亜細亜の街角
廃墟から立ち上がった町
Home 亜細亜の街角 | Phnomphenh / Cambodia / Apr 2001

プノンペン  (参照地図を開く)

トンレサップ川とメコン川の合流点に開けたカンボジアの首都。19世紀のフランス統治時代に政治・経済の中心地として発展した。フランス風の美しい街並みから「プチパリ」とも呼ばれている。

カンボジアの近代史は大国の都合により振り回され,ポル・ポトという狂人の支配時代には国民の1/4が虐殺・死亡するという悲劇も経験している。第二次世界大戦後カンボジアは再びフランスの殖民支配を受けるようになる。

しかし,フランスがベトナムの独立闘争に苦戦している1953年にシハヌーク国王は二度目の独立を宣言した。フランスがベトナムで敗れた後のジュネーブ会議でカンボジアの独立は承認された。

これに対してベトナムは南と北に分断される結果となリ,この決定が第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)を引き起こすことになる。

独立とともにシアヌークは退位して国家元首となリ左右の勢力を統一する政治体制を敷いた。シハヌーク統治時代はカンボジアが例外的に平和であった。シハヌークはカンボジアに戦乱を持ち込ませないため,「赤いプリンスの綱渡り」と評されたきわどい外交を展開した。

しかし,ベトナム戦争の激化によりこの政策は米国の怒りを買うことになり,1970年に米国に後押しされたロンノル将軍のクーデターが発生する。シアヌークは左派勢力ともに反ロンノル統一戦線を率いた。

この中で同志を粛清して武力で統一戦線を支配するようになったのがポル・ポトが率いる「クメール・ルージュ」である。1975年のロンノル政権崩壊後,クメール・ルージュが他のグループを粛清し,カンボジアは暗黒時代を迎える。

ポルポトが実権を握ると,住民は強制的に農村に移住させられ,多くの町は数日でゴーストタウンと化した。ロン・ノル体制を支えた軍人,公務員はいうに及ばず,教師や知識人も見つかり次第殺害された。

ポル・ポトは毛沢東の唱えた合作社化を武力で推し進めた。自給自足,集団所有,集団労働化,農産物の強制供出…,それらは毛沢東の政策にあったもので,ポル・ポトはそれを極限まで徹底した。さらに旧体制に染まっていない子どもたちを親から引き離し,クメール・ルージュの思想で洗脳した。

ポル・ポト支配体制のもとでは人々は牛馬のように働かされ,ささいなことでも処刑の対象となった。栄養失調,病気なども加わり,わずか3年間の間に200万人もの人々が亡くなっている。

1978年,ベトナム軍に後押しされたヘン・サムリン軍の侵攻により,クメール・ルージュはタイ国境地帯へと追いやられた。都市には市民が戻り,現在のプノンペンは人口80万人,高層ビルはほとんどなく,「プチ・パリ」の面影を残している。

シエムリアプ→プノンペン 移動

シエムリアプ(08:00)→プノンペン(12:00)とスピード・ボートで移動する。25$のチケットを買うと,早朝にピックアップが宿まで迎えに来てくれる。トラックで船着場まで行き,ここから小舟でスピードボート乗り場まで向かう。

荷物を屋根に上げ客室に入る。座席は長手方向に3列,1列25人見当なので定員は70人とみた。スピードボートはヤマハのV6・200馬力エンジンを3基積んでいる。船長はエンジンを吹かしたり,少し動かしてみたりするだけで一向に出発しない。そのうちエンジンフードを開けて燃料をチェックする。

合計600馬力のエンジンは3基のスクリューを回し,大きな波を船尾に残していく。船が動き出すとじきに陸地は見えなくなる。あたりは水ばかりですぐに退屈して船室に入る。

トンレサップ川の風景

船がトンレサップ川に入ると風景は一変する。岸辺には陸上集落と水上集落が現われ,漁船も数多く繋がれている。スピードボートが通りすぎると小さな舟は波を受けて激しく揺り動かされる。岸辺で水浴びをしている水牛や牛もこの波に驚いてあわてて岸に駆け上がる。

オリッシー・ゲストハウス

4時間足らずでスピードボートはプノンペンの船着き場に到着した。料金は25$と高いが,国境のポイペトからシエムレアプまでが14$であったことを思うと,妥当な金額だ。船着き場からプノンペン中心部までは約5km,

2人のバイクタクシーの運転手と交渉し,2000Rで行ってもらった。オリッシーの5$の部屋は4畳半,トイレ・シャワー付き,ダブルベッド,物置き台がつている。ベッドもシャワー室も清潔である。

プノンペンの街

近くのORUSSEY(フランス語式にオーセイと発音するらしい)の市場を見学する。食料品から電気製品までなんでもそろう近代的な市場である。市場の前にはバイクタクシーがたくさん待機しており,キャピトル周辺の不良運転手より安全そうである。

9年ぶりのプノンペンはきれいな町に戻っていた。高さのそろった白い建物が並び,ポルポト革命以前に「プチ・パリ」と呼ばれていた頃に戻ったようだ。交通量も増えたし信号までできている。サイクルリキシャーの代わりにバイクタクシーが巾をきかせている。

セントラル・マーケット

ゲストハウスの横の市場にいる運転手に地図を示しながらセントラルマーケットと言っても全然通じない。クメール語の「プサー・トメイ」という正式名称があるので通じないのは当たり前である。このあたりを考慮してガイドブックには現地の呼び名を併記すべきである。

セントラル・マーケットは昔のままで,変わった形をした巨大な建物の周りを取り囲んでいる。昔より露店の数が増えたようでスペースが無いので写真をとるのに苦労する。

ここでは魚を中心とした食材売り場がおもしろい。ドームの中の店はまだ開店しておらず店員が準備に追われていた。宝石・貴金属・時計など高価な商品が多いせいか,閉店時に商品を片付けるようにしているようだ。

王宮と王宮前広場

ゲストハウスのすぐ横の露店市場に待機しているバイクタクシーで王宮前の広場に移動する。9年前に比べて変わったことは,場違いな感じを与える金色のライオン象ができたこと,新生カンボジアの旗が川岸に並んでいること,白いカジノ船が浮かんでいることである。

庶民の憩いの場は今日もにぎわっている。5時ごろから空が暗くなり風が強くなる。砂が飛び物売りの子どもが目を押さえている。雨が予感されたのでゲストハウスに戻る。すぐに雨が降り出しシャワーになる。

王宮を見学しようと中に入ると掲示板に「王宮見学にふさわしい服装であること」と書かれている。居合わせた欧米人ツーリストと「我々の服装は問題ないとは思えない,半ズボンにサンダル履きなのだから」と笑い合う。

しかしその心配は杞憂であった。午前中の王宮の見学時間は11時まで,かつ入場料はカメラ持ちこみ料を含め5$もするのでパスすることにする。

国立博物館は建物がすばらしい。タイの王宮と建物の様式は非常に似ており,正面の切妻屋根は三段になっており,それぞれの先端部分には龍を模った装飾がつけられている。切妻屋根上部の三角形の部分は稠密な木彫りで飾られており興味深い。

博物館内の展示物は9年前に比べてずっとよく整理されている。仏像のコレクションやアンコールから出土した石像はすばらしい。仏像の展示室にはゴザが敷いてあったのでしばらく座って仏像のお顔を見せてもらう。中庭を除き写真禁止なのは少し残念である。

入り口からたくさんの子どもたちが入ってきた。先生に引率された子どもたちである。彼らは受付のところで館員の説明を熱心に聴いている。貧富の拡大,役人の汚職,人権侵害など多くの問題を抱えているカンボジアではあるが,子どもたちが国の文化をちゃんと学べるようになったのは喜ばしい。

いくつかの像の顔を見比べて次のことに気が付いた。インドから伝わったヒンドゥー神の顔は当初インド風であったが,アンコール時代にクメール顔に変化していった。その後盛んになった仏教においては,仏像の顔は当初クメール顔であったものが次第に普通の仏様の顔に変わっていった。

トゥール・スレーン

トゥール・スレーンは別名刑務所博物館といわれる。元は高校の校舎であったがポルポト時代には刑務所として使用された。ポルポト支配の4年間に多くの人々がここに連れてこられ,拷問を受けたり処刑された。

事務所のスタッフの話では,ここに収容された約1万人のうち生きて出られたのはたった7人しかいないという。新しい政権は格好のプロパガンダの材料としてここを博物館にした。

博物館には4つの建物があり,第1舎は拷問用ベッド室,第2舎は処刑された人の顔写真展示,第3舎は独房,第4舎は拷問道具と拷問の様子を描いた絵画等の展示となっている。写真の人々の多くは無表情である。自分たちのこれからの運命を悟っているようだ。

カンボジアの悲劇は,中国の大躍進の狂気を自分たちの共産主義に取り入れたポルポトが,新しい原始共産制を目指したことにより起こった。家族を破壊し,社会を崩壊させ,数え切れない犠牲者を出した。

ポルポト派は集団内部以外の価値観を認めない原理主義集団であった。それは必然的に自分と異なるもの排除することにつながる。原理主義武力集団が人々を支配するとき自国民の虐殺,民族の浄化,あるいは部族間・宗教間戦争などの狂気を生み出す。

博物館の休憩所に戻ってきてようやく頭の中の戦慄は収まった。わずか25年前にこれだけの非人道的行為が行われようとは。しかし,虐殺の時代から25年経った現在でも世界では同様の悲劇は後を断たない。宗教も思想も哲学も人間の内なる狂気を押さえることはできないようだ。

モスクがある

鉄道は動いていない


シエムリアプ   亜細亜の街角   クラチエ