与那国島3日目の行程
滞在3日目は祖納から比川浜までバスで移動し,そこから南海岸沿いに歩き,久部良港から祖納に戻った。今日の当たりは南牧場の与那国馬である。
滞在3日目は祖納から比川浜までバスで移動し,そこから南海岸沿いに歩き,久部良港から祖納に戻った。今日の当たりは南牧場の与那国馬である。
10月17日,今にも降り出しそうな空模様である。朝食は大きなカップメンをいただき,ザックの中には昼食用のパンとチーズを入れて出発する。与那国島には町営の無料バスが祖納,比川,久部良を結んでいる。しかし,祖納//空港//久部良を結ぶ北回り路線がほとんどで,祖納から比川に行くものは09時30分発の1本しかない。祖納のバス停は一周道路に面しており,宿から3分のところにある。
祖納 | 比川 | 久部良 | 比川 | 祖納 |
---|---|---|---|---|
0800 |
− |
0815 |
− |
0830 |
比川浜にはテレビドラマ「Dr.コトー」の撮影で使用された医院があることから全国区の観光名所となった。僕は一度もテレビドラマは視ていないが,原作となっているマンガ(山田貴敏,Dr.コトー診療所)の方は手元にあるので一応の解説は可能だ。
僕の普段の行動では旅先でこのようなドラマの撮影地を訪問することはまずないが,石垣島の民宿ゆくるの宿泊客の女性がこの観光客が有料で見学できる診療所セットの受付をするというので訪問した。
比川の浜に10時少し前に到着したとき,診療所はまだ開いてはいなかった。先に浜の風景を見に行こうかと思案しているときに,車がやってきて男性と一緒に彼女が出てきた。彼女は確かにここの受付に座ることになったようだ。もっとも,まだ日が浅いので見習い期間中という感じがする。
マンガの設定では絶海の孤島・古志木島であり,人口は約1000人,本土の病院までは船で6時間となっているが,ドラマでは志木那島診療所となっている。マンガでは診療所の看板は無く,村人の手により「Dr.コトー診療所」という幟が立てられた。診療所は海岸の岸壁の近くに立地しており,この診療所の位置と類似している。
古志木島は架空の島であるが,マンガの中では鹿児島県の西側にある甑島がそのモデルになっていると記されている。薩摩川内市の西側30kmほどのところに3つの島からなる甑島があり,北から上甑島,中甑島,下甑島と名付けられている。Dr.コトーのモデルは下甑島の下甑手打診療所において30年間離島医療に携わってきた瀬戸上健二郎医師である。
マンガの中では診療所は海岸の岸壁近くに位置しているので,待合室の窓からこのような砂浜の景色が見られるわけではない。しかし,ドラマでは岸壁より砂浜の方が絵になるのは言うまでもない。
マンガでは第30話にコトー先生がカップメンばかりを食べていることについて星野看護師から叱られる場面がある。扉絵ではサッポロ一番やカップヌードルと思しき容器が描かれているが,テレビではスポンサーとの関係もありそのまま出すわけにはいかないので,このような小道具を使用したのであろう。
マンガの設定はさすがに現代(2000年頃)なのでこのような草鞋は使用していない。八重山の草鞋といえばアダンの葉を使用することが多いが,この写真の材料は稲わらであろう。これがアダンのものであったらすぐにそこが沖縄であることが分かるので稲わらにしたと推察する。もっとも,与那国島は昔から稲作が盛んな地域であったので稲わらにも不自由することはなかったので,草鞋の材料に稲わらが使用されることに違和感はない。
マンガの設定では古志木島は車の走れる道路が整備されており,コトー先生が自転車を使用する場面は出てこない。
受付をしている女性に挨拶をして診療所の外に出る。そこは比川浜となっている。与那国島の海岸の7割は断崖となっており,南側には3か所の小さな砂浜があるだけだ。
島の基盤岩は2000万-1500万年前に浅海で堆積した砂泥が固結した堆積岩(八重山層群)であり,一般的には第三紀堆積岩と呼ばれている。地質学的には2000万年前は大昔ではなく比較的新しいものであり,そのため固結度が低く軟質であり,応力を受けると変形しやすく,浸食されやすいという性質をもっている。
与那国島は基盤岩が隆起して形成されたものであるが,隆起速度は生物の活動サイクルに比べてはるかにゆっくりしているので,島がまだ海水面以下にあった150万年前頃にはサンゴ礁が発達した。
その後,隆起の進行により島が海面上に顔を出し,現在のように基盤岩の上を琉球石灰岩が覆う島の地質構造になっている。このような地質構造は(琉球石灰岩の被覆割合の違いはあるものの)基盤岩が海面上に出ている他の八重山の島でも同様である。
与那国島が海面に出ると同時に海食が始まる。最初に海面上に出た琉球石灰岩層の海食はティンダハナタの深くえぐられた崖に見ることができる。隆起が進行し,基盤岩が海面上に出てからも波による浸食は進む。島の周囲がほとんど断崖となっているのは,1万年前以降の海食によるものであろう。
最終氷期が終わり海水面は一気に100mほども上昇し,それまでは傾斜地であったところが海岸線となり,海食により斜面が浸食され断崖が形成されたということである。軟質の第三期堆積岩の海食速度は大きく,1000年あたり14-140mにもなり,海水面が現在と同じになった6000年前以降の海食は80-800mにも及んでいる。
海食は海中でも進み水深10-20mあたりに海食台を形成する。この幅を調べることによりおおよその海食の具合が分かる。海底遺跡で有名な荒川鼻のあたりの海食台の幅はおよそ250mであり,それがこの6000年間に受けた海食と考えられる。
比川浜では層状の堆積岩が観察できる。これが与那国島の基盤岩であり,地殻変動時に加わった大きな力により地層は45度くらいに傾斜している。近くにはそこから削り取られた大きな岩が転がっており,海食の力を実感することができる。
海岸にはサンゴのかけらがたくさん落ちているのでコレクションを作ってみた。ノウサンゴ,キクメイシ,エダサンゴは識別できるが,小さな穴がたくさん明いているものは不明である。
雨が降り出したのでカサをさし,岩陰に避難する。近くで見ると層状に積み重なった堆積岩の表面はボロボロに風化している。そのすき間にしがみつくようにホソバワダン(Crepidiastrum lanceolatum,キク科・アゼトウナ属 )が根を下ろしていた。東崎で見たときは平地に小さな群落を作っていたが,ここでは厳しい環境に耐えている。この状態だと葉がロゼット状になっていることが良く分かる。
比川浜を馬で散歩する二人がいた。僕が比川浜に到着した時,この二人は浜の岩場の陰に回り込んでいくところであり,僕が海岸から戻ろうとしたとき再び戻ってきた。その時は気が付かなかったが,一人は宿の常連客であり,後で写真のことをたずねられちょっと驚いた。
比川浜のすぐ近くに製塩所がある。ここでは海水を煮詰めてそのままの海水塩を製造している。燃料は島で出る廃材を使用し,ひたすら海水を煮詰めていく。ここでは塩の販売もしているが,僕はすでに石垣島で買ってしまっていた。
自宅に戻って写真を整理するとソテツの雄株が全くないことに気が付いた。確率的にはあっても良さそうなので,この島では種子のとれる雌株の比率がとても高いということなのだろうか。
沖縄では暖かい気候と収量が多いことから琉球王府の時代からサツマイモ栽培がさかんであった。サツマイモは中国から伝来したことは確実であるが,古文書の記載によると沖縄本島,宮古,八重山は16世紀終わりから17世紀の初めにかけてそれぞれ個別にサツマイモを導入したようである。
地中で育つサツマイモは台風の前にイモができるように栽培時期を調整すれば,穀物に比して台風被害を受けづらいという特長をもっている。しかも,単位面積当たりのカロリー生産量はコメよりもずっと多く,栽培も容易である。サツマイモの導入により八重山の食糧事情は劇的に改善されたことであろう。実際,八重山の人口は17世紀の初めには5000人ほどであったが,1771年の明和の大津波の頃には27,000人に増加している。
比川浜からカタブル浜までは防潮堤があり,その上を歩くことができる。比川から西に向かって歩くと,下に小学校の校庭がある。ここはテレビドラマの中では志木那島小学校として登場している。ちょうど昼休みの時間であり,校舎のスピーカーからは宮崎アニメの主題歌や挿入歌が流れていた。
防潮堤の上を歩いていると再び雨が降り出した。風があるので傘をさしてすぐ横にあるネットに守られた植栽のところで雨をやり過ごす。これはおそらく強い潮風から集落を守る防風林であろう。ネットの内側で植栽は順調に生育し,中にはネットを破ってこちら側に枝を伸ばしているものもある。
これはモンパノキ(Heliotropium foertherianum,ムラサキ科・キダチルリソウ属)であり,熱帯から亜熱帯の海岸近くに生育する常緑低木である。塩害に強いので海岸の防風林に適している。ちょうど花の時期で先端部のブドウ状のまとまりはつぼみである。花は白色であまり目立たない。
砂浜でつながっているものの潮が満ちてくると岩礁になりそうな地形の場所があった。岩の上に植物が生えているので海岸まで降りてみた。
一帯はサンゴ礁石灰岩の岩場となっており,島状の岩場は木本植物の群落で覆われている。その手前の岩場はみごとなお花畑になっていた。このような厳しい環境で岩場を覆う勢いの植物の環境適応力と可憐な花にしばらく見とれていた。
ウコンイソマツ(Limonium wrightii,イソマツ科・イソマツ属)は伊豆諸島および小笠原諸島,南西諸島に分布し,日本国外では台湾の蘭嶼島に分布する。海水が飛沫する石灰岩の岩礁帯に生育する。
名前の通り草本ではなく木本の植物である。葉をよけて根元を観察すると確かに木質化していることが分かる。ウコンイソマツは島による変異があり,ここのものはピンク色の花の色から「Limonium wrightii var. arbusculum」であることが分かる。
生育地である海岸の開発や薬用および園芸用の採集により,個体数・生育環境とも減少し,絶滅のおそれが高まっている。環境省では絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト) に指定している。また,鹿児島県や沖縄県でも絶滅危惧種に指定している。
ここの環境は過酷である。岩場の周辺の砂地にはまったく植物が進出していないことから満潮時は海水に浸るのであろうと推測できる。
大きな株はたしかにこの植物が本木であることを表している。イソマツの成長速度は分からないが,この環境でここまで育つにはそれなりの時間がかかっていることだろう。この小さな花園がずっと続くことを願わずにいられない。ここでは何枚も写真を撮ったが,イソマツを踏まないようにできるだけ砂地を歩くようにした。
ところで,写真の右下には白っぽいものが写っている。拾い上げてみると鉱物のような触感の薄い板状のつながりであった。正体が分からず疑問が残ったまま先に進むことになったが,久部良漁港で地元の人に海藻の一種だと教えてもらった。
比川浜とカタブル浜の間にエビの養殖場がある。地図にはその手前にハナシダンの群落があると記されているが,確認できなかった。琉球石灰岩の上でも2-3mにまで成長するというのに見逃してしまったようだ。波照間島でもハマシダンは見ることができず,どうも相性が悪いようだ。
エビの養殖場に到着した頃には三度目の雨になり,引き上げられていた船の横で雨宿りをすることになった。雨が上がり養殖場を見学しようと海側の建物のところに行っても誰もいないのでそのまま失礼して中に入った。養殖場には三面のプールがあり,海との間には防潮堤があるので見た目は海とつながっていない。プールの中には数基の水車が廻り水中に酸素を送り込んでいる。
養殖事業において重要なことは持続性である。プールのような閉鎖環境で持続可能な養殖を行うのはエサと排泄物,薬品による汚染が問題となる。ネット上の情報ではここでは年1回プールから水を抜いて清掃するという。あるべき姿は自然環境と同じ程度の密度にした粗放的な養殖であるが,さすがに狭い島では経済的に引き合わないであろう。
与那国島で養殖されているのは高級エビとされるクルマエビであり,沖縄栽培水産(株)が運営している。クルマエビは寒さに弱く,水温が下がると生育しないため,温暖な沖縄は養殖の適地である。
しかし,問題は大消費地との距離である。クルマエビはおがくずにくるまれ,段ボールに詰められて生きたまま流通させている。これは与那国島にとっては大きなハンディとなる。また,現在の流通形態では年末・年始などの需要期に対応できないという問題も抱えている。
沖縄栽培水産(株)では地域ファンドの出資を受けて,高品質なクルマエビの周年生産を実現するとともに,最新の技術を用いて冷凍加工し,それにより販路を拡大し,将来的には全国の生産者と連携したクルマエビの新しい流通形態を構築していく計画をもっている。
カタブル浜はほぼ円形の砂浜で100mほどが海に開いている。白い砂はサンゴが細かく砕かれたもので,砂浜の陸側は琉球石灰岩が覆っている。浜の西側はなだらかな尾根構造となっており,そこを削って久部良に向かう道が伸びている。
カタブル浜の終わるあたりにテキサスゲートがあり,ここから南牧場となる。海岸線は東側ほどではないにせよ海食による崖構造になっている。
カタブル浜から見えたなだらかな尾根を削って道路を通したところでは琉球石灰岩の厚い地層を確認することができる。この琉球石灰岩は隆起を続ける与那国島がまだ海面下にあった150万年ほど前に発達したサンゴ礁の化石である。当時は島全体が海面下にあったため,基盤岩の上をサンゴ礁が覆う地質となった。
ここの地層で見るとサンゴ礁の厚さは少なくとも数mはある。その上に厚さ50cmほどの赤色土もしくは黄色土の表土がある。この地層からは琉球石灰岩が風化して表土になったような印象を受ける。
沖縄の島々の表土なっている赤色土や黄色土がどのように形成されたかは以前から興味のあるところであった。一般的に土と呼ばれている物質は岩石が風化してできた無機物粗粒子(砂,シルト)とコロイド状の無機物微粒子(粘土)の混合体であり,それに生物起源の有機物が付加されたものである。
土の無機物成分はもとの岩石の成分と一致する。ただし,火山活動や風により遠く離れた地域から運ばれてくる場合もあり,必ずしも地域の基盤岩と成分が一致するわけではない。
中国の黄土高原は内陸部の乾燥地域から強い季節風により黄砂が堆積した地形で,その面積は30万km2,堆積層の厚さは50-150mにもなる。日本の関東ローム層は周辺火山からの降下物(火山灰)やその風成二次堆積物から形成されている。
このように土は必ずしも地域の岩石が風化した成分からだけで構成されているわけではない。ひるがえって沖縄の赤色土や黄色土はどのようにして形成されたのであろうか。
簡単にいうと琉球石灰岩が風化しても炭酸カルシウムの白い粒子になるだけで,二酸化ケイ素を主成分とする赤色土や黄色土にはならない。赤色土や黄色土ができるためには基盤岩が風化しなければならない。ところが,基盤岩が露出していないサンゴ礁隆起の島にも表土が形成されている。これは,個人的な謎であった。
その一つの解は沖縄の赤土などは基盤岩が風化してできたものではなく,その多くは10万年前の最終氷期から完新世にかけて大陸の黄砂や海水面の低下により陸地の一部となった東シナ海の大陸棚から運ばれた風成塵により形成されたという考えである。ネット上でこの学説を見つけ,なるほどこれならサンゴ礁隆起の島にも赤土の表土があることが説明できると納得した。
与那国島南牧場の植生は波照間島の高那崎周辺のものとよく似ていた。ハマゴウ(Vitex rotundifolia,クマツヅラ科・ハマゴウ属)も高那崎周辺で見ている。世界的では中国,朝鮮,東南アジア,ポリネシア,オーストラリアに分布し,日本では本州,四国,九州,沖縄に分布し,海岸の砂浜に群生する海浜植物である。
南牧場の草地で小さなシジミチョウを見かけた。このチョウはなんともすばやく,近づくとすぐに逃げるので写真には苦労した。翅の裏面の模様だけが識別の手がかりであるが,ぴったり一致するものはネットの図鑑を調べても見つからなかった。ともあれ,「クロマダラソテツシジミ」と推定した。その理由は放牧地にはたくさんのソテツがあり,その名前の入ったシジミチョウということであり,まったく自信はない。
一周道路は南牧場の中を通っている。道路の両側は草地となっており動物たちも移動のときには道路を利用しているようだ。久部良の方に歩いていると前方から与那国馬が集団でやってきた。これを見逃す手はない。集団が通り過ぎてからその後をつけていく。
与那国馬は与那国島で飼育されてきた日本在来種の馬である。体高はおよそ110-120cmと小型で,ポニーに分類される。毛色は鹿毛(茶色)が中心であり,古くから農耕や荷物の運搬,乗用などに利用されていた。
もちろん,日本原産の馬は存在せず,古墳時代に朝鮮半島からもたらされた小型の蒙古馬が日本在来馬の起源である。奈良時代になると近畿圏を中心に中型馬が増加するものの,地方では依然として小型馬が主流であった。
日本在来馬の状況が大きく変化したのは明治以降の軍馬増強政策による。より大型馬を育成するため大きな西洋種馬との交配が進められ,日本中で在来馬の血統が消滅することになった。
しかし,離島や岬などの交通不便地では西洋馬との交配が進まず,在来馬の姿を留めている馬群がわずかに残されており,そのうちの下記の8種を日本馬事協会が「日本在来馬」として認定し,保護している。頭数は2011年のものであり,増減とは1990年との比較である。
馬種 | 地域 | 頭数 |
---|---|---|
北海道和種(道産子) | 北海道 | 1085(半減) |
木曽馬 | 長野県木曽地域 | 162(増加) |
御崎馬 | 宮崎県都井岬 | 80(減少) |
対馬馬 | 長崎県対馬 | 80(減少) |
野間馬 | 愛媛県今治市 | 66(増加) |
トカラ馬 | 鹿児島県トカラ列島 | 128(減少) |
宮古馬 | 沖縄県宮古島 | 30(増加) |
与那国馬 | 沖縄県与那国島 | 141(増加) |
与那国島では離島環境のため他品種との交配や品種改良が行われることがなく,その系統がよく保たれてきており,1969年に与那国町の天然記念物に指定されている。与那国馬は古くから農耕,農作物の運搬などに活躍してきたが,農機具や車の普及によりその役割を終えている。1975年には59頭にまで減少したが,その後の保護活動により増加している。
与那国馬の一部は石垣島などの他島で生育してており,与那国島の頭数は約60頭となっている。性格はおとなしく,人にもよく慣れる。体高が成人よりもかなり低いことから,一人で近くによってもほとんど恐ろしさは感じない。
とはいうものの馬に警戒心を抱かれないように,少し離れたところから写真を撮る。馬の集団は比川方向に少し行った海岸の草地に行き,そこでのんびり草を食んでいる。草地といっても琉球石灰岩の上に薄い土壌が乗った場所であり,ところどころに岩が露出している。おそらく彼らは一年中,このように放牧状態なのだろう。
与那国馬にお別れして久部良の方に歩き出すと,今度は牛の群れに出会った。これはちょっと怖い。万一の時,逃げ場がないので思案しているとちょうど車が通りかかった。この車を盾にして牛の群れの横を通ることができた。
牛の群れも自分たちの草場に移動していった。このくらい距離があると問題はない。
エビの養殖場で降られてから雨は止んでいるものの上空はいつ降ってもよさそうなどんよりとした雨雲に覆われている。そのせいで海の色は鈍色である。雲の切れ間があるらしく,光の柱が立っている。ちょうど観光船が通りかかったのでこのような構図になった。
南牧場の草地は草丈2cmくらいに刈りこまれた芝生のようになっている。ここは牛と馬の混合放牧なのでこのような状態になる。同じ草食動物でも牛と馬では好みの草丈が異なる。牛は10-30cmほどの草が食べごろであり,それ以上高くなると食べなくなる。一方,馬は5-10cmあたりが好みの草丈である。
馬は前歯で草を根元近くで噛み切って食べるので長い草は苦手である。それに対して牛は上の前歯がないので馬のように前歯で噛み切ることはできない。その代り長くて丈夫な舌があり,草を巻き込んで引きちぎるようにして口の中に入れる。
このように牛と馬では草の食べ方が異なるので,好みの草丈が異なることになる。牛が長い草を食べ,馬がその後の短い草を食べることになる。こうして,草地は芝生状態になる。イネ科の草の成長点は地中にあるので,上の部分を食べられてもすぐに伸びることができる。
このきのこの生えている馬糞はそれなりの期間,道路の上にあったのであろう。きのことは菌類の中で人間がはっきり分かるほどの大きさの子実体を形成するものであり,植物ではない。きのこは菌糸でできており,胞子を散布するための器官であり,本体は朽木や落ち葉などの植物体表面や内部に広がる不定形の生物であり,中には動物の糞を利用するものもある。
菌類の多くは従属栄養生物であり,有機物を分解して栄養素として体内に取り込んでいる。樹木の幹はリグニンという丈夫な多糖類でできており,これを直接消化できる動物はいない。リグニンを分解できるのはある種の真菌類(原核生物)や菌類(真核生物)だけであり,彼らが存在しないと樹木は分解されず,自然は次世代の栄養素として再利用できなくなる。もっとも山火事が起こるとその限りではないが…。菌類は人間には好まれる存在ではないが,自然のリサイクルには欠かせない重要な役割を果たしている。
久部良が近くなると道路は少し高いところを通るようになり,眼下に小さな港が見えるようになる。もちろんそれは久部良港ではない。同時に尾根筋の先に灯台と展望台が見えるようになり,ゴールが近いことが分かる。
西崎灯台との分岐点の前にテキサスゲートがあり,ここが南牧場の西の外れということになる。テキサスゲートの両側には琉球石灰岩の囲いが伸びている。
テキサスゲートは道路伝いに動物が人間の居住地域に入ってこないようにするための設備である。道路以外の部分は囲いや密林のような植生を残すことにより分離することができる。
車の通行を妨げずに動物が通過できないようにするために,このようなコンクリートの溝構造が採用された。簡単に言うとコンクリートの溝の一部にコンクリートの横板を渡した構造であり,動物は渡し板の間に足が落ち込んでしまうのを恐れて渡らないという。
西崎(いりさき)は島の基盤岩が尾根を形成しており,そのまま海に突き出した地形となっている。その荒々しい風景を植物が覆い隠すように繁茂している。それでも,大きな岩はむき出しとなっており,違う角度からは今にも転げ落ちそうに見える。
西崎灯台に通じる上り道の途中にダイサギが横たわっていた。特に外傷はないようだったので病気か寿命で死んだものであろう。
手前が久部良港で背後に久部良岳(198m)がそびえている。
16時少し前に西崎灯台に到着する。ここには日本最西端の碑がある。西に面しているのでそろそろ逆光になる。
昭和55年3月28日に与那国中学校第10期卒業生,久部良中学校第3期卒業生により建立されたと記されている。また,与那国島より主要都市までの距離が記されている。ここから東京までは2100km,那覇までは509km,台湾までは111km,マニラまではで1100kmである。いかにも国境の島を実感させられる数値である。
石碑の向こうには今日歩いてきた南牧場線が灰色の帯となって,小さな尾根の向こうまで伸びている。夕日の時間帯をここで迎えたいが,帰りのバスの時間に間に合わなくなる。
日本最西端の人工建造物ということになる。東崎のものより大きいが現在は灯台として機能しているかどうかは不明である。空模様はずっとこの状況であり,雨に降られないのが幸いである。
西崎の先端は切れ込んだ断崖となっており,その先に岩礁が続いている。ここも海食による断崖であり,6000年前には岬は岩礁の先端まで続いていたと推測される。
波はひっきりなしに岩礁に押し寄せ,白い痕跡を残していく。岩礁の周辺はすぐに深くなるようでコバルトブルーの海と白く泡立った岩礁の間に色彩のグラデーションはない。それでも波の動きは千変万化であり,しばらく頭の中を空っぽにしてこの風景を眺めていた。
西崎から北東にある久部良港周辺の海はこの時間帯でもコバルトブルーに輝いていた。小さな灯台のある防波堤と少し海側に突き出した地形の間には消波ブロックが置かれている。このように奥まった地形のところには波やうねりの力が集中しやすいのかな…。
久部良港を囲むように久部良集落が広がっている。漁港内の海の色はこの時間帯でもみごとな翡翠色である。
実際,海岸まで降りてみるとこのようなすばらしい色彩である。
岸壁には石垣島からのフェリーが入っていた。このフェリーは島に物資を運ぶ定期便なので,海の状態が良くなくても欠航ではなく順延になる。港にいた人に到着日をたずねると今日だというので2日遅れということになる。
久部良港から祖納に戻るバスは16時30分に出る。久部良を見るのは明日にして戻ることにしよう。日記によるとこの日の食事は次の通りである。これでは野菜とたんぱく質が足りないね。
朝食:カップめん
昼食:あんぱん,チーズ
夕食:ごはん,具だくさんみそ汁,スープ