エレバン駅周辺で
昨日は日本人旅行者の夕食会が終わる頃から夕立となる。ほとんど食事は終了していたので食器を持って僕の部屋に避難する。残ったサラダと漬物を肴にウオッカとコニャックで酒盛りになる。これは24時まで続き,ようやくお開きとなる。旅人が集まると旅の話がいつまでも尽きない。
そのため,起床は08時になる。昨日のパンで朝食をいただく。昨日は列車内で体を冷やしたせいか喉が少し痛い。大事にならなければ良いが・・・。僕はけっこう喉が弱く,日本にいても乾燥した冬場はときどき喘息のように咳き込むことがあり,そんなときはのどあめが手放せなくなる。
今回の旅行でも最初の訪問地イランで喉を完全に傷めてしまい,病院に行き,しばらくは咳止めシロップのお世話になっていた。今回はごく軽いものだけれど悪化しないように用心しなければならない。
今日は「ホル・ヴィラプ修道院」に行くことにする。そこに行く交通機関はエレバン駅裏のバスターミナルから出ている。駅の東側と西側は地下道でつながっている。しかし,この時点では地下道の存在を知らなかったので,まず駅前の広場に出る。
この広場の北側は野菜の露店が並んでいる。リダおばさんの家ではずっと自炊をしていた僕は毎日買物に来ていた。店により商品の品質と価格が異なるので,必要な食材を一通りチェックしてから,今日はここでというように買っていた。
たとえば,昨日の夕食は5人でシェアしたので一人当たりの材料費は1.6Dr(48円)と格安である。コメは広場の南側あるいは西側の商店で買うことができる。コメの種類はほとんど短粒米である。
駅前広場の東側にはティグラン・メッツ大通りが南北に走っており,ここをまっすぐ北に行くと共和国広場に出る。市内を回るマルシュルートカ(乗合ワゴン)の停留所もあり,行き先の番号が分かれば利用することができる。
そういえば,ここのマルシュルートカはアラビア数字で表示されていたような気がする。街の中心部に行くもっとも簡単な交通は地下鉄である。エレバン駅には地下鉄のホーム(ここでは地上にある)が列車のホームと並んでいて,0.5Drの均一料金で利用することができる。
大通りでマルシュルートカを待っている父親と姉妹がいたので写真を撮らせてもらう。アルメニアは「世界的にみて美人の多い国」といわれている。しかし,実際に街を歩いていてみると特別に美人の割合が多いわけではない。まあ,他の国と同じである。
民族的にはコーカソイドであるが,周辺の民族とかなり混血は進んでいるように感じる。もちろん,アルメニア使徒教会という宗教上の歯止めがあり,異教徒との婚姻はかなり制約があったと推測される。それでも,エレバンの人々の髪の色は黒,褐色,金髪と非常に幅がある。
今朝,写真を撮らせてもらった姉妹は栗色の髪と茶色の瞳でとてもかわいらしい。この子達が標準なのかは分からないけれど,アルメニア人の感じがよく出ている。
駅のプラットホームはほとんどバザール状態であった。大きな袋に入った野菜などの生鮮食品がそこで売買されている。列車で運んできてホームで売りさばくスタイルのようだ。
買い物客も多く,線路の上にまで溢れている。汽笛が鳴り,列車がやってくると,人々があわてて商品を片付ける一幕もあった。列車からは新たな商品の袋が運び出され,混雑はさらにひどくなっていく。
中空に浮かんでいるようなアララト山
線路を渡っている時にアララト山が見えるのに気が付いた。山全体が背景の空の色に溶け込んでおり,最上部の氷雪の部分だけが中空にふわふわ浮かんでいるような幻想的な光景だ。山頂には雲もかかっておらず,この分だとすばらしい景色に出会えそうだ。
駅裏の広場がバス乗り場になっている
駅裏の広場には大型バスが何台も駐車している。しかし,「ホル・ヴィラプ修道院」行きのミニバスはどこにいるんだろう。いつものように人に聞いて回るとようやく見つかった。出発は11時,あと1時間ほどあるので周辺を歩いてみる。
工場のような大きな建物が多く,その大半はもう使用されていないようだ。ソ連が崩壊し,ソ連全体の計画経済の下で稼動していた国営工場はどんどん閉鎖されているようだ。ロシアとの経済関係もアゼルバイジャンとトルコの経済封鎖により思うにまかせないアルメニアの苦悩が伝わってくるようだ。
アララト山とノアの箱舟
バスに乗り込んで待っていると,お母さんと兄妹が入ってきた。この子たちもアルメニア人らしい顔立ちをしているので写真に撮らせてもらう。眉毛がとても濃いのが印象的だ。
ミニバス(料金4Dr)は舗装状態の良い道路を快調に飛ばして,わき道に入る。120番のバスを利用するとこの分岐点で降ろされることになる。小さな村を過ぎ畑の中を通る道のところで下車する。ここからホル・ヴィラプ修道院は1kmほどだ。
アララト山が正面に見える。アララト山はトルコ,アルメニア,イランの国境地帯に位置しており,アルメニアの国境までは32km,イラン国境までは16kmしかない。
少し離れた二つの成層火山からできており,単にアララト山というと標高5,137mの主峰をさすが,二つのピークを識別する場合は,大アララト山,小アララト山(3,896m)と呼んでいる。どちらも成層火山特有の優美な姿をしており,特に小アララト山は富士山に酷似している。
「旧約聖書」では神が邪悪な人類を滅ぼすため大洪水を引き起こし,ノアとその一族および一つがいの動物たちだけは巨大な箱舟(ノアの箱舟)に乗り込んで難を逃れた。
豪雨は40日,40夜降り続き地表はすべて水で覆われてしまい,地上の生き物はすべて滅亡した。水は150日間地上にとどまり,その後箱舟は高い山に漂着したと記されている。
ノアは2回鳩を放ち,2回目に鳩がオリーブの枝をくわえてきたので水が引いたことを知った。ノアは家族と動物たちとともにに箱舟を出た。ノアは祭壇を築いていけにえを神にささげ,神はノアと彼の息子たちを祝福し,二度と生き物たちを滅ぼすことはしないと契約した。
ノアの箱舟が漂着した高い山とされたのがアララト山である。アララト山には航空写真,衛星写真で舟の形をした画像が公開されているし,数千年前の木片なども箱舟の証拠として出されている。しかし,実際に現物を確かめた人はいない。
旧約聖書には神の力によって引き起こされた数多くの厄災が記載されている。キリスト教の国ではこのような現象を科学的に証明しようとする人が多数存在する。ノアの箱舟も彼らの研究材料の一つである。
旧約聖書に記述されている出来事がまったく架空の話しかというとそうでも無いようだ。大洪水についても,数千年前にメソポタミアで大洪水が発生した痕跡が見つかっている。
そのような経験の言い伝えが形を変えて聖書に記述されたと考えられる。旧約聖書はユダヤ民族の歴史書と民族に関連する神話という二つの側面をもっている。
畑の中の道を歩く
ノアの箱舟は置いておいて,畑の中の道をホル・ヴィラプ修道院めざして歩き出す。道の両側は農地になっており,現在はトマトの出荷時期になっていた。
トラックが畑に停まっており,人々はカゴに入れたトマトを荷台にどんどん積み込んでいく。あれでは下のものはつぶれてしまう。市場では旬のトマトは1kgで0.6-1Dr なのでそんなに手間隙をかけられないのだろう。
農家のテントにお呼ばれする
道路わきにスイカを売るテントがあり,お呼びがかかる。イスに坐るとスイカとパンが出てきたのでありがたくいただく。シシトウのように薄緑色の大きな唐辛子を出される。これだけ大きければ辛くはないだろうとふんでかじってみる。タイのプリックよりはずっとましだが,十分に辛い。
僕が「もうけっこう」とテーブルに置くと,男性が「なんだ,だらしがない」とでもいうように丸ごとを食べて,笑っている。食べ慣れているとはいえ,強い。自家製と思われるチーズもいただく。
こちらはクセも無くおいしい。このテントには少年が二人いたのでお礼にヨーヨーを作ってあげる。久しぶりの地元の人たちとの交流はやはり楽しい。
アララト山と修道院の位置関係は変わっていく
ホル・ヴィラプ修道院は小さな丘の中腹にありその左側には長い裾野をもつ巨大な大アララト山がそびえている。この風景は絵葉書や観光写真によく採用されているものだ。
小アララト山は大アララト山に比べるとかなり小さく,山頂の万年雪も夏には消えてしまっている。それでも形はここから見て左右対称なので小アララトの方が秀麗である。修道院に近づくとアララト山との相対的な大きさが変わっていくので何枚か写真を撮ることになる。
ホル・ヴィラプ修道院を下から見上げる
さらに道を行くと修道院とアララト山の位置関係が変わってきて,修道院の丘がアララト山の正面に来てしまう。修道院は丘の中腹にあり,周囲は城壁で囲われている。下から見上げると塔状部しか見えない。
アララト山とアルメニア人
丘の道を登り修道院の中に入る。建物よりもまず南にあるアララト山を眺める。
この丘からなだらかな稜線をもつ大小のアララト山までは何もさえぎるものはない。
大アララト山の頂上付近には雲がかかり少し残念だ。ここから山までは40kmほどしかない。しかし,少し先には国境があり,アルメニアの人はそれ以上近づくことはできない。
アララト山は古代アルメニア王国(大アルメニア)の中心地であった。聖書に記されたとされているアララト山はキリスト教徒のアルメニア人にとっては民族のアイデンティティともいえるところであった。
オスマン帝国がこの地域を支配した時代にも,アララト山の周辺にはクルド人,トルコ人と入り混じりながら多くのアルメニア人が暮らしていた。現在でもアナトリアの東部には多くのアルメニア教会が遺跡として残っている。
しかし,第一次世界大戦中の強制移住により,現在のトルコ領内からはほとんどアルメニア人はいなくなってしまった。その後,セーブル条約の混乱とアタチュルクが率いる新生トルコの誕生により,ソ連邦とトルコ共和国の国境が画定された。
それは,アルメニアとトルコの国境でもあり,1991年に独立を果たしたアルメニア共和国はこの国境を承認していない。現在のアルメニア共和国の国章にも盾の中央にアララト山をあしらっている。
ホル・ヴィラプ(ホルヴィラップ)修道院
ホル・ヴィラプ修道院はエレバンからは南に40km,ほとんどトルコ国境に近いところにある。ホル・ヴィラプとは「深い井戸」を意味する。
ここにも伝説があり,4世紀の初頭に聖グリゴル・ルサヴォリチがアルメニアに布教にやって来たとき,国王のトゥルダト3世は彼をこの地の深い井戸に幽閉した。トゥルダト3世は聖フルプシィメに求婚し拒否されたために殺害した王でもある。
この罪により重い奇病にかかった国王はすでにキリスト教に改宗していた妹の忠告に従い15年間井戸に幽閉していたグレゴリウスを解放する。そして彼の奇蹟により病が癒されたので過去の罪をを悔い改めてキリスト教を受け入れ,301年にこれを国教にしたいう。
前室の灯明台
まあ,実際のところはキリスト教を受け入れることにより,西の大国ローマとの関係を改善するという政治的な思惑が強かったという。なにはともあれ,これによりアルメニアは「世界で最も早くキリスト教を国教とした国」という称号を受けることになる。
修道院の建物は近すぎて写真にならないので中に入ることにする。薄暗い前室には三基の灯明台が置かれ,とてもいい雰囲気だ。おまけに若い女性がちょうどローソクを立てるところでいい写真になった。
正面のアプス(後陣)
正面のアプス(後陣)には石造りの教会のミニチュアが置かれ,その前に聖母子像のイコンが納められている。この配置は素晴らしい。石造りの飾り台の上に置かれた聖母子像のイコンも光の効果を上手に使っており,イコンの金色がほの暗い空間に浮かび上がっている。
オリーブの木があった
修道院の敷地内にはかなり大きなオリーブの木があった。これは,ノアの洪水において箱船から放たれた鳩がオリーブの枝をくわえてきたので水が引いたことを知ったという旧約聖書の記述に基づくものであろう。
子ども連れの団体がやってきた
家族連れの団体が入ってきて,祭壇の前で司祭が祝福を与えている場面を見ることができた。司祭の服装は黒い頭巾と灰色のマントという中世のいで立ちである。一人の少女がローソクを持って,司祭の聖句を聞いている。この子もとてもいい絵になる。
教会のどこかで聖グリゴルが幽閉されたという深い井戸があった。そこは1m四方の空間で下まで下りることができるようだ。ヨーロピアンが穴の底から一人ずつはしごを登って出てきた。残念ながらここの写真は撮り忘れたようだ。
入口の灯明台は次から次へと人々がやってきて,ときどき当たりの写真が撮れる。外に出るとさきほどの家族連れの一団がベンチで休んでおり,子どもたちの写真が撮れた。この子たちもアルメニア人の特徴が良く出ている。彼らが教会の前で集合写真を撮っていたのでそれに便乗する。
後ろから肩をたたかれた。宿で一緒にいるJさんである。彼とは移動ルートがほとんど同じなのでエレバンで会ったのは4回目である。ちょっと前に着いたということだ。
ようやく修道院の全景を撮ることができた
彼と一緒に城壁の外に出て丘の上に登ることにする。城壁の横を通り修道院のビューポイントまで登る。そこでようやく修道院の全景を撮ることができた。
北側にはかなり大きな墓地があり,そのだいぶ先に町が見える。修道院に来るとき歩いた道が墓地の横を通り,右方向に曲がっていく。この地に墓地がある理由はアルメニア人の「こころのふるさと」となったアララト山が見えるところで,もしくはホル・ヴィラプ修道院の見えるところで眠りにつきたいという素朴な願いからであろう。
ピクニック気分で歩いていると…
修道院の内部を見るJさんと別れて,帰りはミニバスの停留所もしくは幹線道路まで歩くつもりで丘を下る。天気はいいし,暑過ぎることもないし,歩くのは苦にならない。ブドウ畑やスイカ畑を見ながらピクニック気分で歩いていると,車のクラクションが鳴る。
車の中にはJさんがおり,運転手はエレバンまで乗せて行ってくれるという。どうみても怪しい。彼を一人にしておくのは危険そうなので一緒に乗り込む。2対2ならそう無茶なことにはならないだろう。この車はものすごい音量でロックを流し,とても声は聞こえない。
幹線道路の手前で運転手が「タクシー」と言い出す。ここからエレバンまではタクシー料金で行くといういう意味らしい。それは絶対にやめた方がいい,Jさんに耳打ちしてここで降ろしてもらうことにした。車から降りて「やあ,なんか危なかったね」と顔を見合わせる。
立派な建物が多い
幹線道路からミニバスに乗りSILバザールの近くで降ろされる。メトロの駅がすぐ近くにあるはずなのになかなか見つからない。この周辺は公園のようになっており,ずいぶんカフェが多い。
メトロで二駅移動しカスカードを目指す。この辺りは立派な邸宅が多い。おそらく政府関連の建物であろうと想像される。ロシア,ソ連時代を経験しているアルメニアの建造物は完全にヨーロッパスタイルとなっている。
カスカード
カスカードはソビエト・アルメニア成立50周年記念碑とそれに連なる階段状のモニュメントである。下から見ると丘の斜面を利用して階段状に巨大な施設が連なっている。
途中まではエスカレーターになっており,その規模の大きさに「さすがはソ連」と恐れ入る。モニュメントは何段かに分かれており,各段ごとに異なっている。それぞれの階でエスカレーターは区切られている。
カスカードの上からの眺望
正面(南側)には自由広場まで一直線の公園になっている。エスカレーターの終点から斜面を登ると丘の頂上の展望台に着く。そこからは街が一望でき,その背後にはほとんどかすんで見えないアララト山が控えている。
Jさんが日本製のしょうゆを少し持っているので今日は肉じゃがを作ることにする。帰りにエレバン駅の周辺で食料を買い集める。アルメニアではなんと豚肉が手に入る。
値段は1kgで16Dr(480円)と野菜に比べるとずいぶん高い。今日の夕食会は5人で材料費は一人当たり3.3Dr(約100円)となる。半分が肉代である。調理のポイントはいかに貴重なしょう油の使用量を少なくできるかである。
僕はクルグルタンで塩と砂糖で味付けをする技術を教えてもらっていたので,小さなスプーン2杯くらいで完成させた。さすがに日本の味は好評ですぐに売り切れとなった。中央アジア,西アジアなどしょう油の手に入りづらい地域に出かけるときは小瓶を持っていくのがよい。