亜細亜の街角
小さな鉱山町と世界遺産
Home 亜細亜の街角 | Alaverdyhi / Armenia / Sep 2007

アラヴェルディ  (地域地図を開く)

アルメニアは新生代,中生代の造山帯の中央に位置しているので国内に多数の火山性塊状硫化物鉱床が点在する。現在でも規模は小さいものの金,銀,銅,モリブデンなどを産出している。

アラヴェルディのあるデベト渓谷は18世紀からの銅山の町として知られており,帝政ロシア時代には全国の銅の1/4を産出していた。現在でも細々と採掘は行われている。

10-13世紀にかけてこの地域にはたくさんのアルメニア使徒教会の修道院や教会が建設され,中世アルメニアにおける学芸の中心地の一つであった。サナヒン修道院およびハグパット修道院はユネスコの世界遺産に登録されている。

イェレバン(170km)→アラベルディ 移動

居心地の良かった「リダおばさんの家」に別れを告げて68番の市内マルシュルートカで中央BTに行く。ここからはほとんどの町に行くバスが出ているはずであるがアラヴェルディ行きのものは無いと言われる。

聞き方が悪かったのかもしれない。国境のバグラタシェン,あるいは手前のヴァルゾナと聞いていれば違った答えになったかもしれない。しかし,これは困った。

68番のマルシュルートカでメトロのゾラヴェル駅に戻り,GUMデパートの周辺でバスを探してみたが,結局マルシュルートカしか見つからなかった。アラヴェルディまでの料金は20Drとバスの4倍である。ヴァルゾナまでバスで行き,そこからマルシュルートカに乗り換えた方が相当安上がりのようだ。

ということで出発は10:15になった。道路状態は良く,感じの良い村をいくつか通り過ぎる。広大な放牧地では100頭,あるいは200頭くらいの牛の群れが見られる。11:15にフラスダンと思われる町でトイレ休憩となる。

ここはセヴァン湖との分岐点にあたる町だが記憶にはない。落ち着いたきれいな町で,路上でおばあさんが細いニンジンを束にして売っていた。この先も山がちなアルメニアにしては珍しい平地の風景が広がっている。もちろん平地の向こうには山が控えている。

峠を下ったあたりで川沿いの道になり,周辺は緑の多い谷の風景となる。アラヴェルディはもう近いかなと思っていたら,このデベド渓谷はけっこう長い間続いていた。いくつかの集落を過ぎて13:30にようやくアラヴェルディに到着した。

回りにはバスがたくさん停まっていたので旧バスターミナルと勘違いしてしまった。「バグザール(ロシア語のBT)」と聞くと回りの人はうなずくので,すっかり信用してしまった。それではとデベド川を左に見ながら歩き出す。

そのまま歩いていくと橋に出て,町はそこで終わっていた。ようやく反対側に歩いてきたことに気が付いたが,宿までは2.5kmも離れてしまった。

アヴェテャン家

タクシーが通りかかり10Drで東側の橋まで行くと言う。さすがに高過ぎるので5Drにしたが,またもや出費がかさんでしまった。東の橋を渡ったところにアヴェテャン家(ここが民宿をやっている)のやっている商店がある。そこで降ろしてもらう。

管理をしているおばあさんが不在だったため,しばらく待たされる。おばあさんが戻ってきて案内してくれる。店の北側にアパートがあり,その裏から中に入る。アパートの部屋は居間兼寝室の1部屋で,となりに台所と浴室がある。

部屋にはベッドが2つ,それにソファーがあるので3人まで泊まることができる。ベッドはコイルスプリングが縦横に張ってあり,そのうえにマットレスが置かれているもので妙にふわふわして寝心地は良くない。バスタブには水が張ってあり,それで水浴びは可能だ。

おばあさんに料金をたずねるとガイドブックの通り20Dr(600円)であった。これはなかなかの値段だ。それでも評判の悪いホテル・デベドの半額程度の料金だ。おばあさんに50Drを渡すとそれっきりおつりは返ってこなかった。

翌日の夕方,僕がおつりを要求するとおばあさんは何やら腑におちないようだ。となりの部屋の英語ができるおばさんを連れてきて説明が始まる。おばあさんは僕がすでに2泊してると勘違いしていたようだ。おつりの10Drが戻ってきて一件落着である。

デベド川の南を歩く

アラヴェルディの町は北西から南東にゆるやかな弧を描くデベド川の両側に広がっている。商業地区や鉱業地区は川の北側にある。川の両側に道路があり,東側と西側の橋が両側をつないでいる。二つの橋は2.5kmほど離れており,その間に街の中心部がある。

見どころのサナヒン修道院は位置的には宿のすぐ南にあるが,そこは崖になっておりとても登れるようなところではない。サナヒン修道院に行くには街の中心部と対岸の崖の上にあるサナヒン村を結ぶロープウェイがあるので,それを利用することになる。

西の橋のところからサナヒン村に向かう道がある。しかし,このルートは車ならいざしらず徒歩ではとても遠回りになる。僕は少し高くなった南側からアラヴェルディの写真を撮るため南側の道を歩いてみる。

少し歩くと鉱業地区となり,高い煙突がそびえており,かなり老朽化した設備や建物が周辺に密集している。背後には岩山が迫っており,この風景は「天空の城ラピュタ」に出てくる鉱山町を思い起こさせる。

この鉱山地区では高い煙突があり,煙が出ていることから銅の精錬が行われているようだ。銅鉱石から粗銅を精製するプロセスは一般的に粉砕→選鉱→熔融(精錬)となる。銅鉱石中の銅は硫黄化合物の形で存在することが多い。

銅の精錬工程とは鉱石から金属銅を取り出すもので,結果として硫黄分は亜硫酸ガス(SO2)となる。亜硫酸ガスは有毒で大気汚染の主要な物質の一つであり,酸性雨の主要原因物質である。

亜硫酸ガスの除去設備をもたなかった時代,ガスはそのまま大気中に放出された。日本の公害の原点ともいえる栃木県の足尾銅山では,精錬のための木材伐採,亜硫酸ガスによる樹木の枯死,鉱滓中の有毒成分の流出などが重なり,地域の住民と環境に取り返しのつかない被害を与えた。

現在,少なくとも日本の銅の精錬工程には脱硫施設が併設されており,このような事態は起こらない。しかし,このアルメニアではどうなっているのかは不明だ。アラヴェルディの滞在中に煙突から盛大に煙が出ていたことがある。渓谷の気象条件により煙は谷の少し上部に長時間滞留していた。

亜硫酸ガスの発生源は銅の精錬だけではない。地中から掘り出した物質には多かれ少なかれ硫黄分が含まれている。石油(原油)は0.5-2.0%,石炭は0.5-10%の硫黄分が含まれており,これらを燃焼させると亜硫酸ガスが発生する。

中国では石炭がエネルギー需要の75%をまかなっており,しかも低品位・高硫黄分のものが多いことに加え,脱硫装置の不備もあり,ぼう大な亜硫酸ガスが排出されている。

大気中に放出された亜硫酸ガスの一部は二酸化窒素(NO2)と反応して三酸化硫黄(SO3)となる。このようなガスが水分と反応すると亜硫酸(H2SO3)や硫酸(H2SO4)が生成され,酸性雨の原因物質となる。

大気汚染や酸性雨は中国の問題と決め込んでいるわけにはいかない。春先に中国から飛来する黄砂のように,汚染物質は冬の季節風により日本列島に運ばれてくる。

鉱業地区の西側には街の中心部が広がっている。眼下には最近の雨で水かさを増したデベド川が茶色の流れになっている。教会と広場があり,ここが本当の町の中心なのだろう。

広場の西側には立派なビルがありその隣はロープウェイの駅になっている。ケーブルの反対側には崖の上に小さな駅がある。横から見ると,垂直の崖のように見えた地形も45-60度くらいの傾斜であった。人間が見上げたときの角度の感覚はあてにならないものだ。

ロープウェイでサナヒン村に移動

街の概観が分かったので引き返し,タマラ橋へ下りる小道を下って対岸に移動する。タマラ橋の写真は後からにして川沿いの道を歩き出す。さきほど僕が下車したバス停を確認してロープウェイの駅に行く。

大きなロータリーの向こうの建物の二階にロープウェイの駅がある。入口で料金の0.1か0.2Drを払うとチケットをもらう。このチケットはゴンドラの中で係員に渡すようになっている。

ロープウェイは時間帯にもよるが多いときは15分間隔で運行されていた。客はわずか3人であり,これではとても採算が合わないだろう。ゴンドラが動き出すと下界が良く見える。

途中で逆方向のケーブルとすれちがうので記念写真を撮る。崖の上にある駅から下を眺めることができるので,住宅地区と鉱業地区の写真を撮る。やはり,川の南側から撮ったものよりずっと感じが良く分かる。

デベド渓谷にはほとんど平地は無く,街の家屋は川岸から北側の斜面の中腹までかなり密集している。北側の山の上部は岩山になっており緑は少ない。鉱業地区は鉱山でもあるのか後背地の北側に伸びる立派な道路がある。

サナヒン修道院

ロープウェイの駅から坂を登り,南東に向かう道を歩く。坂道の傾斜はきついし,日差しも強くけっこう難儀した。サナヒン修道院は複数の建物の集合体で何が何やらよく分からないまま写真を撮ることになった。

8世紀の半ばにイスラム世界ではウマイヤ王朝からアッバース王朝に代わり,帝国の首都はダマスカスからバグダットに移された。一方,9世紀にグルジアではバグラト王朝が興り,アルメニア高地はイスラム勢力から開放され中世の繁栄期を迎えることになる。

その頃,西アジアの経済の中心地となっていたバグダッドからアルメニア高地を通り黒海に臨むトラブゾンに至る通商路が発展した。中国,インド,イランの商品が大量にアルメニア高地を経由して欧州に向かったため,バグラト朝は関税収入により大きな富を蓄積した。

この時期,アルメニア各地はバグラト朝の分家や分離した小王国に分かれており,それぞれの地域で新しい都市とともに多くのキリスト教施設が建造された。デベド渓谷のある地域は「ロリ」と呼ばれ,10世紀から13世紀にかけてサナヒン修道院やハグパット修道院など著名な施設が建てられた。

サナヒン修道院は10-19世紀に,ロリ地域の主教座が置かれ,宗教だけではなく,教育,文化の上で重要な役割を果たした。全盛期の11世紀には中世アルメニアの学芸の中心として繁栄した。

聖母教会(スルプ・アストヴァツァツイン教会)

入口のすぐ近くにあるのは十字架石(ハチュカル)を正面に置いた聖母教会(スルプ・アストヴァツァツイン教会)である。教会の本体は灰白色の石で造られており,その前にある赤砂岩の十字架石はよく目立つ。

教会の本体は複数の建物が合わさったような構成になっている。十字架石の背後には切妻屋根の建物が二つ並んだ構成になっており,内部はアーチ型の壁で仕切られている。この部分の床面は石造りというよりは大きさから考えて石棺を敷きつめたように見える。

教会の内部は薄暗く,現在はまったく機能していない。天井のドームは中心部の4本の大支柱により支えられている。床石は凹凸があり,石棺も置かれているので足元は要注意である。大支柱には十字架が彫られており,それがこの暗い空間で唯一の装飾である。

他の建物の内部も暗くてほとんど写真にならなかった。修道院の敷地は広大で,小さな建物もいくつかある。小さな礼拝堂のような建物の左側には台座に置かれた立派な十字架石がある。

小さな聖堂

救世主教会(アメナプルキチュ教会)のビューポイント

この修道院のみどころは敷地の外れから10世紀に建てられた救世主教会(アメナプルキチュ教会)を見ることであろう。奥にある墓地の中を通り正面に教会を見るポイントがみなさんのお気に入りのようで,多くの写真は鐘楼の赤い屋根を左側に見るものである。

個人的には手前側の斜面を登ったところからのものが,背後の山とのバランスがよく気に入っている。屋根全体が植物で覆われており,急峻な塔状部の円錐屋根にも草が生えている。手入れをしないとこのようになるものかと妙なところで感心する。

どこかで見たような植物

木箱を使った民芸品

修道院の入口には小さな木箱を使った民芸品が販売されていた。少しいびつな箱(高さ20cm,幅30cm,奥行10cm)の内部に,アルメニアの家庭あるいは商店の様子が人形やミニチュアの生活道具を使用して再現されている。上部にはごていねいにもナンが紐にかかっている。

これは日本の箱庭文化と類似しているなと思った。日本人は盆栽に代表されるように狭い空間に一つの世界を表現する文化が好きである。箱庭は江戸時代からあり,浅い木箱に土を盛り,自然の風景を縮小して再現したものである。現在ではプラスチックモデルのキットなども販売されている。

ここアルメニアで日本と同じような文化を見せられてしばらく見入っていた。使用されている素材,特に人形はそんなに種類が多くないので,同じものが複数の場面で使用されている。お土産にはとてもよさそうな品物であるが,僕のメインザックにはこれを持ち運ぶスペースは無い。

下りのロープウェイからの風景

デベド川の風景

サナヒン村は集合住宅や塀で囲われた家ばかりでほとんど見るところが無い。ロープウェイ駅に戻りアラヴェルディに向かう。下りの景色は正面の視界が開けていて迫力がある。下からやってくるゴンドラとの距離を見計らって写真にする。

ロープウェイの駅から宿までデベド川の風景を見ながら歩く。タマル橋,この石造りのアーチ橋は1192年にバグラト朝の最盛期に君臨したタマル女王が造ったとされている。1192年といえば源頼朝が鎌倉幕府を開いた年である。

川岸からアーチの上部までは石段となっており,最上部は対岸の川岸と同じ高さになっている。車両は通行できないが,西と東の橋の中間に位置しているので,人間にとっては利用価値は高い。

子どもたちはとても写真好き

宿の周辺にはいくつもの集合住宅がある。子どもたちはとても写真好きで僕がカメラを持っていると,「写真を撮って」が始まる。宿の近くの店でパンとキューリを買い,夕食に充てる。

夜に家主のおばあさんがやってきてほうれん草を茹でたものを皿に一山出してくれた。しょうゆも無いし,塩味も付いていないので野菜の青臭さがきつい。日が暮れてから宿の前で夕涼みをしていると,タクシーで男女の4人組がやって来て,「安宿はないか」と僕に聞いてくる。

どうも地元の言葉(ロシア語,アルメニア語)が話せるようだ。英語で「デベドホテルは知っていますか」とたずねると,「あそこは高い」と言う。しょうがないのでアヴェテャンの店を紹介してあげる。

そのため,僕の部屋にも男性が一人入ることになった。彼らは20時過ぎに夕食に出かけ,23時に戻ってきた。そして,07時には出て行った。ずいぶんあわただしい人たちである。

ハグパット修道院に向かう

僕はパン,蜂蜜,キューリでゆっくり朝食をとり,8時過ぎに中心部のバス停に向かう。ハグパット行きのバスについてたずねたところ,「バスは運行されていない」ということだ。二人の人が同じ答えなのでだぶんそうだろう。

修道院までは歩いて1.5-2時間なので歩くことにしよう。日本にいたらこの距離を歩こうなどとはほとんど考えないけれど,旅に出ると目的地へのアクセスも重要な要素になる。

もともと旅とは未知なるものとの出会いが大きな目的である。歩くことにより車での移動では分からないことをたくさん経験することができる。ということで川の北側の道を西(トビリシ方面)に向かって歩き出す。

しかし,歩き始めて5分も経たないうちにタクシーが寄ってきて,10Drでハグパットに行くと言う。う〜ん,と少し考え,「まあ,歩くのは帰りでもいいや」と自分を甘やかしてしまう。

タクシーはトビリシへの幹線道路をしばらく走る。崖の上に点のような建物があり,運転手がそれを指差す。それは目的の修道院ではなかった。タクシーは幹線道路から右に折れ,かなりの傾斜の山道を上っていく。

タクシーは修道院の下の広場に到着した。修道院の入口には英文のユネスコ世界遺産プレートが取り付けられていた。中に入ると塔状部をもつ大きな教会といくつかの小さな建物が見える。

ハグパット修道院

ハグパット修道院のメインとなる聖十字架大聖堂(スルプ・ヌシャン)はバグラト朝のホスローヴァヌシェ王妃により976年に建設が始められ,991年に女王の二人の王子スムバトとグルゲンにより完成された。

その後,11世紀から13世紀にいくつもの教会が建てられ,複合的な宗教施設になったというが,ガイド無しでは個々の建物を特定するのは難しい。

この修道院も地域の学芸の中心地となり,11世紀の最盛期にはサナヒン修道院と合わせて500人もの修道僧が生活していたという。しかし,周辺の施設を見渡しても,とても100人,200人もの人間が暮らせるようなものは無い。

修道院は少し高くなった丘の上にあり,そのすぐ近くには民家がある。聖十字架大聖堂は切妻屋根の長方形のバシリカに短いものを交差させる十字架プランであり,交差中央部には大きなドームを乗せている。

塔状部の外観は円筒形で屋根は円錐型となっている。このような十字架プランではバシリカの長手方向が東西になっており,入口が西にあり,アプス(後陣)は東側にあるはずだ。

塔状部の屋根にはぺんぺん草が生えているが,バシリカの切妻屋根はきちんと手入れされている。サナヒン修道院の救世主教会の屋根は草が生えるにまかせているという状態であったが,こちらは管理が行き届いている。

教会のミニチュアを持った二人の男性の像

建物に比して丘の上部はそれほど広くないので距離が取れず,南側から建物の長手方向の全景を撮るのは難しい。裏手に回り東側から写真を撮る。ここの壁面には教会のミニチュアを持った二人の男性の像がはめ込まれている。この二人が教会を完成させた王子スムバトとグルゲンといわれている

壁面の十字架

外壁には小さな十字架が非常にたくさん刻まれている。図柄が不ぞろいなのでこれはおそらく修道僧の仕事であろう。ここでの生活の合間にこつこつとのみを振るったものであろう。それは自分がここで神とともにいたことの証を印そうとしたのかもしれない。

十字架石

聖十字架大聖堂の東側に隣接する建物にはたくさんの十字架石が納められていた。程度はかなり高いものが多い。相当割合のものは十字架部分が黒くなっている。カビなどによる変色ではないので,何らかの人為的な理由がありそうだ。

大聖堂の内部はほとんど何も無い

大聖堂の内部はほとんど何も無い。アプス(後陣)は外壁の内側に収まっている。その中心部には明り取りの窓があり,会堂内を照らしている。半円状のドームには一面にフレスコ画が描かれている。明り取りの窓のためここは逆光になりフラッシュ無しではきれいな写真は望めない。

ドームの上部にはスズメがたくさん住み着いており,鳴き声がきれいに反響し,そばの長いすに腰を下ろして目を閉じているとまるで森の中にいるような錯覚を覚える。突然大きな羽音に静寂が破られる。どこからか鳩が入り込み,止まる場所を探して羽ばたいている。

修道院の建物の内部にはたくさんの窪みがある。たたみ半畳から1畳ほどの広さの場所で修道僧は祈りを通して神と対話していたのであろう。修道僧にとっては祈りこそが最大の責務であり,もっともこころの平安が得られる時間であったにちがいない。

聖堂の周囲には付属の建物が多い

墓碑銘は必要ないのであろう

修道院を囲むようにたくさんの墓がある。それらはこの地で生涯を閉じた修道僧のものであろう。墓石(石棺のふた)は一様にシンプルである。主イエスの教えに従って生きようとした彼らにとって,現世は天国への階段を登るための試練の場であった。

「イエスに従って生きてきた」と自分が納得できる人生を歩んできた人々にとって石棺を飾ったり,自分の名前を刻む必要はまったく無かったことだろう。

となり村はひとかたまりになっている

村の中心部

ハグパット修道院の周りは村になっているので,帰りは歩きながらのんびり見学させてもらおう。村の家屋は石と木材が併用されている。壁面は石造りであるが2階の壁面と切妻屋根の三角形の部分は木造となっている。ほとんどの家屋は塀と門で囲われており,子どもたちの姿も見えない。

緑の斜面に民家が点在する

変わった屋根瓦

ブラックベリーの藪

ブラックベリーの藪が生垣になっているとこがある。日本ではブラックベリーに出会うことは非常にまれであるが,南カフカスではずいぶん見かけた。

原産地は米国中部,いわゆる野いちごの仲間で日本ではセイヨウヤブイチゴ(西洋藪苺)と呼ばれている。実生は熟すると赤から黒に変わる。ここのものは鮮やかな赤色ではあるが,まだ食べる時期ではない。

ちょっと遠い立ち話

一軒の家の前でおばあさんが同士が話をしていた。久にぶりに村人を見たのでついつい撮ってしまった。他愛の無い日常的な挨拶や会話が地域の人々の楽しみになっているのだろう。

子どもの頃に遊んだ植物に似ている

谷で分断された地形

斜面を下る道になると周辺の村が見えるポイントがある。深くえぐられた台地の向こうに,同じような村が広がっており,その先にはアラベルディと思われる比較的大きな建物が密集している。

それにしても村人にはほとんど出会わないし,家の敷地内にも人影はない。ときどき丘の上に立つハグパット修道院が見える。周辺には村の家屋がたくさんあり,その割には農地は少ない。農家の庭先には干草が大きな山になっている。

修道院の丘を取り囲むように民家が点在している

水の浸食を受けやすいようだ

緑したたる渓谷となっている

アラヴェルディに向かう幹線道路が見えてきた。緑したたる斜面の谷底を縫うように茶色の帯が見え隠れしている。デベド渓谷一帯はこんなに緑の豊かな地域であったのだ。

柱状節理の岩

斜面に露出している岩が縦方向にきれいに割れており,「柱状摂理」に似ている。柱状摂理はマグマが冷却固結するときに上下の温度差のため垂直方向に規則的な割れ目が生じたものをいう。主として玄武岩質の場合が多いので黒色となる。ここのものは茶色なのでどう判断したらよいものやら・・・。

幹線道路に出てしばらく歩いたところで車に拾われ,ガソリンスタンドで給油中のバスに引き渡される。アラヴェルディまでの料金は2Drであった。

午後に街を歩いていたら雲行きが怪しくなった。食料を買い込みあわてて宿に戻る。アヴェテャンに店にたどりついたところで(家の鍵はここのおばあさんが管理している)土砂降りになる。雨が小降りになったところで宿に戻ると,再び雷雨が始まった。

雷鳴が谷に反響するので迫力のある音がひっきりなしに響き渡る。風もあるので窓はしっかり閉める。しかし,窓枠とさんの隙間を通って水が染み出てくる。台所の布を使って壁に水が垂れるのを防ぐ。

鉱山の煙が立ち込める

反対側の川岸から見るロープウェイの駅

おめかしをした子どもたち

最後のデベド川の風景

チョウセンアッサガオであろう

ホップ


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