,国境ゲートが開くとその理由が分かった。

カンボジア側からタイに大変な数の人々がやってくる。そのはずはざっと1000人ほどである。荷物を持たずに来る人も多いので,日帰りで働きに来ている人もいるようだ。タイで商品を仕入れ,カンボジアで売りさばく人も居るのだろう。ここの露天は国境貿易で成立しているのだ。

朝一番ということでタイの出国窓口は込んでいる。ここを通過してカンボジアのビザ発給所へ向かう。この国境ではアライバルビザが取得できる。ビザ申請書,写真,1000バーツでビザがもらえる。なぜか,ドルは受け取ってもらえない。

ビザをもらい,イミグレーションでEDカードを記入して,入国スタンプをもらう。これで儀式終了と思いきや,検疫があり,国際伝染病の予防接種証明書の無い人は,50バーツを支払い,ある種の書類を作ってもらうルールがある。そんなルールはどこの国にも無いと抗議しても無駄で,50バーツの支出になる。

国境からシエムリアプまではピックアップトラックを利用することになる。ロータリーの少し手前で旅行会社がさかんに客引きをやっている。座席は15$,荷台は10$である。客引きはライセンスが必要なので料金が高いと説明するが,その言い方がぞんざいであり,乗る気がなくなる。

周囲を確認してみたが,他の手段は見つからなかったので,14$で手を打った。実際には15人乗りのミニバスとなった。道路事情は悪く,速度が上がらない。シエムリアプに到着したのは20時であった。そこはアプサラ・アンコールGHの前だったので,そのままチェックインする。今日も長い1日にであった。

バイクタクシーをチャーターする

05時頃目が覚め,ベッドの中でうとうとしていた。天井のファンを目盛り2で回していたので,夜中に毛布を被って寝たようだ。07時に下に降りて朝食をいただく。クラブサンドを注文したら,チキンサンドになってしまった。

カンボジアはドル紙幣が町中でそのまま使用することができる。もちろん現地通貨のリエルも使用できる。日記には両替レートが記載されていないが,1US$=3000リエルといったところだ。少額のドルを両替しておき,少額の支払はリエルで済ませるのが便利だ。このGHは1泊4ドルであるが,サンドイッチは3800リエル(1.3ドル)と相対的に高い。

アンコールの寺院群を見学するにはパスが必要だ。この頃は3日間のパスが40$である。宿のバイクタクシーを1日6$でチャーターし,遺跡見学の前に管理事務所でパスを作ってもらう。これはIDカードのように氏名と写真付きである。このパスを首から提げると,すべての遺跡を見学できる。

アンコールの2大遺跡であるアンコールワットとアンコールトムを回る時間帯としては,アンコールワットを午後にした方が良い。これはこれはアンコールワットの正面が西に面しており,午前中の光は逆光になるからだ。もっとも,アンコールワットの背後から上る朝日を見るためには,当然,日の出の時間帯になる。

バイヨン寺院(アンコール・トム)

アンコール・トムはバイヨン寺院の代名詞となっているが,このページトップのgoogle map を一段階拡大すると,大きな水色の線で囲まれた領域が表示される。これがアンコール・トムの都城遺跡の輪郭である。城壁は高さが8m,その周囲を100mもの幅の壕が取り巻いている。また,アンコール・トムの東と西にバライと呼ばれる巨大な人口の貯水池を配置している。

アンコール・トムは古代インドの世界観に基づいて造営されている。中央のバイヨン寺院は須弥山、城壁はヒマラヤの霊峰、城壁の周囲の壕と東西のバライは大洋を象徴している。もう一つの巨大寺院遺跡のアンコールワットも同様の壕構造をもっており,あたかも水の上に都城や寺院が浮かんでいるような視覚的演出となっている。

アンコール文明は水を抜きにしては考えられない。近くにトンレサップ湖という東南アジア最大の淡水湖を抱えているが,アンコールは30kmほど離れた川を水源としており,水路によってアンコール地域全体に水を供給していた。西バライや東バライと呼ばれる巨大な人工池は宗教的な意味をもつと同時に,アンコール地域全体の水供給の要となるインフラであった。この高度な水利施設がアンコールの生命線であった。

アンコール地域の広がりは,航空写真と地形レーダーの技術進歩により,最新の研究では。アンコールの遺構は当初考えられていたよりはるかに広い範囲に広がっていたとが分かってきている。

アンコール地域とは複数の寺院を中心とした狭いものではなく,面積は1000km2,人口75万人という巨大な都市であった。もっとも都市といっても,食糧生産の農地と庶民の住居,市場が点在しているものの集合体である。

このような集落は水路によって結ばれており,水路は灌漑水の供給,水運による食糧の生産と物資の移動を支えていた。アンコールの主食はコメであり,水路による水の供給,灌漑システムはアンコールを支える最大のインフラであった。食糧の増産は人口の飛躍的な増大につながり,トンレサップの漁業資源とともにアンコールをクメール王国として地域の覇権勢力に押し上げた。

アンコールは9世紀初頭から600年間に渡り繁栄を続けた。14世紀後半からアユタヤ王朝が勃興し、アユタヤ王朝との戦いによって国力は疲弊。1431年、アユタヤ王朝が侵攻し、クメール帝国の首都アンコール・トムが陥落して,クメール王国は滅亡した。

その後,アンコール地域は放置され,巨大な都城も寺院も密林の中に埋もれていった。高度な水利システムに支えられた肥沃な土地が放棄されることは,世界史においてまれなことである。

おそらく,国力の疲弊によりアンコールの高度な水利システムが維持できなくたことが推測できる。アンコールを支えていた水利システムが劣化すると,農業の生産性は失われ,それがさらに国力の低下を招いたのだろう。

クメール王朝が滅亡すると,水利システムは機能しなくなり,人々は生産性の失われた土地を捨てて,別に土地に移動していった。人々が去った土地に樹木は生い茂り,地域は密林に変わっていった。

19世紀の後半にアンコールワットがヨーロッパに広く知られるようになったとき,アンコール地域はほとんど人の住んでいない密林であった。高度の水利システムで自然資源を過度に利用した結果がそこにある。

アンコール・トムは3km四方の城壁に囲まれた都城であり,外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの塔門でつながっている。塔門には東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されている。また門から堀を結ぶ橋の欄干には乳海攪拌を模したナーガになっている。またこのナーガを引っ張るアスラ(阿修羅)と神々の像がある。(wikipedia)

アンコールの遺構にはヒンドゥー教と大乗仏教の混淆が見られる。アンコールの時代,カンボジアはヒンドゥー教と大乗仏教の両方を受け入れており,時の国王がどちらに帰依するかにより,ヒンドゥー教が力をもったり,大乗仏教が力をもったりした。

多神教であるヒンドゥー教と多神教に近い大乗仏教は近い関係にあるので,このような混在が可能であったのだろう。しかし,国王が代わると既存の寺院を別の宗教施設にしようとする動きも見られる。

地理的にタイとベトナムに挟まれたカンボジアであるが,どちらとも領土を巡る戦争が絶えなかった。宗教に関しては中国,ジャワとの関係が強い。中国商人はアンコール・トムの回廊レリーフに描かれているように,東アジアに交易のため進出しており,インドネシアのジャワ島にまで大乗仏教は伝わっている。

ジャワ島にはインド商人も進出しており,ヒンドゥー教も伝わってきた。8世紀の中部ジャワには大乗仏教を信奉する王国とヒンドゥー教を信奉する2つの王国が併存していた。8世紀のカンボジアはジャワ王国に帰属していたので,大乗仏教とヒンドゥー教の両方が入ってきたと考えるのが自然である。しかし,カンボジアにおけるヒンドゥー教も大乗仏教もアンコールとともに姿を消した。

現在のカンボジアは90%が上座部仏教徒である。これはアンコール王朝滅亡後,タイから入ってきたものである。上座部仏教は多神教の性格をもたず,多神教のヒンドゥー教とは 上座部仏教とヒンドゥー教が混在しているスリランカでは両者が平和的に共存することはなかった。 アンコール・トムの中心に位置するバイヨン寺院はどちらの宗教寺院であろうか。建立時の王,ジャヤバルマン7世は大乗仏教に帰依していたので、バイヨン寺院は大乗仏教寺院と考えるのが通説である。

アンコール・トムの5つの塔門に彫り込まれた顔は観世音菩薩であり,バイヨン寺院の祠堂や本堂の上部を飾るたくさんの顔も観世音菩薩と考えられている。その一方で,建立者のジャヤバルマン7世を神格化し,その顔を写し取ったという学説もあり,決着は難しい。

タブロム寺院の榕樹は折れていた

タブロム寺院はアンコール・トムの東側,東バライの西端のすぐ南に位置している。もっとも,東バライには水は無く,タブロム寺院を訪問しても東バライには気が付かない。創建時は大乗仏教寺院であったが,後にヒンドゥー寺院になっている。ここでも,二つの宗教の間で揺れるアンコールの姿がある。

タブロム寺院は崩れかけそうな建造物である。発見時から巨大な榕樹(ガジュマル)が屋根から根を下ろし,石造りの寺院を押しつぶそうとしていた。この榕樹を取り除くと建造物に対する圧力は軽減されるが,あえて自然の力を示すために放置してある。

9年前に訪問したとき樹齢300年とされる榕樹は健在であった。しかし,その後,落雷により高さ20mあたりで折れてしまい,立派な根の一部も焼け焦げていた。

象のテラスと癩王のテラス

アンコールワット

2016年のカンボジアを訪問した外国人観光客は約500万人でそのうち1/5近くを中国人が占めている。これは2010年のほぼ2倍である。観光収入は32億ドルであり,これはカンボジアの名目GDP約200億ドルの16%を占めるとともに,貴重な外貨の獲得手段となっている。政府は観光に大いに期待しており,2020年には750万人,50億ドルを目指している。

そのうち200万人を中国からの観光客としており,カンボジア経済は中国抜きでは回らない状態となっている。カンボジア,ラオスの経済的な中国依存はASEAN加盟国でも大きく,親中国の度合いも大きい。強権的な政治体質も類似している。

カンボジアの観光産業の目玉はアンコールに尽きる。カンボジアを訪問する外国人観光客のほぼ100%がアンコールの地を訪れることだろうと思っていたら,2019年のデータではカンボジア全体では外国人訪問客は増加したものの,外国人訪問客によるアンコールのチケット収入は12%ほど減少している。アンコール人気にも陰りがでてきたのかもしれない。

2019年頃のブログではアンコールはどこに行っても中国人だらけで,行く価値が無いという話も目にする。外国人観光客の拡大路線も曲がり角に差しかかっているのかもしれない。2001年の時点では中国人団体客はそれほど目立たなく,平和な時代だったといえよう。

2019年末時点でシエムリアプで営業している50室以上のホテルは85軒にのぼり、客室数合計は11,848室となっている。これはプノンペンとほぼ同水準である。単純計算では年間430万室となり,1室2名で計算すると2020年目標の750万人をクリアすることができる。

しかし,カンボジアの4月から9月は酷暑と雨期であり,ベストシーズンに比べると観光客は半分程度になる。かといって,ホテル数を増やすと客室の稼働率が下がると。

また,観光資源には受入キャパシティがあり,それを越えると観光資源そのものの価値を損ねてしまう。有名なタブロム寺院の榕樹の前で1日2万人が記念写真を撮ろうとしたら,どのようなことが起こるだろうか。しかも,大半は団体である。僕のような一人旅派は,そのような観光地は訪問したくないという気になる。繰り返すが2000年代のアンコールはまだ行く価値があった。

9年ぶりのアンコールワットは僕の記憶と同じたたずまいを見せていた。ただし,観光客は大幅に増えていた。第1回廊,第2回廊のレリーフをじっくり見せてもらう。やはり,観光客が増えると一つのレリーフの前にずっと立っているのは難しい。

デバター(アプサラ)のレリーフは立体的であり,天上の世界を想起させる。しかし,像に色を塗るなどの心ないいたずらが目立つ。人類の至高のの文化遺産もその価値が分からない人たちに脅かされている。この時期は最上階への急な階段は手すりも無く,手も使って慎重に上らなくてはならなかった。もっとも,このような急階段は下りの方が大変だ。

バイクタクシーの時間制限があり,18時半にGHに帰還。炎天下の屋外観光はさすがに疲れる。パイナップルシェークは1500リエル,ランブータンとマンゴスチンが各1kgで2$,こちらはGHの日本人とシェアすることになった。バイクタクシーの運転手と翌日の計画と料金を決めておく。

翌日は05時に起床し,アンコールワットの朝日を見に行く。もちろん,この日もバイクタクシーをチャーターしている。西塔門の内側で朝日を待つことにする。ここには同じ目的の観光客がたくさん集っている。想定ではアンコールワット中央から日が昇るはずであったが,季節のせいかかなり左側からの日の出となった。それでも,絵になる。

バンテアイスレイ

バンテアイスレイはシエムレアプから40kmほど北にある遺跡である。公共交通が整備されていないので,そこまでバイクタクシーで移動することになる。道は舗装されており,バイクは時速40km強で走り,1時間で到着した。この移動はなかなかスリリングである。僕の利用しているのはGHのバイクタクシーなので運転手の身元はしっかりしている。これが町中のものであれば,犯罪に遭遇する可能性もある。

バンテアイスレイは「女の砦」を意味する。アンコールでも最も古い時期のヒンドゥー寺院である。赤砂岩により建造されており,寺院敷地は100m四方と小さいが、全面に精巧で美しい彫刻が施されている。赤砂岩は比較的柔らかく加工しやすい材質であるが,彫刻の見事さは感動ものである。

バンテアイスレイ

バンテアイスレイは東向きに建てられており,午前中の見学が望ましい。この寺院の中央祠堂には「東洋のモナリザ」あるいは「アンコール美術の至宝」などと賞賛されているデバターの彫像があるが,僕が訪問したときは立ち入り禁止となっており見ることができなかった。

この彫像は1923年にはフランス人のマルローにより国外に盗み出されてことにより,国際的に注目を浴びた。この一件をもとにゴルゴ13シリーズでは「アンコールの微笑(1991年作品)」を発表している。

アンコール遺跡の盗掘団を一掃するため,「幻のデバター像」のレプリカを作成し,バンテアイスレイ寺院で発見されたという偽情報を流し,盗掘団とその背後にいる鑑定者を殺害します。さすがに,彫像は実物とは少し表現を変えていますが,周囲の彫刻などもしっかり描き込まれています。

プノンバケンからの夕日

バンテアイスレイからの帰りにバイクタクシーの運転手はプループ(アンコールワットと類似形式,ヒンドゥー寺院),バンテアイ・クディ(バイヨン形式,ヒンドゥー寺院→仏教寺院→ヒンドゥー寺院と変遷を重ねる),スラ・スラン(王の沐浴の池)に立ち寄ってくれた。しかし,最上のものを先に見てしまうと,疲れもあり残りのものは注意力散漫になる。

15時にGHに到着する。夕日の時間まで3時間くらい休めると思っていたら,バイクタクシーの運転手から17時には出発すると告げられた。シャワーを浴びて,ベッドでウトウトとしたらもう出発の時間だ。

夕日はプノンバケンから眺めるのがアンコールの定番である。この寺院は急な斜面を登り切ったところにあり,道は整備されていない。ほとんど,山の斜面を登ることになる。

朝日と同様に多くの見物客が集っている。ヨーロピアンの旅行者はとにかく朝日と夕日が好きだ。残念ながら,雲がかかり夕日はまったく見えなかった。暗くなった山の斜面を注して下る。GHに戻り,バイクタクシーの運転手に2日分の料金21$を支払う。

カンボジア鍋を囲む

夕食は同じ宿の日本人旅行者と一緒にカンボジア鍋(カンボジアスープ)を)食べに行く。バイクタクシーの運転手を含めて9人の会食となる。肉・野菜の煮込みうどんといったところだ。味付けは薄い。鍋に自分の箸を突っ込むのではなく,レンゲで具とスープを自分の椀に入れるスタイルである。

朝食は新市場の近くでいただく

昨夜は12時過ぎまで日記作業だったので07時の起床はちょっとつらい。GHに宿泊している日本人旅行者を見送る。バッタンバンへの移動情報が必要なので旧市場,新市場を回ることにする。新市場はGHから3kmほど離れており,到着してみると食事ができる場所が見当たらない。道路の向こう側の店でバーミーナム(スープめん)をいただく。

新市場の中は小さな店が所狭しと並んでいる。面白いのはやはり食材である。野菜,果物,肉,魚がそのままの形で売られている。

旧市場に移動する。こちらは閑散としていた。地域の人々の利用する市場ではなく,観光客用の土産物が並んでいる。周辺には少し高めのGHが並んでいる。土産物はマレーシアでよく見かけたランチョン・マットや箸のセットがメインとなっている。現在は使用できないリエルの旧札も売られている。

アンコール/ワットでひとときを過ごす

午後はアンコールワットに出かける。運転手は雨が降ったらGHに戻ると言っていたが,寺院の中に入ってしまうとそうはいかない。実際,じきに雨は降り出した。シャワーではなく優しい雨である。寺院の石段に腰を下ろし,雨を見ながらのんびり過ごす。雨は1時間後には降り止んだ。雨に濡れた周囲の石の肌が美しい。

西バライまで行くことになる

滞在5日目に腹具合は回復した。今後の旅行計画を見直す。11時に行動開始,9年前に宿泊したグランドホテルを見て,川沿いのベンチに座っていると,バイクタクシーに声をかけられた。西バライまでいくらと聞くと4$との答えであった。3$でどうだいと言うとOKがでたので,予定に無い西バライに行くことになった。

西バライまではバイクで20分,周辺は田園風景となっている。バライは人工の貯水池であるが,大きさは2X10kmもあり,湖といってよい大きさである。形は完全な長方形であり,乾季の水田を潤すのに使用されていた。東バライとともにアンコールの水利システムの中心的な施設である。

現在は高い土手が築かれており,水門の位置はだいぶ下にある。それでも,水門から流れ出た水は川となっており,水田の灌漑水や生活用水として使用されている。

池の水深はそれほど深くない。岸辺にはゴザと日傘が用意されており,休憩所もある。地元の人たちはここで服を着替え,水遊びを楽しんでいる。浮き輪になるレンタルのタイヤチューブもあり,地元の人たちの観光名所になっている。

嵐になる

池の向こうに稲光が走り,雷鳴がとどろく。強い風が対岸から吹き付け,大きな池には白い波が立つ。堤防の上では砂粒が飛んできて痛いくらいだ。雨の前に避難しようとバイクに乗る。堤防を下ると風は弱まるが,黒い雲が頭上に広がっていく。雨も少し降り出す。

結局,雨になる

GHには専属のバイクタクシーの運転手がいるので,GHの手前で下ろしてもらう。小雨は18時過ぎまで段独的に降り続いた。夕食時にNHKニュースを見て小泉内閣の誕生を知る。明日はプノンペンに移動するので,ボートチケットを手配する。ピックアップは05時30分とずいぶん早い。


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