トラブゾンは黒海沿岸に面しており人口は約15万人,トルコ東北部の経済の中心となる重要な港湾都市である。この町は紀元前7世紀にギリシア人によって交易都市として建設され,黒海を利用した中継貿易あるいは陸路による通商路の基点として繁栄していた。
アナトリア西部がローマ帝国に支配された2世紀以降,さほど経済的な重要性を持たなかった黒海の東部沿岸はローマ帝国の従属地方となるのにとどまっていた。3世紀になるとバルト海南部からゴート人(東ゲルマン民族に分類されるドイツ平原の古民族)が黒海の東岸に南下し,トラブゾンの町は258年にゴート人に破壊された。
その後,東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の地方都市として復活している。この町が歴史の表舞台に顔を出すのは13世紀である。1204年にビザンツ帝国が第4回十字軍に占領されたとき,皇族の一部はトラブゾンに逃れた。彼らはグルジア女王タマルの支援を受けて亡命政権トレビゾンド帝国を建国した。
当初はコンスタンチノープルの奪回を図ろうとしており,アナトリアの北岸および東黒海を支配する勢いであったが,同じ東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国やチュルク系のセルジューク朝に敗れ,ポントス地方の地方政権となった。
それでもトレビゾンド帝国は1461年まで約250年間存続し,東ローマ世界の飛び地としてギリシャ正教の文化が花開いた。首都トレビゾンド(現在のトラブゾン)に残る聖ソフィア聖堂,ポントスの山中に残るスメラ修道院などがその時代の代表的な建築物である。
トレビゾンドの名前がトラブゾンとなってのはオスマン帝国に併合された時からである。オスマン帝国は宗教に対しては寛容だったので,トレビゾンド帝国民の末裔であるギリシャ系の人々は,その後もこの地域で暮らし続け,後にポントス人と呼ばれることになる。
19世紀から20世紀にかけて黒海の北岸と東岸に勢力を拡大してきた帝政ロシアは,オスマン帝国内の民族分離運動を支持することを口実に4回にわたり戦い,黒海地方はこの戦争の舞台ともなった。
第一次世界大戦後にイスタンブール政府と結ばれた「セーブル条約」により,オスマン帝国の旧領土は完全に解体された。同時にトルコ本土ともいうべき現在のトルコ共和国の領土も大幅に削られることになった。
ギリシャ軍はエーゲ海沿岸のイズミイルとトラブゾン周辺のポントス地方を占拠した。しかし,戦勝国によるトルコの占領に反対するアタテュルクが率いるアンカラ政府軍の激しい抵抗を受け,撤退した。
1923年にアンカラ政府は共和制を宣言し,翌1924年にカリフを廃し,イスラム世界では初の世俗主義国家トルコ共和国が誕生した。共和国の父と呼ばれるアタチュルクはイスラムの諸制度を廃止し,欧州型の脱イスラム国家建設を目指して政教分離を国是とした。
その後,トルコ共和国とギリシャ間の「住民交換協定」が結ばれ,90万人ものギリシャ系住民がギリシャへの移住を余儀なくされた。ポントス地域からもギリシャ系住民は立ち去り,現在,トルコ共和国にはほとんどギリシャ人は居住していない。
ソ連邦が崩壊した1990年代,トラブゾンは航路および陸路で旧ソ連圏と結ばれていた関係で多くのロシア人,グルジア人などが商売のために訪れ,「ロシアンバザール」を形成していた。僕が訪れた2007年夏には,ロシアはすでに経済的混乱から立ち直っており,ロシアン・バザールは消滅していた。
クタイシ(136km)→バトゥミ(211km)→トラブゾン 移動
07:30に起床,今朝も盛りだくさんの朝食でスリコ夫人の「さあ,食べて」攻撃が厳しい。たっぷり2食分をいただき,しばらく横になっている。荷物をまとめ夫人にお礼を言ってお別れする。旅をしていてこのようにすばらしい民宿にめぐり合えることはとてもラッキーなことだ。
1番のバスで駅前の長距離BTまで移動し,バトゥミ行きのミニバスを見つける。車内で払ったので料金の8ラリはちょっと怪しい。バトゥミは黒海に面した港湾都市で,ソ連時代にグルジアに編入されてからもアチャラ自治共和国として強い自治権を保持してきた。1991年のグルジア独立時以降も半独立国のようになっていたが,現在のサアカシュヴィリ大統領が平和裏にこの地域を統合した。
ミニバスは3時間ほどでバトゥミの長距離BTに到着した。トルコとのサルピ国境に向かうミニバスは中心部のトビリシ広場から出ている。BTから線路沿いの道を西に行けばいいのだが,その道が見つからない。時間が惜しいのでタクシーで移動したら,ずいぶん近いので損をした気分だ。
タクシーの運転手は国境行きのミニバスまで僕を連れて行ってくれた。このミニバスは黒海の沿岸の道を進み,途中でたくさんの海水浴場を見かけた。やがて,海岸の先にドームとミナレットが見えてきた。
トルコとの国境は金網で囲われており,その間を進むことになる。両国のイミグレーション業務はスムーズで,荷物検査の類は一切なかった。出国そして入国のスタンプが押され,ごく簡単にトルコに入ることができた。
国境での両替はレートが悪いと聞いていたので,両替はトラブゾンに到着してからすることにする。もっともトルコ側には銀行も両替所も無く,両替のしようがなかった。近くの商店でビンコーラを注文し5$紙幣を出すと,5.5リラのおつりがきた。5$=6.5リラでコーラが1リラということらしい。この1$=1.3リラはトルコにおける銀行レートより良かった。
ともあれ,ビンコーラが1リラ(90円)ということは物価の水準が日本に近いということである。今まで滞在していたグルジアの通貨はラリで,国境を越えるとリラに変わる。これはとても混同しやすい。国境の近くにはドルムシュ(トルコのミニバス,以前は乗り合いタクシーであったが,最近は大型のバンに変わっている)が待機している。料金はトラブゾンまで15$(19.5リラ)とひどく高い。
近くにあるホパの町まで行くミニバスはないかとしばらく待っていたが,どうやらこのドルムシュ以外には無さそうだ。グルジアから来た青年たちもこの料金でずいぶんもめていた。
後で分かったことだが,ドルムシュは国境から200km離れたトラブゾンまで行くほど営業範囲が広くない。国境,ホパ,リセという沿道のドルムシュが連携して,乗客をリレーで運ぶ仕組みができていた。
僕は国境で15$を払い,運転手の指示によりホパ,リセで乗り換えることになった。とても面倒だし,不安になる。連合ドルムシュはトラブゾンの空港近くの路上で乗客を降ろした。
ここから街の中心部にあるアタチュルク広場までは3-4kmあるのでまたドルムシュで行かなければならない。とまどいながらもとなりの人の助けでなんとかドルムシュをつかまえることができた。この市内移動用のドルムシュは1リラの均一料金なので使い勝手がよい。10人くらい乗れるバンはスライドドアが自動扉となっており,ちょっと驚かされる。
Hotel Yuvan
アタチュルク広場の北側に両替商が多いのでそこでまず両替をする。窓口に100$紙幣を出すと,パスポートのチェックなどはまったく無く,1分後には130リラが手渡された。
トルコは1990年代から年率100%を越える激しいインフレが続き,通貨リラの価値はどんどん下落し,2004年には最高額紙幣の2000万リラが15$という異常なことになっていた。
これはEU加盟を目指すトルコにとってはどうしても解決しなければならない課題となっていた。エルドアン政権は2003年秋にデノミ実施を発表し高インフレ体質からの決別を宣言していた。
2005年1月1日から100万分の1のデノミネーションを実施した。新しい通貨は新トルコ・リラと呼ばれているが,「新」の呼称が無くなるのもそう遠い将来ではない。
これにより,1$=1.65リラになり,新紙幣を手にしたエルドアン首相は「ゼロが並ぶ恥辱がなくなりとてもうれしい」と語ったという。現在も経済成長とともにインフレは数%のレベルに下がってきており,対ドルの通貨レートもユーロに連動するように上がっている。
これはとりもなおさずトルコ・リラが日本円に対してもかなり高くなっているということであり,物価上昇とのダブル・パンチとなっている。物価の安いトルコはもう過去の話になっており,僕の訪問したアジアの国の中ではもっとも生活費の高い国となっている。
アタチュルク広場の北東側にたくさんあるホテル街に向かう。予定していたエルズルムはあっさり満室と断られた。アニルは30リラと値段が全然折り合わない。Yuban では一番狭い部屋が15リラであった。
僕は13リラ(10$)と主張し,おばさんに「それなら他を当たってくれ」と言われ,外に出ようとするとおばさんに引き止められて13で泊まれることになった。
この部屋は3畳,1ベッド,T/Sは共同で清潔である。さすがに狭いけれど,窓もあり居心地はそれほど悪くない。トルコに入るとトイレとシャワー室が格段に清潔になる。
このホテルの廊下,階段の照明は非常灯のみで,通常照明は音に反応して自動的に点灯し,10-15秒ほどで自動的に消灯する。僕の足音はセンサーには小さすぎるのかときどき灯りがつかず,手を打ち鳴らして灯りをつけることもあった。このあたりはヨーロッパ的な設備である。
トルコの食堂
旅をしているときに食堂で注文するのはそれほど簡単なことではない。ぼくもしょっちゅう注文に困り,他の人が食べているものを指差して「これを下さい」とやっていた。
トルコでも料理の名前などはまったく分からないので苦労するかなと思っていたら,ロカンタというトルコ風の大衆食堂では出来合いの料理が何種類も金属製の容器に入れられて店先に置かれている。
欲しい料理を指差せばそれを皿に盛ってくれる。金属容器は下から加熱されているのでいつも暖かい料理を食べることができる。主食のパンはフランスパンを軟らかくしたようなものが小さなサイズに切られてプラスチックの容器の中に入っている。
このパンはフリーなのでいくら食べてもよい。料理1皿の料金は4-6リラといったところだ。場所にもよるが1皿に複数の料理を盛ってもらうこともできる。味はほとんどがトマトソース味なので,味が混ざって困るという事態にはならない。
このロカンタのおかげでトルコではずいぶん食事は楽だった。とはいうものの4リラは360円に相当し,トルコの物価の高さが身にしみる。
トルコ最初の夜の食事は牛肉と野菜の煮物である。久しぶりの煮物ということもあり,感激しながらいただいた。ロカンタには焼き物,炒め物もあるけれど,煮物は当たり外れがない。
アタチュルク広場の周辺はチャイハネになっており,テーブルが合わせて100個くらい並べられている。20時を過ぎてもその多くには客が坐っておりとても繁盛している。僕もそこに坐りチャイを頼む。トルコのチャイはレモンティーである。受け皿の横にはレモンの輪切りが添えられている。
味はまあまあ,砂糖を3個入れていただく。値段は0.6リラ,コーラの1リラに比べるとずいぶん安い。宿に帰る途中に食料品屋があったのでペットボトルの水(0.75リラ)を買う。
トルコ文字
07時に起床,昨夜は意外と蒸し暑かった。黒海に面しているので湿度はかなり高そうだ。窓は閉めてシーツも被らずに寝た。朝起きても昨日の洗濯物が乾いていない。そのままにしておいたら少し臭いがついてしまった。
顔を洗う前にシャワーを浴びる。水が冷たくて気持ちがよい。トイレを兼ねた洗面所は白いタイル張りになっており,とても清潔である。
とりあえず近所の食堂で朝食をいただく。朝のメニューはスープかサラダである。どちらも2.5リラ,食べ放題のパンが付いているので立派な朝食になる。
街並みはとてもきれいだ。アタチュルク広場からはずっと坂道を登るようになっているが,ゴミも無く歩道もちゃんと整備されている。通りに面した商店も明るい感じで,トルコ経済が好調なことを裏付けている。
商店などの看板はほとんどラテン文字になっており,意味は分からなくてもおおよその発音は分かる。なるほどホテルは「otel」というのか,という具合である。トルコは共和国が成立した年にオスマン時代のアラビア文字からラテン文字に切り替えた。
トルコ語の発音をカバーするため通常のアルファベットに発音記号が付加されたものが付け加えられている。この文字のラテン化もアタチュルクの功績の一つである。
この新しい文字はうまく機能したらしく,切り替え時の混乱はほとんど無かったという。現在,アラビア文字はコーラン以外には使用されていない。
坂を下っていくと広場の北側の通りは石畳になっている。自然石を加工してレンガ大にしたものをきれいに敷きつめている。通りの中央には一段高くなった分離帯があり,そこには共和国とアタチュルクと思われる人物の旗が掲げられていた。
アタチュルク広場には当然,彼の軍服姿の銅像がある。本名はムスタファ・ケマルであるが,革命当時,彼はケマル・パシャ(ケマル将軍)と呼ばれていた。
さらに創姓法が施行され国民はすべからく姓をもつようになった。そのときケマルに対しては国民議会から「アタチュルク(トルコの父)」という姓が送られた。
彼は政治的にはある意味の「独裁者」であったが,分解寸前の国家を安定させ近代国家に移行させることに成功した。彼は救国の英雄,共和国の父として現在に至るまでトルコ国民の深い敬愛を受け続けている。
トルコ人はとても親日的
今日は街の西側2.5kmのところにあるアヤソフィア博物館に出かける。トラブゾンの街は海岸に沿って東西に広がっており,内陸側はかなりの傾斜の斜面となっている。
アタチュルク広場から西に伸びるマラッシュ大通りはこの街の目抜き通りとなっている。両側には商店や銀行が立ち並び,ATMもたくさん設置されている。国際キャッシュカードを入れると英語のメニューが出てくる。
引き落とし額は何種類かの中から選択するようにできている。400リラを選択するとすぐに紙幣が出てくる。この便利さはT/Cの比ではない。帰国後に取引明細をチェックしたところ1リラは93.42円となっていた。
当時の為替レートは1$ = 1.3リラ = 115円だったので1リラ = 88.5円に相当するので,手数料(銀行手数料と為替手数料)が5円近くかかっている計算となる。まあ,日本のシティバンクでドル紙幣を引き出すと手数料が2円なのでしかたがないところかもしれないが,シティバンクのドル決済口座のクレジットカードを使用する方が明らかに有利だ。
街並みはヨーロッパの重厚さは無いものの,ヨーロッパを感じさせる。表の看板がラテン文字なのもヨーロッパを感じさせる一因となっている。家の前には小さなイスが置かれ,男たちがお茶を飲んでいる。小さなグラスに茶葉をそのまま入れているので砂糖を入れてかきまぜると茶葉が動き出す。
男たちから声がかかり,今朝は2回お茶をいただいた。おそらく彼らは僕が日本人だということを認識しているのだと思う。トルコ人は非常に親日的であることはよく知られており,その要因は二つあるとされている。
一つはオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥールル号の海難事故に関わるものである。1890年(明治23年)9月16日夜半,日本を表敬訪問して帰路についたエルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ,紀伊大島の樫野崎近くで座礁した。
船は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こして沈没した。これは587名が死亡または行方不明になる大惨事となった。最寄の大島村(現在の串本町)の住民たちは総出で遭難者の救助に当たった。
乏しい蓄えの中から食料,衣類を供出し,献身的に生存者たちを手当てしたことにより,69名が故国に生還することができた。エルトゥールル号の遭難および村民の献身的な救助,日本国政府の尽力はオスマン帝国内でも新聞で大きく報道された。
もう一つは日露戦争である。この戦争で日本が勝利すると,長らく帝政ロシアの南下圧力にさらされてきたオスマン帝国の人々は東の小国日本の快挙として熱狂したという。
この二つの出来事によりトルコ国民の対日感情はとても良い。余談になるがイラン・イラク戦争のさ中の1985年にイラクは48時間の猶予期限をもつイラン上空の航空機に対する無差別攻撃宣言を出した。
出国を急ぐイラン在留日本人は日本国政府の救援を受けられず危機的状況にあったとき,トルコ政府から派遣されたトルコ航空機によって猶予期限内にトルコに移動し,無事日本に帰国できたというこころ暖まる逸話もある。
このとき日本の商社や大使館からの救援要請にトルコ政府が快諾した背景には100年前のエルトゥールル号の海難事故の恩返し意味合いがあったとされている。
果物屋の店先では
果物屋の店先では少し縦にしわの入った果物がたくさん並べられている。地元のひとはカオンと呼んでおり,おそらくメロンの一種であろう。街頭にはときどきパンスタンドがあった。ドーナッツ・サイズのパンが2個で0.6リラ,アヤソフィア博物館の塀に坐り,黒海を見ながら昼食とした。
街頭でもう一つ目立っていたのは魚屋である。台の上に小鯵の入った箱を何箱も並べている。トラブゾンは漁業が盛んなのでこのような光景が見られる。体格の良い男性がカメラを構える僕のほうを見てポーズを取ってくれる。
次々とチャイに誘われる
果物屋の店先を歩いていたらまた呼び止められてしまった。「まあ,坐って」とイスが出され,チャイが運ばれてくる。もう3杯目のお茶である。もっとも,グラスが小さいのでそれほどお腹の負担にはならない。二人の男性の写真を撮り,お礼を言って先を急ぐ。
しかし,10分後にはまたつかまってしまった。店先で出されたチャイを飲んでいると青年が具を何枚もの薄い皮で包んだようなパンを持って現れた。僕も勧められるままに少しいただく。具の内容は良く分からない。パサパサしており,舌触りも余り良くない。それでも,3切れほどお付き合いした。
大通りはトラブゾンの街を囲む城壁に行き当たり,大きなアーチ門をくぐって先に続いている。大きな交差点のところから坂道を登っていくとようやくアヤソフィア博物館に到着した。
アヤソフィア(教会)博物館
トラブゾンは紀元前にギリシャ人が造り,3世紀に南下してきたゴート人に一度破壊されている。その後はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の地方都市として復活した。
ローマ帝国でキリスト教が公認されたのは4世紀,トラブゾンにも5世紀にキリスト教の教会が建造された。これがアヤソフィアである。4世紀の末期にローマ帝国が東西に分裂し,キリスト教会もしだいに東西で独自の道を歩むようになった時期にあたる。
その後,トレビンド帝国の時代の13世紀に大改修された。鐘楼は15世紀のものである。15世紀後半からオスマン帝国の支配下に入り,教会はモスクとして使用された。
そのとき,寺院の内部のフレスコ画はそのまま漆くいで上塗りされた。このおかげで貴重なフレスコ画は20世紀まで保存されることになった。
オスマン帝国からトルコ共和国に変わったとき,ギリシャとの間に「住民交換協定」が結ばれ,この地のギリシャ人は去っていった。後に残された教会は博物館として保存されている。
博物館は黒海を見下ろす高台の上にある。敷地はかなり広く中央に博物館の建物が,その左側に細長い直方体の建物に四角錐の帽子のような屋根を乗せた鐘楼がある。アヤ・ソフィアは長方形十字プランのビザンツ様式となっており,中央にはドームが置かれている。
写真でチェックすると東側にはアプス(後陣)と思われる張り出し構造があるが,内部を見たときにはその記憶がない。
正面の入口は三連のアーチ門になっており,柱頭はギリシャを思わせる装飾が施されている。その上の大アーチにはレリーフが刻まれているが内容は分からない。最上部には鷲の紋章,これはおそらくトレビンド帝国の紋章であろう,が飾られている。
三種類の文字にこの土地の歴史を知る
手前側はよく整備された庭園になっており,たくさんの石板が並べられている。文字をチェックするとギリシャ文字,アラビア文字,グルジア文字に似た文字などがあり,この地域のたどってきた歴史が読み取れる。また教会のミニチュアの石像も並べられている。
陸ガメがのんびり歩いている
建物の外観を眺めながら歩いていると,のそのそと歩いている陸ガメが目に入った。甲羅の大きさが30cmほどある大きなものだ。陸ガメは名前の通り陸上生活に適応したカメで,旧大陸ではヨーロッパ,アジア,アフリカに生息している。
陸上生活では必要がないので足には水かきがなく,爪のついた太い足でのんびり歩き回る。ほとんどが草食性で性格はおとなしい。ここのものは甲羅の模様からしておそらく「ギリシャリクガメ」であろう。
フレスコ画が残されている
中央のドームは4つのがっしりとしたアーチに支えられており,その天井と周辺はフレスコ画で埋められている。天井部分のフレスコ画はかなり剥離しているが周辺のものはかなり良い状態で保存されている。隣の部屋にも聖書を題材にしたフレスコ画があり,かなり見ごたえはある。
高台から黒海を眺望する
高台の北側は黒海を望むビューポイントになっている。緩やかな弧を描く海岸線の北西には斜面に密集する街並みが見える。高台のすぐ下の海岸沿いに大きな道路が走っており,その手前は公園のようになっている。
正面で大きな道路は立体交差のための陸橋になっており,風景のジャマをしている。黒海は青い輝きになっており,水平線が眺望できる。近くでは大型の漁船が網を巻き上げている。船の周囲にはたくさんのカモメが群がっているが,僕のカメラでは小さすぎて捕らえきれない。
高台を降りて正面の海岸で黒海を眺める。黒海はそれほど水がきれいとは思わなかったが,海面は青く輝きその西側は海岸から斜面にかけて街が続いている。東側はトラブゾンの中心部の中層ビルが立ち並んでいる。
海岸は巨大な石が護岸のために並べられており,釣り人が波打ち際から竿を伸ばしている。ここまで来ると,さきほど高台で撮れなかった漁船にまとわりつくカモメがデジタル・ズームを使うとなんとか判別できる程度に写すことができる。
すでに網は巻き上げられてしまっており,それでもカモメたちは船尾に群がっている。この場所から背後の高台を見上げるとアヤ・ソフィアが堂々とそびえている。
バザールのような商店街
宿の周辺はいくつかのバザールのような商店街がある。道幅は狭く,かなりの坂道の連続で車は入ってこれない。商店は同じ商品を扱うものがだいたい固まっている。
女性たちの服装は西欧化しているがスカーフを着用している人が多い。トルコでは政教分離の建前から公共施設におけるスカーフの着用を禁止している。そのためスカーフを被りたい女性は大学に進学できないという副作用が起きている。
現在のイスラム寄り政権は,教育機会の均等を理由に大学におけるスカーフの着用を認める法案を2008年の初めに可決した。ここを突破口にアタチュルクがトルコ近代化の最大の障害としたイスラム化が進むかもしれない。
小鯵と大きな魚
ここにも街角でよく見かけた小鯵が大量に売られている。となりには1mもある大きな魚も売られている。僕が写真を撮ろうとすると,おじさんは吊るされた魚の口に小鯵を入れて,大きな魚が小魚を食べようとしている姿を演出してくれた。大きな身体に似合わず茶目っ気の多い人だ。
巨大なキャベツ
八百屋ではキャベツが売られていた。その大きさは半端ではない。直径40-50cmはありそうだ。ここから北の港に坂を下ってみた。大きな船舶が接岸しており,巨大な荷物運搬用のクレーンが動いている。しかし,港湾施設一帯は立ち入り禁止となっていた。
ヘーゼルナッツであろう
果実(堅果)だけ見ると大きなドングリといったところであるが,果実の回りを包んでいる房の部分からヘーゼルナッツ(ハシバミの実)であろうと推定した。食用に供される代表的な種実類(ナッツ)として世界的に広く流通している。
ヘーゼルナッツを調べてみたら「トルコヘーゼルナッツ協会」のサイトが見つかった。ヘーゼルナッツはトルコの特産品といってもよいほどであり,世界生産量約100万トンのうち75%はトルコで生産されている。
当然,世界の輸出量の75%ほどはトルコ産のものである。主な消費地はヨーロッパであり,日本には年間500-700トンほどが輸出されている。これは日本の輸入量の95%に相当する。
トラブゾンの周辺もヘーゼルナッツの生産量が増加しており,山村のもっとも重要な農産物の一つとなっている。
日本人にとっては殻つきのヘーゼルナッツはそのままドングリを連想してしまい,「えっ,食用になるの」と考えてしまうが,殻をむいてからローストすれば市販のものと同じように食べることができる…とレシピに書いてあった。
日本のドングリ,特にコナラ属(クヌギ,カシワ,ナラ類,カシ類)のものは「タンニン」をたくさん含んでおりそのままでは渋くて食用にはならない。
「タンニン」は植物が動物の食害に対抗して作り出す物質であり,大量に摂取すると中毒を起こす可能性がある。ヨーロッパでは家畜や野生動物がドングリをよく食べ,ときには中毒で死亡することもある。
一本ミナレットのモスク
アタチュルク広場に戻りチャイハネでお茶にする。昼間からここのチャイハネはずいぶん混雑している。一休みしてからボズテペの丘を目指してアタチュルク広場から南に向かう。
チャイの風景
広場の横の坂道を登って行くと斜面を利用した公園とチャイハネがある。家族連れでにぎわっているのでここは時間があれば帰りに立ち寄るとしよう。坂道をさらに行くと新しいモスクがあった。細い1本のミナレットがトルコ・スタイルのようだ。
男性たちがモスクの外でお茶を飲んでいる。写真を撮ったら「まあ,一杯」となり,今日何杯目かのお茶になる。トルコの男性はこの「まあ,一杯」が日常の挨拶のようになっている。
先ほどのモスクが眼下に見える
急な坂道を登って行くとだんだん景色は良くなる。先ほどのモスクが眼下に見えるようになり,普段はなかなか目にすることのできないモスクのドーム構造が良く分かる。
ドームが多いモスク
このようにたくさんのドームが競り上がっていくような巨大なモスクはオスマン帝国の最盛期のイスタンブールやエディルネで建造された。ここのものは(失礼ながら)それらの巨大モスクのミニチュアのように見える。とはいうものの,このモスクの内部は十分に広くなおかつ二階席まである。
ボズテペの丘
斜面に駐車場とチャイハネがあり,どうやらここがビューポイントのようだ。黒海は少し霞んでいるが,トラブゾンの街は一望できる。
屋根は瓦で一様に赤茶色である。このように統一感のある街並みを作る発想はヨーロッパ的である。建築方法に鉄筋コンクリートが登場してきてもその考え方は変わっていないようだ。
家を建てられる平地が少ないので家屋の密度は非常に高い。斜面から乗り出すように丸いコンクリートの展望テラスがあり,人々はそこでお茶を楽しんでいる。このチャイハネからバラ線の柵をくぐり少し奥に入ったところまで行くと,港の景色が良く見える。
子どもたち
帰りには2人の少女に出会い,写真を撮りヨーヨーを作ってあげると,ギャラリーが増え,つごう4個を作ることになった。
広場の遊園地
広場の横の遊園地に寄ってみたがあまりいい写真にはならなかった。チャイハネの方は落ち葉の中でそれなりの風情がある。ここのチャイハネもずいぶん繁盛している。
中心部の道路は狭い
中心部はギリシャ植民地の時代の街並みがそのまま残っているのだろう。現在のように車が走るのにはちょっと狭い。もっともその狭さと石畳の道路がこの町の歴史を物語っている。日本では家屋の寿命が短く,スクラップ・アンド・ビルトの繰り返しで古い街並みがどんどん変わってしまっていく。そのような経済活動が日本のGNPを支えている。
マックのメニューは日本と変わらない
マックのメニューは日本とほぼ同じである。イスラム国家のトルコでは牛肉のハンバーガーは食の禁忌に触れないのでそのまま出すことができる。ただし,イスラムの定める方法で屠殺したハラル・ミートに限られる。厳密にいうと日本にやってきたムスリムのトルコ人はファストフードのハンバーガーを食べることはできない。
メニューに記載されている7.5リラはその当時の換算で600円くらいになる。国際的な物価水準をみる尺度としてよくマクドナルドのハンバーガーの価格が用いられる。それからするとトルコは物価の高い国なのである。