竹富島
竹富島は石垣離島ターミナルから高速船で10分のところにある面積5.4km2,海岸線長9km,最大標高33mのサンゴ礁が隆起してできた島である。戸数は158戸,人口は358人である。集落は島の中央西側に集まっており,東・西・南に分かれていることになっているが,ほとんど一まとまりとなっている。集落の民家はほとんど琉球石灰岩の石垣に囲まれた木造・赤瓦であり,集落内の道はサンゴ礁起源の白砂が敷かれた沖縄の伝統的なたたずまいを残している。
島民は昔ながらの町並みや文化を保存しようとする意識が非常に高く,1986年に「竹富島憲章」を制定している。この中には売らない,汚さない,乱さない,壊さないという島を守るための4原則と,伝統文化と自然・文化的景観を観光資源として生かすことを加えた基本5原則を定めている。
竹富島を含む竹富町は現在,教科書問題で文部科学省の是正要求の矢面に立たされている。竹富町と
は西表島・竹富島・小浜島・黒島・波照間島・鳩間島・新城島・由布島の有人島とその周囲にある仲の神島などの無人島からなり,石垣島・与那国島・尖閣諸島は含まない。
教科書無償措置法により石垣市・竹富町・与那国町の3市町教育委員会は同一の教科用図書採択地区(を構成しており,採択地区を構成する市町村教委は「協議して同一の教科書を採択しなければならない」とされている。
そのため,採択地区を構成する市町村教委が事前に合意した方法によって教科書を採択することになっている。八重山地区の場合,教科用図書八重山採択地区協議会が地区内の小中学校が使用する教科書について調査研究し,教科種目ごとに一点にまとめ,3市町教委に対して答申する方法が規定されている。
3市町教委は協議会の答申に基づき,採択すべき教科書を決定する。3市町教委の決定が協議会の答申と異なる場合は、沖縄県教育委員会の指導助言を受け,3市町教育長で構成される役員会で再協議することができる。
協議会は平成23年8月に公民教科書として育鵬社版のものを多数決で選定し,3市町村教委に対して答申した。石垣市教委と与那国町教委は答申に従って育鵬社のものを採択するが,竹富町教委は協議会の運営に疑義があるとして規約を根拠に答申に従わず東京書籍版のものを採択した。
このような事態になった原因は現在の石垣市教育長であり,地区協議会の会長である玉津氏の独断的な協議会運営にある。従来は教員である調査員(各教科3人)が各社の教科書を精査し,順位付けし,採択すべき教科書を事実上選定し,協議会に答申していた。協議会は調査員の選定を承認するかどうか審議していた。
玉津教育長は調査員による教科書の順位付けを廃止し,調査員は特徴のある教科書や推薦したい教科書を複数選定し協議会に報告するが,協議会は報告に拘束されずに教科書を選定できるということにした。
教育現場の評価は二の次にして,自分が望む教科書を採択したいという玉津教育長の姿勢がよく表れている。このような人物が教育長になること自体が問題であり,彼が教育長になったのも中山石垣市長の政治的意向が強く働いた結果とされている。
竹富町教委が提起した問題点は,調査員が最も低い評価を示した教科書が十分な議論を経ずに選定されたことにある。これはまっとうな問題提起であり,教科書採択が教育長の恣意により歪められる危険性を指摘するものである。
この事態を受けて沖縄県教育委員会は3市町教委に対して,協議して同一の教科書を採択するように指導助言し,3市町教育長による協議が行われたが決裂した。(8月31日)
事態を打開するために3市町の教育委員長の合意により,3市町の教育委員13名で構成される「全員協議」が9月8日に開催され,東京書籍のものを採択することを多数決で決定した。
9月13日に文科省は全員協議の決定について石垣市と与那国町の教育長から全員協議の無効の文書が発出されていることを理由に「合意には至っていない」として,全員協議が有効でないとの見解を表明した。さらに、9月15日に文科省は、協議会の「規約に従ってまとめられた結果」に基づいて同一の「育鵬社」を採択するよう求める文書を県教委を経由して3市町教委に対して送付した。
この文部省の指摘は的外れであり,八重山地区の教科書採択が3市町教委で合意に至っていないのであれば,地区内の合意をどのようにまとめるかが問題であるにもかかわらず,疑義の多い協議会の結果を押しつけようとしている。
さらに,文部科学省は沖縄県教委に対して必要な措置を講じるよう求めた。県教委は「違法状態は八重山地区全体であり,竹富町教委のみを違法とすることは難しい」として是正要求の措置は現在まで講じられていない。これは当然のことである。
竹富町教委は平成24年の3月に国の無償給付によらない方法によって教科書を独自に確保して,生徒に給与する選択をした。以後,竹富町では公民教科書として東京書籍にものが使用され,現在に至っている。
竹富東港|黒島から石垣島を経由して竹富島に移動
民宿あ〜ちゃんのスタッフに黒島港まで送ってもらい,08:35の高速船で石垣島に向かう。09:30の高速船で竹富港に向かう。どちらの高速船も甲板席がないか,あっても窓が閉まっている状態であったので写真はない。石垣島から竹富島まではわずか10分,始発は07時30分,最終は17時45分なので十分に日帰り観光が可能だ。
竹富島の唯一の玄関口となっている竹富港は2004年に浮き桟橋となった。固定桟橋では潮の状態により桟橋と船の位置が変わるので,船の舳先と岸壁の間に渡し板を置いて乗降していたという。インドネシアでは何回かそのような渡し板を歩いて漁船や貨物船に乗り込んだが,板がしなるのでこれはなかなか難しかった。さすがに,日本ではもっと安全なものであったことだろう。
てぇどぅんかりゆし館
船客待合室には「てぇどぅんかりゆし館」という名前がつけられている。「てぇどぅん」とは地元の言葉で竹富島のことであり,「かりゆし」とは旅人の航海の安全を祈るという意味でである。ここから集落の中心部までは1kmほどであり,1本道となっている。ここは30分に1本けらいでバスが通っているのでそれを待つこともできたが,なんとなく歩くことになった。
素泊まり宿のジュテーム
宿は素泊まり宿のジュテームに決めていたが,竹富小中学校のところまできても場所がよく分からない。近くに観光センターがあったので聞いてみると,そこから歩いて1分のところであった。
予約はしておらず,家主(ウェブサイトで経営者は自分を家主と自称している)に宿泊の可否をたずねると問題はなかった。この宿は家主の趣味で沖縄とアジアの雰囲気をもたせている。共生部はクツのまま入れるが,ベッドルームはクツを脱いで入るようになっている。二段ベッドが並んでおり,僕は下段をもらいことができた。シーズンオフであり,閑散としている。
竹島は3泊の計画であったが,翌日からの天気は風雨が強くなりそうだ。竹島のあとは那覇に飛ぶことになっているので,天気が本当に悪くなったら,石垣島に戻り,そこで悪天候をやり過ごそうと考えるに至った。そのため,駆け足で竹島を回ることにする。
宿の前の通りは水牛車の周瑜ルートになっている
宿の前の道は水牛車の通り道になっている。水牛車は竹富町の観光の目玉である。竹富町は伝統的な家屋が並び,集落の道には白砂が敷かれており,この旧市街ともいうべき中心部が大きな魅力である。
水牛車は観光客を乗せて集落の中をゆっくり回り,御者は竹富町の歴史や目の前の建物などについて説明してくれる。昔ながらの家並みに水牛車はよく似合う。この水牛車は僕が宿の場所を聞いた観光センターのところから出発し,30-40分でコースを回ってくれる。僕の見たときは停止しており,御者が自己紹介をしていた。
きつい農作業に比べると車を引くのは楽なもんだ
水牛車を引くのは大変そうに見えるが,本来,水牛は農耕用に飼われていた。最大の力仕事は鋤を引いて耕地を耕すことであり,それに比べると平らな道で車輪の付いた車を引くのは楽な仕事だ。
水牛車乗り場までは徒歩1分である
ここが竹富町観光センターである。水牛車はこの裏手から出発する。水牛にはすべて名前が付けられており,御者は水牛の名前を書いた板を取り出し,水牛車の後ろに取りつける。これにより,乗客は自分の水牛の名前を知ることができる。
ユニークなシーサーが並んでいる
観光センターの建物にはたくさんのシーサーが置かれており,中にはかなりユニークなもののある。
10月半ばでは観光客は少ない
10月の下旬に入っており,観光客は少なくなっている。観光センター前の敷地にはたくさんの水牛車と水牛が待機しており,さすがに暇そうだ。
ここの生活に不満はないね
水牛はのんびりと寝そべっており,1日に何回か車を引くと食べ物の心配はいらない暮らしである。ここの暮らしに不満はないという水牛のつぶやきが聞こえてきそうである。
水牛にはすべて名前が付けられている
ここが水牛車の出発場所である。近くに名札が並べられており,御者は担当する水牛の名札を取り出し,水牛車の後ろに取り付ける。この写真の水牛は角が後ろ方向に丸まっている。先ほど見たものの角は左右に真っ直ぐ伸びており,竹富島の水牛は角のまっすぐ伸びたものと丸まっている二系統あることが分かる。
角のまっすぐ伸びているものは「アジア水牛」,丸まっているものは「ヨーロッパ水牛」である。どうして,竹富島にヨーロッパ水牛がいるのかは不明だ。ヨーロッパでは水牛の乳からモッツァレラチーズを作ることから,酪農用に日本に持ち込まれたのかもしれない。
感じの良い旅館だね
高那旅館は竹富島の老舗の旅館でありユースホステルも併設されている。旅館の和室は8500円〜であるがユースは非会員で4500円の設定になっている。
スイフヨウ(酔芙蓉)・八重咲き種
フヨウ(Hibiscus mutabilis,アオイ科・フヨウ属)は中国および九州・四国以南の日本に自生する落葉低木(1.5-3m)である。夏期にピンクや白で直径10-15cm程度の花をつけるが,写真のものは八重咲き種である。
他のフヨウ属の花と同様に朝咲いて夕方にはしぼむ1日花でであり,長期間にわたって毎日次々と開花する。種小名「mutabilis」は「変化しやすい(英語のmutable)」ことを意味しており,午前中は白い花も午後にはピンク色に染まる。
写真のシーサーコレクションを作るのも面白い
竹富島の民家の屋根にはかなりの確率でシーサーが置かれており,ていねいに回るとシーサーのコレクションを作ることができそうだ。しかし,なんといっても時間が足りない。
東パイザーシ御嶽 (アイパイザーシオン)
集落の中心部から竹富港に向かう道路沿いにあり,御嶽が島の人々の生活にとって身近なものであることがよく分かる。竹富島には28もの御嶽があり,そのような場所は島の人々にとっては大切な聖地なのでむやみに立ち入ることのないようにしたい。
東の放送台
竹富郵便局の西側にある琉球石灰岩の塔,高さは5mほどであり目的はよく分からない。
かにふ
僕の泊まったところからもっとも近いお食事処であり,営業時間は11時から15時30分が昼メニュー,18時から20時30分までが夜メニューとなっている。夕食はここで「ゴーヤチャンプルーセット」をいただいた。店のウェブサイトの説明によると「かにふ」とは肥沃な大地を意味しており,豊かな自然と豊穣の願いを込めた名前とのことである。
かにふの石垣にはいくつものシーサーが展示されている
竹富郵便局
竹富島の中心部にあり,琉球建築を模して建物の上にシーサーを載せた局舎は周囲の風景によく似合っている。郵便ポストは昔懐かしい円筒型のものが使用されている。この型のものは1970年代までは主流であったが,現在ではその多くは角型のものに置き換えられている。ここではまだ現役で活躍していおり,これも周囲の風景によく似合っている。
ドラゴンフルーツはサボテンの実である
琉球石灰岩の石垣の上から三角サボテンが垂れ下がっている。それなりに手入れをしないと花と果実は楽しめないようだ。
東のスンマシャー
東のスマンシャーは集落から竹富港に向かう道路上にあり,集落の入口にある巨木を石垣で囲んだものである。風水思想に基づき,災いが集落に入り込まないようにようにしている。同時にスマンシャーは集落の境界を示すものにもなっている。
竹富島の北側にも牧場がある
集落から竹富港に向かう道路から放牧場が見える。黒島と環境が類似しているので助成事業を受けることにより,広い放牧場が開発できそうであるが,それが竹富島にとっての幸せにつながるかどうかは別問題である。
ハスノハギリが街路樹になっている
ハスノハギリ (Hernandia sonora Linn,ハスノハギリ科・ハスノハギリ属)の原産地は西インド諸島といわれているがはっきりしない。日本では小笠原と南西諸島で自生している。熱帯では高さが10-20mにもなり,軽くて軟らかい材はカヌーになるとのことであるが,竹富島の街路樹を見る限りでは幹の曲がりが大きいのでカヌーには不向きである。
竹富島ゆがふ館
竹富港の少し手前にゆがふ館がある。ここは竹富島の自然と伝統文化,芸能を紹介する施設として
2004年に開館した。「ゆがふ(世果報)」とは「天からのご加護により豊穣を賜る」ことを意味しており,来島者と島民の間により良い交流が行われることを願い名付けられた。
「竹富島ゆがふ館」の公式サイトには西表石垣国立公園・竹富島ビジターセンターという枕詞が付いている。施設の管理者は環境庁であり,実際の管理は遺産管理型NPO法人「たきどぅん」に委託されているようだ。
ゆがふ館では自然の恵みを受けるとともに,その厳しさを乗り越え,助け合って暮らしてきた竹富島の人々の暮らしや,自然が紹介されている。
展示品|昔の生活の様子が偲ばれる
島言葉は理解できなくても周辺の絵でかっての竹富島の暮らしが理解できる。
トゥヌクイ
材料は竹,チガヤ,フガラ縄であり,左側の説明書きには下記のように記されていた。家の中の間仕切りにも使用できそうであるが,穴掘屋では室内はそれほど広くはなかったのだろう。いずれにしても,島という限られた土地の植物を利用して生きてきた島民の生活が偲ばれる。
その昔,穴掘屋(掘建て屋)暮らしの時にはこのトゥヌクイが屋敷の戸の役目を果たしていました。風よけとして開口部に立てかけたり,台風時にはしっかりと止めて使う暮らしの必需品でした。
伝統家屋の再現
現在の伝統家屋より一世代前の家屋の再現画像が展示されている。写真の家屋の平面図は長方形であり,屋根の最上部の棟木と小屋梁を結ぶように放射状に垂木を配置している。骨格材は太い木を使用し,垂木は細い木をそのまま使用している。釘は使用せず,樹皮や植物繊維の縄などで縛り付けている。材料は異なるが東南アジアでは竹材でこのような家屋を建造している。
伝統家屋の再現
屋根は茅葺となっており,下から順に形をそろえて組み込んでいく。台風などの強風に耐えなければならないので,茅の束は樹皮あるいは植物繊維の縄などで固定していたことだろう。本土の茅葺屋根は稲わらで作られた縄で固定されるが,竹富島では稲わらそう簡単には手に入らない材料であったことだろう。
クバの葉を乾燥させたものであろう
島の人々は島内の植物資源を利用して生活用具を制作してきた。中でも乾燥させたアダンの葉は重要な資源であり,蓑,草履,縄などに利用された。
ウルズンの季節
亜熱帯の八重山の季節は短い冬と長い夏に代表され,本土の春と秋に相当する季節感には乏しい。そんな中でも「ウルズン」は冬から若夏(バガナツ)に移行する季節を表す。2月下旬から3月上旬にかけて北東季節風に吹きさらされてきた自然はときおり晴天とともに流れ込む南風で一斉に新芽を出し始める。この季節が「ウルズン」とされている。
ウルズンは短い春の始まりというより冬の終わりであり,さまざまな花が咲き始め,昆虫も動き出し,冬鳥が去り夏鳥が飛来するようになる。
ホッカル(アカショウビン)は春先に東南アジア方面からやって来るカワセミの仲間であり,八重山で子育てをして秋には東南アジアに帰っていく。ブーナー(サンコウチョウ)は雄の長い尾羽から八重山ではブー(ひも)ナー(長い)と呼ばれる。この鳥は初夏に東南アジアから飛来し,日本で子育てをして秋に戻っていく。
丸太を組み合わせた防風柵
このような防風柵は与那国島でも見かけた。
竹富港北西側の海岸風景
竹富港に出て,そのまま海岸に沿って西に歩き出す。このあたりの海岸はワタンジ(干潮時に渡れる渡路,干潟)が広がっており,海はだいぶ先になっている。このような地形は港湾施設を建造するには不向きであり。すぐ近くの竹富港はサンゴ礁を削って航路を確保し,港湾設備はワタンジを掘り下げて水深を確保したのではと推測する。
林の向こうに変電設備がある
八重山で発電設備があるのは石垣島,波照間島,与那国島でけである。その他の有人島へは石垣島から海底ケーブルで電力を供給している。竹富島では島の北端あたりに上陸地があり,そこには変電設備がある。海底ケーブル送電は22,000Vなのでここで100V,200Vに変電して,島内に供給している。海底ケーブルはここからさらに小浜島→西表島へと伸びている。
東美崎御嶽(アイミシャシオン)
島の北端の美崎海岸にある御嶽である。竹富島には「海の大蛇に食べられた星の子どもの骨が流れついた」という民話がある。この星の子どもの骨とされているのが星砂であり,可愛そうに思った東美崎御嶽の神司(かんつかさ)が星砂を集めて香炉に入れ,祭りの時に線香の煙と共に母星の元に昇らせたと伝えられており,今でも東美崎御嶽の祭りの時には香炉の星砂を入れ替えている。
ガンギ(桟橋)跡
美崎海岸はかつて島の主要な港として大正時代あたりまで使用されていた。沖合の島に向かって伸びているのがガンギ(桟橋)跡である。
おそらくイトバショウであろう
天然素材から糸を紡ぎ,反物を織る文化は世界中で行われており,代表的な素材としては木綿,絹,麻などがあげられる。そのような素材が容易に得られないところでは地域の植物から糸をとるため大変な努力と時間が費やされている。
沖縄では芭蕉布が500年ほどの歴史をもっている。この素材となったのがイトバショウである。バショウの仲間の茎は地下茎から伸びた葉鞘が地上で同心円状に何重にも重なって茎のように見える偽茎である。外側の葉鞘を裂いて捨て,内側の繊維質の皮をいくつかに区分する。一般的により内側の繊維を用いるものほど高級とされている。
種類ごとに束ねた皮(苧=うー)を灰汁で煮て,水洗いをし,乾かしで繊維を取り出す。この繊維を紡いでようやく糸ができる。この糸を染色し,反物として織り上げるまでには気の遠くなるような時間が必要とされる。
スズメガの仲間(ホシホウジャク)
西表島4に続いての登場である。ホシホウジャク(Macroglossum pyrrhosticta,スズメガ科・ホウジャク亜科)は北海道から沖縄まで日本の各地に分布している。4枚の翅は体に対して小さく,ジェット戦闘機の三角翼のような鋭角三角形になっていて高速で飛行する。スズメガの仲間には時速50km以上の高速で移動するものもおり,飛翔昆虫の中でも一番速い部類に入る。
また翅を素早く羽ばたかせることで,ハチドリのように空中に静止(ホバリング)することもでき,その状態で花の蜜を吸引している姿が観察できる。ホシホウジャクは何回か見かけたが,静止して吸蜜するものは一回しか見かけなかった。
オオゴマダラ
オオゴマダラも西表島4に続いての登場である。北周回道路わきのシロバナセンダングサの群落で吸蜜していた。オオゴマダラは動作がゆっくりであり,花にも長い時間止まっているので写真は容易であるが,道路からかなり離れたところにしかいない。シロバナセンダングサの種子は返しのようになった棘をもっており,うかつに足を踏み入れると靴とズボンは種だらけになるという厄介な植物である。
そのため,望遠レンズに切り替えて道路から撮影するものの,手前の草花がなんともジャマである。何回かトライしてようやくものにすることができた。北周回道路を自転車で回っている観光客にとって,道路わきにザックを開いたまま放置し,写真を撮っている自分がどのように見られているかは気にしないでおくことにする。
オオゴマダラ(Idea leuconoe,タハチョウ科・マダラチョウ亜科)は東南アジアに広く分布し,日本では喜界島,与論島以南の南西諸島に分布する。自分の旅行記を検索してみるとこのチョウはマレーシアのペナン島にある蝶園で見たことがある。
日本国内では最大級の蝶であり,前翅長は7cm,開長は13cmにもなる。翅は白地に黒い放射状の筋と斑点があり,僕の観察した範囲では翅の表と裏は同じ模様である。ゆっくりと羽ばたきフワフワと滑空するような飛び方をする。
他のマダラチョウの仲間はそのほとんどがガガイモ科の植物を食草としているが,オオゴマダラの幼虫はアルカロイドを含むホウライカガミ,ホウライイケマの葉を食べる。そのため,オオゴマダラの幼虫,蛹,成虫には毒素が残っており,金色の蛹や成虫のフワフワとした飛び方は捕食動物に対して警戒させるためだと考えられる。
木を絞め殺すのは容易ではない
ガジュマルの仲間は「絞め殺しの木」という恐ろしい異名をもっている。この種の植物の果実は動物に食べられ,大きな木の枝などにフンと一緒に種子が付着することがある。種子は発芽し空中から上方に幹を,下方に気根を伸ばす。
どちらも分岐して親木に絡みつくように大きくなり,最終的には成長が早いので親木の光を奪ってしまうので,親木は枯死する。その様子は親木に巻きついて絞め殺しているように見えることから「絞め殺しの木」などと呼ばれる。しかし,実際には親木を絞め殺すのは無理であり,逆に親木が成長すると絡みついた気根が切断されてしまうこともあるようだ。
安里屋クヤマのお墓
「安里屋ユンタ」で歌われる竹富島に生まれた絶世の美女,安里屋クヤマのお墓である。北側周回道路から少し海側に下った所にある。
布さらし浜入り口
安里屋クヤマのお墓と西桟橋の間に布さらし浜入り口案内標識があった。しかし,布さらしの文化は廃れており,標識の方向にあるはずの海岸に向かう小道は亜熱帯のジャングルに飲み込まれている。布さらしとは織り上がった芭蕉布を白くするため海水に漬けてさらす方法であり,一般的には海晒し(うみざらし)と呼ばれている。
ゆうな
ゆうなとは沖縄の呼称であり和名はオオハマボウ(Hibiscus tiliaceus)である。しかし,アダン(タコノキ)にしろクバ(ビロウ)にしろ島にいると島言葉が先にインプットされてしまう。ゆうなはアオイ科の常緑高木であり,ムクゲやオクラに似た黄色の花を咲かせる。
西桟橋
島の西海岸にある。1938年(昭和13年)に建設された竹富島で最初の近代的桟橋で長さは105mある。琉球石灰岩を積み上げ両側面と上面はコンクリートで覆っている。竹富島は農耕地が少ないため,昔はここから西表島に舟で通っていた。
この海岸もワタンジ(干潮時に渡れる渡路,干潟)が広がっており,海はだいぶ先になっている。現在は干潮なのか先端まで行っても海にはならない。そのため,そこから海に向かって傾斜路が設けられている。2005年(平成17年)に黒島の伊古桟橋とともに国の有形文化財に登録されている。
強風で押し戻されそうになる
西桟橋は強い向かい風となっており,押し戻されそうになる。横から見ると桟橋の先端部までほとんど水が無いことが分かる。
オオゴマダラの縄張り争い
オオゴマダラはのんびり飛翔するチョウであるが,吸蜜のときはしばしば縄張り争いをするようだ。目的とするシロバナセンダングサはそこら中にあるのに,わざわざ他のチョウのところに行って吸蜜をジャマしている。最初はペアリングの求愛行動かなと思っていたが,どうもそうではないようだ。
コンドイ浜は猫の楽園になっていた
西側の海岸道路をそのまま歩いて行くとコンドイ浜に出る。ここはずいぶん猫の多いところである。集落からかなり離れているので飼い猫ではないようだ。猫たちは琉球石灰岩の石垣の上などに寝そべり,ときどき観光客のお相手をしている。
人気のない海岸でぼ〜つとするのは好きなのだが…
いかんせん,今日はのんびりするほど時間がない。滞在時間は10分ほどで次の目的地のカイジ浜に向かって歩き出す。
太い木を避けて遊歩道がある
島の西側にも遊歩道があり,ハスノハギリの大木の間をぬって道は続いている。
遊歩道の南の終点はカイジ浜
遊歩道の終点がカイジ浜となっている。僕が到着した時,観光バスも到着し,たくさんの観光客が出てきていた。カイジ浜は竹富島の観光名所であり,海岸にはハスノハギリが群落を作っている。人為的なものかどうかは分からないが,竹富島にはハスノハギリがとても多く,同じような隆起サンゴ礁の島である波照間島や黒島とは異なった海岸の風景となっている。
海岸の最前線にハスノハギリがある
海岸という厳しい環境のせいか,ここのハスノハギリはほとんど真横に枝を伸ばしており,特異な景観を形成している。
観光バスの乗客は急いで星砂を探す
カイジ浜は星砂の浜として観光客に人気がある。バスから降りた観光客はガイドの指示にしたがってさっそく砂を集める。星砂とは原生生物である有孔虫の殻であり,その成分はサンゴと同じ炭酸カルシウムである。このような整った幾何学模様の殻をもつ生物はたくさん存在するが,星の砂となる有孔虫の際立った特徴は肉眼でも見られる大きさの殻をもつことである。実際,カイジ浜では黒い布の上に海岸の砂を広げると数個の星砂が見つかる。
南側の立ち入り禁止区域の境界を歩く
島の南側はだいたい牧場になっており,立ち入り禁止区域となっている。カイジ浜から集落に向かう道路が立ち入り禁止区域との境界となっている。道の周囲は植生が迫っており,その中に鮮やかな黄色の花をつけている灌木があった。
ハナセンナ(Cassia corymbosa,マメ科・カワラケツメイ属)は南米原産の常緑低木である。日本には園芸用として移入されており,「アンデスの乙女」という流通名をもっている。鮮やかな黄色い花をたくさんつけるのでとてもよく目立つ。
ニトベカズラ(アサヒカズラ)
この花は波照間島2で出てきている。やはり竹富島でも琉球石灰岩の石垣を覆うようにニトベカズラ(アサヒカズラ)がつるを伸ばしていた。正式な和名はニトベカズラなのかアサヒカズラなのかははっきりしない。google の検索ヒット数ではアサヒカズラに軍配が上がったで,こちらの名前の方がよく知られているようだ。
アサヒカズラ(Antigonon leptopus,タデ科・アンティゴノン属)はメキシコ原産のつる性の低木である。温度条件が合うと急速に成長する。花は一つの花序に十数輪付き,その先端の巻きひげを絡み付けて石垣でも体を支えることができる。
ピンク色に見える花は萼(がく)であり,長い期間を楽しむことができる。開花時期は夏となっているが,熱帯・亜熱帯地域では通年開花するようだ。
ここのシーサーは不用意に近づかない方がよい
竹富島交通は島内を巡る観光バスを運行している。カイジ浜でであったバスもおそらくここのものであろう。事務所の入り口には黒い恐そうなシーサーが控えており,中に人のいないときはとても近くに寄れない。
水道記念碑
水道記念碑は竹富小中学校の南側にある仲筋井戸(ナージカー)の南側向かいにある。隆起サンゴ礁の島である竹富島は水資源に乏しく,かっては天水を貯め置きしたり,井戸を掘ったりして生活用水を確保してきた。1976年に石垣市の了承を得て,石垣浄水場の上水を海底送水管により竹富島に運ぶ水道が敷設された。この石碑はその事業の完成を顕彰するために建立されたものである。
仲筋井戸(ナージカー)
石垣島からの海底送水により生活用水に不自由することはなくなったが,かってはこのような井戸が島の人々の生活を支えていた。仲筋井戸は竹富島の中で最も水量が豊富な井戸であり,現在でも元旦や出産祝い時にこの水を使用しているという。
酒造所跡の碑
竹富島小中学校の校門近くにあるかっての酒造所跡地に建てられている。現在,竹富島では酒造は行われていない。
竹富小中学校
創立120周年となる歴史のある学校である。小学部は17名で1・2学級,3・4学級,5・6学級の3学級となっている。中学部は13名で1年生と2年生,3年生の2学級となっている。
かにふで夕食
中心部で食事のできそうなところは「かにふ」しか見つからなかったので17:30頃に行ってみた。しかし,夕方の営業時間は18時からということでいったん宿に戻り18時15分頃に再訪した。店内の一部は改装のため使用できず,すでに予約を含め満席の状態であった。
入り口の近くに腰を下ろして待っていると近くの席のご夫婦から相席のお誘いがあった。ありがたく席を使わせていただいた上に鳥のから揚げまでいただき恐縮した。僕の注文したゴーヤチャンプルーセットは量が多くかろうじて食べることができた。帰りは19時を回っており,道路はかなり暗い状態である。夜に出歩くときは明かりは必需品である。