ホモ・サピエンスの拡散
アフリカ単一起源説では現生人類はすべてホモ・サピエンスであり,6-10万年前にアフリカ大陸を出て世界各地に拡散していきました。まず,アフリカ大陸から出たのは1度か複数回かという問題があります。ミトコンドリアDNAの分析結果は現代につながる系統はアフリカを出た一つの集団であることを示唆しています。しかし,それほど単純な話ではないかもしれません。
たとえば,成功を収めた集団の前にもアフリカを出た集団がおり,彼らは各地に生息していたかもしれません。しかし,後からやってきた成功集団に飲み込まれてしまい,結果的にミトコンドリアDNAには残らなかったという可能性も否定できません。
現在発見されている最古のホモ・サピエンスの化石骨はエチオピアで発見された19.5万年前のものです。16.5万年前には南アフリカ南端の海岸洞窟で暮らした痕跡も見つかっています。彼らは精巧な細刃の石器を使用し,海産物も食べていたことが分かっています。海産物の利用は肉食動物との競合がない都合のよい食料であったと考えられます。
また,オーカーという石を削って顔料を作っていた痕跡もあります。顔料は岩絵に使用されたり,体に塗ったりしていたと考えられます。ホモ・サピエンスはその初期段階から文化的な萌芽があったようです。
アフリカ東海岸のホモ・サピエンスの痕跡からは時期は同じではありませんが,顔料,ビーズなどの装飾品,衣類などが発見されています。つまり,ホモ・サピエンスはアフリカを出る以前から文化の原型をもっていたということになります。
研究者によっては,長い間交流のなかった南部アフリカと東アフリカの現代人集団の中に類似した言語をもつものがいることから,ホモ・サピエンスの早い段階で言語に近いものがすでにあったとする人もいます。
欧米の学説ではヨーロッパにおけるオーリニャック文化(4万-1.5万年前)がホモ・サピエンスによる文化の始まりであるとしていますが,文化の原型はすでにアフリカでできていたという発見は,彼らのプライドをちょっと傷つけたかもしれません。
アフリカ外のホモ・サピエンスの最古の化石骨はイスラエルのスフール洞窟で見つかった10万年前のものです。12万年前は数千年間の間氷期があり,サハラにも一時的に緑が増えた時期があります。彼らはその時期に動物を追って北上し,アフリカを出たと考えられます。
「BBC地球伝説」という番組では,彼らはスフールに数千年は留まりましたが,短い間氷期が終わり再び氷期が訪れ,サハラやこの地域が乾燥化したため拡散することなく絶滅したとしています。
しかし,10万年前の人類の骨を探し出すことは非常に難しいので,まだ他の地域では見つかっていないという可能性は否定できません。もっとも,そのような集団もあとからやってきた数の多い成功集団に吸収されると遺伝的な多様性は失われ,出アフリカは1度に見えることになります。
ホモ・サピエンスの出アフリカは複数回あったかもしれませんが,中核となる成功集団がアフリカを出たのは1度だけと考えられます。この集団がアフリカを出た時期は85,000年前あるいは70,000-60,000万年前という2つの説があります。
この2つの時期の間にはスマトラ島のトバ火山の大噴火(74,000年前)という初期現生人類にも大きな影響を与えたイベントがあります。この超巨大噴火(VEI=8)は1991年のピナツボ噴火(VEI=6)の100倍以上の規模であり,過去100万年で最大の噴火です。スマトラ島の動植物の大半は絶滅し,インドでも数10cmの火山灰が降り積もりました。この火山灰が74,000年前のマーカーとなります。
インド南部のジュワラプラム遺跡では中期石器を使用した集団がトバの噴火前および噴火後も引き続いて暮らしていたことが確認されています。この時期に中期石器を使用していた集団はホモ・サピエンスの可能性が高く,そうすると彼らがアフリカを出たのは74,000年前より前ということになります。
8万-6万年前の北アフリカは乾燥化しており,12万年前のように北ルートでユーラシアに移動することは考えられない状況です。ビクトリア湖からスーダン,エジプトを流れ下る白ナイル川もこの時期はまだ開かれていませんでした。
唯一,考えられるルートは紅海によって隔てられているアラビア半島です。紅海のもっとも狭いところは「嘆きの門」と呼ばれている幅50kmほどの海峡となっています。ここは氷期には海面が低下し10kmほどに狭まり,木をつなぎ合わせた簡単な筏のようなものでも移動できた可能性があります。ホモ・サピエンスは早い時期から海産物を食料としており,海岸線に沿って移動していったという考え方は南方出アフリカ説と呼ばれています。
南方出アフリカ説を補強する材料としてはイエメンには精巧な石器を製造した痕跡が残されており,それは7万年前に遡るとする研究もあります。また,アラビア半島の南部海岸には現在は海底に沈んでいますが真水の噴き出す泉が多数あることから,アフリカを出た集団は海岸線に沿って移動できたと考えられています。オマーンから先はところどころにオアシスの点在する環境でした。
アフリカを出た集団は海水面の低下により地峡のようになったホルムズ海峡を渡りイランに到達します。これでホモ・サピエンスの集団は砂漠に隔てられていないユーラシア南部に到達したわけです。
ここから集団は少なくとも3通りに分かれ,一つは海岸沿いに東に,一つは海岸沿いに西へ,もう一つは中央アジアに向かいました。ただし,当時の寒冷で乾燥した気候のため西ルートの先にあるレヴァント地域(肥沃な中東の三日月地帯)は砂漠化しており,1.5万年ほどは遅れたものと考えられています。
東に向かった集団はインドの西海岸でしばらく留まり,数を増やしていきました。その後,西海岸を南下し,途中でインドを横断し,ベンガル湾の沿岸を通り,およそ5万年前に東南アジアに到達しました。
その過程でも少なからぬ集団は環境のよい土地に留まることを選択しました。そのような集団はさらに別の地域に移動することもありましたが,中にはそこで長い間,外部との交流なしに孤立して暮らしてきた集団もあります。そのような集団にはアフリカを出た時の特徴がよく残されています。
5万年前の東南アジアは現在とはまったく様子が異なっていました。マレー半島,スマトラ島,ボルネオ島,ジャワ島が陸続きであり,巨大なスンダランドを形成していました。オーストラリアとニューギニア島も陸続きでした。人類はスンダランドに入ったのは確かですが,インドネシアにおける化石骨はボルネオ島のニア洞窟(3.5万年前の頭骨と石器類)以外は見つかっていません。
スンダランドから先の移動ルートはよく分かっていません。海水面が下がっていたとはいえ,チモール島とオーストラリアとの間には200kmの海が存在していました。どのような方法でここを渡ったのか,どうしてその先にオーストラリアがあることが分かったのか,一部の集団はおよそ4万年前にオーストラリアに到達(漂着)し,アボリジニと総称される先住民族となりました。ミトコンドリアDNAの分析でも彼らもまたアフリカを出たホモ・サピエンスの血統であることが確認されています。
ユーラシア南部から海岸沿いに西に向かった集団はイラン→レヴァント→アナトリア→東欧,もしくはイラン→コーカサス→東欧のルートでヨーロッパに入ったと考えられます。確実な足跡が残っているのはアナトリア・ルートです。
しかし,アフリカのサバンナ起源のホモ・サピエンスはヨーロッパの寒冷な気候と,冬季の日照時間の不足に悩まされたことでしょう。また,ヨーロッパ全体に広がっていたネアンデルタール人も競争相手として立ちふさがっていました。
ヨーロッパにおける最古のホモ・サピエンスである(クロマニヨン人)の頭骨はルーマニアの洞窟で発見されたもので,4万年前のものと判定されました。頭骨をもとに頭部を復元したところアフリカ系,アジア系,ヨーロッパ系の中間の風貌であったとされています。肌の色は分かっていません。
一方,ネアンデルタール人はヨーロッパに適した白い肌と頑丈な体躯をもち,精密な石器を使用し,狩りの技術もホモ・サピエンスとそん色なかったようです。海産物も食料にしていました。にもかかわらず,ホモ・サピエンスとの生存競争に敗れて,2.5万年前には絶滅しています。
何がホモ・サピエンスに味方したのかはよく分かっていませんが,ホモ・サピエンスの方が社会性(小集団間のつながり)が強かったので,気候変動などに対応できたのではという説もあります。
ユーラシア南部から北に向かった集団は4万年前には中央アジアさらにはシベリア南部に進出しています。2.5万年前に始まる最寒冷期に比べるとこの時期のシベリア南部は夏の草原に支えられた大型動物が多く,寒さを除けば狩猟を主にするホモ・サピエンスにとっては住みよいところだったのかもしれません。
マンモス,毛サイ,トナカイなどが彼らの食料であり,トナカイの毛皮をまとうことにより,寒さに対応しました。住居は半地下で丸太の骨組みにトナカイなどの毛皮をかけたものが使用されたようです。そのような暮らしは現在のシベリア東部でトナカイと暮らす人々のものと類似していたと考えられます。
彼らは「国立科学博物館・日本人はるかな旅」ではマンモスハンターとして紹介されています。マンモスハンターは寒さに適応した人々でした。2.5万年前の最寒冷期にもイルクーツク市の北西80kmにあるマリタ遺跡で定住生活を営んでいました。
ここからは,多数の石器とマンモスの骨と牙,トナカイの角などが集積したテント式住居の跡が数多く見つかりました。推定48-60人,8-10軒の家で構成された集落は何度か引越しをしながら長期間この地に存在したようです(日本人はるかな旅より)。
熱帯生まれのホモ・サピエンスは寒冷なシベリアで徐々に適応していき,北方系アジア人となりました。寒さに適用した彼らの身体的特徴は次の通りです。
(1) 体温の発散を防ぐために身体はずんぐりし手足は短くなる
(2) 顔の凍傷を防ぐために鼻は低くなり平面的な顔立ちになる
(3) 皮下脂肪が発達して,まぶたは厚く一重になる
(4) 氷雪の照り返しから守るため眼はアーモンド型になる
(5) 男性の体毛が薄い(ひげが少ない)
彼らはしだいに南下して6000年前頃には中国の優勢集団となっています。それ以前の中国では古モンゴロイドが優勢集団となっていましたが,北方系アジア人により周辺部に追いやられてしまったと考えられています。この集団の入れ替わりにより東アジアの優勢集団となった北方系アジア人を新モンゴロイドと呼びます。新旧には古い,新しい以外の特別な意味はありません。
問題は古モンゴロイドがどのような集団であったかがはっきりしていことです。従来は南方系アジア人であろうと考えられてきましたが,そうすると日本人の遺伝子の基質には南方系のものが含まれているはずです。
日本列島に人類が住み始めたのはおよそ3.5万年ほど前のことであり,当時の海面水位は現在よりも数10m低く,琉球列島,日本列島,樺太が弧状に大陸とつながっており,日本海は大きな湖のような状態でした。したがって,当時の華北の優勢集団(古モンゴロイド)が朝鮮半島を経由して日本列島にやってきて縄文人の基盤となったというのは自然な考え方です。
縄文人の原型を考える上で,遺伝子解析は有力な手段となります。母方からしか伝達されないミトコンドリア遺伝子は現生人類の拡散の過程を調べるのによい指標となります。一方,父方からしか伝わらないY染色体(男性染色体,女性はXX,男性はXYとなり遺伝的な性別が決定されます)も集団の類縁関係を調べるのに適した方法です。
現在の日本人のY染色体はD2型が30-70%(地域により異なります),O型が0-56%(地域により異なります)を占めています。D2型は朝鮮人にわずかに残されている以外は,どこにもない珍しいものです。D型をもつ集団はチベット人(50%),雲南の少数民族イ族(20%),チュルク系アルタイ(10%),D祖先型はアンダマン諸島の人々(ほぼ100%)となっています。
大陸におけるD型のY染色体の分布を考えると,日本人のD型は古モンゴロイド由来のものだということになります。そう考えると4万年前に中央アジアから東に向かったD型集団があり,華北の優勢集団(古モンゴロイド)は彼らではなかったかという考え方が出てきます。このD型集団は,その後の北方系アジア人(O型集団)の南下により周辺に追いやられたり,吸収されてしまいます。日本列島はその時期には孤立した島となっていたためD型が特異的に残ったと考えられます。
現在の日本人のY染色体におけるD2型の高い割合から考えると,縄文人の基盤となったのは大陸から朝鮮半島経由で入ってきたD型の集団であり,それに樺太経由の北方系アジア人と琉球列島や黒潮経由の南方系アジア人の集団が加わっていると考えると,(少なくともY染色体の特異性は)よく説明がつきます。
間氷期に入り日本列島や琉球列島が大陸から孤立することにより,外部から新しい人々が流入することが少なくなくなります。彼らは気候が温暖で植物性の食料に恵まれた日本列島で共存・混血し,縄文人を形成しました。1万年以上にわたり孤立した集団となったため,縄文人は比較的,遺伝子の均一な集団となっています。縄文時代の日本列島の人口は下表のように気候変動により増減しています。(鬼頭宏・人口から読む日本の歴史)。
時期 |
人口(万人) |
気候 |
縄文早期(8000年前)
| 2 |
現在より2℃ほど低い時期が続く |
縄文前期(5500年前)
| 11 |
現在より1℃ほど高くなる |
縄文後期(3500年前)
| 26 |
人口がピーク,寒冷化が始まる |
縄文晩期(3000年前)
| 8 |
食料不足により人口は激減する |
弥生時代(2000年前)
| 59 |
人口流入と水田稲作により人口急増
|
2300年前頃から数百年にわたり中国大陸の各地から水田稲作技術とともに北方系アジア人の渡来人がやってきます。渡来人と縄文人は混血し,現在の日本人が形成されます。O型のY染色体は渡来人によりもたらされたと考えられます。渡来人と混血の少なかったあるいはなかったアイヌの人たちにはほとんどO型は見られません。
現在の日本人は混血が進んでおり,地域的な差異は小さくなっていますが,遺伝子のレベルで調べると有意の地域差が出ています。渡来人との交雑が少ないと考えられる琉球の人々とアイヌの人々の遺伝子は近縁度が高いことも分かっています。最近の人類学の結論としては,現代の日本人は弥生系が7-8割,縄文系が2-3割の比率で混血しているそうです。