亜細亜の街角
ちょうど催行していた首里城祭を楽しむ
Home 亜細亜の街角 | 沖縄本島・首里城|Nov 2013

那覇の宿はアーマンにする

那覇にはたくさんの安宿があり選択に苦労するほどである。その中から立地条件のよい「アーマン」を選んだ。理由は場所が分かりやすいことと那覇バスターミナルに近いことである。場所は国際通りの那覇市役所交差点から南に下り,ハーバービュー通りと交差するところである。

素泊まりで1500円のドミは二段ベッドが8床用意されている。その他に上層階に個室もある。台所が使用できるので自炊も可能であり,長期滞在者は完全自炊体制であった。ただし,雰囲気は若者向けではない。僕は朝食をカップメンで済ませ,昼食はパンか外食,夕食は外食であった。

沖縄県庁と非核・平和沖縄県宣言碑

宿を出てハーバービュー通りを左に行くと県庁南口の交差点があり,そこから国際通りに向かって北に進むと沖縄県警察本部,沖縄県庁の庁舎がある。

沖縄県では太平洋戦争・沖縄戦終結50周年に当たる平成7年の「慰霊の日」(6月23日,沖縄県条例で定めている)にとこしえに平和を求めてやまない沖縄県民の心を内外に広く,強くアピールするため「非核・平和沖縄県宣言」を行った。この宣言文の内容を記した「非核・平和沖縄県宣言碑」が県庁前に置かれている。そこには次のように記されている。

戦争は無差別に破壊し尽くす
すべての生命を
生活を  文化を
歴史を  自然を

太平洋戦争最後の地上戦があったこの地沖縄
街や村がやかれ
二十万余が命を奪われた
祖先が築き上げた文化遺産は失われ
地形を変えた
その傷あとは今なお癒えない

戦争その悲惨な体験をいしずえとして
私たちは
世界の人びとへ訴える
一切の核兵器と
あらゆる戦争をなくし
武器にかえて対話を
そして愛と信頼で
地球を平和に満ちたみどりの星にしよう

私たち沖縄県民は
「イチャリバチョーデー」を合い言葉に
万国津梁の地の建設を希求し
世界の恒久平和を願い
声高らかに非核・平和沖縄県を宣言する

県庁の前を道なりに行くと国際通りとの交差点になる

国際通りは県庁北口交差点から安里三叉路にかけての約1.6kmの通りの名称である。戦後の焼け野原から目覚しい発展を遂げたこと,長さがほぼ1マイルであることから「奇跡の1マイル」とも呼ばれ,那覇でもっともにぎやかな通りである。

1933年(昭和8年)に旧那覇市中心部と首里市を最短距離で結ぶ県道として整備された。当時は郊外の一本道であり,人家は少なく畑や湿地帯が広がっていた。

戦後は米軍により旧那覇市の中心部は接収されたことから,壺屋地区には窯業業者が,牧志地区には瓦職人が集まるようになった。他の人々もいろいろな名目で通りの周辺に住みつくようになり,商業地区として発展していった。現在,地元の人々の生活に密着す商店街は国際通りにつながる周辺の通りに移転し,国際通りは観光客用の土産物店や飲食店となっている。

ゆいレールの県庁前駅

「ゆいレール」は沖縄県で唯一の鉄道であり,那覇空港と首里駅の間の約13kmの区間を30分で結んでいる。沖縄の交通は車に頼っており,そのため那覇空港や国際通りの周辺は慢性的な渋滞に悩まされている。その解消のために「ゆいレール」が開業したが,国際通り周辺の渋滞は続いている。

利用者数は日平均で3万人である。夏の観光シーズンの時期が4万人を越えており,利用者の多くは観光客であることが分かる。それでも,那覇市の調査ではバス以外の自動車からゆいレールに乗り換えた人は1日1万人と推定しており,道路交通負荷の軽減に寄与していると評価している。

ゆいレールの首里駅で下車する

ゆいレールの終点である首里駅で降りるが,出口が2方向にあり,首里城がどちらの出口を利用したらよいか分からず,駅員にたずねることになった。

駅から地上に下りるとタクシーの運転手が寄ってきてお祭りは午後からであり,午前中は修学旅行生で混雑しているからサンゴ礁や斎場御嶽を見に行きませんかと誘う。どちらもすでに見たというとあっさり引き下がっていった。

ゆいレールは首里駅の直近で大きくカーブして82号線を外れている。これは将来の延伸計画によるものだとすぐに推定できる。

首里城祭のため通りには露店が出ている

平成25年の首里城祭りは10月25日(金)から11月4日(月)に行われ,主なイベントは次の通りである。
・10月25日-27日:伝統芸能の宴
・10月26日    :冊封使行列・冊封儀式
・10月27日    :琉球王朝絵巻行列
・10月26日-27日:万国津梁の灯火
・11月03日    :琉球王朝祭り首里「古式行列」

僕が訪問した11月3日は琉球王朝祭り「古式行列」の日であった。この行事は琉球王国時代に国の安寧と農作物の豊作を祈願するために正月の3日,国王が3つのお寺を参詣する儀式「国王御三ヶ寺参詣行列」を再現するものである。

沖縄県立芸術大学校舎はちょっとユニーク

芸術大学のバザー会場にて

円覚寺跡

円覚寺は首里城北面にあった臨済宗の寺院である。第二尚氏の菩提寺として1494年に鎌倉の円覚寺を模して建立された。寺前にある円鑑池では中国からの冊封使を招いて宴が開かれるなど琉球王朝史の中で重要な位置を占めていた。

戦前に円覚寺の伽藍は国宝に指定されていたが,沖縄戦で放生橋を残して全て焼失した。戦後は琉球大学の敷地となり遺構は撤去あるいは埋められたが,昭和43年(1968年)に総門が復元され,放生池の修復が行われた。昭和59年(1984年)に琉球大学の移転が完了し,遺構の全容解明と復元整備が進められている。

弁財天堂

円覚寺の前の池は「円鑑池(えんかんち)」と呼ばれ,池の中央にあるお堂が「弁財天堂」である。円鑑池は人工池で首里城や円覚寺からの湧水・雨水を集め,あふれた水は隣の「龍潭」へ流れ込むようになっている。「弁財天堂」は航海安全を司る水の女神・弁財天を祀っている。貿易立国の琉球にとっては航海の安全は最大関心事の一つであった。

首里城案内図

首里城(スイグスク)は琉球王朝の王城であり,かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地に位置している。沖縄県内最大規模の城(グスク)であり,戦前は正殿などが国宝に指定されていたが,沖縄戦により完全に破壊され,,わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている状態であった。

首里城の復元は沖縄県人の悲願であり,本土復帰後の1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され,本格的な復元がはじまった。しかし,往時の記録が乏しく,古老などの記憶に頼りながら当時の装飾・建築技術の復元・取得から再建作業は始まった。

1992年には正殿を中心とする建築物群,そこへ至る複数の御門,城郭が再建され,首里城を中心とした一帯は首里城公園として公開された。その後も複数の建物群の復元事業は継続され,2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。

「グスク」と呼ばれる石垣は往時のままである

グスクの語源は「グ」が石,「スク」が囲った場所であり「石で囲った場所」を意味するとされている。沖縄県内だけでも300を超える「グスク」があり,大多数は小規模のものである。

世界遺産に登録されたとき「グスク」には「城」という文字が当てられているが,これは琉球王国に先立つ三山時代にグスク=城郭のイメージが定着したためと考えらる。

本来の「グスク」は集落あるいは聖域(御嶽)を簡単な石垣で囲ったことが始まりではないかとされている。それでも,時代が進むにつれて地域の権力者の住居に大規模な「グスク」が構築されるようになる。

沖縄本島および八重山諸島には非常に優れた石垣の構築技術があり,首里城の石垣の随所に四角形の石材に混じり五角形あるいは六角形の石材が使用されている。このような石材を使用すると石垣の強度が上がり,この地域でもしばしば発生する地震にも耐えられるようになる。

インカの石組み技術も複雑な形状の石材を多用することにより極めて精緻で地震にもびくともしない石壁を構築している。大航海時代にインカ帝国を滅ぼしたスペイン人もインカの石造構造物は驚異であった。

久慶門は出口専用となっている

北側の龍潭通りからやってくると最初に見えるのが「久慶門」である。現在は見学ルートの関係から出口専用になっているが,琉球王朝時代はここから入ることもできた。

正門にあたる「歓会門」から入り「下之御庭」まで至るの道行は首里城の公式ルートであり,主として公用の男性が使用するものであった。

「久慶門」は通用門という位置づけで主に女性が利用したとされている。もっとも,国王が寺院を参詣したり,浦添以北の地域に行幸するときなどは「久慶門」を利用した。

守礼門からスタートすることにする

僕はゆいレール駅の関係から北側から首里城にアクセスすることになったが,本来は西側からアクセスするようになっていたのであろう。訪問者が最初に目にするのは「守礼門」である。

守礼とは「礼節を守る」という意味であり,門に掲げられている扁額には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と記されている。その意味するところは「琉球は礼節を重んずる国である」ということである。

守礼門では琉球衣装の写真サービスがある

歓会門

首里城内へ入る第一の門が「歓会門」であり,現在,観光客はこの門から入るようになっている。歓会とは歓迎するという意味であり,琉球王朝時代は中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」を歓迎するためこの名が付けられた。

首里城は外郭と内郭という二重の城郭で囲まれており,外郭の御門は歓会門(西),久慶門(北),木曳門(西)の三つがある。歓会門は正門であり,主として公用の男性が利用していた。外郭の門だけあって,アーチ状の城門の上に木造の櫓を載せている。

龍樋(りゅうひ)

歓会門から順路を先に行くと瑞泉門に続く石段があり,その途中に龍の口から湧き出してる湧水がある。これが「龍樋」である。龍は中国における皇帝の象徴であり,琉球王朝でも王権の象徴であった。

その龍の口から湧き出る水は特別なものと考えられていたのか,王宮の飲料水として使用されていた。また,那覇港の近くにあった冊封使の宿舎にも毎日届けられたという。龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたものである。

瑞泉門

龍樋から石段を上ると二番目の門である「瑞泉門」があり,この名前は石段の途中にある龍樋にちなんでいる。瑞泉門は両側の石垣と同じくらいの高さの石門の上に朱色に塗られた櫓が載せられており,歓会門よりも立派に見える。

日影台(にちえいだい)

瑞泉門の先にはもう一つ石段があり,その上に第三の門である漏刻門がある。この門の櫓には水時計が設置されており,したたり落ちる水の量により時間を計っていたことからこの名前で呼ばれている。この門から先は国王に敬意を表して徒歩で城内に入るしきたりであった。

漏刻門の内側は北に面した見晴らしの良い広場となっており,日影台と供屋がある。ここからは首里城とその周辺の緑越しに那覇の街並みと青い海を眺めることができる。ちなみに,日影台とは日時計のことであり,漏刻時計(水時計)の補助的な役割を担っていた。

供屋(万国津梁の鐘)

広場にあるもう一つの施設が供屋であり,万国津梁の鐘のレプリカが吊り下げられている。本物は沖縄県立博物館に収蔵されている。

この鐘には「琉球国は南海の美しい国であり,朝鮮,中国,日本との間にあって,船を万国の架け橋とし,貿易によって栄える国である」という主旨の銘文が刻まれている。貿易立国,海洋王国としての琉球王国の姿勢がそのまま表現されている。

広福門(こうふくもん)

広場から第四の門となる「広福門」をくぐると「下之御庭」に出る。「広福」とは福を行き渡らせるという意味である。朱色に塗られた木造の建物自体が広福門であり,その一部が門の機能を果たしている。

広福門の内側は下之御庭(しちゃぬうなー)と呼ばれる

広福門をくぐると建物などで囲まれた広場に出る。ここが下之御庭であり,正殿の御庭に通じる「奉神門」を正面に見ると,左が広福門,右が小さくこんもりと茂った石垣に囲まれた首里森御嶽,背後に系図座,用物座という役所を再現した建物がある。

正殿のある御庭に入るにはここで入場券を買う

下之御庭|舞への誘い

下之御庭の南側にある系図座・用物座では水・金・土・日と祝日に「舞への誘い」が開催される。この日は首里城祭期間中であったので特別公演として開催されていた。女性の衣装の華やかな色彩と優雅な琉球舞踊を見せていただいた。

双子の子どもを背負いながら観光する

ヨーロピアンはたくましい。双子を夫婦で一人ずつ背負いながら外国旅行をしている。僕もアジア各地でこのスタイルのヨーロピアンを見かけたが双子のケースは初めてである。

首里森御嶽(すいむいうたき)

小さくこんもりと茂った石塀に囲まれたところが首里森御嶽である。僕は御嶽=森と考えていたので危うく見過ごすところであった。城内のスタッフにたずねると,子ども用の「首里城スタンプラリー」の台紙をいただくことになった。

城内のスタンプをすべて集めた子どもには記念シールを差し上げるという趣旨であるが,何がどこにあるのか分かるので重宝した。僕の台紙には系図座・用物座のところだけにスタッフが押してくれたスタンプがある。

「首里森御嶽」は琉球開闢神話によると,神が造られた聖地であるとされている。首里城ができる以前からあった祈りの場所であり,城内ではもっとも神聖な場所の一つである。ちなみに,城内には10の御嶽があり,十嶽(とたけ)と呼ばれていた。

奉神門は修復工事中であった

奉神門(ほうしんもん)は「神をうやまう門」を意味しており,城内の五番目の門であり,正殿の御庭に入る最後の門である。石垣の上に置かれた朱塗りの木造建築物が奉神門であり,中央に君誇御門(きみほこりうじょう)と呼ばれる正門と左右に一つずつ,合わせて三つの入口がある。往時の君誇御門は冊封使や身分の高い人だけが使用することができたとされている。

奉神門をくぐると御庭と正殿が目に入る

奉神門をくぐると御庭に出る。正殿が正面(東側)にあり,北側に北殿,南側に番所(ばんどころ)と南殿が配されている

御庭は敷き瓦という平らな瓦を敷き詰めて,朱と白の縞模様が作られている。正殿に向かう朱色の道は浮道と呼ばれ,君誇御門を通ってきた人たちだけが通ることを許された特別の通路であった。

ここは人が途切れることがなく撮影に苦労する

向かって右側の番所から内部に入ることができる

龍をあしらった柱は中国の影響であろう

正殿一階は主に国王が政治や儀式を執り行う場所となっていて,中央の一段高い御差床(ウサスカ)は国王が座る玉座であり,左右は王の子や孫が座る平御差床(ヒラウサスカ)となっている。

御差床の左右の柱には龍が描かれ,そのまわりには雲が描かれている。背後には階段があり,国王はその階段を使用して一階と二階を行き来することができた。

玉座にも中国の影響が見られる

順路は正殿一階を一回りして二階に上がるようになっている。正殿二階は大庫理(ウフグイ)と呼ばれ,普段は妃や女官達が使用する場所であるが,儀式などの時には国王が御差床に座り,儀式の中心となった。

琉球国王印

正殿と御庭のジオラマが展示されている

中国との朝貢船もしくは外国に向かう貿易船であろう

琉球王国成立以前の三山(中山,北山,南山)時代に中山国が中国に朝貢し,1429年に中山国が三山を統一して琉球王国が誕生した後も朝貢は引き継がれた。中国王朝と誼を結ぶことにより,琉球王国は貿易立国としての地歩を進めていくことができた。

正殿正面の龍頭

中国の影響により龍は王権の象徴となり,正殿およびその周辺にはたくさんの龍の装飾がある。

屋根の両側にも一対の龍が配置されている

龍頭柱

琉球王朝祭り|首里「古式行列」の始まりを待つ

琉球王国時代に国の安寧と農作物の豊作を祈願するために正月の3日,国王が3つのお寺を参詣する儀式「国王御三ヶ寺参詣行列」を再現するものである。

古式行列は中央の浮道を通ることになるので,迎えの使者が来る前に浮道の両側にロープを張って道を確保する必要がある。しかし,この手際はとても悪く道幅が十分に取られていない。そのため,国王夫妻が加わった行列が奏神門に向かう頃には,ロープからはみ出した観光客が行列をジャマする勢いであった。

国王夫妻を迎える一行が到着する

子どもたちはちょっと退屈している

国王夫妻が正殿から出発する

観光客はどんどん前に出て写真を撮る

国王夫妻の前を行く女官?

盛装した国王夫妻

鳴り物入りの行列となる

京の内(きょうのうち)

「下之御庭」の南側は石垣になっており,その上部は「京の内」と呼ばれる信仰儀式の場となっている。位置的に考えると,下之御庭にある首里森御嶽は石垣により切り離された「京の内」の一部であったようにも見える。この地は城内でもっとも霊力の高いところとされ,首里城発祥の地とされている。

琉球王府においては政治的権力者である国王と宗教的権威者としてのノロ(祝女,神女)の力が併存していた。王府における最高位のノロとされる聞得大君(きこえおおきみ)や大アムシラレがここで王家繁栄,航海安全,五穀豊穣等を神に祈っていた。

西のアザナ(いりのあざな)

京の内から西に向かうと「西のアザナ」に出る。ここは首里城の外郭の上部になり,琉球王国の時代には物見台となっていた。標高130mは那覇でもっとも高いところであり,西向きに180度の展望が開けている。現在は木製の展望台となっており,那覇市内を一望できる。

西のアザナからの眺望

西のアザナに上がる木道横にある立ち入り禁止の洞窟

西のアザナの西側遊歩道周辺は深い森となっている

画面全体が1本の木なのかもしれない

薄い表土のため根は地表を這う

木曳門を抜けると西のアザナの石垣が見える

琉球大学発祥の地

現在は深い森になっているこの一画には戦後の一時期,琉球大学の校舎があった。戦前に沖縄には大学や高等学校などの高等教育機関は存在せず,1950年に設立された琉球大学は沖縄最初の大学ということになる。当時は米国民政府の統治下にあり,設立場所は首里城の外郭から少し離れたこの地であった。

1970年代から首里城復元計画が進行する中で大学校舎は首里城の北に位置する西原町に移転された。円覚寺跡の北側にあったグラウンドは沖縄芸術大学に譲渡された。

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

首里城外郭の西側から道なりに歩いて行くと守礼門のある通りに出る。歓会門と守礼門の間には園比屋武御嶽の石門がある。

琉球石灰岩の石垣で囲われた一画は御嶽の森となっており,琉球国王が首里城から出るときは必ずここで安全祈願をしていた。また,新たに就任する聞得大君が最初に拝礼する聖域でもある。石門は人が出入りするためのものではなく,人々はこの石門の前で拝礼していた。

守礼門前には町内会の旗頭隊が次々とやってくる

琉球王朝祭り首里(首里城祭)に合わせて首里地区の町内会の単位で旗頭隊や鉦鼓隊を組織して祭りに参加する。

沖縄には琉球王朝時代から祝事の縁起物として「旗頭」という伝統文化がある。西表島では干立の節祭(シチ)で旗頭を初めて見たので,今回は2回目ということになる。干立の節祭では地域のシンボルとして立てられていた旗頭が今回は主役になる。

旗頭は町内ごとに異なり,いわば町内のシンボルとなっている。重さは約50kgもあり,これを腰にまいた「さらし」の太鼓に乗せ,上下に動かし美しく見せるものである。もちろん,一人で支えきれるものではないので,先端がUの字になったさすまたを持ったサポート隊が周囲を固め,倒れるのを防いでいる。この男性集団が旗頭隊である。

旗頭を倒すことなく美しく動かすためには技術だけではなく,旗頭隊全員の団結力が必要となる。町内ごとに首里城祭のハレの日に向けて練習を重ねており,若者はその中から町内のメンバーとしての自覚や人との交流,挨拶,礼儀作法を学んでいくという。旗頭隊とは町内を代表して伝統文化を担う誇り高き集団である。

僕が見学したのは11月3日の行事であるが,祭りの期間中には夜間に学校の校庭で「旗頭ガーエー」の行事が行われる。ガーエーはいわば首里町内の旗頭の総顔見世のようなものであり,お互いに旗頭を舞わせてその美しさを競い合うものである。

もちろん,優劣の判定などはない。町内の人たちは旗頭の回りに人垣を作り,「さーさー,さーさー」と掛け声をかけて応援する。残念ながらこの夜の行事は沖縄から戻ってから知ることになった。

昼間の旗頭隊は町内ごとに大きな集団となっており,その中には子どもたちの鉦鼓隊やエーサー隊も含まれており,町内会総出の行事となっている。祭りの出で立ちは旗頭隊は一様に白の上下に青い頭巾であり,子どもたちは町内ごとに変化のある衣装となっている。

町内のそれぞれの旗頭隊は守礼門の前で記念写真を撮るのが通例なのか,一つまた一つと町内の旗頭隊がやってくる。僕にとってもこの記念写真はとてもありがたいものであった。

行列には子どもたちも参加している

大人と一緒に歩き出す

行列の順番待ちかな

子どもたちのエーサー隊

太鼓隊が後に続く

町内会ごとにいろんな服装が採用されている

頭の頭巾だけは共通アイテムのようだ

玉陵(たまうどぅん)入り口

玉陵は琉球王国の第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓である。沖縄最大の破風墓である。破風墓とは沖縄特有の形式の墓であり,家屋と同じような屋根をもち,屋根の先端部に破風をもつものである。

琉球王朝時代は王族の墓にのみこの形式が許されたが,明治以降は一般の人も破風墓を造成するようになった。琉球王朝時代の代表的な墓に亀甲墓がある。これは破風墓が原型となっており,墓室の屋根を亀甲形にしたものである。

玉陵は中室,東室,西室の3つの建築物に分かれる。当時の琉球の葬制に基づき,葬儀の後,遺骸は中室に安置され,数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を大きな骨壺に収め,王と王妃の骨は東室に,他の王族の骨は西室に納められた。

ちょっと一休み

日本の道100選の首里金城町石畳道

首里金城町石畳道は首里城から金城町に下る石畳の道であり,日本の道100選に選ばれている。かっては国場川の真玉橋に至る真珠道という道があり,現在はその一部が残されている。

しかし,守礼門門のあたりから石畳の道を探すのは大変であった。地元の人に聞いて守礼門のすぐ西側の道を南に向かうとT字路になり,そこから石畳の道が始まっている。

道の片側は深い森となっておりなかなか感じ良い散歩道である。僕は下りなので散歩の感覚であるが,金城町から上ってくる場合はけっこうきつい坂となる。途中で日本の道100選の碑やカフェを見ながら進み,バス通りに出る。石畳道はバス通りを横切りさらに100mほど先まで続いている。

日本の道100選の碑

金城町は工房の多いところであるが今日はすべて休業

首里城祭のためバスは迂回している

バス通りに出たものの「石畳入口」バス停には首里城祭のためバスが迂回しているという表示があり,2つか3つ先の停留所まで歩かなければならない。歩くのは苦にならないので散歩の続きとなる。

寒川町内会の旗頭隊も出発する

バス通りを西に歩くと寒川となる。寒川町内会の旗頭隊が出発するところであり,バス通りに整列している。電線に注意しながらも旗頭はしっかりと立っている。

子どもたちのエーサー隊

ここの町内会では子どもたちのエーサー隊も組織されており,町内の人たちの前で踊りを披露していた。こうやって子どもたちは町内会の一員として成長していくんだろうなと暖かいまなざしで見ていた。

出発前に町内の人たちにエーサーを披露する

バスでゆいレールの牧志駅に移動する

「沖縄都ホテル」停留所まで歩き,ゆいレールの駅である安里に行くバスに乗った。後でバスマップで確認したら距離にして1.5kmほどであった。下車したところは「安里」であったがそこは牧志駅前であった。駅前では子どもたちのお絵かきなどいくつかのイベントが行われており,しばらく見学する。

さいおん・うふシーサー

ゆいレールの牧志駅は国際通りと立体的に交差しており,駅の下には蔡温橋があり,その前に大きなシーサー像がある。

そのまま進むと国際通りに出る


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