西谷祥子
西谷 祥子(1943年10月生)は高知県の出身であり,1961年の夏,高校在学中に「ふたごの天使」でデビューしています。3人兄妹の末っ子として可愛がられて育てられたようです。
西谷祥子に関してはネット上でも情報が非常に少ないのですが,「かおるさんのSF大会レポート|西谷祥子先生に聞く(2001年8月19日)」という対談が残されています。その中で子ども時代を次のように語っています。
3人兄弟の末っ子,上2人は兄,子供の頃はゼンソクぎみで体力がなかった。父と兄はいいなりになるほど可愛がってもらった。そのためか男社会(父、兄との関係)が心地良かった。でも社会に出て必要な事が女の子には教えられていないと後に解る。女の子のべたべたした関係が苦手。
西谷の漫画に関する原体験は二人の兄の読んでいた少年雑誌にあり,手塚治虫(鉄腕アトムなど),山川惣治(少年ケニヤなど),小松崎茂(地球SOSなど)の漫画作品や絵物語に影響されたようです。
小学校高学年の時,「赤毛のアン」に出会い,自力で夢を実現していく少女の生き方に感銘を受けています。「赤毛のアン」に出会わなければ少女漫画ではなくより少年漫画に近い中性的な少女を描いていたかもしれないと語っています。
その後,貸本屋でトキワ壮のメンバーの漫画に出会い,特に石森章太郎や水野英子の作品が好みでした。水野が初の長編となる「銀の花びら」を執筆したのは1957年のことですから,この時期は西谷が中学生の頃だと推測します。
高校生の時に石森章太郎が中心となって活動する「東日本漫画研究会」の女子部に誘われ,初代リーダーとして肉筆回覧誌「墨汁二滴」の編集や会員との連絡などを担当しました。
この時期に「墨汁二滴」を見た「少女クラブ」より原稿の依頼を受け,「ふたごの天使」でデビューします。
高校卒業後,漫画で生計を立てられない場合に備えて,1年間かけて母親の店で美容師の免許を取得してから上京します。おそらく1963年のことだと推測します。「西谷祥子ファン倶楽部」の作品リストを見ると,1963年と1964年が空欄となっているのはこの時期にあたります。
1965年に活動の場を講談社から集英社の「週刊マーガレット」に移し,水野英子の「白いトロイカ」のアシスタントをしながら「春子のみた夢」を執筆します。これが漫画家・西谷祥子の実質的なデビューとなります。
このようなデビュー時の事情により,西谷は「初期の自分は石森章太郎と水野英子の間にかってに生まれた私製児」と語っています。西谷の初期作品にあたる「レモンとサクランボ」にもその影響が見られます。主人公の加茂礼子の兄は漫画家であり,その造形はにきびを省略した石森章太郎の自画像を思い出させてくれます。
かって「トキワ荘」のあった豊島区の南長崎花咲公園に「トキワ荘記念碑」が設置されています。記念碑は石碑とその上に置かれたミニチュアのトキワ荘という構成です。石碑にはトキワ荘に暮らしていた漫画家の自画像と2階の間取り図のプレートが貼られています。
かってのトキワ荘メンバーの自画像をすべて見ることができるのは漫画愛好者としてはありがたいことです。プレートの順番の関係で画像を切り出して石森正太郎と水野英子を並べてみました。初期の西谷祥子はこの二人の影響が大きかったということです。
同じ年に発表された「リンゴの並木道」は好評となり,続く「マリイ・ルウ」もヒットします。1966年に執筆された「レモンとサクランボ」も大好評となり,西谷は「週刊マーガレット」の看板作家となります。
1966年から1974年にかけて西谷の執筆量は大変なものとなります。西谷から5歳後に位置する「花の24年組」世代では通常,週刊誌の連載をもつ漫画家はアシスタント制により作品を仕上げていきますが,西谷はストーリーからネーム,描画,仕上げまでほとんどの作業を一人でこなしていました。スクリーントーンもない時代ですから,背景線などもすべて手書きです。
これで週刊誌連載だけではなく短編の読み切りも描いていたというのですから超人的な執筆量ということになります。当然,生活時間はすべて制作に充てることになり,寝る間を惜しんで仕事をしていたと巷では言われています。ひどいときは,1月もの間,お風呂にも入れなかったなどという逸話も残されています。
1960年代後半から活躍した西谷祥子(1943年生)は少女漫画界に大きな足跡を残しました。「水野英子・ファイヤー」でも書きましたが,少女漫画の世界に大きな変化をもたらしたのは手塚治虫(1928年生)の「リボンの騎士」です。少女クラブで1953年1月号から1956年1月号にかけて連載されたこの作品は少女漫画に新しい作品世界と長編ストーリーをもちこんだ画期的なものでした。
これは手塚が少年漫画の世界で行ったのと同じインパクトをもっていました。「リボンの騎士」の登場により,少女漫画の世界は新しい時代を迎えることになります。当時,中学生であった水野英子はそれまでのまんがに欠けていた物語の要素(具体的には物語性と恋愛ロマンス)に圧倒されたと語っています。
水野は少女漫画界における手塚の後継者となっていき,西谷は少女漫画の地平をさらに広げていきました。水野の作品の舞台は完全に欧米に軸足を置いていましたが,西谷の初期作品は欧米の華やかな世界と日本の高校生の等身大の世界が交錯しており,その意味ではこの時期の彼女の作品群は「無国籍」という世間の評価となっています。
これは,西谷が自分の作品にその時代の少女たちの夢やあこがれを投影していたことによると解釈できます。1960年代の後半といえば日本は東京オリンピック(1964年),大阪万博(1970年)という巨大イベントをてこに高度成長をひた走っていた時期であり,大卒初任給は約3万円といったところです。都市勤労者の平均月収はおよそ9万円といったところです。
1$=360円の固定レートの時代ですから。大卒でも初任給は80$程度ということになります。これでは海外旅行などはとても考えられない時代です。しかもこの時期には海外に持ち出せるドルは500ドルまでという制限もありました。
米国の女子高校生の自由な男女交際やステディの関係はその豊かな物質社会とともに日本の女子学生の憧れだったと西谷は考えたのでしょう。同時に日本経済の発展は米国流とはいかないまでも一定の経済・社会環境の中で学園生活を送る高校生の姿を描くことにもつながります。
1970年代には為替の変動相場制もあり日本の経済力と豊かさは米国に迫っていきます。さらに,日本における高校生の男女交際はごく普通のものとなり,そのような経済・社会環境では物語の舞台を豊かで自由な米国に求める必要はなくなります。
そのため,1971年以降の作品の舞台はほとんど日本ということになります。西谷は「登場人物達は自分の分身である,あるいは主人公は狂言回しである」と発言しており,その意味では自分の高校生時代の経験やそれを発展させたあこがれを作品の中に込めていたのかもしれません。
学園ものに恋愛要素を取り入れた作品群は少女漫画に新しいジャンルをもたらし,1960年代後半から1970年代の初めまで,その物語性と瞳の中に窓の反射のような光を入れる華麗な描画は少女漫画の最先端を行くものであり,水野英子,西谷祥子と続く手塚治虫や石森章太郎の系譜は6年後輩の「花の24年組」に引き継がれることになります。
西谷の作品はその華麗な絵にどうしても話題が集まりますが,1971年以降の作品には描画化された文学作品といってもよいものが多くなります。同時に時代の急速な変化の中で読者である女子中高校生が何を求めているかが分からなくなったと感じるようになり,漫画界から引退し,大学を卒業し,結婚して専業主婦になっています。
現在,西谷の作品はほとんど再販あるいは新装版として発刊されることはなくなり,中古市場ではプレミアムが付くようになっています。それは40年あるいは50年前の読者が懐かしさから買い求めるためであり,新刊はその後の少女・女性読者にはそれほど支持されないことから見送られのではと推測しています。
西谷祥子の学園ものの特徴
西谷祥子の学園ものの特徴として挙げられるのは大河小説的な手法を取り入れていることです。通常の少女学園漫画では主人公の少女と周囲の人々,特にボーイフレンドとの関係が物語の主要テーマとなります。しかし,西谷の学園ものでは主人公と周囲の人たちの人間関係だけではなく,周囲の人たちの人間関係も同様にしっかり語られています。
「レモンとサクランボ」を例にとると,主人公の加茂礼子と峰達彦の関係は物語のごく一部であり,礼子のクラスメートの人間関係や,さくらの実家の人間関係が同等の比重をもって語られています。このように物語の進め方が大河小説的と云われる所以なのでしょう。
西谷自身も「登場人物達は自分の分身である,あるいは主人公は狂言回しである」と語っており,主人公は物語を進める先導役のような役割を与えています。このように,少女漫画にありがちな主人公だけがスポットライトを浴びる物語から,学園生活や家庭生活全体を俯瞰して物語を紡いでいくのが西谷の学園ものの特徴ということができます。
西谷祥子作品を時系列的に俯瞰してみると
左の「作品リスト」に単行本化された西谷の作品集を時系列で列挙してみました。当初は米国における華やかな男女交際と日本の学園ものが交雑しており,無国籍と呼ばれる状態です。
しかし,「学生たちの道(1967年)」は19世紀中ごろのスイスの学園を舞台に始まりますが,話は学園内にとどまらず,主人公や周囲の人々を通して当時の社会全体を描くようになっています。「飛んでいく雲(1971年)」は平安時代末期の「保元の乱」から平氏が台頭し滅亡するまでの時期を描いた歴史小説ともいえる作品です。
今まで欧米のまぶしい学園生活,日本における等身大の学園生活を基盤にしてきた西谷はこの2つの作品で少女漫画の地平を一回り広げることになります。寝る間もないほどの忙しさで作品を世に送り出していたかたわらで,西谷は多くの資料を読み漁り時代考証をきちんと固めながら,少女漫画の新しいジャンルを切り拓いていきます。
しかし,私の勝手な推測ではそのような実験的漫画とも言うべき作品は週刊マーガレット,セブンティーンを擁する集英社編集部に気に入られなかったのでないでしょうか。西谷のその後の作品は(編集部の意向によるものなのか)日本を舞台とした学園ものに傾倒していきます。
漫画も商品ですから集英社編集部も看板作家に対して危ない橋を渡らないよう要請したとしても不思議はありません。そのため,1970年代の初めまで少女漫画の最先端を走っていた西谷漫画はその勢いを失い,少女漫画の中に埋没していきます。
「学生たちの道(1967年)」や「飛んでいく雲(1971年)」は文学作品のような趣に輝いていましたので,編集部との折り合いがつけば1970年代も「花の24年組」とともに少女漫画の革新者でいられたかもしれないと思うと残念でなりません。
1966年22号のマーガレット
「レモンとサクランボ」が始まった1966年22号のマーガレットの作品は次のようになっています。なつかしい漫画家の名前が並んでいます。「レモンとサクランボ」を他の掲載作品と比較すると,際立ってセリフが多く物語性が高いことが分かります。この小説を読んでいるような読後感が西谷作品の特徴です。
・レモンとサクランボ(西谷祥子)
・おかあさんの目(花村えい子)
・プリンセスの恋(わたなべまさこ)
・山ゆりの歌(木内千鶴子)
・マーガレットちゃん(よこたとくお)
・赤毛のスカーレット(水野英子)
・チコの青春(武田京子)
・すきすきビッキ先生(望月あきら)
・三つのねがい(鈴原研一郎)
・シロのばか!(福島史朗)
・白へび館(古賀新一)
この時期のマーガレットには古賀新一作品も掲載されていたんですね。楳図 かずお→古賀新一と続く「恐怖マンガ」の系列は当時の大人たちからどのような評価を受けていたかを想像がつきます。
子どもたちに悪夢やトラウマを生み出すようなこのような表現が少女漫画で許容されるかどうかは大人の観点からしっかり議論されるべきことでしょう。「表現の自由」は憲法で保障された基本的な権利ですが,精神的に未熟な子どもたちが読むものにどのような表現でも許されるということにはなりません。
出版社は読者の対象年齢を考慮し,社会的に許容される基準を自分でもたなければなりません。この自主規制は子ども向けの漫画を世に送り出す側の良心ともいうべきものです。
この頃大学生となっていた私でも,悪夢に出てきそうな恐怖表現のあまりのおどろおどろしさにすぐにページを閉じてしまったことを覚えています。