亜細亜の街角
オールド・カイロにはキリスト教の聖地がある
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オールド・カイロ(Cairo3 から続く)

さすがに5時間のエジプト考古学博物館見学は疲れた。途中で石の床に坐ってしばらく休息をとる。博物館の中にはところどころにイスが配置されているけれど,同じように疲れた人が多いのか,いつも席は埋まっている。

博物館の外に出て地下鉄でオールド・カイロに向かう。タフリール広場からオールド・カイロのマル・ギルギス駅まではメトロでつながっている。メトロの料金はどこまで乗っても1EPである。もっとも,タフリールの少し南からは地上電車になる。

7世紀にエジプトに侵攻したアラブ軍は末期王国時代に築かれたバビロン城に駐留していた東ローマ帝国軍と対峙することになった。そのとき,オールド・カイロに宿営地としてテントを張った。その頃,エジプトにはコプト教徒がたくさん居住していた。

1世紀にパレスチナから広まったイエス・キリストの教えは弟子たちの布教活動により広まっていた。しかし,この時代はまだユダヤ教とも分離しておらず,明確な教義ももっていなかった。西暦70年のユダヤ王国の滅亡を機に,ユダヤ教から分離して原始キリスト教となっていく。

原始キリスト教は周辺の土着の宗教と混交して,いろいろな教義と典礼をもつようになった。このあたりの事情はインドで生まれた仏教が周辺の宗教や習俗と混交し,多くの形態に分かれていった過程と類似している。

しかし,4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になるとその教義について議論が起こることになる。ローマ帝国内にはローマ,アンティオキア,エルサレム,アレクサンドリア,コンスタンティノポリスの5大主教座が存在していた。

もともと明確な教義から発展した宗教ではないので,それぞれの考え方は程度の大小はあれ異なるものとなっていた。特に神,キリスト,聖霊の位置付け,キリストの神性と人性についてはわずかな表現の差が教会の分裂を招くようになった。

5世紀にはネフトリウス派,非カルケドン派などが異端とされ離脱した。コプトは非カルケドン派のアレクサンドリア総主教の正統な後継者であることを自認しており,ローマあるいは東ローマ帝国内では異端として弾圧されてきた。

アラブ軍が中東あるいはアフリカで勢力を伸ばしてきたとき,「敵の敵は味方」というロジックから,コプト教会はイスラム勢力に協力することになった。

東ローマ帝国の駐留軍を破ったイスラム勢力はこの地にエジプト支配の拠点となる軍事都市を造営し,「ミルス・アル・フスタート」と名付けた。ミルスは軍事都市,フスタートはテントを意味しする。

イスラム勢力のエジプト支配の拠点にもかかわらず,協力関係にあったためか,地下鉄マル・ギルギス駅の東側にはキリスト教の宗教施設が固まっている。それは,「マタイによる福音書」に記述されている「エジプトに避難する」という下りによるものである。

キリストの誕生時のユダヤ王国を支配していたヘロデ大王はメシアの誕生を恐れ,ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させた。ヨゼフのもとには主の御使いが現れ,「起きて子どもとその母親を連れてエジプトに逃げ,わたしが告げるまでそこに留まっていなさい」と告げた。

ヨゼフはマリアと幼子を連れてエジプトに去り,ヘロデが死ぬまでそこに留まった。その土地がここだとされている。この伝承によりこの一画はキリスト教の聖地となっており,複数の教会や修道院が集まっている。当然,欧米人の団体ツアーもここを訪れることが多い。

マル・ギルギス駅

オールド・カイロにはエジプト考古学博物館のあるタフリール広場から地下鉄で行くことができる。この路線は途中から地上電車になるのでマル・ギルギス駅は容易に分かった。この奇妙な駅名は聖ゲオルギウス(聖ジョージ)のコプト語もしくはアラビア語読みに由来するようだ。

コプト博物館

駅舎は周囲の路面より高いところにあり,階段を下りると目の前にギリシャ正教会の聖ジョージ修道院,バビロン塔の遺構,コプトのムアッラカ教会がある。コプト博物館は庭園の奥に見えるけっこう立派な建物である。ここは有料(40EP)なので外から眺めるだけにする。

バビロンの塔

ムアッラカ教会を出ると目の前に「バビロンの塔」がある。この塔は新王国時代に造られた「バビロン城塞」の一部である。なぜ,この城塞にバビロンの名前がつけられたのかは不明だ。

ネット上に何かヒントはないものかと探してみると,エジプト個人旅行の専門会社 「Nile Story」というサイトに,語源について書かれていた。この内容が正しいかどうかは判断できないけれど,少なくとも「メソポタミアのバビロン」とは関係がないようだ。

バビロンの塔は最近修復されたようだ。数年前の写真と見比べるとかなり雰囲気は異なっている。この建造物はどの部分が塔なのかよく分からない。地上に出ている部分はおそらく城壁もしくは守備塔の一部であろう。

近くによって覗き込むと変形四角形と円形の竪穴がある。この部分が地上に出ていれば塔のように見えないことはないが…。

バビロン城塞の原形がどのようなものなのかと探していたら, 「東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所」のサイトに絵が見つかった。タイトルは「古代ローマの要塞シャムゥ城の城門 」となっている。

エジプト聖地巡りの案内図かな

ムアッラカ教会

「ムアッラカ教会」はバビロン城塞の跡地に4世紀に建造された教会である。コプト教会においては聖母マリア信仰が非常に強いとされている。この教会も本来なら聖母教会とでも命名されるべきものであるが,なぜかムアッラカという発音しづらい名前になっている。

ムアッラカとは「掛けられたあるいは釣られた」と言う意味で,城塞の上に造られた姿がそのように見えるためとされている。そのため英語名は「Hanging Church」となっている。

この教会は9世紀にモスクに改築され,10世紀に教会として再建されたというエピソードも伝えられている。教会本体はかなり高いところにあり,そこに続く階段を上ることになる。

階段を上り教会に入ると廊下には歴代の聖職者の写真や肖像画が飾ってある。いずれも頭を覆うような黒い帽子をかぶり,頬ひげと顎ひげを伸ばしている。

礼拝堂の基本プランは長方形のバシリカ様式である。ただし,内部のアーケードは三列あり,礼拝堂の空間を4分割している。中央のアーケードの両側には礼拝用のベンチシートが並んでいる。

壁面の上部までは石造りとなっており,なぜか屋根は木造で半円形のアーチを二つつないだ構造になっている。この木造の屋根はエジプトの建造物としては非常に珍しい。壁面の小さなステンドグラスとアーチ天井に設けられた天窓からの光で内部はそれなりに明るい。

ベンチシートの正面にはイコノスタスがあり,その構造は東方正教会のものと特に差は無い。上部には聖人のイコンが飾られている。中央アーケードの両側に二つの至聖所への入口があり,そこは厚手の布で仕切られている。

左側の仕切りにはおそらく聖ゲオルギウス(聖ジョージ)と思われる騎乗の男性が,右側には聖母マリアが描かれている。薄暗い空間で聖母の写真を撮ると,まるで聖母が宙に浮かんでいるような不思議なものになる。

コプト教会の十字はラテン十字と異なり,縦と横の長さが等しく,かつ扇のように外側が広がっている。文献を調べるとこの十字はコプト由来のものであることが分かった。ヨルダンのマダバのラテン教会で見たものはこれだったようだ。

礼拝堂内部の調度品もすばらしい工芸品になっている。壁面にはフレスコ画やイコンが飾られており,茶系統の色でまとめられた礼拝堂の雰囲気によく合致している。全体としてとてもおごそかな気持ちにさせてくれる空間である。

外壁にあるモザイク

ムアッラカ教会の手前の建物の壁面にはイエスの家族がエジプトに逃れ,そこで暮らしている様子を描いた大きなモザイクがある。その中の一枚はヨゼフが井戸から水を汲み,マリアがイエスに水を注ぐというものであった。

僕が注目したのはこの絵の上から照らす天の光がアテン神(腕を伸ばした形の光をもつ太陽円盤)と同じだということだ。これはエジプト独特の表現方法なのであろう。

聖ジョージ修道院

聖ジョージ修道院は広い中庭をもっており,一部はカフェになっている。昼食がまだだったのでピザを注文する。このカフェはとても感じは良いが出てきたピザは値段に見合うものではなく,おまけに席料まで要求され,少々怒りの気分である。

修道院の礼拝堂は写真可であった。そこは大きなドームになっており,ドーム側面の明り取りの窓から光が差し込んできて,なにやら荘厳な雰囲気を演出している。

大ドームを支えるアーチの柱に付属するように,床面より一段高くなった部屋構造の至聖所がある。イコノスタスの両側にはキリストと聖母子の大きなイコンが飾られている。

至聖所を構成する石柱にはまるでエレベーターのような構造の装飾があり,そこにもイコンが飾られている。構造的にはかなり特異な礼拝堂である。

イコノスタスの前には高さ1mほどの柵が設けられており,その中央部は半円状にイコノスタス側に迫っている。壁面にはアーチが連続する装飾が施されており,その一つ一つにはめ込まれるように見事なイコンが飾られている。

ガイドブックによればこの修道院はエジプトに避難した聖家族が一時的に滞在した場所に建てられたとされている。しかし,この礼拝堂にはそのことを知る手がかりになるようなものは見当たらなかった。ともあれ,カフェでは少し嫌な思いもしたが,礼拝堂を見てすっかり機嫌は直った。

聖ジョージ女子修道院

ここから北東方向に歩くと塀越しに聖ジョージ女子修道院の礼拝堂と思われる十字架を乗せたドームが見える。この周辺では何枚か写真を撮ったが対象物がなんだか分からない。

ガーマ・アムル

聖ジョージ女子修道院から北に進むと四方を高い壁に囲まれたガーマ・アムルの大きな建物が見える。このモスクはカイロで最古のものとされている

ガーマの外壁は縦120m,横110mもあり,カイロでは最大級のものである。ちょっと記憶は怪しいがなぜかこのガーマは入れなかった。しかたがないので外側の写真を撮ってナイル川の方に歩いていく。

ナイル川の風景

ギルギス駅の北側に歩道橋があり,その先の下町風の小さな道を抜けると大きな通りに出る。ここを渡るとナイルの小さな方の流れがある。川の向こうはローダ島であり,その向こうに大きなナイルの流れがある。

河岸は緑地帯となっており,濃いピンク色の花を咲かせている木が何本かある。いつ頃のものなのか,木造のモナステルリ橋がその向こうに見える。この橋は中央に特異な形状をしたやぐらがあり,それで橋を支えている。

やぐらの支柱(しんばしら)の下部は水中に据えられ,水面からわずかに顔を出している礎石の上に置かれているだけだ。日本のように水量が大きく変動する川では,とてもこの構造では耐えられない。

江戸時代の木造橋は石で組んだ基盤の穴に支柱を突き入れ,周囲から突き固める手法が採用されている。支柱と橋げたをつなぐ木組みもずっと複雑で粘りも強度もある。それは木材が豊富にあった東アジアで育った文化である。

良い木材に恵まれた日本では多くの建造物は木造となり,西アジアのものとはまったく異なる景観を作り出している。西アジアやエジプトに来てなぜか建造物を詳細に観るようになったのは,そのように景観の落差が大きいせいであろうと自己分析している。

広大なアジアでは建造物の材料は地域によって大きく異なる。東アジアの木材,中央アジアの土,西アジアの石…,まさしく風土が育てた文化である。日本の優れた哲学者である和辻哲郎は「風土が民族の性格を育て上げるので民族も風土の一部である」と指摘している。

風土が民族の性格を形作り,風土が文化の骨格を作り上げる,旅が人々をひきつけるのは異なる風土と出会うことができるからなのだろう。自然,人,文化に出会ったときの新鮮な感動がある限り,旅の魅力は褪せることがない。

橋の上から見るナイルの小さな流れは大河の面影はない。その程度の流れなのでこのような構造の木造橋でも耐えられるようだ。

夕日の時間が迫ってきたので,南に歩きナイル本流の夕日を撮りに行く。じきにローダ島は終わり,船着場でこころゆくまでナイルの夕日を眺めていた。

ナイルの西岸の建物がシルエットになり,空と水面はオレンジ色に輝き,そこを小船がゆっくり進んでいく。この一瞬について言えばカイロの大気汚染もナイルの水質汚濁も脳裏から消え,荘厳な風景だけに浸ることができた。

サファリのドミトリー

アスワンとルクソール訪問からカイロに戻り,あとは帰国だけの日程となる。二つの訪問地で比較的のんびりしてしまったので,西方砂漠には時間的に行けそうも無い。

戻ってきたときスルタンのドミはいっぱいだったので,その上のサファリに泊まることにした。ベッドはかなり汚れており,虫が出ないかと心配する。部屋は8畳,5ベッド,T/S共同で料金は11EPと安い。この季節になると夜はもうけっこう冷えるので毛布が必要だ。

この宿には長期滞在者が多く,集団自炊の仕組みがある。その日の夕食希望台帳に名前を記入すると,ほとんど材料費だけで夕食をいただくことができる。最初の日はフライドチキン,翌日はカツカレーと立派な献立が続く。

受付の前の共有スペースには日本のマンガが並んでおり,その気になれば一日中ソファーに坐って読書ということも可能だ。これらの本は超長期滞在者の男性が何回かに分けて日本から運んできたという。

その中には大島弓子の「綿の国星」が何冊か並んでいた。このあまりのマイナーさに驚く。竹宮恵子,萩尾望都と一緒に「花の24年組」といわれ,少女マンガの変革者の一翼を担った大島弓子の作品はユニークな絵とストーリーだったと記憶している。竹宮恵子,萩尾望都の作品は我が家にもけっこうあるが,大島弓子のものは皆無である。

彼女の代表作が「綿の国星」である。たまたま,ここの本の所有者と話す機会があり,大島弓子の珍しい作品があることに言及すると,うれしそうにいろいろと話をしてくれた。自分の思い入れのあるものについて他の人が理解を示してくれることはうれしいものだろう。

カイロ水道橋

とはいうもののマンガばかり読んでいるわけにもいかないのでお出かけする。メトロに乗りオールド・カイロの一つ手前のイル・マリク・イッサリーフ駅で下車する。

この近くには巨大なカイロ水道橋がある。この水道橋はナイル川の岸辺からシタデルの方に伸びている。往時はナイル川から水を汲み上げ,丘の上のシタデルまで運んでいたという。その間の高低差をカバーするために河岸に給水施設を設け,巨大な木製の水車を牛やラクダが回していたという。

メトロの駅から少し歩くと水道橋が見えてくる。すぐ横には歩道のない大きな道路があり,写真は撮りづらい。近くを歩いていた人の身長から推定すると水道橋の高さは11mくらいだ。

建材は大きさのそろった石材で,そのためか遠目にはレンガのようにも見える。道路と水道橋の間にはトタン板の仕切りがあり,その向こう側を覗いてみると半分ゴミ捨て場になっている。

近くのアパートのような建物から子どもが二人顔を出して手を振ってくれる。カメラを向けても平気なので一枚撮らせてもらう。洗濯物を干すためのワイヤーがちょっとジャマだね。

ナイル川に出る

水道橋の横の道路を車に用心しながらナイル川の方に歩き,河岸のコルニーシュ通りに出る。そこはオールドカイロから1.5kmほど北側である。ここを南に歩くとローダ島を横断しナイルの東西を結ぶローダ通りに出る。

ローダ島の東を流れるナイルは水量も多くなく日本の同程度の川よりずっと穏やかである。ローダ島に入るとモスクがあったので入ってみる。薄い緑色の地にアーチ門を形どったじゅうたんが一面に敷かれ,何人かの男性は礼拝をしている。

イスラムの礼拝は定時に行うことが義務付けれているが,時間の都合がつかなければ遅れてきて,自分ひとりで礼拝することも可能だ。

彼らの礼拝が一段落すると,ミフラーブの横でイマームが説教を始めた。回りの人々はあぐらをかいて楽な姿勢でその言葉を聞いている。ここは窓の多いモスクで照明がなくても十分に明るく,その中でイマームの説教が続いている。

ローダ通りはそのまま島を横断している。そこにはなんとケンタッキー・フライドチキンとピザ・ハットが一緒に入った店がある。しかもけっこう繁盛しているらしく,店の前には何台もの車が停まっている。

別にエジプトの人々がフライド・チキンを食べたらいけないなどというつもりはないが,どこの世界でもこのようなファスト・フードの店を見かけるようになるのはちょっと悲しい。

ナイルの本流に出る。水上に浮かべた船を模した大きなレストランがある。ナイルの流れと対岸の景色を見ながら食事ができるという趣向である。

この時間帯は営業しておらず,夕方から夜景を楽しみながらのディナーとなる。本来は観光客のためのものであろうが,このくらいのレストランで食事ができるエジプトの富裕層も増えてきており,それは社会の不安定要因となっている。

エジプトの大統領には再選を禁止する規定はない。27年にわたり権力の座に君臨するムバラク大統領は2008年に80歳になる。反対勢力を徹底的に封じ込めてきた長期政権に対する不満をもつ若者は誕生日(05/04)に合わせてインターネットでゼネストを呼びかけている。

ナイルの西岸に出てそのまま真っすぐ行くとギザ駅に出る。僕はその手前で右に曲がりカイロ動物園に向かう。道路の幅いっぱいににゴザを敷いて,そこで礼拝をしている人々がいる。

これでは車は通れず,礼拝による一時通行禁止時間となっている。人々は僕の歩いてくる方角に向かって礼拝しており,これはちょっと気まずい。あわてて横に逃げ,一段落したところで写真を撮る。

カイロ動物園

カイロ動物園の正面ゲートには「Giza zoo」と記されていた。入場料はカメラ持込料金込みで0.5EP(10円)である。これは余りにも安過ぎる。この料金では動物の餌代などはとても出るものではない。

敷地面積は10ha以上あり,僕はあっさり帰り道が分からなくなった。この動物園では少なくとも草食動物はとても優遇され,広い敷地に放されている。

立派な角をもつ「バーバリー・シープ(と思う)」はアフリカで唯一の野生の羊である。広い敷地に数十頭がおり,飼育係が餌を地面に置くと砂埃を巻き上げながら集まってくる。飼育係も心得たもので,鉄格子の近くに餌を置いてくれる。動物を近くで見れるのはうれしいが,この砂埃には閉口した。

ペインティング・サービス

園内の所々にはペインティング・サービスの店がある。そこでは子どもたちの顔に動物のペイントをしてくれる。これが見事な腕前だ。思わず笑ってしまう三人娘の写真を紹介しよう。園内にはこのようないでたちの子どもたちが大勢いる。

動物園にやってくる地元の人々は半分ピクニックに来ているようだ。あちらこちらに敷物を敷いて,何家族かがお弁当やチャイを広げている。この日は休日かどうかは分からないが本当に人出は多い。

子どもたちはカメラに対してまったく拒否反応はない。小さな集団にカメラを向けると,近くの子どもたちが集まってきてちょっとした騒ぎになってしまう。園内は樹木が多いのでそれほど明るくない。子どもたちが動くと被写体ブレになるので動きが止まってからシャッターを押す。

小学生低学年の子どもたちの集団

先生に引率された小学生低学年の子どもたちもいる。気の毒に彼らは迷子にならないため手をじゅんぐりに縛られている。こうすると一人だけでは勝手に動くことはできない。

しかし,引っぱられるとひもが腕に食い込むし,オリの前でも自由に見ることができない。この子達と一緒に回ると主要なものが見られるにちがいないと考え,後をついていくことにする。

シロオリックス

見事な角をもった「シロオリックス」もサハラ砂漠の動物である。立派な体格をしているにもかかわらず,食べ物から水分をとることができるので数週間は水を飲まずに過ごすことができるという乾燥適応動物である。

鳥類は2006年に殺処分された

ペリカンは大きくて見栄えのする鳥だ。ここでは棒の先に魚をつけてプールに差し出し,ペリカンに餌を与えることができる。1回1EPくらいだと記憶している。入場料が余りにも安く餌代も出ないのでこのようなサービスを考え付いたのかな。

この動物園の鳥類には悲しい出来事が発生した。2006年2月にエジプトで高病原性鳥インフルエンザウイルス(H5N1型)の家禽への感染が確認された。カイロ動物園でもアヒルなど80羽以上が死んでいるのが見つかり,そのうち6羽からウイルスが検出された。

園内の563羽の鳥はすべて処分された。園内のすべての施設は消毒され,2週間後に再開されたという。この動物園では人間と鳥の距離は極めて近い。入園者がペリカンに与えるときは,1mと離れていない。

現在,この動物園にいる鳥類は2006年の処分の後にやってきたものである。オープンサイトのこの動物園では渡り鳥と飼育動物を引き離すことは極めて難しい。世界中で高病原性鳥インフルエンザウイルスの感染頻度は上がっており,2006年の悲劇が再現されないという保証はまったくない。

シュバシコウ(朱嘴鸛)はヨーロッパ,アフリカ,西アジアに住むコウノトリの仲間だ。東アジアのコウノトリが絶滅危惧種になっているが,こちらの方は生息数が数十万羽であり,まだ心配はない。たくさん生息していることもあり,ここのシュバシコウの飼育密度はとても高い。

猛獣館はとても混雑していた

さきほどの数珠つなぎの子どもたちは固まって見学している。人ごみがすごかったのは猛獣館である。建物の中にオリがあるため通路はひどく混雑している。家族連れの大人は子どもを肩車にして見学させている。

僕と一緒の子どもたちは全然オリの中は見えない状態だ。気の毒なので何人かを持ち上げて見学補助員を務める。この一件で子どもたちはずいぶん慣れてくれて,近くで休んでいるときの写真は笑顔が多い。

焼き芋の屋台

動物園を出ると門の前には焼き芋の屋台があった。日本のように石を使用しているかどうかは確認できなかったが,金属容器の中で蒸し焼きにするところは同じだ。

エジプトでは焼き芋がごく当たり前にあるようだ。検索サイトで「エジプト,焼き芋」で検索してみたら4万件を越えていた。なあんだ,みんな知っているんだと思うと,ちょっと残念な気がする。

アズハル公園

前回はシタデルの北側からアズハル公園に行こうとしてあっさり道に迷った。今回はアズハル通りから再挑戦することにする。前回,見なかったフセイン広場に向かう。

ここはハーン・ハリーリの東の外れになっており,土産物屋とカフェがずいぶん多い。観光客もずいぶん多く,周辺には観光バスも停まっている。正面にはガーマ・ホセインのトルコ風の細いミナレットが空に向かってすっと立ち上がっている。

ここはイスラム地区らしからぬ明るさをもったところだ。周辺の建物もなんとなく垢抜けている。しかし,観光客が多すぎてこの場所は疲れる。さっさとアズハル公園に向かうことにする。

道路は丘の斜面を迂回するように続いているので,地元の人の後をついて細い道をまっすぐ上って行く。丘の上は整備された公園になっており,家族連れで遊びに来ている人が多い。何か催し物があるのか半円状の石段にはたくさんの人々が集まっている。

この丘の上からはカイロの街を眺望することができる。どこを見渡しても家屋が密集している。オフィスビルは新市街にあるだけで,ここから見える範囲はほとんどが住宅用家屋である。大カイロ圏はともかくとしてカイロ市における人口密度は東京23区のそれをはるかに上回っているように見える。


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