イネとはイネ科・エールハルタ亜科・イネ属(oryza)に属する植物の総称です。イネ科は600属・1万種が属する大きなグループであり,草原,森林,高山,半砂漠などさまざまな環境で繁栄しています。特に草原においては主要な構成植物となっています。
一般的に植物の生育に適した環境条件の土地には樹木が生育して森林が成立します。しかし,降水,気温,風,土壌などの条件が森林に適さない土地は草原となります。現在の草原ではイネ科の植物が主役となっており,生態系の一次生産者となっています。
東アフリカのサバンナは大型哺乳類の生息密度が陸上でももっとも高い地域です。そこには多数の草食動物とそれを食料とする肉食動物が暮らしています。
タンザニアにある「セレンゲティ国立公園」は面積14,763km2,これは岩手県(15,278km2)とほぼ同じ面積であり,アカシヤなどの疎林を含む広大な熱帯サバンナが広がっています。この地域の年間降水量は500mm程度(東京は1600mm)であり,はっきりとした雨季と乾季に分かれており,乾季にはほとんど雨が降りません。
この公園には300万頭もの大型哺乳類が生息しています。その多くは草食動物であり,彼らの食料はイネ科の草なのです。イネ科の草は動物に食いちぎられても成長点は根元にあるため,次々と伸びていきます。このようにイネ科の草の高い生産性があって初めて東アフリカの動物王国は成立します。
ロッキー山脈の東側には面積130万km2の大草原地帯であるグレート・プレーンズが広がっています。この草原の主役となっている植物もイネ科のものです。ヨーロッパ人が北米に進出してくるまでここには体重が1000kgにも達するバイソンが数千万頭も生息しており,北米先住民の主要な食料となっていました。
この膨大な数の大型動物を支えていたのもイネ科の草の高い生産性でした。この地域の年間降水量は250-890mm程度であり,場所によっては森林化が可能です。しかし,東アフリカのサバンナと同様に草食動物は樹木の新芽を積極的に食べますので樹木は成長できません。そのため,樹木の少ない広大な草原が維持されています。動物たちは自分たちに都合の良い草原環境を自ら維持しているということができます。
草食動物は主に草そのもの,特に新芽を好んで食べます。しかし,イネ科の植物は種子に大量の栄養を蓄積しており,小鳥や小型哺乳類のような小動物の貴重な食料となっています。東アフリカのサバンナにはスズメの仲間のサンコウチョウが15億羽もの大集団を形成し,主としてイネ科の植物の種子を食料にしています。
イネ科の植物の中には相対的に大きな種子をたくさんつけるものもあり,約1万年前の人類が食料として利用するようになりました。おそらく,最初は栽培ではなく単なる採集であったと考えられます。
小麦やイネは狩猟・採集生活における食料の一つとして利用されました。しかし,人口の増大は必然的に食料問題を引き起こし,人類の祖先は採集から栽培に切り替えました。これが農業の始まりです。
このような有用植物の採集→栽培の変化は他の作物でも同じであったと考えられています。ユーラシア大陸の西では「小麦」が,東では「コメ」が栽培されるようになり,人類は農耕文明の時代を迎えます。5000年前には中米で「トウモロコシ」が栽培されるようになり,この三種類のイネ科の植物が現在まで人類の主要食糧となっています。
その他にも人類とつながりが深いオオムギ,ライムギ,モロコシ,テフなど穀物もイネ科に属しています。また,サトウキビ,タケなど馴染深い資源植物も多く含まれています。さらに,牧畜に利用される草の多くはイネ科のものです。人類と草原の動物はまさにイネ科の植物に支えられているということができます。
東アフリカ・サバンナの風景,画像は「さくらかふぇ神保町」から引用しました。岩手県ほどの広さのセレンゲティ国立公園には300万頭の大型動物が生息しており,陸上ではもっとも大型動物の生息密度の高いところとなっています。彼らの食料の大半はイネ科の草に頼っています。
イエローストーン国立公園のアメリカバイソン,画像は「ナショナル・ジオグラフィックス」から引用しました。アメリカバイソンは体重は1000kgにもなります。かってはグレート・プレーンズに数千万頭が生息していましたが,白人に狩られ一時は絶滅寸前まで数を減らしました。現在は自生地で数十万頭まで回復しています。かっての膨大なバイソンを支えていたのはイネ科の草の生産力でした。
タンザニアのセロス野生動物保護区でサバクトビバッタのように巨大な群れを作る「コウヨウチョウ(Red-billed quelea)」,画像は「ナショナル・ジオグラフィックス」から引用しました。スズメの仲間でほぼスズメと同じ大きさのこの鳥は世界でもっとも数の多い鳥とされており,彼らを支えているのはイネ科の植物の種子です。
イネ属には20数種の栽培種と野生種が含まれており,栽培種はアジアイネ(oryza sativa)とアフリカイネ( oryza glaberrima)に大別されます。アフリカイネは西アフリカのニジェール川の周辺のみで栽培されているローカル作物であり,一般的に「イネ」といった場合はアジアイネのことを意味します。
アフリカイネはアジアイネと交配は可能ですが,その結果できた雑種第1代はほとんど繁殖能力がありません。これは両者が近い種ではあるものの異なる種であることを意味しています。つまり,アフリカイネとアジアイネは遠く離れた地域で別々に栽培化された可能性が高いということです。
アジアイネの栽培品種は長い栽培の歴史と地域の環境に合わせて数万種の品種に分化していますが,大きくインディカ種とジャポニカ種に区分されます。世界的な生産量はインディカ種が85%,ジャポニカ種が15%となっています。ジャポニカ種はさらに温帯ジャポニカ(ジャポニカ)と熱帯ジャポニカ(ジャバニカ)に区分されます。これを整理すると下表のようになります。
・アジアイネ(oryza sativa)
・インディカ種(Oryza sativa subsp.indica)
・ジャポニカ種(Oryza sativa subsp.japonica)
・温帯ジャポニカ(Oryza sativa subsp.japonica)
・熱帯ジャポニカ(Oryza sativa subsp.javanica)
・アフリカイネ( oryza glaberrima)
アジアイネの栽培地域は温帯ジャポニカが日本と朝鮮半島,中国北部,熱帯ジャポニカはインドネシア,インドシナ半島山間部,インディカ種は中国南部からインドシナ半島,南アジアと比較的はっきり栽培地域が区分されています。
現在のアジアイネは非常に多様性に富んでおり,生物学的な系統に関しては「単一起源説」と「多起源説」があり,長い間の科学的な論争となってきました。
単一起源説ではジャポニカ種とインディカ種は共通の野生種から進化したものと考えています。多起源説では長江流域で栽培化された単系統の品種群をジャポニカと定義し,稲作文化の伝播により西方で新たに野生種から栽培化された複数の品種群をインディカと定義しています。最近ではジャポニカ種とインディカ種の遺伝子的な違いの大きさから多起源説が有力視されていました。
ところが,2011年に大規模な遺伝子の解析を実施した遺伝子研究グループによる調査結果から,アジアイネの起源は約8200年前の中国に遡ることができることが判明したという報告が出されています。
この報告によると,アジアイネの遺伝子に対する「分子時計」法による解析結果として,その起源は8200年前の「0ryza rufipogon 」の限られた集団に遡ることが可能であり,その後,3900年前にジャポニカ種とインディカ種に分岐したとしています。この分岐は種子が中国からインドに持ち出され,それがインドの野生種と交雑した結果であると推測しています。
この報告は長江流域でコメの栽培が始まったのは8000-9000年前であり,インドでコメの栽培が始まったのは4000年前とする考古学的考証とも合致するものなので一定の説得力があります。
とはいうものの,考古学の世界では一つの発見がそれまでの定説をあっさりと覆すことはしばしば起きますので,これで「単一起源説」と「多起源説」の論争が決着したわけではありません。
それでも,長江流域で栽培化された単系統の品種群がジャポニカであり,インディカは(ジャポニカの遺伝子を一部受け継いでいるかどうかは確定しませんが)4000年前に南アジアで栽培化されたという基本線は確定したようです。
主要コメ生産国の生産量と消費量(2008年),出典はUSDA(米国農務省)です。コメはアジアの多くの国々の主食となっており,最近ではアフリカでも消費が増加しています。しかし,中国,インドのような国は国内の作柄しだいでは輸出が停止される危うさもはらんでいます。コメの国際貿易はタイとベトナムだけに頼っている状況です。
世界の穀物生産量と貿易量(2008年),出典はUSDA(米国農務省)です。コメは世界生産量の7%に相当する3000万トンが国際的に取引されます。しかも,その多くは東南アジアの2カ国とインドに頼っており,大きな不安定要因を抱えています。1993年におけるコメの国際取引は1200万トンでしたが日本が250万トンを輸入すると国際価格は跳ね上がりました。日本にとっては国際価格が2倍になっても何の問題もありませんが,他の輸入国にとっては死活問題となります。
世界のコメ生産量および単収の増加率,出典はFAOSTATです。1963年から2003年までの世界のコメの生産量と反収の増加率を10年毎にまとめたものです。緑の革命により最初の30年間は反収の高い伸びが生産量の増加を後押ししましたが,1993年から2003年にかけての反収の伸びは明らかに小さくなっています。1年あたりの増加率は0.57%であり,人口増加(1.18%/年)に追い付かない状況です。
稲作の起源とは最初にイネを栽培化したことを意味します。そのため古代の遺跡から例えば炭化した籾が発見されたとしても,それが野生種の採集によるものなのか栽培によるものなのかを識別する必要があります。遺跡からプラントオパールのような証拠が見つかっても同じような検証が必要となります。現在までの考古学的な発見には次のものがあります。
● 雲南省では4400年前以上には遡れない
● 長江下流域の河姆渡,6500-7000年前の水田耕作遺構
● 長江下流域の草鞋山,6000年前の水田遺構
● 長江中流域の彭頭山,7000年前のもみ殻
現在までに発見されている直接的な証拠は7000年前の彭頭山遺跡ということになっており,長江中流域が稲作の起源地であるという学説が現在の主流となっています。中国人の研究者は長江中流域で9000年前としています。
この遺跡の中には広さが数haのものも含まれておる,かなり規模の大きな定住集落でした。また,土器も相当数発見されており,その中には煮炊きに利用したと思われる上部の狭くなったものも含まれています。
多くの彭頭山遺跡は湿地にあり,そこでなんらかの形でコメを栽培していたと考えられます。人々はこの地域に定住し,住居を構え,おそらくコメと魚を食料にして暮らしていたようです。
東アジでは世界最古級の土器が何ヶ所かで発見されています。
● 日本・青森県の大平山元1遺跡:1.6万年前
● 中国・江西省の洞窟遺跡:2万年前
● 東シベリア・グロマトゥーハ遺跡:1.5万年前
西アジアやエジプトで土器が使用されるようになったのはおよそ9000年前ですから,東アジアでの土器の使用は西アジアに1万年ほど先んじています。その反面,西アジアでは土器に先立って焼成煉瓦はありましたので,粘土を焼くと固くなることは知られていました。土器の必要性は食料の貯蔵と調理のためであり,西アジアでは小麦粉を焼く食文化ですのでその必要性があまりなかったからと考えるの妥当のようです。
それに対して東アジアの食文化では堅果のあく抜きと煮炊き(日本),雑穀の煮炊き(中国),魚油の精製(東シベリヤ)に土器は欠かせない道具となっています。このように稲作に先立った土器文化があったため,稲作の初めからコメを炊くあるいは茹でる文化が存在していたと考えられます。
現在でも東アジアではコメの炊き方において「炊き上げる(炊干法)」,「茹でる(湯とり法)」,「蒸す」という3種類の文化が共存しています。稲作の伝播はイネだけではなく炊飯の文化とセットになっている可能性が高いので,日本の稲作の起源を知るうえで貴重な情報をもたらしてくれるかもしれません。
彭頭山遺跡はそれ以前のような洞穴遺跡ではなく開地式遺跡であり,かつ規模も格段に大きくなっています。そのような規模の大きな集落が突然出現したとは考え難いので,もっと以前から小規模な稲作集落があったのではないかと推定されます。そうすると,稲作の起源はさらに遡ることができます。
また,彭頭山遺跡は湿地に位置していることから,栽培形態は湿地という水田類似環境を利用していたという仮説も出されています。この仮説は従来の陸稲→水稲という学説を引っくり返すものです。稲作の起源地はほぼ長江中流域とということで確定したようですが,時期と最古の栽培方法については今後も研究が進んでいくことでしょう。
稲作の起源地,現在までに発見されているもっとも古い稲作の痕跡は長江中流域の彭頭山遺跡(7000年前)であり,おそらく9000年前に遡ると考えられます。長江下流域の河姆渡では6500-7000年前の水田耕作遺構と大量の炭化した籾が発見されています。ここで発見された籾には熱帯ャポニカが混ざっていました。
日本の稲作は縄文時代に始まったという考え方が主流となっています。かっては稲作の開始が縄文時代と弥生時代を分けるポイントになっていましたが,現在では本格的な水田稲作の開始に変わっており,縄文時代は1万5000年前から2500年前,弥生時代は2500年前から1700年前とされています。しかし,縄文,弥生,古墳時代の区切りは研究者により相当異なっています。
日本では2500年前に本格的な水田稲作が開始されました。これは渡来人がもたらしたイネ(温帯ジャポニカ)と水田栽培技術によるものです。それに対して縄文時代に栽培されていたイネは熱帯ジャポニカとされています。
もちろん一部の遺跡を除き縄文時代のイネや籾が大量に発見されているわけではありません。少数の炭化した籾が発見されたり,土器等に籾痕が認められてもそれは外部から持ち込まれたという可能性もあり,イネを栽培していたという確かな証拠にはなりません。
ところが古代の稲作を判断するうえでとても都合の良い方法が見つかりました。それは「プラントオパール分析法」です。イネ科の植物はケイ酸(SiO2,岩石やガラスの主成分です)という物質をガラス質の珪酸体の形で特定の細胞に蓄積する性質があります。
珪酸体はいってみればガラスのようなものですから,土中でも分解されることなく残留します。しかも,珪酸体は植物の種により異なった形状をもっていますので,種と形状の一覧表を作成すると,ある地層に含まれる珪酸体を分析することにより,当時,どのようなイネ科の植物がどの程度存在していたかを判定することができます。この方法は古い時代の植生変遷を解明する「花粉分析法」と同じものです。
この「プラントオパール分析法」を確立した藤原宏志の苦労話と実際の分析結果については「稲作の起源を探る(岩波新書)」に詳しく記されています。1990年代に日本列島の縄文時代の地層および土器中のプラントオパールを分析したところ,古いもので縄文中期のものからイネのプラントオパールが発見されています。
2005年には約6000年前の縄文前期の地層から大量のプラントオパールが発見されています。これは外部からの持ち込みではなく,明らかに栽培されていたことの証拠となります。このとき発見されたのが「熱帯ジャポニカ」のものだったということです。
長江下流域の河姆渡遺跡は6500-7000年前とされていますので,それから500-1000年ほどで日本列島に伝播したことになります。このあまりにも早い伝播は稲作の起源地の周辺から直接もたらされたことを強く示唆しています。
NHKスペシャル「日本人はるかな旅」では長江下流域で稲作と漁労を行っていた人々が九州まで航海(漂着)した可能性について言及しています。「日本人はるかな旅」ではさらに,発見されたプラントオパールが「熱帯ジャポニカ」であったことから,焼畑による粗放農業で他の雑穀と一緒に栽培されていたと推定しています。
実際,プラントオパールの分析および炭化種子の分析により,多くの遺跡でイネ以外にも雑穀(アワ,ヒエ)やヒョウタン,マメ,アズキ,焼畑やその周辺に生育する雑草や樹木類の痕跡が見つかっています。
弥生時代の始まりとされる2500年前には水田稲作技術をたずさえた「渡来人」がやってきます。このルートも朝鮮半島経由,中国大陸沿岸から直接やってきたという2つの学説が並立しています。個人的には日本人と朝鮮人の遺伝子の差異の大きさから中国大陸説を支持したいと考えています。
ともあれ,彼らの持ち込んだイネは温帯ジャポニカ種でした。しばらくの間,在来種の熱帯ジャポニカと新参の温帯ジャポニカは焼畑と水田に棲み分けていたと考えられます。そして,両者が自然交配した結果,早稲の品種ができました。
この品種は収穫までの期間が短く,高温時期の短い東北地方でも栽培可能となりました。その結果,新品種の栽培はきわめて短期間のうちに青森県まで到達しています。この熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの混交が生みだした新品種が日本のイネのルーツとなりました。
それから約2000年が経過し,稲作は津軽海峡を越え,現在では北海道でも稲作は行われるようになりました。これは世界的にみても最高緯度の稲作ということができます。
その一方で,西日本は夏場の異常高温に悩まされることになりました。日本のコメは開花時期に最高気温が35℃以上になると受粉確率が下がる「高温不稔」を起こしたり,でんぷんの入りが悪い乳白米となります。地球温暖化がもう少し進行すると,西日本はジャポニカ種の栽培不適地になる可能性があります。
プラントオパールの光学顕微鏡写真,画像は「佐賀県教育委員会」から提供されたものとなっており,一部変更しています。イネ科の標本化された種についてはその形状から種を特定することができます。イネの場合,大きさは50ミクロン(0.05mm)程度です。
熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカ,画像は「ちょっとピンぼけ」というサイトから引用し加工しました。温帯ジャポニカは特徴は@背が低い(約100cm),A葉や穂が短い,B一株あたりの穂数が多いことであり,熱帯ジャポニカの特徴は@背が高い(約150cm),A葉や穂が長い,B一株あたりの穂数が少ないことです。
中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」,画像および下記の文章は佐藤洋一郎「稲のたどってきた道」より引用しました。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。中国では90品種を調べた結果,61品種に「RM1-b」遺伝子を持つ稲が見付かったが,朝鮮半島では55品種調べても「RM1-b」遺伝子を持つ稲は見つからなかった。なお,現在の日本に存在する稲の遺伝子は「RM1-a」,「RM1-b」,「RM1-c」の3種類となっている。
日本ではインディカ種は長粒品種,ジャポニカ種は短粒品種という籾の形状による分類が広く浸透していますが,ジャポニカ種,インディカ種のどちらにも長粒品種と短粒品種が混在しており,籾の形状による分類は正しくはありません。
熱帯ジャポニカ,温帯ジャポニカ,インディカの代表的なコメの形状,画像は「in-aVa」から引用しました。ここに掲載したものは代表的なコメの形状であり,例えばインディカ種のコメがすべて細長いわけではありません。
イネを水稲(すいとう)と陸稲(おかぼ)に分類することもあります。水稲は水田で栽培し,陸稲は主として焼畑で栽培されてきた経緯があります。この差は栽培環境および栽培文化によるもので,イネ自身の植物学的な差異があるわけではありません。イネは水環境に相当程度適応する能力をもっており,陸稲を水田で栽培することもできますし,水稲の品種改良により畑環境で栽培できる品種を作ることもできます。
東南アジアは大陸部および島嶼部からなり,多様な環境を有しています。それぞれの地域において人々はその環境にもっとも有利な品種を栽培してきました。
東南アジアの大陸部の平地部(ミャンマー,タイ,カンボジア,ベトナム)では水田稲作により熱帯に適して収穫量の多いインディカ種が栽培されています。しかし,平地の少ない岳部では斜面を利用した焼畑移動耕作が盛んであり,そこでは熱帯ジャポニカが栽培されています。
島嶼部では豊かな火山灰地の土壌をもったジャワ島やバリ島では熱帯ジャポニカによる大規模な水田耕作が行われています。それに対して熱帯雨林に覆われ貧栄養土壌のボルネオ島では焼畑移動耕作により熱帯ジャポニカが栽培されています。
フィリピン・ルソン島の平野部の水田ではインディカ種が栽培されており,北部の山岳地帯では大規模な棚田を造成し,寒さに強い熱帯ジャポニカを栽培しています。このようにイネの品種が栽培方法を決めるのではなく,その地域の環境,人口動態にもっとも有利な品種と栽培方法が選択されたことが分かります。
あえて陸稲に言及するとすれば,ある種の熱帯ジャポニカは背が高く,穂が少ないという野生種に近い特徴をもっているため,焼畑という雑草との競合を強いられる環境では有利に働きます。
それに対して中国,韓国,日本は温帯ジャポニカによる水田栽培がほとんどです。これは地域の気候に適合していることと,多くの人口を扶養するため収穫量の高い水田耕作となったものです。
そのため,これらの国の山間地では大規模な棚田による水田耕作が行われています。特に中国南部では力の弱い少数民族は山間地に追いやられることになり,そこで人口を扶養するため何十世代にわたって棚田を造営してきており,感動的な光景が随所に見られます。
インドネシア・ボルネオ島東側,森に回復途中の焼畑跡です。マハカム川の中流域には先住門民のダヤクの人々が焼畑で熱帯ジャポニカを栽培しています。地力が急速に低下するので2-3年後には放棄され20年ほどで元の森に戻ります。
中国・雲南・大孟龍の水田では温帯ジャポニカが栽培されています。田植えによる栽培ですが,株の間隔は日本に比べてずっと狭くなっています。
栽培イネの中には「浮きイネ」と呼ばれる特殊な能力を有するものがあります。タイの中央平原はチャオプラヤ川が流れ水に恵まれた米どころです。しかし,雨季の終わりには上流で溢れた水がゆっくりと中央平原に押し寄せてきます。2011年の大洪水はまだ記憶に新しいですね。
ここからチャオプラヤ川の河口近くに位置するバンコクまではほとんど標高差がありません。そのため水は数週間にわたって地域を水浸しにします。そのような環境では「浮きイネ」が栽培されています。
この品種は水の高さに合わせて茎を伸ばすことにより水没をまぬがれます。水深が2mの場合は2m以上になりますので水が引いたら倒伏します。ところが,地面についた節から根を出して立ち上がりますので,普通の品種のように収穫することができます。
この品種は1年中水のある環境に適応した野生種の特徴をある程度引き継いでいるようです。1年中水のある池のような環境では種子を作っても水中の泥の中では発芽することはできませんので「種子繁殖」は難しくなります。
そのため,種子以外に自分自身にも栄養を残しておくように進化しました。その結果,このイネは年を越しても枯れずに,倒れて水底の泥に触れた節から新芽と根を出して繁殖します。このような方法を「栄養繁殖」といいます。
一般的に野生種のイネは一年のある時期に水が引く環境では「種子繁殖」を,水の引かない環境では「栄養繁殖」を選択します。これが,野生稲に1年生のものと多年生のものがある理由とされています。
最古の栽培種であるジャポニカ種は多年生の形質をもち,インディカ種は1年生の形質をもっていますので,少なくともインディカ種は1年生の形質をもつ野生種の遺伝子を引き継いでいます。
ジャポニカ種は多年生の形質を引き継いでいますので,刈取り後に切り株から新しい側芽が成長し「ひこばえ」と呼ばれています。東南アジアではこのひこばえから短期間で収穫することができますが,収穫量は最初に比べてずいぶん少なくなります。日本の栽培環境では側芽は出るものの寒さのために枯死します。
中国・雲南・元陽の棚田では温帯ジャポニカが栽培されています。少数民族の人々は平地を追われ,山間の斜面を利用し数十世代をかけて奇跡のような景観を造り出しました。
バングラデシュ,フェニではインディカ種が栽培されています。三つの大河の河口デルタに位置するバングラデシュは肥料無しでも収穫することができ,かっては「黄金のベンガル」と呼ばれていました。
南インド,ハッサンの町でいただいたビリヤニ(チキン入り炊き込みごはん)です。山盛りのごはんをバナナの葉の上に移動させ,右手で食べることになります。すでにチキンは食べてしまい,骨はよけてあります。このような炊き込みご飯やカリーではインディカ種がよく合います。日本のごはんは粘りがありますので手で食べるのは困難です。コメの性質,調理法,食器などが一体となって食文化を形成しています。
もち米(糯米)とうるち米(粳米)はコメに含まれるでんぷんの差によるものです。でんぷんはブドウ糖が多数結合したものであり,結合形態により「アミロペクチン(分枝鎖型)」と「アミロース(直鎖型)」の2種類があります。
コメにはこの2種類のでんぷんが含まれており,アミロペクチンは加熱されると粘り気をもちますので,その含有量が高いと粘り気のあるもちもちとした食感,含有量が少ないと粘り気の少ないパサパサした食感となります。
どちらがおいしいと感じるかは食文化により異なります。日本人はごはんとおかずを分けて食べる文化ですのでもちもちとしたごはんを「美味しい」と感じるようです。しかし,世界的にみるとこのもちもち好みは少数派となっています。
東南アジアやインドではカリーに代表されるように野菜や肉をスパイスで炒めたり煮込んだものをごはんの上にかける,あるいは混ぜ合わせて食べる文化であり,このような食文化では粘り気の少ないごはんが好まれます。その結果,手で食べる文化が育っています。また,ヨーロッパのようにコメを野菜の一種として調理する文化においても粘り気の少ないものが好まれます。
現在のジャポニカ種はおよそアミロペクチンが8割,アミロースが2割となっており,インディカ種ではアミロペクチンの含量が相対的に少なくなっています。これはコメの栽培の歴史において,食文化の好みに合わせて品種選択あるいは品種改良をした結果であり,2つの種の生物学的な特徴を表すものではありません。
ジャポニカ種,インディカ種のどちらにも突然変異によりアミロース合成遺伝子が正常に機能しないため,アミロース含量が0%(アミロペクチン含量が100%)のものがあります。これがもち米(糯米)であり,蒸してつくと強く粘る性質をもっています。
このようなアミロース遺伝子欠損を「モチ性」といいます。モチ性はイネだけではなく世界中で栽培されている他のイネ科の穀物にも見られますが,モチ性品種が選択的に栽培されている地域は東南アジアや中国南部の照葉樹林帯に限定されています。
もち米(糯米)は必ずしもついてモチにして食べられるだけではありません。日本でも蒸したもち米(糯米)をオコワや赤飯として食べるように,タイの東北部やラオスでは蒸したもち米(糯米)をごはんとして食べる文化が主流となっています。
でんぷんはブドウ糖の重合体(たくさん繋がったもの)です。ブドウ糖は分子が小さすぎるので植物はそれをたくさん結合させてでんぷんの形で保存します。コメには両者が混ざっており,アミロペクチンの割合が高いと粘りが出てきます。
中国・貴州省の「肇興(サウシン)」という町は人口のほとんどがトン族の人たちで占められており,現在でも女性の民族衣装や伝統的な家屋が残されています。たまたま結婚式と民族芸能のイベントが重なった日に滞在していましたのでとてもラッキーでした。結婚式のご飯は米線(コメ製の麺)と蒸したもち米でした。旅行者の私も伝統的なハレの食事をいただくことができました。
赤米,黒米,緑米などの色素米はイネの系統分類ではなく,品種を分ける概念です。インディカ種にもジャポニカ種にも色素米はあります。赤米はタンニン系の色素,黒米(実際には濃い紫色)はアントシアニン系の色素,緑米はクロロフィル系の色素の色です。このような色は玄米の最表層にある果皮,種皮,糊粉層に含まれています。したがって,精米すると色は薄くなっていき,完全に精米すると白米になります。
野生種のイネはほとんど赤米であり,私たちが白米として食べているコメも玄米の状態ではベージュ色あるいは薄い茶色をしています。そもそも玄米の「玄」は暗いあるいは黒色を意味しており,玄米に色がついていることは自然の姿です。
タンニンやポリフェノールの一種であるアントシアニンは特別のものではなく,植物には普遍的に存在するものです。お茶の渋みはタンニンに由来するものであり,紫系のブドウの果皮はアントシアニンによるものです。コメの果皮や種皮にタンニンやアントシアニンが含まれることは特別のことではありません。
果物や野菜において果実の色は動物に対するシグナルの役割をもっています。植物は自分では移動できませんので分布域を広げるため種子を移動させる戦略をもっています。
ある種の植物は種子を軽くして風によって運んでもらう方法を選択しました。種子が完熟すると物理的な刺激により種子を包む莢がはじけて種子を遠くに飛ばすものもあります。中には種子を包む果実を大きくして動物の食料となる道を選択したものもあります。
いわゆる果実をつける植物の大半は動物に食べられることにより種子をより遠くに運んでもらう戦略をもっています。そのため種子が充実するタイミングに合わせ果実を熟させ「そろそろ食べごろですよ」というシグナルを出します。それが果実の色ということになります。
種子が未熟な時期はめだたない緑色をしており,果実も固くて,にがい,酸っぱいといった食べられないための仕掛けをもっています。そして,種子の充実に合わせ,果実も柔らかくなり,赤,黄色,オレンジなどの色に変わり,甘みや良い香りで動物たちにアピールします。このような植物にとっては色素は子孫を繁栄させるための戦略に欠かせないものです。
しかし,イネの場合は動物に種子を運んでもらいことは必要ですが,食べられてしまっては元も子もありません。少なくとも色素は動物に対する食べごろサインではないのは確かです。
多くの植物は葉や種子にタンニンを含んでおり,その理由の一つは動物による食害を防ぐためであると考えられています。縄文人はドングリを食料にしてきましたが,コナラ属のドングリは3-5%ほどのタンニンを含んでおり,アク抜きをしないと渋くて食べられません。
野菜もタンニンの含有量が少ない野生種を品種改良してきた歴史があります。赤米に含まれるタンニンは動物の食害を防ぐためであり,また種皮を固くする働きをもっていると考えられます。
黒米(紫米)は種子以外にも相対的にたくさんのアントシアニンをもっており,強い紫外線から内部組織を守る,一種のフィルターとして働いていると考えられます。しかし,種子は丈夫な籾殻によって保護されているのでアントシアニンを必要とする理由は分かりません。
野生種のイネは籾の先端部に禾・芒(ノギ・ノゲ)という針状の突起をもっています。この突起はイネ科の多くの植物に見られ,動物に付着して籾に包まれた種子を遠くに運んでもらうためと考えられています。同時に完熟した籾は穂から簡単に離れる性質(脱粒性)ももっています。イネを栽培する上では芒や脱粒性は栽培の障害になりますので品種改良が行われてきました。
有色素米は芒をもつものが多く,野生種の古い形質を残しているので,「古代米」と呼ぶことが多いようです。「古代米」という言葉の響きはなんとなくロマンが感じられますし,それに加えて色素米の色素そのものが健康に有用であり,白米に比べてミネラルの含有量が高いため健康食品を標榜している側面もあります。
有色素米は日本では神事などと結びつくなど古い歴史をもつことが多いのは確かですが,色素の少ないコメに比べて日本で本格的に水田耕作が普及した時代のものに近いという証拠はありません。現在でも中国南部では有色素米が普通に生産・流通しており,特別のものというわけではありません。
とはいうものの日本の有色素米の多くは熱帯ジャポニカ種であり,その限りでは古代米と呼ばれる資格はありそうです。ところが,日本では有色素米はどちらかというと異端種として迫害されてきた歴史があります。
イネはほとんど自家受粉で結実しますが,ある確率で起こる自然交配も避けられません。隣の水田で有色素米を栽培されると,雑種が生じることになります。そのため,一般のコメの品質を維持するためには,有色素米はじゃまものとなります。
明治に入ってからはコメの等級に影響したため,有色素米は次々と姿を消し,幻のコメとなっていきます。ところが最近になって,幻の有色素米が古代米として高い商品価値をもつようになったり,あるいは町おこしの材料となっています。
また,野生種に近い形質を残すイネは生命カが強く,荒れ地で無肥料・無農薬でも丈夫に育ち,病害虫や干ばつにも強い性質を持ちます。このような遺伝形質は現在の品種の改良に寄与すると考えられており,貴重な遺伝子資源としての側面をもちます。
同様のことはアジア各地で栽培されていたその地域に適合した多くの品種についてもいえます。数万種とされるそれらの品種は多くの遺伝子資源を含んでおり,その中には今後の品種改良には欠かせないものもあるかもしれません。数千年間にわたり農民たちが蓄積してきたコメの生物多様性が失われることは人類にとって大きな損失となる可能性は決して小さくはありません。
同じ日の肇興の宿では蒸した黒米のごはんをいただくことができました。玄米ですので本当に真っ黒です。こちらももち米であり,食味はまったく違和感がありませんでした。
インドネシア・スマトラ島東部のブラスタスギの町で見かけたものです。バナナの葉にくるんで蒸したものであり,白いものと紫色のものがありました。紫色のものは熱帯ジャポニカのもち米であり,白い方は判断がつきませんがおそらくもち米だと思います。東南アジアではもち米はほとんど蒸して食べる文化ですが,うるち米を竹筒に入れて直火にかけて蒸す文化もあります。
インドネシア・ジャワ島のバンドンの近くに「チパナス」という温泉保養地があります。宿の中に温泉が引かれており,西洋式の湯船の中で温泉を楽しむことができます。町の周辺は水田や果樹園が広がっており,そこで少し黒っぽいイネを見つけました。
近寄って観察しているみると籾から黒い芒が出ています。芒(のぎ)はイネ科の植物の種子がもっている針のような突起であり,動物などに付着しやすい性質をもっています。これは動物を媒介して種子を広く伝播する戦略です。
コメの野生種や古代種にはちゃんと芒が付いていましたが,稲作においては芒は触るとチクチクするし,作業の邪魔にもなりますので,近代品種では芒がないように品種改良されています。芒の色は玄米の色と類似するはずですので,ここのコメは有色素米と推定できます。
日本で栽培されている赤米,画像は「熊本の花所」から引用しました。籾から赤いい芒が出ています。色彩的に赤が目立ちますので赤いじゅうたんを敷いたような不思議な水田が広がっています。
人類がイネの野生種から良い形質のものを選び出し作物として栽培を開始した時期は正確には分かっていません。考古学的証拠から少なくとも7000年前(おそらく9000年前)には栽培が始まっており,それ以来,コメはアジアモンスーン地域の主要な食糧となっています。
世界史の大半を通して南アジア,東南アジア,東アジアは世界でもっとも人口密度の高い地域となっており,それは高い生産性をもつ稲作とモンスーン気候に支えられたものでした。
西暦1700年における日本と英国の推定人口はそれぞれ2300万人,500万人でした。現在の英国は日本の1.5倍の耕作地面積,さらにその数倍の牧草地を有しています。1700年の時点でもその比率はそれほど変わらないと推定できます。
にもかかわらず,当時の日本は英国の2.6倍の人口を扶養していたことはアジアモンスーン地域の稲作の高い生産性をそのまま反映しています。現在では稲作はアフリカ,南米にも広がっており,世界人口の約半分がコメを主食としています。
現在のコメの世界生産量(籾ベース)はおよそ6億トンです。この数値は籾ベースのものであることに注意しなければなりません。コメは籾→玄米→白米と加工が必要な穀物であり,それぞれの段階で重さが変わります。籾重量を100とすると玄米はおよそ70-75,白米はおよそ65となります。玄米に換算すると世界生産量は4.5億トンとなります。
玄米100gのカロリーは約350kcalですので,成人の1日の必要カロリー2500kcalを玄米だけで取るとすればおよそ700gとなります。1年では約260kgとなります。玄米の糠や胚芽の部分にはビタミン,ミネラル,食物繊維が豊富に含まれており,すぐれた栄養食品です。
1年間に250kg(1日680g=4.56合)の玄米を食べると必要なカロリー(2500kcal/日),たんぱく質(54g/日),食物繊維,ビタミンB群,ビタミンE,葉酸,鉄分,マグネシウム,マンガン,セレン,リン,亜鉛を摂取することができます。
これに脂肪とビタミンA,ビタミンCなどを副食で摂取すれば十分な栄養をとることができます。玄米を「250kg/年」食べると「2500kcal/日」のカロリーと必要な栄養素の大半が摂取できるとすると分かりやすいと思います。小麦ではこのようなわけにはいきません。
コメはこのようにすぐれた栄養食品なので従来のアジアモンスーン地域だけではなく,アフリカ,ヨーロッパ,北米,南米に広がっています。主要コメ生産国の生産量と消費量(2008年)をみると中国とインドの人口大国で半分以上を占めており,アジア以外ではブラジル,米国,ナイジェリア,エジプトなどが顔を出しています。
それぞれの国は多くの国内人口を抱えていますのでコメの大半は自国内で消費されることになります。1人当たりの年間消費量はカンボジア,ラオス,ベトナム,バングラデシュでは200kgを超えており,タイ,インドネシア,フィリピン,中国などでも100kgを超えています。
インド北部,中国北部は小麦が主食になっていますので数値は小さくなっており,コメを主食にしている地域では200kgに近い数値となるはずです。日本でも1970年代前半までは100kgを上回っていましたが,食生活の変化および軽労働化により現在は65kg程度になっています。
これを100kg程度まで向上させると1年間に400万トンの消費が増える計算であり,ちょうど減反分を吸収することができ,かつ食料自給率(カロリーベース)を少し向上させることができます。
籾米の構造,「籾」は果物でいうと果実に相当し,「籾摺り」により内部を保護している最外皮の籾がら(頴)部分を除去したものが「玄米」です。「玄米」の玄は暗いあるいは色が濃いことを意味します。玄米の表層である果皮,種皮,糊粉層には程度の差はあるものの内部を保護するための色素を含んでおり,それが玄米の色となっています。
一般的に玄米をそのまま炊飯すると固くて食味もよくありません。そのため,玄米の表層部を削り落とし,白米にします。この工程を「精米」といい,削り取る程度により「五分づき」,「八分づき」などと呼ばれています。
白米とは「十分づき」に相当し,果皮,種皮,糊粉層および胚芽の部分を完全に除去した状態をいいます。精米で除去された部分にはビタミンやミネラルなどがたくさん含まれていますので,精米は食味のためにコメのもっている栄養分を除去する工程ということができます。
栄養素 | 玄米 | 白米 | 摂取目標 |
---|---|---|---|
エネルギー(kcal) | 370 | 365 | |
炭水化物(g) | 77.2 | 80.0 | |
食物繊維(g) | 3.5 | 1.3 | 13.5 |
脂肪(g) | 2.92 | 0.66 | |
たんぱく質(g) | 7.94 | 7.13 | 60 |
水分(g) | 10.4 | 11.6 | |
ビタミンA(μg) | 0 | 0 | 850 |
ビタミンB1(mg) | 0.40 | 0.07 | 1.4 |
ビタミンB2(mg) | 0.093 | 0.05 | 1.6 |
葉酸(μg) | 20.0 | 8.00 | 200 |
ビタミンC(mg) | 0 | 0 | 100 |
ビタミンE(mg) | 1.2 | 0.11 | 7 |
カルシウム(mg) | 23 | 28 | 800 |
鉄分(mg) | 1.47 | 0.8 | 7.5 |
マグネシウム(mg) | 143 | 25 | 310 |
マンガン(mg) | 3.74 | 1.09 | 4.0 |
セレン(μg) | 23.4 | 15.1 | 55 |
リン(mg) | 333 | 115 | 700 |
カリウム(mg) | 223 | 115 | 2000 |
亜鉛(mg) | 2.02 | 1.09 | 11 |
玄米および白米の100gあたりの栄養価,摂取目標は「第6次改定日本人の栄養所要量」と「東京都福祉保健局」のデータが混在しており,相互に合わない数値があります。いちおうの目安として掲載します。
●土づくり
前年の晩秋か冬を越した春先に行います。秋の収穫はほとんどの水田でトラクターが使用され,刈取りと脱穀を同時並行で行います。稲わらは小さく切られて刈取り後の水田にまかれます。したがって,収穫後の水田には切り株と稲わらが残されます。さらに,籾摺りで出た籾殻もそのままもしくは炭化させて水田に戻されます。
これらは次の田植えまでには腐食させる必要がありますので土と混ぜるためにトラクターで「荒起こし(天地返し)」をします。水を抜いた水田の土は塊になりますので,それを砕き畑のような状態にします。さらに田植えまでには水を入れ,土をさらに細かく砕き,表面を滑らかにします(代かき)。
この土づくりのため収穫の少し前から田植えの少し前まで水田は水を抜かれ,何回もトラクターが入ることになります。田植えから収穫まではだいたい4か月弱ですので,現在の水田は1年の半分は水の無い状態となります。
それに対して「不耕起栽培」という水田の土を耕さない農法があります。この農法は収穫後も水田に浅く水を入れる(冬期湛水)と組み合わされることが多く,一年の大半を水田環境にしておき,土を起こすことなく,そのまま前年の切り株の間に田植えを行います。
この農法では固い水田に田植えをするわけですから,苗の根を丈夫に育成する必要があります。この苗は固い水田にも大きな根を張り,全体として丈夫なものとなり,病害虫に強くなります。言ってみれば,通常の過保護の農法ではなく,野生の強さを引き出す農法です。
一年の大半が水のある環境であり,土地の物理的な擾乱はありませんので自然環境に近くなります。水田では多くの微生物や小動物が豊かな生態系を作り,化学肥料と農薬なしで稲作をすることができます。
●苗作り
苗を作るためにはまず健康で胚乳の充実した種籾(たねもみ)が必要です。前年収穫されたものをまず「塩水選」により選別します。塩水の比重は1.13(水10リットルに塩2.1kg)であり,胚乳(でんぷん質)の充実していない籾は浮きあがりますのでそれらを除去します。
種籾は病気の原因となるカビや細菌,あるいは害虫などに汚染されていることがありますので薬品液(殺菌剤+殺虫剤)に浸漬して消毒する必要があります。農協ではこのような消毒済みの種籾を販売しています。薬品の代わりに60度のお湯で10分間ほど浸漬することにより消毒処理することもできます。
これで事前準備はできましたので種籾を水に浸して発芽をうながします。発芽までの必要時間は水温と日数の積が100℃・日とされており,10℃では10日,20℃では5日の見当です。しかし,水に浸しただけでは籾による発芽の個体差が出てきます。
そのため,70℃・日あたりで発芽最適温の32℃のお湯に1日浸漬します。この温水による浸漬ですべての籾の発芽が揃います。この発芽と苗の成長がそろうということは田植えをするためには重要な条件となります。育ちの良い苗と悪い苗が混在していては田植え後の水管理なども難しくなります。
田植えの時期は地域により異なり,だいたい5月の初旬から下旬に行われます。苗を育てるためには40日ほどが必要ですので,田植えから逆算して「播種」を行います。苗を育てる環境には水田の一部を囲ってそのまま昔ながらの苗床にするものと育苗箱を使用するものがあります。現在の田植えはほとんど田植え機を使用しますので機械に合わせた育苗箱で育てます。
●田植え
田植え機を使用した場合では味気ないので昔ながらの手作業の田植えについて説明してみます。田植えが機械化される以前は,水田の一部を苗床にして,苗を育てます。成長した苗を苗床から引き抜き(苗とり),わらでまとめて束を作ります。この苗の束をいくつか腰に取り付けたかごに入れ,左手に一束を持ち,右手で2-3本あるいは4-5本を取って植えていきます。
このとき横方向と縦方向が一直線になり,しかも均等な間隔にする必要があります。これは除草や刈取り作業を効率的に行うためです。そのため,植える場所に目印が必要があり,「田植型枠機」,「田定規」のようなものを使用して泥田にラインを引いたり目印を置くようにします。
また,縦方向の目印に竹を立て,横方向に縄を張って目印とするという方法もあります。このように整然とした田植えは明治時代からのもので,江戸時代までは目見当で植えていました。
この準備作業が終わると一家総出で田植えとなります。一家の水田は育稲管理の都合上,同じ状態になっていることが望ましいので田植えはできるだけ短時間で終わらせ,稲の成育状態を合わせる必要があります。田植えは時間との戦いとなります。
田植えのように短期間に集中した労働力が必要なとき,「結(ゆい)」と呼ばれる地域の助け合いが機能します。近所の人々が応援にかけつけ,労働力を集中して短期間で田植えを済ませます。
1反(10アール)の面積は1000m2ですので32mX32mといったところです。一般的な目安は列の間隔(条間)が30cm,株間は20-25cmくらいとされていますが計算しやすいように条間,株間とも30cmで植えるとすると約11,000株となります。これだけの株数を手で植えるとしたらどのくらいの時間がかかるか素人なりに計算してみました。
30cm間隔では手の届く範囲は5株分ですので作業は横方向に5株を植えて一歩前に(後ろに)進みます。1株当たりの時間を5秒とすれば5株を植えて一歩移動して30秒ということになります。このペースで機械的に植えていくと1分間で10株の計算になりますので,1.1万株では1100分=18時間となります。
実際にはこのようなペースをずっと維持するのは困難であり,苗の運搬などもありますので25時間(人・時間)といったところでしょう。一町歩(10反)では250人・時間となり,10人で作業しても25時間はかかる計算となります。田植えを短時間で終わらせるためには相互扶助の仕組みが必要となるわけです。
現在では田植え機が導入されており,ハウスから育苗箱を取り出し,田植え機にセットします。これで株間20cmでも1反を2時間くらいで済ませることができます。手植えは25時間,田植え機では2時間であり,機械の使用による農作業時間の軽減がどれほど大きなものであるかが分かります。
●育稲管理
田植え後の初期管理でもっとも重要なのは水管理です。まだ幼い稲は根がしっかりしておらず,寒さにもそれほど耐性がありません。寒冷地では田植え時の平均気温は低いため,水の保温効果を生かす水管理が必要です。
それに対して,苗を十分に育ててから田植えをする栽培方法もあります。特にポット型の育苗箱を利用するケースは苗床の土と一緒に植えつけられますので田植えの直後から水深を深くすることができます。これは雑草対策としてはとても有効です。
田植えから2週間ほどで根がなじんで新根が発生して水分や栄養分を十分吸収できるようになります。この根がしっかりするすることを農業用語では「活着」といい,その後はどんどん成長します。丈を伸ばすとともに葉を増やしていきます。また,親茎(主茎,主稈)から枝芽が出て茎を増やしていきます。これを「分けつ」といいます。
農家はそれぞれの栽培方針に合わせて施肥を行います。大まかに施肥には2通りの方法があるようです。一つは育稲の初期と晩期に行う「V字型」であり,もう一つは中間期に行う「逆V字型」です。長い歴史をもった日本の稲作ですが,現在でも地域環境に最適な農法が工夫されています。それに対して自然農法や不耕起栽培では田植え後の施肥は行いません。
分けつが進み1本の稲は多いものでは十数本の茎をもつようになります。1本の茎は1本の稲穂をつけ,1本の稲穂にはおよそ50-150粒の籾がつきます。当然,立派な茎には立派な稲穂がつき,たくさんの籾がつきます。
田植えの時に一株あたり何本の苗を植えるか,株間をどの程度あけるかはは栽培方針により決まります。1本植えの場合は分けつ数は大きくなり,2本植え,3本植えと数を増やしていくと1本当たりの分けつ数は減少しますが,総茎数(穂数)は増えます。
また,株間をあけると太陽光が株の根元まで入るため生育はよくなりますし,風が通りますので病気にかかりづらくなります。農家はどうすれば丈夫で単収の高いコメ作りができるか,地域の環境に合わせて栽培方法を工夫しています。
●出穂
稲は分けつにより茎数を増やし,同時に茎の上部では次々と新しい葉をつけて背を高くしていきます。しかし,出穂の30日ほど前になると新しい葉は作られなくなり,代わりに穂の元を作り始めます。
それぞれの茎で最後に作られた葉つまり茎のいちばん上につく葉を「止葉(とめは)」いい,親茎の場合は12枚あるいは13枚目となります。このため,親茎の葉数を数えることにより,葉の形成期から穂の形成期に移行していることを知ることができます。
茎の先端部には幼穂が形成され,出穂の10-12日前には雄しべや雌しべが準備され,茎の先端部は伸びるとともにふくらんできます。これを「穂ばらみ期」と呼んでいます。このふくらみから出穂が近いことを知ることができます。
田植えから75日ほどで止葉の間から淡緑色の穂が顔を出します。これが「出穂」です。穂の長さは20cmほどであり,8-10の節があり,この節から一本ずつ枝梗(一次枝梗)を出し,各枝梗からはさらに第二次の枝梗が分かれています。これらの枝梗に花がつきます。
稲の花は2枚の緑色の頴(えい)に包まれています。この頴は開花時に開き,受粉後には再び閉じ,種子の成長に合わせ硬く黄色になってもみ殻となります。頴は花を保護するとともに種子を保護する役割を果たしています。
稲は出穂するとその日のうちに穂の上部の花から順次開花します。開花は数時間で終わり,その後頴は閉じます。稲は風媒花ですが,実際には開花の直後に受粉(自家受粉)が行われてしまいます。
稲は自然交配(他の花の花粉が付く)することはまれであり,新しい品種を作るための人工交配には特別の技術が必要です。人工交配では花が開く前に母親となる稲の穂を43℃のお湯に7分間漬けて花粉が機能しないようにします。その後,穂を切ってめしべを露出させ,父親の稲の花粉をつけます。交配が終わると他の花粉が入らないようにするため,すぐに袋をかけます。
受粉により胚と胚乳が発達を始め,同時にそれを包んでいる子房の組織全体も発達を始めます。出穂(=受粉)後,およそ25日くらいで外形的には籾の大きさになります。この頃の玄米はまだ緑色です。その後も内部にでんぷんが蓄積されていき(充実期),水分が減り,玄米本来の色となります。もみ殻も黄金色となり,40-45日で完熟期を迎えます。
コメのでんぷんの30%は出穂以前に光合成されたものであり,残りの70%は出穂後の光合成によるものです。つまり,出穂までは稲の本体を形成するために光合成産物は利用され,出穂後の光合成産物は籾の充実に充てられています。
●刈取り
稲が黄金色になってきたら天候をみながら稲刈りです。目安としては田植えから110日,出穂から40-45日ということになります。現在の機械化された農業ではコンバインで刈取り,同時に脱穀して籾はタンクに貯まり,稲わらは細かく切られて水田に散布されます。所要時間は1反(10アール)で30分といったところです。収穫された籾はすぐに乾燥機で乾燥処理されます。
田植えと同様に機械化されてしまうと「コメものがたり」になりません。これが手刈りになると内容はだいぶ変わります。手作業の場合は「刈取り」と「乾燥」の二つの工程となります。
刈取りには専用の鎌を使用します。この鎌は刃先に鋸のように小さなギザギザがついており,「稲刈り鎌」と呼ばれています。この鎌は刃先がすべらないので稲だけではなく固い茎をもった植物を切るのに適しています。
右利きの人は稲刈り鎌を右手に持ち,稲の株を左手でつかんで根元の部分を切ります。そのまま,3-4株をまとめていくと手がいっぱいになりますので,束ねた状態で下に置き,さらに3-4株を切ります。
束が2つそろったところでX字に交差させ,腰に付けている稲わらを2本ほど取り出して一回してから,稲の束を3回ほど回し稲わらの合わせ目をねじり,最後に残りの部分をほどけないように一回りの部分にくぐらせてから稲束の中に押し込みます。
こうすると,稲束は元のX字の記憶を留めていますので,乾燥のためハザ(支柱に複数段の横棒を渡したもの)や杭にかけて天日干しするときに都合が良いのです。稲刈りはこの作業を延々と続けることになります。
単純に刈取りだけですと1日1反は可能ですが,天日干しを含めると1反に2日はかかる作業となります。稲刈りも短期間で終わらせなくてはならないので,田植えと同様に「結」が機能していました。
現在でも天日乾燥(自然乾燥)にこだわっている農家はあります。それは,乾燥期間中に籾はまだ茎とつながっているため,追熟によりさらに美味しいものになるからとされています。
3月 | ● |
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4月 | ●種籾浸漬→水切り |
5月 | ●荒代かき |
6月 | ●2週間ほどで根がしっかりしてくる(活着) |
7月 | ● |
8月 | ●稲丈がほぼ100cmとなる |
9月 | ●穂の頭部が垂れてくる |
稲作の一年カレンダーです。おおよその目安は「退職したぞ〜」の2006年栽培記録をもとに作成しました。このサイトは退職後に実家の農業を継いだ方のコメ作りの様子が詳細に記録されています。この年は田植えから刈取りまでは約110日となっています。
中国・貴州省・凱里(カイリ)の近郊には少数民族が多く,昔ながらの農作業を見ることができます。写真は「舟渓鎮」の風景です。4月中旬で田植えの準備が行われていました。川沿いにわずかな平地が広がり,そこに続く緩斜面には棚田があります。平地と表現した土地も川に向かって緩やかに傾斜しているため,面積の広い棚田のようなものです。
「舟渓鎮」における荒起こしの風景です。昔ながらの牛にひかせた鋤で固くなった地面を掘り起こしています。使用している鋤は木製です。
「舟渓鎮」における代かきの風景です。水を入れて土を砕き,さらに表面の土を水と混ぜて滑らかにします。
女性が担いでいるのは天秤棒です。この地域ではものを運ぶときはほとんどこの道具を使用します。この時期は水田に堆肥を入れますのでこの天秤棒が活躍します。家屋は平地から斜面が立ち上がったところにまとまってあり,平地部はすべて農耕地となっています。ここから,斜面の棚田の上に堆肥を運ぶのはとても重労働です。
昔の日本では稲の間隔を適正にあけ,かつ草取りが容易になるように代かきの終わった水田の上を田植型枠機という道具を回し押して,泥の上にラインを引いていました。この絵は「ふるさと(矢口高雄著)」から引用させていただきました。物語の舞台は奥羽山脈の山懐に抱かれた秋田県の山村であり,「型車」と紹介されています。型車を操作して田植えの準備をするのは家長の朝飯前の仕事のようだ。型車は東北の文化であり,他にも田植えを整然とするため各地でいろいろな工夫があったことでしょう。
中国・雲南省・大理の田植えの様子です。相互扶助の仕組みがあるのか1枚の水田に大勢の人が働いていました。ここでは表作が米,裏作が麦となっています。5月は麦刈りが終わり田植えの季節です。茶色の畑の一部分は緑色になっており,そこが苗床になっています。採られた苗は竹の表皮で束ねられて,田植えの現場に運ばれ,適当にばら撒かれます。苗を運ぶのは年のいった男性もしくは女性であり,天秤棒が使用されています。水田の巾で1列に並び,両端にひもを張りまっすぐに苗を植えていきます。日本に比べて大変な密植で,横の間隔はわずか10cmです。
イネの成長の様子,画像は「イネの栽培方法」から引用しました。イネの年齢は主茎(主稈)に生える葉の数で表し,これを葉齢といいます。田植え後1ヶ月は1週間に1枚の割合で新しい葉がでてきます。この説明図では5葉期に最初の分けつ(2号分けつ)があります。
イネの開花と花の内部構造,画像は「イネの栽培方法」から引用しました。出穂するとすぐに頴が開き,白っぽいおしべが出てきます。これがイネの開花です。開花と同時におしべの先の葯が破れて花粉が飛び散り自家受粉を行ないます。受粉は開花後2-3時間で終了し,花は閉じます。開花は稲穂の先端から始まり穂全体が開花するのに1週間程度かかります。
バリ島で見かけた開花時期のイネ,遠くで見ると緑一色の水田に白いゴミが付いているように見えます。この白いものがおしべであり,確かに穂の上の方から開花しています。