アスワン
現在のエジプトはほぼ四角形の国であるが,人口の大半はナイル川流域の狭い谷およびデルタ地帯に居住している。それはエジプトの国土面積100万km2の6%にすぎない。エジプトの人口密度は60人/km2であるが実質的には1000人/km2である。
このナイル川に沿った極めて細長い地域は古代王国時代の国土とほぼ一致する。現在のカイロのすぐ近くにあるメンフィス(古王国首都)からアスワンまでは川沿いに約900kmも離れており,古王国以前はこの流域にセペト(ノモス)と呼ばれる42もの都市国家があったとされている。
それらの都市国家はしだいに統合され,下エジプト(ナイルデルタ地帯)と上エジプト(流域の狭い谷あい)にまとまっていった。現代の地図の概念で考えるとナイルデルタが「上」になりそうであるが,ナイルを中心に考えると上流,下流がそれぞれの地名となる。
上エジプトと下エジプトは相当期間分かれており,それぞれ独自の文化が育まれた。古王国により上下のエジプトは統一されたが,王の称号には「上下エジプト王」という部分が残り,その後も二つの国という概念は続いた。
上エジプトのアスワンあたりからスーダンにかけての地域はヌビアと呼ばれ,ハム語を母語とするアフリカ系の人々が独自の国を形成していた。この地域は金や奴隷の供給地として古代王国時代の一時期を除きエジプトの属国となってきた。アスワンまでやってくると現在のアラブ系エジプト人とははっきり識別できる色黒,縮れ毛のヌビア人と呼ばれる人々が増えてくる。
このヌビアの入口にあるのがアスワンの町である。町のすぐ南には世界最大級のアスワン・ハイダムがある。ナイル川は定期的に洪水が発生し,それがナイ流域やデルタに肥沃な土壌を形成していた。
しかし,19世紀の後半に流域人口が激増すると洪水をコントロールする必要が発生した。当時,エジプトを保護下に置いていたイギリスは1901年にアスワン・ロウダムの建設を行なった。
このダムは一定の成果をあげたもののナイルを制御するには力不足であったため,独立後のエジプト政府はアラブ主義を掲げ民族の英雄となったナセル大統領のもとでアスワン・ハイダムの建設に着手した。建設資金と資材はソビエト連邦が提供している。総費用10億ドルという大工事は1970年に完成した。高さ111m,全長3,600mの巨大なロックフィルダムである。
これによりできた人造湖(ナセル湖)は全長500km,湖水面積5250km2,貯水量1700億トン(琵琶湖の6倍)となり世界有数の大きさである。満水時の湖面標高は180mになる。12基の発電機は210万kwの電力を供給している。これは最新の原子力発電所2基分に相当し,日本でも最大級の黒部川第四発電所(33.5万kw)の7倍近い大きさである。
ダムにより洪水はなくなり,農業用水を安定的に供給できるようになった。その一方でいくつかのマイナスの影響も現れてきている。極度の乾燥地帯に巨大な湖ができたことにより,そこから発生する水蒸気は雲を形成し地域の乾燥気候に大きな影響を与えている。
定期的な洪水が発生しなくなったため流域やデルタの農地は痩せ,化学肥料が必要な状態になっている。また,農地における塩類の集積,デルタの海岸線の侵食などの問題も発生している。
ダムによる水の安定供給は食糧の増産を可能にした。しかし,30年前に4000万人であった人口は7000万人を越えており,食糧の自給率は低下し続けている。主食の小麦は輸入と食糧援助でなんとか確保している状態である。
エジプト政府は新たな農地の開発に着手することにした。それが「トシュカ開発計画」である。ナセル湖を地図で見るとアブシンベルの少し北側に西に伸びる突起のような地形がある。ここは地形的に西方砂漠との間にある山地が途切れるところにある。
「トシュカ開発計画」は二つの灌漑用水路をもつ。一つはナセル湖の水面標高が一定値になると水が流れ出す水路を掘削するもので,こちらは古代のナイル川の河床を利用して水を流し,ナセル湖のすぐ西側を灌漑するのに使用される。
もう一つは超大型のポンプでナセル湖の水を汲み上げて北側の砂漠に向かう水路に流し出すものである。灌漑水路の総延長は240km,灌漑農地の総面積は東京都に匹敵する22.5万haという巨大な計画である。総工費は660億ドルはエジプトの国家予算の1.1倍に相当する。
すでに衛星写真ではナセル湖の西側に複数のトシュカ湖群が形成されている。しかし,ナイルの水は無限にあるわけではない。東奥日報の記事によるとナイル川の水利用は限界に達しており,流域のエチオピアなどは過剰取水に反発し対立が続いている。
人口増加と旱魃に悩まされているエチオピアは水利用をエジプトに制限されており,食糧の自給が達成できない。国際河川であるナイルの水利権で合意できなければ「流域国間で軍事的衝突が起きる」可能性は十分に考えられる。
エチオピアも古代からの文明が花開いた地域で,人口は7,720万人,人口増加率は2.6%とエジプト同様に高い。増加率が3.0%というのは24年間で人口が倍増する。アフリカは大陸の面積に比して人口は相対的に少ない。
それは,アジアのように多くの人口を養なうことのできない自然環境によるところが大きい。それにもかかわらず,人口が非常な勢いで増加しており,確実に食糧問題,水問題が発生する状況にある。
エチオピアも高原の森林伐採により激しい土壌流出と旱魃が発生している。その荒れた国土で人口が増加しているのであるから食糧生産が支えきれないないのは明らかである。
地域の人口大国となっている両国はまず人口増加を抑制するのが最大の課題であろう。人口の増加に合わせて無理な開発を続けるのではなく,国土が許容する範囲の持続的な食糧生産に合わせて人口を抑制する政策が絶対的に必要なのだ。
しかし,人口抑制政策はがどこの国でもそれほどうまくいっていないのが現状である。現在64億人の世界人口は2050年に90億人に達し,その増加の大部分はアフリカとアジアで起きるとされている。
アスワンの町自体にはそれほどの見どころはない。町からは毎日,280km離れたアブ・シンベルに向かうツアーが催行されている。比較的低料金で遠くの遺跡や神殿を見ることができるのでお勧めである。
カイロ(900km)→アスワン 移動
20:30に宿を出てメトロでラメセス駅に向かう。ラメセス駅はプラットホームが分かりづらい。ガイドブックでチェックせず表示だけに頼っていたら7番ホームの次は9番ホームになっており,8番ホームが見当たらない。
駅員に確認してようやく7番と8番が同じホームであることが分かった。不思議な番号の付け方である。列車は21:45に入線した。まず自分の車両を探さなければならない。長い列車の最後の方まで歩かされた。
座席番号はキップになんとなく書いてある番号のところに坐った。車掌が検札に来て何も言わなかったのでここで問題無さそうだ。列車は22時に出発しアスワンには翌日の15:30に到着する予定だ。約900kmを17時間で走る計算である。
二等車は2+1の一列三人掛けになっている。ちょっと立派な座席になっており,冷房も効いている。しかし,この冷房は夜中になってもそのまま動いており大変な寒さだ。長袖を二枚着てその上に冬用のフリースを着込んで寒さをしのぐ。
この車両にはけっこう外国人が多い。みんなこの寒さに備えて厚着になっている。リクライニングになっているとはいえ,通常の座席で眠るのは難しい。おまけに寒いのでうとうとするくらいのものだ。朝の光が待ち遠しい。
夜が明けるとナイルの谷を走っている。周辺は全面的に農地となっており,場所によりナツメヤシが独特のシルエットを見せている。窓ガラスはそれなりに汚れており,ガラス越しの写真に影響するだろう。それでも朝日に輝く農地を何枚か撮る。なんといっても他にすることが無い。
光の方向からときどき反対側に移動して写真を撮る。ナツメヤシの集まっている農園がある。朝もやなのか,ワラを燃やす煙なのか遠くの木が霞んでいる。エジプトにもこんな日本的な風景があるものかとなにやら懐かしい気持ちになる。
ナイル川の浸食作用によりできた谷の幅は10-20km程度であろう。ときどき近くに茶色の崖が見えるようになる。それにしても農地はまったく途切れない。この谷について言えば日本の人口密度の3倍くらいになっている。
農地が連続していると思っていたら山が迫っているところでは完全な荒地になっていた。農地は人々の毎日の努力によって維持されているという簡単な原理に気づかされる。
景色と写真のおかげで退屈しないで過ごすことができた。社内には食事のサービスは無かったと記憶している。今日の朝食と昼食は持参のパンとチーズで済ませる。
ルクソールで大勢の人が降りたので,そこから先は1/4くらいしか乗客しか残っていない。さすがに景色にも飽きたので本を読むことにする。
ホテル・ヌビアン・オアシス
列車は15:30にアスワン駅に到着した。ここではナイルが南西から北東に流れており,それに平行に市内の道路が走っているので方角はチェックしづらい。
予定していたヌビアン・オアシスは駅を出て左に真っすぐなので迷うことはない。この通りの両側は観光客用の土産物屋が並んでおり,雰囲気は悪くない。ヌビアン・オアシスは建物の2階にあり,部屋は6畳,2ベッド,T/HS付きでまあまあ清潔である。料金は20EPと個室としては格安である。
ホットシャワーはこの季節にはありがたい。別にこのくらいの気温ならば水シャワーでもまったく問題はないが,ときどきお湯で髪を洗いたい。水ばかりではなんとなく汚れが落ちきらないような感じになる。
アブシンベル神殿を含むロング・ツアーの申し込みはこのホテルでもできた。ガイドブックでは相場は50-65EPとなっている。ここでは朝食を含めて70EPであった。
アブシンベル神殿はアスワンからさらに南に280kmも離れており,個人的に訪問するのは非常に高くつく。アスワン発のロング・ツアーは非常に利用価値が高い。この料金には当然ながら各施設の入場料は含まれていない。
ロング・ツアーで訪問する観光名所の入場料やボート代は次のようになっている。
・アブシンベル神殿=80EP
・アスワンハイダム=8EP
・イシス神殿=40EP
・イシス神殿までのボート往復=5EP
・オベリスクの石切り場=25EP
ホテルに迎えが来るのは03:30頃,実際の出発は04時くらいになる。昨日は列車の中でほとんど満足に寝ていないので,今日は可能な限り早く寝たほうがよい。
とりあえず今日はナイルの夕日を眺めるだけにしておく。川面にはたくさんのファルーカとよばれる独特の帆船がたくさん浮かんでいる。
観光客を乗せてファルーカはナイル川を自由に行き来しており,ヌビア地域の風物詩となっている。夕日に染まるファルーカを撮ろうとしたらどうにもうまくいかない。仕方が無いので夕日を少し外した写真にする。
ロング・ツアーに出発
翌日は宿のスタッフが呼びに来る前の03時に起床した。起きなければと緊張しているとちゃんと起きれるものだ。しかし,それは自分が年をとった証拠なのかもしれない。
朝食は宿でパックしてくれたけれどこの時間にも食欲があったのでそのまま食べてしまった。パン,チーズ,バター,ジャムの簡単セットである。食堂のスタッフがチャイを出してくれた,これはありがたい。
03:30にミニバスが迎えに来た。ミニバスはさらに2軒のホテルを回って客を集めてからコンボイの場所で待機する。街路灯で明るい道路には大型バス,ミニバス,乗用車など合わせて60台くらいの車が待っている。
アスワンに限らず,ルクソールから南は個人の自由旅行は難しい状態になっている。この地域がムスリムとコプト教徒が混在する微妙なところであるため,外国人旅行者は移動の際には警官の護衛もしくはコンボイと呼ばれる集団移動が義務付けられている。
それは外国人の安全を守るための措置である。アスワンからアブシンベルまでの移動もその範疇に入っている。04:30になると待機していた車は一斉に動き出す。僕のミニバスは欧米人の乗客で満席である。
道路状態は良くおよそ3時間でアブシンベル神殿に到着する。このコンボイは基本的に同じ時間に同じ観光名所を回ることになるので,どこにいっても混雑していることになる。
アブシンベル神殿では「出発は2時間後」と告げられる。周辺には似たような車がたくさんいるのでツアー会社の名前ABRAAMとナンバープレートの下2桁(アラビア数字のハートと7,英数字では56)を覚えておく。また同乗のツアー客を覚えておくと良い。
アブシンベル神殿
アブシンベル大神殿は新王国時代のラメセス2世が造営した。このラメセス2世(BC1314-BC1224年またはBC1302-BC1212年)は24歳で即位し90歳で没したとされる。66年間の統治時代に非常に多くの神殿,記念碑を残しており,また話題の多いファラオでもある。
紀元前1286年にシリア地域まで勢力を伸ばしたエジプトは,トルコのアナトリアを基盤とする印欧語族のヒッタイトと戦火を交えることになった。これがカデシュの戦いである。
エジプト軍はヒッタイトの軽戦車に押され苦戦を強いられた。この戦いは決着が着かず,紀元前1269年に世界最初の平和条約が締結された。
また,モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを出たのもラメセス2世の時代であったとされている。彼は自分の像をいたるところに造らせたため,観光でエジプトを訪れる人は何度も彼の巨像を目にすることになる。
僕は映画「十戒」で見たユル・ブリンナーが扮するつるつる頭のラメセスの姿が強く焼きついており,この像がラメセスと言われてもさっぱりピンとこない。
そういえば,モーセを演じた「チャールストン・ヘストン」が2008年に亡くなった。彼のユダヤの布を身にまとった姿も僕の脳裏にしっかり残っている。合掌…
アブシンベル大神殿は赤砂岩の岩山を削り出して造営された。長い年月の間ほぼ完全に砂に埋もれていたという。そのため外部の巨像も内部のレリーフも非常に保存状態は良い。ヨーロッパ人に発見されたのは1813年のことである。
「Cairo 1」のページで紹介した「デーヴィッド・ロバーツ」は1838年にこの地を訪れ,半分砂に埋もれた神殿の外観や内部の様子をスケッチに残している。現在の姿と対比させるのはおもしろそうなので紹介する。
もっとも,このスケッチの神殿は現在のものと場所が異なっている。アスワン・ハイダムの完成によりナセル湖の水位が上昇し,この神殿は水没する運命にあった。
世界的な遺跡を保存するためユネスコが中心となり類例の無い移転計画が実行された。巨大な岩山をそのまま移転させるのは到底不可能なので,遺跡全体を運搬可能な20-30トンの1500個ほどのブロックに分割し,64m上の丘に移築した。
岩窟神殿のイメージを損なわないようにするため,神殿の上部を巨大なコンクリートドームで覆い,その上を土砂で覆って人工の岩山も形成された。王妃のネファルトアリとハトホル神に捧げられた小神殿も同様に移築された。
この移築計画が発端となって世界的にみて価値のある文化遺産や自然遺産を守ろうという機運が高まり,世界遺産条約が採択された。アブシンベル神殿の移築は世界遺産の生みの親となったのである。
さて,駐車場を後にして実際のアブシンベル神殿を見に行く。まず驚いたのはナセル湖の水面がすぐそばまで迫っていることである。神殿の岩山が移築された台地と水面との高度差は数mしかない。もちろん,これはアスワン・ハイダムの高さから計算された最大水面より高いところなのだろう。
神殿は切断の跡はほとんど分からないように修復されているが,上部の岩山はブロックを積み上げたようになっている。正面から大神殿を見る。高さ20mもあるラメセス2世の坐像は大変な迫力である。4体のうち1体は上半身が崩れており,これは発見当時の状態を忠実に再現している。
巨大なラメセス2世の足元にはほぼ等身大の王妃ネフェルトアリの立像が置かれてる。この大きさの落差とわざわざここに像を置いた理由を知りたいものだ。
ラメセス2世の坐像の上には偉大な,おそらくエジプト古代王朝でもっとも偉大であったファラオの名前がヒエログリフで刻まれている。その上には日の出を拝む(喜ぶ)たくさんのヒヒが一列に並んでいる。
アブシンベル大神殿の外観写真はできれば人のいない状態で撮りたかったが,観光客の大半がコンボイ型の団体行動なので,そのようなことは望みようもない。
神殿内部は2007年から写真禁止となった
神殿の内部は2007年から写真撮影禁止になった。これは僕にとっては致命的に残念なことだ。どんなにすごいと感動できるものを見ても,それを自分の記憶の中に鮮明に留めておくことは難しい。写真はその記憶を代行してくれる補助装置なのだ。
記憶をひもとくと正面入口の両側に大列柱室があり,通路の両側にはオシリス神(再生復活を司る冥界の神)の姿をしたラメセス2世の立像が左右4体づつ並ぶ。これらも神殿本体と同様に岩山を削って造り出したものだ。
列柱の背後にも部屋の空間が続いており,壁面にはカデシュの戦いにおけるラメセス2世の姿がレリーフで描かれている。このレリーフは保存状態も良く,エジプトで見たものの中でもっとも素晴らしいものであった。
列柱室の奥には二つの小さな前室があり,最奥部に小さな至聖所がある。そこにはラー・ホラクティ神,神格化したラメセス2世,アムン・ラー神,ブタハ神の坐像が置かれている。
大神殿はほぼ東に面しているので,年に2回,10月22日と2月22日に朝日が真直ぐに差し込み,至聖所の4体の像を照らす神秘的な光景が見られるという。惜しかったな,あと10日ほど早ければそれに出会えたかもしれない。もっともその日は大勢の観光客であふれ,じっくり見学することは不可能であろう。
それにしても写真が無いのは寂しいのでネット上でフリー素材を検索して
「エジプト旅行情報 Osiris Express」を見つけた。このサイトはエジプトに関連する情報を探すうえでもとても有用だ。サイトの一部にエジプト各地の写真が利用可能になっており,ありがたく利用させていただくことにする。
アブシンベル小神殿
アブシンベル小神殿はラムセス2世が第1王妃ネフェルトアリのため造営した岩窟神殿でハトホル女神に捧げられた。正面入口の両側には2体のラメセス2世,その両側に2体のネフェルトアリ,その両側に2体のラメセス2世の立像が配置されている。
ネフェルトアリの神殿とはいいながら少なくと外観を見る限りではラメセス2世の方が優遇されている。それでも古代エジプトで王妃がファラオと同じ大きさの像として並ぶという構図は画期的なものだったのであろう。足元に配置された彼らの子どもたちは1/4くらいの大きさしかない。
神殿の内部は列柱室→前室→至聖所の構成になっている。ハトホル神の刻まれた列柱は左右に3体づつ配置されており,壁面にはムート女神とハトホル女神から見守られ,儀式を行うネフェルトアリのレリーフが彫られている。
ここのレリーフも大変保存状態が良く,黄色の照明による色彩効果によりそれらしい雰囲気にあふれている。ああ,写真を撮りたい!大神殿の前では中国人の団体が記念撮影をしている。30人を越える大きな集団である。
中国人観光客は大声で話す,遺跡や遺構に登って写真を撮るなど旅行マナーはどこにいってもすこぶる悪い。それでも,中国国内の観光地ではもっとひどいので,海外では少し控えめになっているようだ。
駐車場に戻るとミニバスがいない。同じ会社のロゴの入った車はあるけれど,僕の記憶しているナンバーではない。他のツアー客もいるので置いてきぼりを食ったわけではないようだ。彼らに「どうしたんでしょうね」と訊くと,「そのうち来るんじゃないですか」と至ってのんびりしたものだ。
アスワン・ハイダム
確かにミニバスは10分ほどで現れた。これこれ,あまり客に心配をかけるものではない。再び280kmを一気に戻る。途中の砂漠地帯では西方砂漠にあるような岩の造形がみつかり,ちょっと得をした気分になる。
ミニバスはアスワン・ハイダムの上に到着する。上流側は一面の水,下流側はナイルの流れという景色であるが,まったくつまらない。道路の上から写真を撮っているようなもので,ダムの大きさが全然感じられない。
やはり,下からあるいは横からダムの高さと大きさが分かる構図が欲しい。単独行動なら歩いてそのようなポイントを探すところであるが,旅行者の安全,安全保障上の制約があり,それはとても無理なことなのであろう。
イシス神殿
アスワン・ハイダムとアスワンの町の中間あたりにアスワン・ロウダムがある。このダムは1898年から4年がかりで英国が建設した当時世界最大のダム(幅は2140m,高さは51m)であったが,ナイル川の制御には役不足で,70年後にはアスワン・ハイダムを造ることになった。
このロウダムの少し上流側に新フィラエ島(アギルキア島)がある。オリジナルのフィラエ島はアスワン・ハイダムの完成により水没している。フィラエ島は古代エジプトの聖地であり,そこにはエジプト古代王朝からローマ支配時代までの遺跡が残されていた。
しかし,オリジナルのフィラエ島は新フィラエ島のすぐ近くにあったとされている。そこはハイダムの下流側にあたるので,ハイダムにより水没したというのはちょっと解せない。
ともあれ,水没の危険が迫ってきたので,ユネスコとエジプト政府が主導して,近くのアギルキア島に重要な遺跡を移築した。費用は当時の金額で1500万ドルであった。
さてこの費用を誰が払うかという段になって誰も手を挙げてくれない。エジプト政府はとてもそんな大金は払えない,そのときケネディ米大統領が全額を支払ってくれたという逸話が「遊学舎・吉村作治エジプト博物館」に掲載されていた。この一件によりエジプトではケネディの人気は高いという。
ミニバスはイシス神殿へのボート乗り場に到着した。ここから新フィラエ島までは各自で勝手に行ってくれということらしい。ボート乗り場には大小の船が停泊している。
もっとも大きなものはちゃんとした団体用で,我々のような怪しげなグループは小さなボートの船頭と交渉しなければならない。交渉上手のスペイン人がおり,往復プラス1時間待ちという条件で一人5EPということになった。
ボートが動き出すとアスワン・ロウダムが見える。ここは一応ロウダムのダム湖になっている。自然石をつなぎ合わせたような小さな島が見える。おそらく自然の造形なのだろうが湖面から見ると人工のモニュメントのようにも見える。
イシス神殿は水面から数mのところにあり,移築前の水辺の神殿のイメージが残されている。正面から見る神殿もすばらしいけれど,個人的には水上から見るこの角度が一番良いと思っている。
建造物はすべて赤砂岩でできている。ローマ時代に造られた「トラヤヌスのキオスク」は真っ青な空によく映えている。それにしてもローマ本土から遠く遠く離れたこの地で「トラヤヌス」の名がつく建造物を見るとは…,改めてローマの支配地域の広大さを知らされた思いがする。
イシス神殿はプトレマイオス時代のものなのでアブシンベル神殿より1000年ほど新しい。それでも建造されてから2000年という時間が経過している。外庭から第一塔門がいい角度で見える。ここはイシス神殿の撮影ポイントの一つだ。
壁面には神とファラオのレリーフがしっかり残っている。おそらく建造当時はそれらは華やかな色で彩色されていたのであろう。塔門の何箇所かには窓のような穴があいている。これは一体なんだろうね。
外庭に向かう列柱はほとんど残っている。石柱の上部にはパピルスをかたどった装飾が施されている。それはギリシャ様式の石柱装飾と酷似している。この石柱はプトレマイオスの時代なのでギリシャとどちらが装飾の本家かは判断できない。この疑問はルクソールまでお預けかな。
イシス神殿のレリーフ
外壁のレリーフは傷みがひどく,写真に撮っても輪郭がはっきりしないので少しコントラストを上げなければならない。こんなときにはデジタル処理はとても便利だ。
第一塔門の入口の左右を飾るレリーフは保存状態もよく質感も良く出ている。惜しむらくは顔の部分だけがノミで削られたようになっている。おそらくこの地域にコプト教徒が進出してきた時の爪あとであろう。神殿にもコプト十字の落書きをいくつか見かけた。
他のレリーフも同じように傷つけられているものが多い。それにしても,ここはイシス神殿なのにレリーフはホルス神やハトホル神ばかりでイシス神はどこにいるんだろう。もしかしたら,僕がハトホル神と思っている頭上に牛の角と太陽円盤をもつ女神はイシス神なのかもしれない。そうすると全体が分かりやすい。
第一塔門の先にある列柱の柱頭には四面にハトホル神の顔が刻まれておりこれは珍しい。イシス神殿の本体は下からの照明がありレリーフに陰影ができて写真はきれいに撮れる。内容はよく分からないが,旅人してはレリーフがきれいに撮れたことに満足しておこう。
ナイルの夕日
イシス神殿から戻ると15時を回っていた。同乗のツアー客もかなり疲れており,次の「オベリスクの石切り場」の入場料が25EPと聞くと,誰も行きたいとは言わなかった。ということで我々のミニバスはあっさりアスワンに戻ることになった。
ミニバスはそれぞれの乗客の宿まで送迎してくれる仕組みになっているが,僕はナイル沿いの道で降ろしてもらった。夕日の時間まではまだ大分あるので川沿いの道を散歩する。
アスワン中心部の河岸にはクルーズ船がたくさん停泊しており,川の景色が良く見えない。南にずっと歩き船の途切れるところを探す。小さな船着場があり,そこからアスワン・ナイルの風景をのんびり眺める。
観光客を乗せたファルーカがたくさん行きかっている。対岸のエレファンティネ島にあるリゾートホテルの特異な建物と背後の岩山が見える。その前を行くファルーカはアスワンらしさを演出してくれる。
対岸には帆を下ろしたファルーカもずいぶん停泊している。船体に比して帆柱とそれに取り付けられている帆の支持棒(支柱)は非常に高い。強い風を受け流そうとするためか,支持棒は上にいくととても細くなっている。
さて,そろそろ夕涼みにファルーカに乗るかなと考えていたらちょうど良いタイミングで船頭がやってきた。「どうだい,ファルーカに乗らないかい」,「いくらなの?」,「1時間15EPだよ」,「う〜ん,10EPなら乗るよ」,「1時間15EPにしてよ,こちらの生活も大変なんだよ」,「しょうがないなあ,それでは2時間20EPにしてよ」ということでこの船頭のお世話になることになった。
船頭は僕を連れて別の船着場に行き,船を動かした。船が少し離れると初めてアスワンの町を川から見ることができる。川沿いの立派な建物,クルーズ船,ファルーカがいい構図で収まってくれた。
ファルーカは帆に風を受けてけっこうな速度で進む。ハトくらいの大きさの鳥が寄り集まっている岩がある。川風があるので涼しく感じられる。船頭はたくみに帆を操作して船を先に進める。帆の支柱は自由に角度が変えられるようになっており,それにより船は風上側にも移動することができる。
夕日の中のファルーカを撮ろうと努力してみたがまったく徒労に終わった。夕日が沈むともうカメラの出番はなくなる。涼しい川風と光を失っていく川の風景をゆっくりと楽しむ。キャッチナー島を一回りして船はもとの船着場に戻ってきた。
時間にして2時間はかからなかったけれど20EPを渡すと船頭は「バクシーシ」などと言い出す。また曲者のバクシーシ(彼らはチップくらいの意味合いで使用している)である,ポケットに小銭が3EPあったのでそれを渡してお別れする。
このところしっかり食べていないので夕食はローストチキンのクオター,フライドライス,サラダ,スープのセットメニューにする。庶民の物価は安く,これで8EPであった。
ルクソール行きのチケットが手に入らない
ルクソール行きのチケットをとるために4回駅まで足を運んだがシステムの不調を理由に発券は停止状態であった。地元の人ですら買えない状況なので,外国人にはとても無理だ。どうにもならないので車内で買う覚悟を決める。
渡し船でヌビア人の村に向かう
駅前通りをまっすぐ西に行きボート乗り場に出る。ここから対岸までの乗り合いボートが出ている。船着場の前に料金所があり5EPを要求された。エジプトの物価水準からすると高過ぎるので,「片道だよ」というと3EPに下がった。
3EPを払って船のところまで行き,乗客に料金をたずねると1EPだという。料金所に戻り2EPを返すよう交渉すると,さきほどの3EPを返され「乗せない」と横柄に言われた。
この不愉快な男性の写真を撮り,「ツーリスト・ポリスにこのことを話すよ」と威かすと1EPで乗せてくれた。たかだか渡し舟でつまらないことをしてしまったと自省する反面,外国人料金を安易に受け入れてはいけないと自分を励ます。
乗合トラックから締め出される
対岸には岩窟墳墓のある岩山があり,船着場の近くには観光客用のラクダやトラックが用意されている。ここでもヌビア人の村に行こうとしてチャーターのトラックを断ると,乗合トラックには外国人は乗せないと締め出されてしまった。
対岸地域が貧しいのは分かるが,この品性下劣な振る舞いはどうしたというのであろう。外国人は金を落とすニワトリくらいにしか考えていないようだ。このような場面に遭遇するとその国の好感度は急降下する。やはり,エジプトは長期旅行者の多くが「うざったい」と評価する国なのかな。
彼らの思惑通りには動きたくないので,のんびり歩いていくことにする。いくら大河の側とはいえ大気中の水分はそんなに多いとは考えられないのに,対岸のアスワンの町は若干かすんで見える。
さきほどの船着場のあたりから小さな水路がつながっており,水路と川の間は緑豊かな農地になっている。しかし,その反対側は砂の台地が広がっている。
ヌビア人の村
小さな集落が見える。家の壁は薄い水色のものが多く,そこには絵が描かれている。それらはヌビア人の家の特徴らしい。村の中は迷路のようになっており,そのうち一軒の家で屋上からの景色を見ることができた。確かに家屋が密集しており,村の中を歩くのは大変そうだ。
すぐ近くにちょっとした丘があるのでそこまで行くことにする。この家でもバクシーシを要求されそうな気配があるので,子どもたちを集めてヨーヨーを作ってあげる。4人分とフーセンが2個,これをバクシーシの代わりにして歩き出す。
村人の写真はとても撮れるような雰囲気ではない。丘の上からはヌビア人の集落,ナイル川,アスワンの町という構図の風景を撮ることができる。それにしてもこの川の両岸における経済格差は現在のエジプト社会の縮図にもなっている。
丘の北側にも似たような集落がある。おそらくそこがガイドブックにある「ヌビア村」であろう。その村の壁はほとんどが薄い水色になっている。
丘をそのまま下り道路に出る。少し先には学校があったので覗いてみる。何となく他所とは異なる制服を着た子どもたちが迎えてくれる。子どもたちの口にする「ペン(アラビア語ではベンになる)」の言葉は聞かなかったことにしよう。
先生にお伺いをたてると,写真は特に問題ないようなので集合写真を撮らせてもらう。学校を出て水を飲もうとするとペットボトルのキャップがない。学校に戻ると先生がキャップを保管していてくれた。さっきまでは気持ちのよい時間を過ごさせてもらったのなあ…。
帰りは水路のナイル寄りの農地を歩いてみる。おもしろい機械があった。水路から水を汲み上げるものらしい。棒を縛り付けられた家畜がこの機械の周りを回ると,水車が回転して水を汲み上げるようになっている。水平方向の回転運動を垂直方向の回転に変えるための簡単な装置が付属している。
集落の回りにはナツメヤシの木が多い。生産性が高く栄養価の高いナツメヤシの実(デーツ)は子どもたちの最高のおやつになる。農地にはハーブと思われる作物が多い,ミントかもしれない。
この集落ではゴザの茶会に招かれチャイをごちそうになった。子どもが何人かいたのでヨーヨーを作ってあげる。さすがに人気があり,1歳くらいの子どもにも作ってくれという要求がくる。
それはとても無理なのでフーセンにする。フーセンは自分で膨らませることができるので大きな子どもたちにも人気は高い。もとの船着場に戻り,1EPで渡し舟に乗せてもらう。