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アーリア人のインド侵入

紀元前1500年頃,滅亡したインダス文明のあとを埋めるようにインド北部にはアーリア人が進出してきました。アーリア人は定義された民族ではなく紀元前2000年頃に南ロシアから中央アジアに進出してきた民族集団が自分たちのことを「アーリア(高貴な)」と自称していたことに起因しています。

アーリア人は中央アジアにしばらくとどまり,そこからさらにイラン高原,インド・パンジャブ平原に進出しました。彼らは先住民族と混血しながら,現在のイラン人,インド人を構成する主要民族となっていきます。

しかし,それから3500年の間に他民族との混血が進んでおり,現在では純血のアーリア人は消滅したと考えられています。その中でもパシュトゥーン人,ペルシア人,タジク人,北部インドの複数の民族は比較的,原アーリア人に近いと考えられています。

紀元前1500年頃にカイバル峠を越えてインド北西部のパンジャブ地方に侵入したアーリア人は先住民族を制圧し,牧畜を中心とする半定住生活を開始します。アーリア人は小集団に分かれ,「部族会議」によって選ばれた「ラージャン(rajan)」と呼ばれた指導者を選んでいました。

この時期から500年あまりは前期ヴェーダ時代と呼ばれ,後のインドの政治世界を形成する王権概念,宗教観,ヴァルナの原型が形成されました。

中央アジアに進出してきた頃のアーリア人は,自然現象を神々として崇拝する宗教を持っており,司祭が社会的に重要な地位を占めていました。この宗教観はイラン・アーリア人,インド・アーリア人双方に引き継がれていきます。

インド・アーリア人は紀元前16-10世紀頃には聖典「リグ・ヴェーダ(神々の讃歌)」を編纂しています。「ヴァルナ」およびそれに基づく階級制度(ヴァルナ・ジャーティ)は,「リグ・ヴェーダ」の中に記されています。

「ヴァルナ」はそのものずばり「色」を意味しており,肌の色を基準とした階級制度となっています。最大の目的は色の白いアーリア人と褐色の先住民族を識別することでした。ヴァルナが大まかな概念であることに対して「ジャーティ」は内婚と職業選択に関するものであり,2,000とも3,000ともいわれるジャーティはかならずいずれかのヴァルナに属することになります。

現在の「カースト制」はインドにやってきたポルトガル人がインドの習俗や階級制度を総称した呼び名であり,必ずしも「ヴァルナ・ジャーティ」を正確に言い表すものではありません。

こうして,バラモン(正確にはブラーフマナ=僧侶)を頂点とするインド独特の階級制度が確立していきました。この時期の古代インド宗教を現在に伝わるヒンドゥー教と区分するため「バラモン教」と呼んでいます。

現在の南アジアは多数の言語集団が存在しています。インドだけでも22の言語が「公用語」とされており,話者が1万人以上の言語は216,方言を含めると1800以上もの言語が使用されています。このような多様な言語も東部州を除くと大きく「印欧語」と「ドラヴィダ語」に区分され,おおまかに北インドは「印欧語」,南インドは「ドラヴィダ語」圏となっています。

「印欧語」は文字通りインド・ヨーロッパ語であり,アーリア人が持ち込んだものです。この言語が北インド諸言語の元となっていることはアーリア人が早い時期から支配階級を形成したことに対する傍証となっています。また,デカン高原や南インドが非印欧語圏となっているのは先住民族がそれらの地に追いやられたこと,もしくはアーリア人に支配されなかった地域であることを物語っています。

紀元前1000年頃に鉄器が普及し,アーリア人の支配地域はガンジス流域全体に広がり,牧畜を中心とする半定住生活から農業を中心とする定住生活に移行します。この時期には先住民族との混血もかなり進んでいます。

この過程において「部族会議」と「ラージャン」の力関係が変化していき「ラージャン」が優位に立つことになり,部族を一つのまとまりとして力のある指導者を頂く数多くのミニ国家が形成されるようになります。このようなミニ国家は離合集散を繰り返して,その中から大きな国が誕生していきます。

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紀元前2000年頃から黒海,カスピ海の北岸の草原地帯で遊牧生活を送っていた原アーリア人の一部は南下し,中央アジアに広がっていきます。紀元前1500年頃には原アーリア人は二手に分かれ,一方はイラン高原に,一方はカイバル峠を越えてパンジャブ地方に侵入します。

両者は先住民族を追いやり,あるいは混血しながら支配地域を拡大します。前者はイラン・アーリア人,後者はインド・アーリア人と呼ばれます。紀元前1000年頃には中央アジアに広がった原アーリア人を含め,彼らは農業を開始して定住化するようになり,地域の主要な民族になります。

しかし,6世紀になると東からチュルク(トルコ)系民族が中央アジアに進出し,中央アジアの草原地帯,オアシス世界は次第にチュルク化していきます。これらの地域に居住していた原アーリア人(イラン系民族)は混血しウイグル,カザフ,ウズベクなどの民族になります。中央アジアで原アーリア人の血を比較的よく残しているのはタジク人,パシュトゥーン人です。




インドの言語地図,画像は「共同体社会と人類婚姻史」から引用しました。言語の系統からはっきりと北インドはインド・アーリア系であり,南インドはドラヴィダ系であることが分かります。オーストロ・アジア語族はドラヴィダ以前の先住民族が使用している言語であり,ベンガル州から西側で考えるとインドはオーストロ・アジア系民族,ドラヴィダ系民族,インド・アーリア系民族の多層構造となっています。


年代の基点はアショーカ王の即位年

ブッダには下記のように多くの呼称があります。この中からどの呼称が適切かを考えた結果,仏教的呼称ではなく一般呼称としては「ゴータマ・ブッダ」がふさわしいということになりました。とはいうものの「ゴータマ・ブッダ」では長いので,この文章中では「ブッダ」と呼ばせていただきます。

ブッダ 目覚めた者を意味する(注1)
仏陀ブッダの音訳
釈迦シャーキャ(サーキャ)の音訳
釈迦牟尼シャーキャ・ムニの音訳,ムニは聖者の意
釈迦牟尼世尊釈迦牟尼に尊称を付加したもの
釈尊釈迦牟尼世尊の略称
ゴータマ・シッダールタブッダの幼名(注2)
ゴータマ・ブッダこの呼称がもっともふさわしい


注1)ブッダはサンスクリットで「目覚めた人」,「悟った者」を意味する普通名詞であり,本来の呼称は「ゴータマ・ブッダ」が適切です。

注2)シッダールタはサンスクリットで「目的を達した者」を意味しており,幼名ではなく悟りを啓いた後の呼称であった可能性が高いと考えられます。

ブッダの誕生した時代のガンジス流域は大小の国家が併存しており,国家間の戦争も発生していました。そのため国王や軍人階級の地位がバラモン階級に対して相対的に向上するとともに,思想的にも祭祀に偏重したバラモン教から離れて新しい思想を模索する動きも出ていました。経典には彼らのことを「六師外道」と記されています。仏教もそのような新思想の一つとして生まれました。

仏教の開祖である「ブッダ」の入滅時の年齢は80歳とされていますが,それがいつであったかははっきりしていません。現在,彼の生涯は紀元前463-383年,あるいは紀元前560-480年という二説があり,決着はついていない状態です。

仏教の開祖が亡くなった時期がはっきりしないというのは奇妙な話しに聞こえるかもしれませんが,古代のインドでは(動物を含め)霊魂は不滅で繰り返して生まれ変わるという「輪廻転生」という生命観(人間観)があり,文字があったにもかかわらず歴史あるいは年代を記すという習慣がほとんどなかったためです。これはエジプト,ギリシャ,中国の古代文明と際立った差異点となっています。

インド国内に当時の年代を記した文献が存在しませんので「ブッダ」の入滅の時期に関しても外国の文献に頼ることになります。年代の基準となっているのがインド亜大陸の大半を統一したマウリヤ朝最盛期のアショーカ王(BC304-BC232年)です。

アレクサンダー大王(BC356-BC323年)の東方大遠征によりアジアの各地にはギリシャ人の植民地が作られ,アショーカ王の即位年はBC268年とギリシャの文献に記されていました。彼の即位年は古代インドで年代が判明している数少ないものであり,貴重な基準点となります。

仏典の中に入滅後×年後,アショーカ王の治世に仏典結集を行なったと記されていますので入滅時期を推定することができます。しかし,この×年後が上座部仏教(南伝仏教)と大乗仏教(北伝仏教)の経典では100年くらい異なっていますので,現在でも釈迦の入滅年は紀元前383年(北伝仏典による)と480年(南伝仏典による)という2説があり確定していません。日本の学説ではマガダ国→マウリヤ王朝の王統を考慮して紀元前383年説が主流となっています。

アショーカ王はその治世の間に多くの碑文や文字の入った石柱(アショーカ・ピラーズ)を残しており,初期仏教の姿を解明するための第一級の資料となっています。そもそも仏典等ではブッダが神格化され,数々の奇跡を起こしたことなども記されていますので,19世紀中ごろの欧米ではブッダの存在そのものを疑っていました。

ところが,1886年にドイツ人の考古学者フューラーによってアショーカ王の石柱が発見されました。そこにはブラーフミー文字を使用し北インド地域の言語で「神々に愛でられしアショーカ王が即位20年の年にこの地を訪れ石柱を立てた…ブッダ(悟りし者)はこの地に誕生した…この村は免税され8分の1の納税で許される」などと刻まれていました。

この発見はブッダが伝説上の人物ではなく実在したという最初の証拠となりました。古代の経典ではルンビニをブッダ生誕の地としており,この地がルンビニであることが考古学者により実証されました。

アショーカ王の碑文あるいは石柱は北インドの各地で発見されており,仏典に記された地名を特定する大きな手掛かりとなっています。その中でもっとも有名なものは初転法輪の地であるサールナート(鹿野苑)の石柱です。

多くの石柱の最上部には獅子などの動物像が配置されていましたが,その多くは失われています。サールナートの石柱も折れていたものの4頭の獅子の像が背中合わせに彫られ,その下にチャクラ(法輪)が刻まれた完全な形の柱頭が発掘されました。法輪の間にこぶ牛,馬,獅子,象というインドの四聖獣が刻まれており,マウリア王朝美術の最高傑作の一つとされています。

独立後にこの柱頭像はインドの国章となっています。現在はガンディーの肖像となっているインド紙幣の隅に,一代前の紙幣には柱頭像がそのまま肖像や透かしとして使用されています。また,チャクラは国旗の中心に描かれています。

インドを観光訪問するときはビザが必要であり,日本のインド大使館で取得したものには大きなチャクラが入っています。また,ビザの承認印にも国章が使用されています。



ブッダの誕生した時代のガンジス流域は大小の部族国家が併存しており,国家間の戦争も発生していました。そのため国王や軍人階級の地位がバラモン階級に対して相対的に向上するとともに,思想的にも祭祀に偏重したバラモン教から離れて新しい思想を模索する動きも出ていました。ブッダは当時の二大強国であったマガダ国の竹林精舎,コーサラ国の祇園精舎を二大拠点とし,その間を行き来しながらガンジス流域を遊行しています。




サルナートのアショーカ王石柱の柱頭,画像は「ヴァラナシ」から引用しました。マウリヤ朝美術の最高傑作とされており,独立後はインドの国章となっています。獅子の下に彫られた法輪はインドの国旗に使用されています。




一世代前のインド紙幣,現在はガンディーの肖像になっていますが,その前は国章がそのまま使用されていました。もちろん,透かしの像も同じです。



大きな地図で見る

ルンビニ史跡公園の全景です,広さは1.6km×4.8kmもある巨大なものです。南にある円形部分の中心に「マヤ・デヴィ寺院」があり,その内部にブッダの誕生した場所があります。「マヤ・デヴィ寺院」にほぼ隣接し南西にはブッダが産湯をつかった「サクレッド池」が,西側には「アショーカ王」の石柱があります。この石柱の発掘によりここがブッダの生誕地であったことが分かりました。


ブッダの誕生|ルンビニ

ブッダはルンビニの地で誕生しました。ルンビニは現在のインド国境にほど近いネパールのタライ平原にあります。アショーカ王がこの地を訪ねたとき,周辺は大きな村であったと記されています。

現在のルンビニは農業を中心とした村となっており,そこに高い塀で囲まれた南北に長い長方形の「ルンビニ遺跡公園」があります。google map で大きさをチェックしてみるとこの公園は幅1.6km,長さ4.8kmの広大な地域を占めています。

公園の重要遺構は南側の環形の池に囲まれた中心部にあります。まさしくこの中心部がブッダが誕生したところとされています。発掘されたときはレンガが積み上げられた建物の遺構(おそらくそれは寺院や僧院あるいはストゥーパの基壇であったと推測されます)だけが残されており,その中にかってのマヤ堂の遺構があり,それを囲うように「マヤ・デヴィ寺院」が建造されています。

「マヤ・デヴィ寺院」の内部にはかってのマヤ堂の遺構があるだけで,その中央部に特別な場所があり,英文の案内には「まさしくここがブッダの産まれたところ」と記されていました。マヤはブッダの生母のマヤ夫人,デヴィは女神を表すので,マヤ女神寺院ということになります。

ブッダはネパールとインドの国境付近にあるカピラヴァストゥ(カピラヴァットゥ)で小さな国を形成していたシャーキャ族の出身です。カピラヴァストゥはルンビニからそれほど遠くないところにあることは分かっていますが,インドはインド側の「ピプラーワー」,ネパールはネパール側の「ティラウラーコート」の遺跡がそれであると主張しています。

ピプラーワー遺跡では1898年にイギリス駐在官ペッペが「ガウタマ・シッダールタの遺骨およびその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘しています。その後も「カピラヴァストゥ」という文字が刻まれた印章などが出土していることからほぼこの地ではないかと推察されています。

ブッダの父親はシャーキャ(サーキャ)族の国王「ゴータマ・シュッドーダナ(スッドーダナ)」,母親は「マーヤー」と伝えられています。この一族は当時の二大強国であったマガタ国とコーサラ国の間にはさまれた地域に位置していました。

ここではまだ「部族会議」と「ラージャン」の伝統的な力関係が維持されており,共和制であったと記されています。ブッダを宿したマーヤーは臨月となり実家のあるコーリヤに向かう途中のルンビニで出産しました。

仏典には「ブッダは生まれた直後に七歩歩き,右手で天を左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話した」と伝えらています。これはブッダの偉大さを表すための後世の作り話です。ブッダは超人ではなく普通の人間として生涯の大半を真理の追究とその成果を人々に伝えるために費やしました。

仏典には多くの奇跡が記されていますが,ブッダ自身は入滅時にも「自分を拝んで何になるというのか。法を師として怠ることなく修行に励みなさい」と弟子たち伝えています。

また,彼の見出した真理について「(人間はみな平等であり)生まれによって賎しい人になるのではない…生まれによってバラモンになるのではない…行いによって賎しい人にもなり,行いによってバラモンにもなる(スッタ・ニパータ142)」と述べています。そのようなブッダが「唯我独尊」などと語るはずもありません。

母親のマーヤーは産褥熱のため7日後に亡くなり,父王はマーヤーの妹マハープラジャパティー(マハーパジャパティー)によって育てられました。もっとも,当時は姉妹婚の風習がありましたので,マーヤーもマハープラジャパティーもシュッドーダナの妃だった可能性があります。幼少時のブッダは宮殿でなに不自由なく育てられ,多感でしかも聡明な青年となり,16歳で母方の従妹の「ヤショーダラー」と結婚し,「ラーフラ」をもうけます。



ルンビニ遺跡公園の南側にあるバレリヤ・バザール周辺の村の様子。訪問時期は4月でしたので乾いた農地が広がっています。




マヤ・デヴィ寺院正面,遺跡公園の南端には直径が1km弱の環形の池に囲まれた地域の中心にマヤ・デヴィ寺院があります。ここは,かってのマヤ堂の遺構を建物の中に収めて寺院としています。マヤはブッダの生母のマヤ夫人,デヴィは女神を表すので,マヤ女神寺院ということになります。




マヤ・デヴィ寺院背面,マヤ・デヴィ寺院の南側にはマヤ夫人がブッダ産む前に沐浴したというプスカリニ池があります。1937年の写真では土手をもったため池となっています。おそらくブッダもこの池で産湯を浸かったのでしょう。

寺院の西側にはアショーカ王の石柱があり,ブッダの生地はこの石柱の発掘で明らかになりました。石柱の本来の高さは10mほどあったはずですが,現在は下部の3mほどが残されています。この紀元前3世紀に造られた石柱は肉眼では凹凸が分からないほど見事に磨かれています。


出家と修行

ブッダは29歳で出家します。父王の後を継ぐことを期待され,栄耀栄華を極めることができたにもかかわらず,ブッダは地位も財産も家族も捨てて真理の探求を目指すことになります。

ブッダはコーサラ国のラージャグリハ(舎衛城)の郊外にあった祇園精舎で比丘たちに自分の出家について,「出家前のわたしは大変幸福な生活のなかにあった。それにもかかわらずその生活にとどまることができなかったのは老,病,死のことに思い至ったからだ」と話しています。

これが後世に脚色されて「四門出遊」の物語になっています。美しい妻と息子,あらゆる快楽も思いのままという人生の頂点にいたブッダが「老,病,死」について思い至っただけですべてを捨てて出家したのはどうしてでしょうか。そこには,古代インドの「ウパニシャッド哲学」が大きく影響していることでしょう。

「ウパニシャッド哲学」はバラモン教の聖典「ヴェーダ」の理論書であり,ごく簡単に内容をまとめると左のようになります。

「ウパニシャッド哲学」は「輪廻転生」から「解脱」して魂の平安を目指すべきであると説いていますが具体的な方法については触れられていません。そもそも魂とか魂のふるさと(あの世)は見たり触れたりすることのできない形而上の概念ですから人智の及ばないものです。そこを基準に一切の苦しみから解放される方法は論理的には見つかるはずがありません。

ブッダは王宮内で快楽に囲まれて暮らしていても,王宮から外に出ると「老,病,死」はいやでも目に入ります。「ウパニシャッド哲学」に精通していたブッダはどうすれば人生には必ずつきまとう悲しみや苦しみから解放されることができるかについて考えることになります。

「ウパニシャッド哲学」は肉体の衣を脱ぎ捨てた魂の平安を主題にしていましたが,ブッダは肉体をともなった人間がどうすれば人生の苦しみや悲しみを克服できるかを課題にしています。この課題の中には「霊魂」や「輪廻転生」といった形而上の概念は含まれていないことに注意しなければなりません。

この究極の真理に到達しようと29歳のときにブッダは出家することになります。一国の太子が出家することが許されたのはおそらくバラモン教の聖典「ヴェーダ」に記されている「アーシュラマ」によるものと考えられます。「アーシュラマ」はバラモン教徒の男性が生涯のうちに経るべき4つの段階(四住期)が設定されています。

1. 学生期:師のもとでヴェーダを学ぶ時期
2. 家住期:家庭にあって子をもうけ一家の祭式を主宰する時期
3. 林棲期:森林に隠棲して修行する時期
4. 遊行期:一定の住所をもたず乞食遊行する時期

古代インドにおいてはダルマ(宗教的義務),アルタ(財産),カーマ(性愛)が人生の3大目的とされ,この3つを満たしながら家庭生活を営んで子孫を残すことが理想だとされています。

しかし,この世俗の理想と「ウパニシャッド哲学」による魂の解脱という精神世界の理想は両立が困難です。そのため,人生を4期に分けてこの2つの理想を実現しようとしています。

29歳のブッダはまだ「家住期」の途中ですが,(長男を設けたことから)強い意志により出家を実現することができたと推測します。仏典には王宮を出たブッダは自ら髪を落としたと記されています。古代インドでは頭髪を剃るのは最大の恥辱とされ,重罪を犯した者は頭髪を剃って追放されるという刑罰もありました。

ブッダの時代には社会の枠外にあることを明らかにするため出家者は剃髪する習慣がありましたので,ブッダもそれにならったと考えられます。ただし,ブッダの弟子の中には有髪のものもおり,初期の出家者集団(僧伽,サンガ)においては剃髪は戒律には含まれていなかったようです。

剃髪して出家者となったブッダはマガダ国のラージャグリハ(舎衛城)に行きます。この時期のマガダ国は経済活動の飛躍的な増大により旧い秩序の殻を破った新思想を受け入れる土壌ができていました。そのため,ここは新しい時代の思想家が集まっていました。

ブッダはまず「アーラーラ・カーラーマ仙人」に教えを乞います。この仙人は「無所有処(むしょうしょ)」が最高の境地であると教えています。仙人は瞑想により自我意識から解放され純粋意識だけになることができると説いています。

ブッダは仙人のいうとおりに実践してみたところ,速やかに「無所有処」を体得してしまいました。しかし,「無所有処」では自分の目指すこころの平安は実現できないことを知り,彼の元を離れます。

次にブッダは「ウッダカ・ラーマプッタ仙人」を訪ねます。彼の教えは「非想非非想処」こそが最高の境地であり,瞑想によって到達できるというものでした。「非想非非想処」は文字通り「識別するのでもなく,識別しないのでもないという境地」というほどの意味です。

このあたりになるとあまりにも難解になり素人には理解不能の領域です。ともあれ,ブッダは二人の仙人の瞑想法や到達する境地については相応の評価をしていたようです。しかし,自分の目指すものはそこにはないと考え,別の道を行くことになります。

古代インドでは肉体が煩悩をもたらし純粋な精神活動の妨げになると考えられており,肉体を弱らせることにより相対的に精神活動が明晰になるとされていました。そのため,苦行は修行の手段として社会的に高い評価を受けていました。

ブッダも6年間,苦行に取り組むことになります。ブッダは多くの苦行者が集まる苦行林で修行を行います。とくに止息と断食には熱心に取り組んだようです。もちろん,6年間もずっとそんなことをしていたら死んでしまいますので,死に近いような苦行と死には至らないような苦行を組み合わせていたと推測します。

ブッダが入滅してから450年ほどが経過し,仏像が制作されるようになったとき,断食により骨と皮になり眼も落ち窪んだブッダ像がガンダーラで作られました。現在はパキスタンのラホール博物館に収蔵されている「断食するブッダ像」はガンダーラ仏教美術の最高傑作とされています。

四門出遊の故事
成人したブッダはある日東の城門を出ると年老いて身動きもままならない老人を見かけました。南の門を出たブッダは今にも息を引き取りそうな病人が苦しんでいるのを見ます。西の門を出たブッダは火葬場に向かう葬列に出会いました。
これによりブッダは人生には避けられない「老・病・死」について考えるようになります。そして,北の門を出たブッダは沙門(出家者)に出会いこの世の苦しみや悲しみから解放される出家の生き方について考えるようになりました。



ウパニシャッド哲学概要
肉体は衰えやがて土に戻るが,魂であるアートマン(我)は不滅である。死とは魂が肉体を脱ぎ捨てることにすぎない。魂は再び肉体を得る。あなたは生まれてくる前に別の人生を送っていたし,死んだ後にも別の人生がある。魂は何百,何千と人生を繰り返し,そのたびに肉体という衣服を着たり脱いだりしているだけのことだ。
永遠に生と死とを繰り返すことを「輪廻転生」といい,これでは魂の平安は得られない。輪廻の悪循環を断ち切って,宇宙の中心にある魂のふるさとであるブラフマン(梵)に回帰し,一切の苦しみから解放されること(解脱)を目指すべきである。ブラフマンとアートマンとは一体であること(梵我一如)を知れ。(wikipedia)




断食するブッダ像,ラホール博物館収蔵,画像は引用しており著作権が左下に書き込まれているようですが読み取れませんので無断で使用させていただきます。ブッダが入滅してから450年ほどが経過し,仏像が制作されるようになったとき,断食により骨と皮になり眼も落ち窪んだブッダ像がガンダーラで作られました。この「断食するブッダ像」はガンダーラ仏教美術の最高傑作とされています。




ブッダに乳粥を差し出すスジャータ,サルナートにあるムルガンダ・クティー寺院内部には第2次大戦前に日本人画家の野生司香雪が描いたブッダの生涯を題材にした壁画があります。


悟りに至る|ボーダガヤ

ブッダは死の淵を覗くような苦行を重ねましたが,自分の求める真理に到達することはありませんでした。6年の修行ののちにブッダは苦行を放棄し,瞑想による真理への到達を目指します。

ブッダは苦行林を出て乞食のため村に入り,村娘スジャータの差し出した乳粥により体力を回復させます。ブッダが苦行を放棄したことを知り,一緒に修行をしていた5人の修行者はブッダが苦行に耐えられなくなったとみなし,軽蔑してブッダとたもとを分かちます。

ブッダは苦行林を出てナイランジャナー(ネーランジャ)川で沐浴し,ガヤー村にあるピッパラと呼ばれる大きな樹の下に一人坐して瞑想を始めます。スジャータはガヤー村の娘であり乳粥の布施を行ったのはこの瞑想の直前であったという説もあり,一般的にはこちらの方が有名です。

ブッダは深い瞑想に入ります。仏典には魔王配下のたくさんの悪魔がブッダの成道を妨げようと矢や石を雨あられと降らします。ブッダがこれにまったくひるまなかったことから,魔王は娘たちを送り誘惑させます。しかし,ブッダは強いこころでそれらを退け,ついに悟りを啓きます。これを「成道」といいます。

成道の前にブッダの前に現れた悪魔や娘たちはブッダのこころの中にあったもろもろの煩悩を象徴していると考えられます。こうしてブッダは煩悩を鎮めて悟りを啓き,そのときからブッダ(目覚めた人)と呼ばれるようになりました。

ブッダがその下で成道をなしとげた大樹は「菩提樹(インド・ボダイジュ)」と呼ばれるようになり,ガヤー村は「ブッダガヤ(ボーダガヤ)」と呼ばれるようになりました。

「ブッダガヤ」は仏教の最大の聖地となり,菩提樹の横には「金剛宝座」が置かれ,多くのストゥーパや僧院が建てられました。7世紀には「マハーボーディ寺院(大菩提寺)」の前身となる大寺院も建造されています。

しかし,その後インドにおける仏教は衰退し,15世紀には廃墟となってしまいます。英領インドの時代になりようやく修復の手が入るようになり,19世紀にミャンマーの仏教徒が大改修をして現在の姿になりました。現在,「マハーボーディ寺院」は世界遺産に登録されており,多くの巡礼者が訪れる聖地の雰囲気を取り戻しています。



同じくブッダの成道を妨げようとする魔王の軍勢と,色仕掛けで誘惑しようとする魔王の娘たち。




マハボーディ寺院,私が訪問した時は修復中でしたので画像はwikipedia より引用しました。成道の地には「マハボーディ寺院」が建立され,寺院敷地内は仏教徒にとっては最大の聖地となっています。




「マハボーディ寺院」の横にはブッダがその下で悟りを啓いたインド・ボダイジュの大木があり,ブッダが瞑想していた場所には金剛座が設けられています。この菩提樹も仏教の衰退とともに災難に見舞われ,現在ここにあるものは挿し木や種子から育てられた三代目とされています。


初転法輪|サルナート

このときブッダが得た悟りとは「縁起の法」として語られており,「これあればかれあり,これがなければかれがない,これ生ずればかれ生ず,これが滅すればかれが滅す」と解かれています。それによって,万法(一切の存在)は明らかになり,一切の疑惑は消失したと述べられています。それを簡単に説明したものが下記の一文です。

縁起とはたとえば生があるから老・死がある。これは存在の法則として定まっていることである。縁生とはたとえば,老・死による苦しみや悲しみは条件があって生じるものである。だから,条件をなくすることによって老・死による苦しみや悲しみはなくすることができる。


自然の理として人は必ず老い,死んでいく存在です。しかし,人々は老いたくない,死にたくないと願います。また,愛する家族の人たちも死んでもらいたくないと願います。しかし,いくら願ったとしてもその願いはかなわず,親が死んだとき,子どもが死んだとき,自分が年老いたとき人々は深い悲しみや苦しみに打ちひしがれます。

ブッダは悟りの中で「縁起の法」とともに悲しみや苦しみを減ずる方法論として「四聖諦(ししょうたい) 」について語っています。これは現実の様相の認識とそれを解決する方法論をまとめた「苦集滅道」の4諦からなります。

苦諦:われわれの世の中の様相は「苦」であると見極める
集諦:苦を引き起こすのは欲望と執着を集めることと見極める
滅諦:苦の原因(人の世の欲望と執着)を捨て去って滅する
道諦:具体的な手段の「八正道」を日々怠りなく実践する


「八正道」については煩雑になりますので省略しますが,「縁起の法」と「四聖諦(ししょうたい)」こそがブッダの到達した真理であると考えます。人間は多くの欲望と執着をもちます。それらが自分の思うようにいかないところに苦しみや悲しみが生まれます。

つまり,欲望と執着こそが苦しみや悲しみの原因であり,それを減ずることにより苦しみや悲しみも減ずることができます。そして,欲望と執着が完全になくなった状態を「涅槃(ニルバーナ)」としています。涅槃こそがブッダの到達した最高の境地ということができます。

注意すべきことは「縁起の法」と「四聖諦(ししょうたい)」には「輪廻」,「解脱」,「霊魂」,「あの世」という宗教的な概念がまったく含まれていないことです。

ブッダの見出した真理はあの世の平安を求めるものではなく,「自力本願」により平安な人生を送るための処方訓と考えることができます。このため,私はブッダの教えは「哲学」であると考えています。

仏典には悟りを啓いたブッダはこの真理は難解なので自分以外には理解することはできないと考え,他の人に説くことをちゅうちょしていたところ,天界の梵天と帝釈天はブッダの到達した真理がブッダ個人に留まるのはいかにも惜しいと考え,多くの人々に説くように説得したとあります。これを「梵天勧請」といい,多くの像にその様子が彫られています。

もちろん,これは後世の脚色ですが,ともあれブッダはかって自分から離れていった5人の修行者のいるヴァーラナシーに向かいます。ヴァーラナシーの北約10kmのところに位置する「サールナート」でブッダはこの5人の修行者に自分の悟りについて説明します。ブッダの説法の内容に感銘を受けた5人は最初の弟子になります。

仏教では説法のことを「法輪」,説法を行うことを車輪を転がすことに例えています。それにより,ブッダが最初の説法をした「サールナート」は「初転法輪」の地として仏教の四大聖地となり,多くの仏塔と僧院,寺院が建てられています。仏典ではブッダの説法を鹿までも耳を傾けたとされていることから「鹿野苑」とも呼ばれています。



サールナート(鹿野苑),初転法輪の地は仏教の聖地になっており,5世紀にはこの場所に多くの僧房とストゥーパが立ち並んでいました。仏教の衰退とともに荒廃してしまい,基壇部分だけが残されている中で巨大なダメーク・ストゥーパだけは往時の姿を残しています。アショーカ王の石柱は基部だけが残され,出土された四方に獅子を配した柱頭部はマウリヤ美術の最高傑作とされインドの国章となっています。オリジナルはサルナート博物館に収蔵されています。




サールナート(鹿野苑)のアクシスジカ(アキシスジカ),成長しても体表の斑点が残り,世界でもっとも美しい鹿とされています。サルナートでは故事にちなんで鹿園が併設されています。現在でもインドでもっとも数の多い鹿ですから,ブッダの時代にこの地にいたものもアクシスジカである可能性は高いでしょう。奈良公園の鹿は人間に慣れており放し飼いにされていますが,ここでは金網で囲われています。


二つの活動拠点とサンガ(僧伽)における修行と遊行

ブッダは多くの人々を教化していきます。中でも多くの門弟を抱えていたウルヴェーラ・カッサパ,ナディー・カッサパ,ガヤー・カッサパの三兄弟(三迦葉)がブッダの弟子となり,ブッダは1000人もの弟子を抱えることになります。

ブッダはラージャグリハ(王舎城)に向かいます。ビンビサーラ王はブッダを訪ね,その教えを受けます。王はこれを喜び町の郊外のヴェルヴァナ(竹林)の地を寄進しました。

その後,すぐに王舎城に住む長者がその地に精舎を建てることを申し入れました。ブッダは「質素なものならばよろしい」と返事をし,長者は60もの家を建てて献上しました。こうして最初の精舎(竹林精舎)が誕生し,ラージャグリハはブッダの重要活動拠点となります。

この時代に出家者の集りはサンガと呼ばれており,ブッダの元に集まった出家者集団もサンガと呼ばれていましたが,仏典が漢字に音訳されるときは「僧伽」となっています。ここから仏教では出家者を「僧」と呼ぶことになります。

ブッダはサンガを構成する出家者には序列を設けませんでしたが,出家した時期の古さにより現在でいう長幼の序のような秩序をもたせていたようです。

それからほどなくしてシャーリプトラ(舎利弗)とマウドゥガリヤーヤナ(目連,モッガラーナ)が加わります。この二人はすぐれた弟子となり「舎利弗」は知恵第一,「目連」は神通第一と言われるようになります。

ラージャグリハは現在のビハール州ラージギルとなっており,竹林精舎の跡地近くには日本山妙法寺のお寺があります。現在のラージャグリハはブッシュの生い茂るただの荒地になっています。ここは周囲を5つの山が取り囲み外敵からの防御には適した地形となっています。一応インド政府が管理していることになっていますが,遺跡発掘はまったくされていません。

ブッダが竹林精舎で過ごしていた頃,ここはマガダ国の都として繁栄しており,どのような理由があったのかそこはは捨てられ,都はパータリプトラ(現在のパトナ)に移されました。この荒れ地となったラージャグリハ跡地を眺めると「諸行無常」をそのまま感じることになります。

ブッダのもう一つの重要な活動拠点に「祇園精舎」があります。こちらは当時のもう一つの強国であるコーサラ国のシュラーヴァスティー(舎衛城)郊外にありました。

正式名称は「祇樹給孤独園精舎」です。ジェータ(祗陀)太子が土地を寄進しスダッタ(須達多)という長者が寺院を寄進しました。スダッタ長者は身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため,人々から「給孤独者」と呼ばれていましたので二人の名前から「祇樹給孤独園」が正式名称となるわけです。

「祇園精舎」は現在のウッタル・プラデーシュ州ラクナウの北東約100kmのところにある「マヘート遺跡」となっており,約500m四方の地域が遺跡公園になっています。また,ここは仏教の八大聖地の一つであるため周辺には各国の寺院が建てられています。

ブッダは二つの活動拠点の間を行き来する形で少数の弟子を連れてガンジス川流域の各地を訪れて説法しています。 これを遊行(ゆぎょう)と呼んでいます。ただし,モンスーンの時期はどちらかの活動拠点に留まり,集団で修業にいそしんだととあります。これを「雨安居(うあんど)」あるいは「夏安居(けあんご)」といいます。

雨期には草木が生え繁り,昆虫などの小動物が活動します。外で遊行すると例えば昆虫をふみつぶすというような意図しない殺生を招きますので,精舎にまとまって修行しようということのようです。

ブッダは45年ほどサンガにおいて修行と遊行を続けます。各地にも多くのサンガが形成され,中には(弟子たちの説法により出家したため)ブッダの説法を聞いたこともない出家者もたくさんいたそうです。

ブッダの晩年には彼の教えは大きな広がりをもっていました。そのため,出家者が守るべき「戒律(正しくは戒と律は別の概念であり,戒は自分を律する内面的な道徳規範,律は守るべき規則となります)」が制定されています。出家者はこの戒律を守り,正しい修行により悟りを目指していました。この初期仏教の形態に近い上座部仏教においては僧侶には227もの戒律が課せられています。



ラージャガハ(王舎城)はブッダの時代,マガダ国の首都でした。周囲を5つの山が取り囲み外敵からの防御には適した地形です。現在はブッシュの生い茂るただの荒地になっており,インド政府が管理しています。すぐ近くには温泉バザールがあり,インド人と一緒に(パンツをはいたまま)温泉につかることができます。




ラージャガハ(王舎城)の温泉バザールから5kmのところにある霊鷲山山頂,この岩山でブッダは弟子たちに法華経を説いたとされています。山頂にはブッダとアーナンダが瞑想した場所がレンガで囲われており,巡礼者が持ち寄ったものが飾られています。周辺は観光地になっており,インド人はほとんどゴンドラでとなりの日本山妙法寺のストゥーパのある多宝山に向かいます。




祇園精舎の遺跡跡はきれいな公園になっており,500m四方ほどの敷地に僧院,ストゥーパなどの基壇部分が遺構となっています。中央部に遊歩道があり,右側に柵に囲まれた立派な菩提樹があります。これはアーナンダ菩提樹と呼ばれています。アーナンダはブッダの一番弟子とされており,紗羅の木の下で横になり涅槃に向うブッダの脇に悲しい表情で立ち尽くす姿は上座部仏教国ではよく造形化されています。


入滅|クシナガール

80歳になったブッダは最後の遊行のためアーナンダおよび少数の者と一緒にラージャグリハの竹林精舎を出ます。目的地はすでに廃墟となっている故郷の「カピラヴァストゥ」とされており,行程はラージャグリハ→パータリ(現パトナ)→ヴェサリー(現ヴァイシャリ)→クシナガールとされています。当然,行く先々でブッダは説法をしています。

パータリでガンジス川を渡るとそこはヴァッジ国となります。ヴァイシャリーはヴァッジ(リッチャヴィ)国の首都でありブッダも何回か訪れたところです。現在はビハール州の州都パトナから北に55kmのところにある小さな村です。

ここで一行は高級遊女の「アンパバリー」が所有するマンゴー林に入ります。「アンパバリー」はブッダが自分の園林におられると聞き,乗り物を連ねてブッダのところにやって来てます。乗り物から降りた彼女はブッダに礼拝して座につきます。ブッダの説法に喜んだ彼女は「尊いお方,明日の朝,私の邸で僧たちとご一緒に食事をなさって下さい」と言います。ブッダは沈黙により同意を示しました。

彼女が去った後にこの国の貴公子たちが乗り物を連ねて園林を訪ね,途中で「アンパバリー」に出会います。彼女から朝食の招待の話を聞いた貴公子たちはブッダに同じ提案をします。しかし,ブッダは先に約束した「アンパバリー」の招待を優先させます。

「アンパバリー」は夜を徹して朝食を準備し,翌朝,ブッダの一行は彼女のこころ尽くしの朝食をいただくことになります。この逸話は貴賤を問わず約束の順序を守るブッダの姿勢を表しています。

仏滅後に8つに分けられた仏舎利の一つはブッダ縁のこの地に祀られ仏塔に納められました。この仏塔の跡地は「レリック・ストゥーパ」として紹介されていますが,「relic」は遺物,骨董品を意味する一般的な言葉です。日本語ではストゥーパはもともと「仏舎利塔」ですから,「relic」を含む概念です。

そこから4kmほど北では仏滅後,第二回の結集が行われており,それを記念してアショーカ王の石柱が立てられています。石柱の最上部には一頭の獅子像が置かれており,この獅子はとなりの大きなストゥーパを見る構図をなっています。

一行はベールヴァ村で安吾に入り最後の雨期を過ごすことになります。この間にブッダは激しい腹痛に襲われますが,安吾の終わりころには気力を回復しています。アーナンダはブッダの回復を喜ぶとともに「師がサンガのことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと心を安らかに持つことができました」と言い添えました。それに対してブッダは次のように話しています。

しからばアーナンダよ,比丘たちはわたしに何を待望しているというのであるか。わたしは内もなく外もなく,ことごとく法を説いてきた。アーナンダよ,如来の法にはあるものを弟子に隠すというがごとき,教師の握りしめる秘密はないのである。

まことにアーナンダよ,あるいは「わたしは比丘サンガを導こう」とか「比丘サンガはわたしを頼っている」とか,そのように思っている者ならば,最後にあたって,比丘サンガについて何事かを語らねばならぬやも知れぬ。

だが,アーナンダよ,如来は「わたしは比丘サンガを導こう」とか「比丘サンガはわたしを頼っている」とも思っていない。さればアーナンダよ,なんじらは,ここに自らを灯明とし,自らを依所として,他人を依所とせず,法を灯明とし,法を依所として,他を依所とせずして住するがよい
(マハーパリニッバーナ・スッタ)


ブッダの一行はルンビニを目指し遊行を続けますが,ブッダは途中で食あたりのためマッラ国のクシナガール郊外の二本の沙羅の木の間に横になります。「ただ仏法に依拠して修行せよ」と言い遺し,ブッダの両眼は閉じられ再び開くことはありませんでした。ブッダは入滅しました。

ブッダの入滅の後,その遺骸はマッラ国により火葬されました。ブッダに帰依していた八大国の王たちは遺骨の分与をマッラ国に申し入れますが拒否され争いになったと仏典には記されています。調停の結果,遺骨は8つに分配され,それぞれの国で「仏舎利塔」に納められました。

ブッダ自身は自分の悟りの内容を形式化した形では説いていません。ブッダは臨機応変に相手に合わせた説法を行ってきました。そのため,ブッダの入滅後にサンガの中ではブッダの言葉を仏典としてまとめる作業が必要になりました。

有力な弟子たちが集まり(三蔵の結集)し,それぞれの人がブッダから聞いた言葉を口誦し,他のメンバーがその内容を確認していきます。これを繰り返すことによりブッダの言葉が集まったメンバーの中で再確認されていきます。

このときはブッダの説話を「経・律・論」と大きく分類しており,これが三蔵ということになります。このようにまとめられた経典はすべて記憶に頼っており,その後に多くの経典が生まれたり,教団が分裂していく原因ともなっています。



ヴァイシャリのアショーカ王石柱とレンガでできた巨大なストゥーパ,リッチャヴィ国の首都でありブッダも何回か訪れたところです。現在はビハール州の州都パトナから北に55kmのところにある小さな村です。涅槃に向かった最後の旅においても,ここで遊女アンパバリーの心のこもる朝食の接待を受けました。




ヴァイシャリのレリック・ストゥーパ,ブッダの入滅後に荼毘に付された遺骨は8つに分割され,その一つはこのストゥーパに納められたとされています。




クシナガール大涅槃寺,おそらくブッダが二本の沙羅の木の間に横たわったその場所に建立されたものなのでしょう。建物は比較的新しいもので,1937年の写真では高さの低い直方体の涅槃堂でした。それを修復して上部に屋根を乗せ現在の大涅槃寺となったようです。右側が大涅槃寺正面であり,その背後にニルヴァーナ・ストゥーパが置かれています。




大涅槃寺に置かれている涅槃像,入滅を迎えたブッダは二本の沙羅の木(学名:Shorea robusta)の間に横になり,閉じられた両眼は再び開かれることはありませんでした。入滅の瞬間,沙羅の木の黄色みを帯びた花は真っ白に変わったとされています。この故事から平家物語の冒頭の一節にある「沙羅双樹の花の色…」となります。




紗羅の木,画像は「もとのぶろぐ」から引用しました。亜熱帯植物ですので日本国内では温室でなければ開花は難しいようです。フタバガキ科サラノキ属の落葉高木で高さは30-35mにもなります。インドでは開花時期は3月から7月とされています。一度は見たいと思っていますが,残念ながら確認したことはありません。




クシナガールの大ストゥーパ,入滅したブッダはここで荼毘に付され,8つに分割された遺骨の一つはこの大ストゥーパに納められているとされています。


仏教の分裂と伝播

ブッダの入滅から100年後,アショーカ王の時代に教団は保守的な上座部と進歩的な大衆部とに分裂します。これを「根本分裂」と呼び,それ以前を「初期仏教」,以後を「部派仏教」と呼ぶ慣わしになっています。

これは経典の解釈の違い,あるいは戒律の例外を認めるかといったブッダの教えの本質には関わりないところが原因となっています。その後もインド仏教は上座部系11部,大衆部系9部に分裂し,それぞれの部派は独自の経典を持つようになります。

それに対してアショーカ王の時代に「パーリ語経典」がスリランカに伝わっています。パーリ語はその当時使用されていた俗語(サンスクリットは聖語とされていた)の一つであり,アショーカ王の碑文にも使用されています。

上座部の主張によればパーリ語経典は最古のものであると同時に元々の仏教の形をより忠実に伝えるものであるとされています。これにより,スリランカでは初期仏教の形態がそのまま残り,ここを起点に東南アジアに「上座部仏教」が伝来しています。このルートを「南伝仏教」といいます。

ブッダの入滅から400年ほどが経過すると大衆部の中から「大乗仏教」が派生します。大乗仏教部は上座部を「専門的な煩瑣な哲学論議に陥ち入り,自己の解脱を中心にしている小乗仏教」として批判しています。この文面から考えると経典の解釈上の問題は入滅後400年経っても続いているようです。

インド仏教はその後も哲学的な議論が続くことになります。5世紀頃,世界最古の大学として知られるナーランダ大学が設立されるとインドの大乗仏教が活発に研究され唯識などが研究されました。精神世界の哲学的分析においてはインドは世界でもっともすぐれた資質をもっています。

同時にブッダ以外の菩薩信仰や菩薩による救済という新しい概念が登場します。また,ブッダの対機説法を集約したバラバラの経典を主題ごとにまとめることも始まり,多くの仏典が生まれる契機となっています。このように,「大乗仏教」の登場によりインド仏教は大きく変遷していきます。

大乗仏教は北インドからヒマラヤを越えて中国西域→中国→韓国,日本に伝わっています。このルートを北伝仏教といいます。しかし,このルートには言語の違いという障壁があり,多くの経典が複数の言語に翻訳されて伝播することになります。

特に中国では漢字という表意文字を使用しているため,翻訳(意訳と音訳の混在)には非常に難儀しています。西暦629年,中国からの留学僧である玄奘三蔵がナーランダ大学を訪れ657部の経典を長安に持ち帰り,原典を翻訳したことが日中の仏教界に大きな影響を与えています。

中国では経典の翻訳だけでは観世音菩薩信仰や新しく多くの経典が生み出されました。また,北伝仏教は文化習俗の異なる多くの地域に広がったことから,それぞれの地域の宗教観と結びついて多様な仏教世界を形成することになります。


インド仏教の衰退

一方,インドにおける仏教は5世紀頃に最盛期を迎え,その後は衰退してます。これはヒンドゥー教の成立が大きく関わっています。一部の支配級のものであったバラモン教は土着の信仰と結びついてヒンドゥー教という大衆宗教に変貌してしていきます。

ヒンドゥー教はバラモン教を骨子としていますので「ヴァルナ・ジャーティ(階級制度)」は社会の基層をなす重要なものです。それに対して仏教は人間の平等を教義にもっていますのでヒンドゥー勢力にとっては自分たちの社会基盤を破壊する宗教となります。

そのため,時の権力者がヒンドゥー教を擁護する立場になると仏教に対する弾圧が始まります。また,有力な支持層であった裕福な商人層は東西交易の減少ともに没落していったのも大きな要因にあげられています。

さらに,14世紀以降にイスラム勢力が政治的実権を握るようになると,偶像崇拝を禁じたイスラムの教義により非暴力の仏教はその基盤であるサンガを破壊されインドから姿を消しました。

仏教のふるさとインドでは消滅した仏教は東アジアや東南アジアででは主要な宗教となっており,現在では少しずつインドの仏教人口は増えています。ブッダの到達した真理である人間の平等と人生の苦しみや悲しみから解放される思想は(宗教の枠を超えて)現代人にも大いに資するものがあるはずです。

ブッダの時代に比べると現代日本人の暮らしははるかに豊かになっています。しかし,それに比例して人々は幸せになっているのでしょうか。いかに豊かになっても人間の欲望には限界がありません。

豊かになることにより,便利な生活を手に入れることにより,欲望はさらに大きくなっていくことの繰り返しです。この際限のない欲望の輪廻を脱することが現代人にとっては最大の課題です。

ブッダの思想はどうすれば欲望を抑え,欲望の虜囚から解放される方法を教えてくれます。有限な地球に暮らす人類は果てしない欲望により,多くの生物種を踏み潰しながら,自分たちの拠り所になっている地球を食いつぶそうとしています。

その一方で世界における豊かな人々と貧しい人々の格差は倫理的に許されないところまで拡大しています。私たちはブッダのように涅槃(ニルヴァーナ)を目指すことはできませんが,自分たちの欲望や執着を半分にでも減じることができれば,社会はずいぶんちがったものになるのではと考えます。



ナーランダ仏教大学遺構,5世紀に設立され,往時は1万人の学僧がここで学んでいたとされています。7世紀には玄奘三蔵もここで5年間学んでおり,657部に及ぶ経典を中国に持ち帰りました。インド仏教の最大かつ最後の拠点となっていたナーランダ仏教大学も12世紀にイスラム勢力により破壊され,インド仏教は終焉します。

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