石垣島は大きい
石垣島は大きく,西表島に比べて海岸線が複雑なため距離があり,歩いて回るのは難しい。たいていの観光客はレンタカーを借りて島内を一周することになる。僕の計画はバス移動と徒歩移動の組み合わせである。島内の主要ポイント間の距離はおよそ次のようになる。
石垣市内(8km)→石垣やいま村(5km)→崎枝分岐(2km)→川平分岐(7km)→米原(20km)→伊原間分岐(10km)→星野(10km)→白保(10km)→石垣市内
伊原間分岐(15km)→平久保崎
崎枝分岐(5km)→御神崎
川平分岐(2km)→川平湾
例えば米原周辺を見てから川平湾に行こうとすると7kmほど歩かなければならず,これはバスのお世話になるしかない。バス停の間隔が長いので,川平,白保から北側ではバス停でなくても合図をすれば自由に乗降できる。
系統9・川平リゾート線停留所マップ
幸い石垣島のバスには島内のすべてのバスに乗車可能な「5日間フリー乗車券(2000円)」があるので,離島ターミナル近くの東運輸バスターミナルで購入するのがよい。通常の料金は例えばバスターミナル(720円)→米原,バスターミナル(520円)→新石垣空港なのでとてもお得である。
ところが,この旅行記を書いているとき東運輸のサイトで料金を確認すると空港線は均一の200円になっていた。石垣市内まで520円という料金設定は観光客には不評だったのかもしれない。
石垣島滞在の2日目はバスで名蔵の「やいま村民族園入口」まで移動し,海岸線沿いに石垣市内に向かって歩けるところまで歩くというプランである。「川平リゾート線」の運行本数は1日・6往復であるが,利用できるは次の通りである。
ターミナル発 08:55|09:35|12:55|16:15|18:10
川平湾発 07:20|10:00|10:40|14:00|17:20
08時55分のバスで「石垣やいま村入り口」まで移動する。所要時間は約30分である。やいま村は名蔵湾を一望する丘の上にあるテーマパークで,八重山の古い民家を再現した家並みが見どころである。しかし,僕は見たかったのはこのテーマパークではなく,名蔵アンパルと呼ばれる湿地帯(干潟)である。
名蔵アンパル周辺地図
名蔵アンパルは名蔵川の河口部にできた入り江である。川が運んできた土砂が堆積し,入江の奥はマングローブ林となっている。沿岸部には南北約2kmに渡り砂州が形成され,結果として入江は潟湖となった。
現在では砂州の上に道路が走っており,海とつながっている二か所の砂州の切れ目には橋が架けられ大きさにより名蔵大橋,名蔵小橋と呼ばれている。海岸は珊瑚礁の破片堆積物による白砂となっている。
アンバル奥は環境省により「名蔵川河口域のマングローブ林」として特定植物群落に指定されている。2005年にはラムサール条約(湿地・干潟の保存に関する国際条約)の登録地となる。2007年に西表国立公園(現西表石垣国立公園)の拡張に伴い,同国立公園の特別地域に指定されている。貴重な自然が残されているところであり,この周辺を2時間半ほど回ってみた。
アメリカハマグルマ
アメリカハマグルマ(Sphagneticola trilobata,キク目・キク亜科)の原産地は中央アメリカであり,世界の熱帯・亜熱帯地域に帰化植物として定着している。花壇の一面を覆う強い繁殖力をもち,沖縄では緑化植物として導入され,野生化している。
マングローブや海岸植生といった希少な自然環境に侵入し,在来種や生態系を脅かしており,侵略的な外来種となっている。国際自然保護連合では本種を世界の侵略的外来種ワースト100のひとつに選定している。この植物を見ている限りでは環境に影響するようには見えないが,外観にだまされてはいけないという事例である。
名蔵アンバルの北側にかかる名蔵大橋
この橋のところから干潟に下りることができる。ただし,潮が満ちてくると砂浜は水に沈むので反対側の急斜面を使用しなければならない。
アンパルの最奥部にマングローブ林がある
アンパルの最奥部は4本の水路が流れ込んでおり,その中でもっとも大きなものが名蔵川であり,マングローブ林はこの河口部に形成されている。その手前の干潟には,幼木が育っており,放置すると干潟がマングローブで埋め尽くされそうな勢いである。幼木は名蔵川の水路に沿って展開しているが,あいにくその方角は逆光になっている。
キバウミニナ(Terebralia palustris,吸腔目・キバウミニナ科)はマングローブでよく見られる巻貝であり,インド洋・太平洋の熱帯海域のマングローブに広く生息している。日本における自然生息域は西表島および小浜島と考えられている(石垣島,沖縄本島でも確認されている)。
上記の一文は西表島の船浦湾でキバウミニナと出会ったときのものである。確かに石垣島にも生息していることが分かったが,これは人為的に持ち込まれて定着したものなのかもしれない。日本では絶滅危惧種に指定されているので,よしとしよう。
キバウミニナはマングローブの林床となる泥干潟の上を這い回り,樹木の落葉を直接摂食する。キバウミニナは名前の通り歯舌は鋭く刃物のようであり,硬いマングローブの落葉を効率よく噛み切って摂食する。切断されたマングローブの葉から出る物質に誘引され,たくさんのキバウミニナが集まる習性もある。
名蔵大橋から見る潟湖の風景
アンパルの潟湖の水深は浅く,名蔵川の運んでくる土砂でそのうち埋まってしまうように見える。左の於茂登岳,右のパンナ岳に挟まれた地域は比較的標高が低く,パンナ公園からもアンパルを遠望することができる。
かすかに水面が光って見えるのは名蔵ダムのものであろうか。於茂登岳のふもとには名蔵川水系のブネラ川をせき止めた名蔵ダムがある。
このダムは中心遮水ゾーン型ロックフィルダムである。ということは堰の中心部に水を通さない粘土質の材料を使用し,その外側を砂や砂利・外郭部を岩石で覆う構造となっている。コンクリートは使用されないので環境美観への影響は抑えられる。堤高は38.7m,満水面積は36ha,総貯水量は約400万m3であり,石垣市の貴重な水源となっている。
島のように見えるのは大崎の半島
名蔵の周辺の海岸線は北は大崎の半島,南はフサキビーチに連なる岬のような地形に囲まれた大きな湾状になっている。名蔵大橋から海側を見ると正面に島のように見えるのは崎枝や大崎のある半島である。
ゆうなはアオイ科なのでむくげに似た花を咲かせる
名蔵大橋の南側からも干潟に下りることができる。ここにはマングローブ林はなく,代わりに数種類の海浜植物が見られる。目立つのは黄色の花を付けたゆうな(オオハマボウ)である。
ゆうなとは沖縄の呼称であり和名はオオハマボウ(Hibiscus tiliaceus)である。しかし,アダン(タコノキ)にしろクバ(ビロウ)にしろ島にいると島言葉が先にインプットされてしまう。ゆうなはアオイ科の常緑高木であり,ムクゲやオクラに似た黄色の花を咲かせる。
この植物については「波照間島2」で詳しく説明しておいた。
カニの食事跡がたくさん見られる
干潟の砂浜はスナガニの生息地になっているらしく,食事の跡が点々としている。スナガニは自分の巣穴の周辺で食事をするので,砂団子の中心に巣穴がある。
マングローブの幼木が根付こうとしている
水際にはたった一本だけマングローブの幼木が顔を出している。
浜辺の木が枯れるのは塩害によるものが多い
海辺に生育する植物は多少の塩害には耐えられるようになっている。しかし,強い潮混じりの風が吹き付け,その後雨で洗い流されないような場合は塩害により枯死することがある。浜辺にはこのように枯死した樹木の白っぽい残骸が残されている。
名蔵湾の南側も半島状の地形になっている
名蔵大橋の南端から海側を見ると左側(南側)はフサキビーチに連なる岬のような地形となっている。この先端が観音崎である。今日のプランはこのまま海岸沿いに南に歩き,観音崎を回って石垣市内方向に歩くことである。川平湾を15時20分に出るバスに追いつかれそうになったら,どこかのバス停で待つことにしよう。
名蔵アンパルの南側にかかる名蔵小橋
名蔵アンパルには砂州が二か所で切れていおり,そこには大小の橋が架かっている。こちらは南側にある名蔵小橋である。
湾の最奥部と海は南北の二か所でつながっている
砂州の切れ目は重要である。これが塞がってしまうとアンパルは淡水化してしまい,環境は激変する。
道路の周辺は亜熱帯の林となっている
ここを通る県道79号線は石垣港と伊原間とを結ぶ主要地方道であり,よく整備されている。両側には歩道があり,歩いていても全く車の危険性はない。問題は暑さである。10月に入っても天気が良ければ本土の夏の暑さであり,こまめに水分を補給しないと熱中症の危険性がある。帽子は被っているが日焼け止めはまったく使用しないで外を歩くので,10日もすれば見事に日に焼けてしまう。
県道の周辺は写真のように深い森となっており,とても歩き回ることなどできない。道路に近くて日当たりの良いところにはクワズイモが大きな葉を広げている。
林の内側にはサトウキビ畑が広がっている
ところどころに内陸に通じる細い道があり,その向こうは農地になっている。石垣島でもサトウキビは主要な農作物のようだ。
■調査中
ノアサガオの仲間なのであるが,花弁の先端部が反っており,特定できない。
人頭税と八重山上布
名蔵海岸の周辺はほとんど民家はなく道路と森の風景がずっと続いていた。森が途切れたところに「みね屋工房」がある。ここは八重山に根付いた染織の文化を今に伝える染織元であり,織物の体験ができる。
八重山を代表する織物は「八重山上布」である。その起源は薩摩支配下の琉球王国が1637年に宮古島・八重山諸島に課した「人頭税」の頃に遡るとされている。人頭税とは納税能力に関係なく,一定年齢の全ての人々に課税するものである。
八重山では15歳から50歳まで(数え年)の男女を対象に年齢と居住地域の耕地状況を組み合わせて算定された賦課が行われていた。江戸時代の年貢に当てはめると平均税率は八公二民に相当する過酷なものであった。
この地域の過酷な人頭税は1903年(明治36年)になって地域代表の直訴が実を結び,ようやく廃止された。八重山の各地には人頭税廃止の記念碑がある。
この過酷な人頭税を納めるため女性たちは精巧な織物を作るようになったとされている。これが八重山上布の起源であり,その精緻な染織の技法が今日まで受け継がれている。当時の素材は苧麻(ちょま,カラムシ)の繊維が使用されていた。
カラムシ(Boehmeria nivea var. nipononivea)はイラクサ目・イラクサ科の多年生植物であり,南アジアから日本を含む東アジア地域で古来から植物繊維をとるために栽培されてきた。苧麻(ちょま),青苧(あおそ),紵(お),山紵(やまお),真麻(まお),苧麻(まお)など地域により多くの呼び名がある。
カラムシの茎は高さ1-1.5mに達し,この茎の皮からは衣類,紙,さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れるため,6000年前から栽培されてきた。日本に自生するカラムシは繊維用に有史以前から栽培されてきたものが野生化した可能性が指摘されている。
県道79号線との分岐点
県道79号線はここから内陸側通って石垣市内に向かう。僕はここで海岸近くの道路で観音崎を目指す。
ようやく食堂が見つかった
県道79号線から海岸道路を少し行くと食堂が見つかった。昼食を持参のパンにしようかと迷っていたところなのでこれはありがたい。注文は「田舎みそ汁定食(500円)」である。これは沖縄に行ったら一度は食べてみたかったものだ。
みそ汁定食というイメージは質素かもしれないが,具沢山であり十分に一食分の栄養を摂ることができる。おまけにコーヒーが立て来て幸せなお昼であった。
こんなところにパオがある
食堂の少し先の空き地に場違いなパオがあった。これはモンゴルあるいは中国の内モンゴル自治区や新疆ウイグル自治区でしばしば目にする草原の遊牧民の移動住居である。もともと,雨の少ない地域の文化なので高温多湿の沖縄では耐久性がない。
「石垣の塩」の工場がある
このパオは「石垣の塩」の工場が客寄せに置いたようだ。近くには看板があり,何台かの車も停まっている。沖縄には海水塩を製造する工場が各地にある。那覇の国際通りには塩の専門店があり,多種多様の塩が販売されている。中には岩塩を再加工して味を調整したものもある。
ここでは塩の試食があり,自分の味覚にあった塩を選択することができる。塩化ナトリウム100%の塩はどこのものでも同じ味であるが,海水塩は塩化ナトリウム以外のミネラルが含まれているので微妙に味が違う。
2003年まで日本では塩は塩化ナトリウム100%のもの以外のものは手に入らなかったが,同年の自由化により,日本の海水を原料にした海水塩が全国各地で生産・販売されるようになった。
「石垣の塩」のウェブサイトにはこの地における塩づくりは江戸時代の1717年に始まったとなっている。このサイトには塩づくりについて次のように記されている。この姿勢は好感がもてる。
僕らのつくる塩への願いは「人と自然にやさしいお塩です」。近年沖縄も自然が壊されてきており離島だからと言って自然を守るのは,容易でない状況です。また,食の取り巻く環境もあまり良いとは
言えない中,人と塩は切っても切る事のできない関係です。僕らは八重山諸島の自然環境保全を塩づくりを通し「人と自然にやさしいおいしい塩」を届けられたらなーと思っています。(有名な塩じゃないけど)
ここで使用する海水は沖合い1.5q,水深約20mのものを汲み上げ,独自の低温乾燥(特許取得済み)により3日間煮詰め,塩分濃度が28%(海水のほぼ10倍,死海の塩分濃度に近い)以上になると塩の結晶が現れ,ニガリ成分もわずかに結晶化する。
海水中のミネラルの大半は塩化ナトリウム(NaCl)であり,その次に多いのが塩化マグネシウム(MgCl2)であり,さらに複数の成分が含まれる。一般的にはこの塩化ナトリウム以外の成分は「にがり」とされている。
海水を煮詰めていくとミネラルが結晶化するが,塩(塩化ナトリウム)はにがりよりも結晶化しやすいという性質をもっている。したがって,ある塩が十分結晶化した状態で布で濾すとにがりを一部含んだ塩とにがりを多く含む液体に分離することができる。
にがり(苦汁,滷汁)とは名前の通りマグネシウムイオンの影響で苦味が強い物質である。したがって,この成分をある程度,取り除くと甘い塩を作ることができる。昔はせ(製法は異なるが)出来上がった海水塩を枯らすことによりにがり成分を減らした甘塩は高値で取引されていた。
ここの工場にはたくさんのカメが封をされたカメが並んでおり,訪問者見学コースでは布を使って塩とにがりを分離しているところを見ることができた。
アダンの若い実が鈴なりになっている
見事な鈴なりであった。沖縄を訪問した観光客に「これはパイナップルの原種で,ここからパイナップルの栽培種が生まれたんだ」と冗談で説明した人がおり,当の観光客はすっかりそれを信じたという若い話しがある。
実際,アダンもパイナップルも集合果であり,形状がとても類似している。
島バナナか栽培バナナか見分けがつかない
若いバナナが実りつつあった。この状態では島バナナか世界中で栽培されている栽培バナナかは分からないが,おそらく栽培バナナであろう。
下に付いている赤紫色のものはバナナの花序(複数の花の集合体)である。バナナの花序は複数の果房(果段)からできており,各果房には10-20本の果指(花)が付き,一つの果指が一本のバナナに成長する。一つの果段に実が付くと次の段の花が咲き,実が付く。
このため,栽培バナナは果房(果段)は3段から7段くらいにもなり,茎はその重さに耐えられなくなって曲がってしまう。巨大な葉といい,重すぎる実生といいバナナは本当に変わった植物である。
ゴクラクチョウカ
ゴクラクチョウカ(極楽鳥花,Strelitzia reginae,バショウ科・ストレリチア属)の原産地は南アフリカとされており,寒さにはやや弱い常緑多年草である。和名はゴクラクチョウカであるが,園芸では属名のカタカナ表記となるストレリチアやストレチアということも多い。
名前の通り花は極楽鳥を連想させるような派手さがあり,オレンジ色,青色,薄い朱色の3つのパーツのうちどこが花弁でどこが雄しべや雌しべなのか見当がつかない。
フサキリゾートヴィレッジ
フサキビーチと思われるあたりはフサキリゾートヴィレッジの塀がずっと続いており何も見ることはできない。このビーチは白い砂浜の風景があるわけではなく,マリンレジャーを楽しむところというのでそれほど心残りはない。ただし,この施設は西に面しており,夕日の素晴らしい写真がウェブサイトに掲載してあった。
唐人墓
フサキリゾートヴィレッジから少し歩くと観音崎となり,そこの丘の上に唐人墓があった。しっかり確認はしなかったが,おそらく西に向いていたと思う。ここに祀られている中国人は福建省出身者であり,この丘からは西の彼方,台湾の先に彼らの故郷がある。
中国人墓は屋根の上に龍と鳳凰をあしらった,中国風のものであり,中央の碑誌には次のように記されていた。
この唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祀られている。中国人労働者(苦力)は,16世紀以降世界各地に多数送り出されていた。1852年2月,厦門(アモイ)で集められた400余人の苦力(クーリー)たちは米国商船ロバート・ハウン号でカルフォルニアに送られる途次,辮髪(べんぱつ)を切られたり,病人を海中に投棄されるなどの暴行に耐えかねて遂に蜂起,船長等7人を打ち殺した。
船は台湾に向かう途中にたまたま石垣島崎枝に座礁,380人が下船した。八重山の政庁蔵元は冨崎原に仮小屋を建て彼らを収容した。しかし,米英の兵船が3回に渡り来島,砲撃を加え,武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った。
中国人等は山中に逃亡したか銃撃,逮捕され,あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった。琉球王府と蔵元は人道的に対応。中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し,島民も深く同情,密かに食糧などを運び給した。しかし,疫病による病死者も続出した。
死者は一人びとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた。この間,関係国間の事件処理に対する交渉の結果,翌1853年9月,琉球の護送船2隻で生存者172人を福州に送還して終結した。中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた。
ここ冨崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が,戦後まで数多く点在していた。1970年石垣市は異国の地に果てたこの不幸な人々の霊魂を合祀慰霊するため,唐人墓建立委員会を結成。当市よりの補助,特に中華民国政府の物心にわたる手厚い支援,および琉球市民,在琉華僑諸賢のご芳志をもって1971年これを完成させた。
茲に唐人墓の来歴を記すに当たり,関係方面のご協力に対し謹んで深甚なる感謝の意を表する次第である。
1992年3月31日 石垣市長 半嶺 當秦
wikipedia には苦力の受けた虐待や惨殺の様子をもう少し詳しく記載されている。いずれにしても,遠い異国で非業の死を遂げた人々を丁重に埋葬した石垣の人々の優しい心情が伝わってくる…合掌
観音崎灯台と展望台
観音崎灯台は岬の先端部の岩場の上に立っている。近くには東屋があり,ここから西に向かって180度の眺望が開けている。時刻は15時少し前,曇り空のうえ太陽は西に傾いているので,海の色は鈍色に見える。ここから竹富島は水平線がわずかに盛り上がるようになって見える。竹富島までの距離は約4km,それは石垣港までの距離とほど同じである。
観音崎の先端部は岩場となっている
観音崎の先端部は岩場となっており,岩場を回り込んで岬の先端部近くまで行くことができる。この岩場はサンゴ礁石灰岩ではなく石垣島を形成する基盤岩石がむき出しになっている。積層構造が見て取れるので堆積岩のようだが,激しく折れ曲がっている。それは,琉球海溝の外縁に点々と連なる琉球弧を形作る島々は地殻変動により大きな力を受けてきた証である。
冨崎観音堂
観音崎の名前の由来となった「冨崎観音堂」は灯台から少し歩いたところ静かなたたずまいを見せている。観音堂の来歴については「石垣島の風景と歴史」に詳しく記されている。このサイトは「石垣市教育委員会市史編集課」の編纂によるもので,膨大な情報が収集されている。このサイトには冨崎観音堂に関して次のように記されている。
観音堂は1701年(康熙40)頃の創建とされ,初めは大浜集落の北方,カヤンニ原に小堂が建てられたといわれています。その後,船の航海安全を祈願する「経塚」が冨崎原に創建されていたことから,1742年(乾隆7)に現在地に移転し,冨崎観音堂と呼ばれるようになったといわれています。
この中で1701年(康熙40)という表現が興味を引いた。康熙とは清国の第4代皇帝の名前であり,唐の太宗とともに中国歴代最高の名君とされている。康熙40年とは中国の年号であり,康熙帝の治世40年を意味する。この表現から当時の琉球王府では文化的に中国との結びつきが強かったことがうかがわれる。
実際には琉球王府の時代(1429年-1879年)には琉球暦による年号が使用されており,薩摩藩の支配を受けるようになってからは,琉球暦,中国暦,和暦が並立していたのではと推測する。
舟蔵の里
「舟蔵の里」という響きのよい語感に引かれて(だまされて)ここまで歩くことにした。ここにはバス停があるので石垣市内まで戻ることができる。さて,たどりついたところは古民家を利用したちょっと高級な雰囲気の料亭やカフェが集まった一画であった。
このページのトップにある石垣島地図の作者が「舟蔵の里」を記載していないのは,ここが名所ではないからなのだ。一人ではとても入る気にはならないので,バスの時間まで周辺を歩いてみることにした。
このアイディアはバリ島で見かけた
店先にある石造りの水盤にハイビスカスの花を浮かべている。これは南国の情緒がそのまま伝わるおもてなしである。水盤の水は暗い背景になるのでハイビスカスの花の鮮やかな色彩が引き立つ。ここアイディアはバリ島でよくみかけた。バリ島ではプルメリアの花がよくこのように浮かべてあった。
シーサーの顔はこのように使用されることもある
シーサーは立体的な獅子像だけかと思っていたら,このように平面的なものもあるようだ。シーサーと同様に家や村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けのために置かれているのであろう。これを見てやはりバリ島の「カーラ」を思い出した。
カーラは石造建造物のレリーフの形をとることが多く,恐ろしい鬼のような形相はやはり魔除けのためのもので,悪いものを飲み込むとされている。カーラはバリ・ヒンドゥー独自のモチーフであり,9世紀の建造物であるボロブドゥールやプランバナンにも見られる。
僕には魔除けと外観上の類似点しか論じることはできないが,遠く離れた二つの文化に何かつながりがあるのかもしれないと思うと,なんとなくわくわくする気分である。
北側には夏の雲があり…
10月中旬の石垣島はそろそろ季節の変わり目にきているようだ。バス停で待っていると空に二種類の雲があることに気が付いた。北側には夏の積乱雲,東側には小さな塊になった雲が連なっている。
このような小さな塊が集合している雲は高積雲,巻積雲などと呼ばれ,秋の雲とされている。このような雲は大きさ,集合体からうける印象により,ひつじ雲,さば雲,いわし雲,うろこ雲などの名前が付いており,僕にはとても識別はできない。それでも,写真のものは一つひとつが大きいので「ひつじ雲」だろう。
夏の雲と秋の雲が一緒に見られるということは,この石垣島でも季節の変わり目にきているということなのだろう。
舟蔵の里からバスで戻る
時刻は17時30分を回っており,そろそろ川平を17時20分にでるバスが通る頃だ。