アルメニア共和国はトルコ,グルジア,アゼルバイジャン,イランと国境を接する面積29,800km2,九州の8割程度の大きさの内陸国である。国土の90%が標高1000mを越える山岳地帯となっている。
首都エレバンのあるアララト盆地はアルメニア人にとっては聖なるアララト山を望むところにある。しかし,現在はアラクス川(キュル川)がトルコとの国境になっており,アララト山はトルコ領になっている。
人口は375万人とされており,その半分がアララト盆地とその周辺に居住している。周辺の大国に翻弄されてきた歴史のため,ロシア,米国,トルコなど海外に居住するアルメニア系住民は本国の人口を上回っている。
住民の大半はアルメニア人(約96%),公用語はアルメニア語である。西暦301年に世界ではじめてキリスト教を国教化したことで知られている。それ以来,原始キリスト教会のひとつであるアルメニア使徒教会の信者が大多数を占める。
アルメニア使徒教会はキリストの人性と神性に関して単性論的な教義をもち,カソリックや東方正教会とは一線を画している。キリスト教においてはイエス・キリストの人性と神性をどのように位置づけるかは大きな問題であった。
簡単にいうと「キリストの神性を重視するのが単性論」であり,「キリストは人性と神性の両方を有しているというのが両性論」である。単性論でもキリストの人性は否定しているわけではないので,それほど大きな違いとは思えないのだが,451年にカルケドン公会議で単性論は異端と宣告された。
しかし,エジプトのコプト正教会,エチオピア正統教会,シリア正教会(ヤコブ派),アルメニア使徒教会など地域では主流となっている教会は単性論に近い教義をもっている。
アルメニア人はユダヤ人以上に商才に長けているといわれ,紀元前6世紀頃には国際的な商業活動で繁栄し,紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築いた。その後は東ローマ,ペルシャ,アラブ,モンゴル,オスマン帝国などの覇権勢力により翻弄される歴史が続く。
1636年にアルメニアにはオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシア(1828年以降はロシア)に分割統治される。19世紀後半になるとオスマン帝国の統治下のアルメニアではロシアに後押しされた民族運動が盛んになり,トルコの民族主義と鋭く対立することになる。
第一次世界大戦が始まると多数のアルメニア人がロシア軍に参加したり,オスマン帝国に対するレジスタンス活動を行うようになった。反国家・利敵行為を予防する目的でロシアとの戦闘地域であるアナトリア東部のアルメニア人をシリアの砂漠地帯へと強制移住させる政策が開始された。
徒歩による厳しい移動の中で少なからぬアルメニア人が命を落としたことはおそらく間違いない事実であり,トルコ共和国もそれは否定していない。
アルメニア人はこれを組織的な虐殺と主張し,トルコ政府は戦時における混乱による不幸なできごとと主張している。死亡者数もアルメニア側は200万人,トルコ側は20万人としており,現在まで決着していない。
1936年にソビエト連邦を構成するアルメニア社会主義共和国となったが,スターリンはアルメニア人が多数を占めるナゴルノ・カラバフ地域をアゼルバイジャンに編入した。これが新たな民族紛争の火種となる。
1988年にナゴルノ・カラバフでアルメニアへの帰属を求める運動が起り,これに反発したアゼルバイジャンとの間で民族紛争に発展した。1991年に両国は独立を果たし,翌年には軍事衝突が発生した。現在,ナゴルノ・カラバフ自治州はアルメニア人勢力の支配下にあり紛争は終結していない。
この停戦により凍結された紛争のためアゼルバイジャンとそれを支援するトルコはアルメニアに対する経済封鎖を続行している。この経済封鎖によりアルメニアはソ連時代の輸送の大動脈であったアゼルバイジャンを通じる鉄道・道路輸送が封鎖され,石油の供給も停止された。
内陸国でありながら東西のルートを封鎖されたアルメニアはグルジア,イランという南北ルートだけが残された形となった。アルメニアはカスピ海油田を地中海に運び出すBTCパイプラインからも排除され,経済的な苦境は続いている。
この状態を解決するため,ペトロシアン前大統領はナゴルノカラバフ問題で融和的な姿勢を見せたところ,民族的な怒りを買い辞任に追い込まれた。現大統領はロバート・コチャリアンはナゴルノ・カバフでは妥協を見せないもののトルコとの関係改善には動いている。
首都エレバンは聖山アララト(5165m)を望む標高800mの盆地にあり,人口は127万人。現在のアルメニアの半分を統治していた帝政ロシアは,アルメニア人を移住させるためアルメニア州をもうけた。そのときの州都エリヴァンが町の起源となっている。
トビリシ(Train/276km)→エレバン 移動
今日はアルメニアへの移動日である。移動手段は列車を選択した。事前にトビリシ駅でチケットを購入しておく。駅の2階に7番窓口があり,そこで国際列車のチケットが手に入る。
情報ノートには寝台料金は正規が16ラリであるが17ラリを要求されることもあると記載されていた。僕は移動日,エレバン,16ラリと書いたメモを窓口に出すとすんなりチケットを渡してくれた。列車は奇数日にトビリシ→エレバンが運行し,偶数日は逆ルートになる。
トビリシ駅は1階が連絡通路,2階がチケット窓口,3階がプラットホームという複雑な構造になっている。2階から3階に上がってみると目的のホームではないので,1階まで下りて,再び3階に上がる。これはけっこうしんどい。
1時間前なのに列車はもう入線していた。三等寝台は固定の2段ベッドになっており,下段の座席を持ち上げると中が荷物入れになっている。上段のベッドと天井までの間はずいぶん狭い。そこには,丸めた寝具が置いてある。
レール幅は広く,1ブロックで6人が寝られる仕様である。僕のコンパートメント(というよりはブロック)は新婚のカップルと70代の男性,それに通路側の男性の5人である。車内は蒸し暑い,15:40に列車が動き出してもほとんど風が入ってこないのでその状況は変わらない。
窓はほとんどはめ殺しの状態で動かない。僕のコンパートメントの窓は上部が5cmほど開いている。窓が開かない理由は夜になるとすぐに分かった。もう一つの問題点は窓ガラスが異様に汚れていることだ。
これでは外の景色を写すことはできない。幸い,通路側の窓が一つの車両で2ヶ所,開くようになっており,そこから写真が撮れることが分かった。グルジア側の沿線はひたすら田園風景である。農地や牧草地の向こうにはゆるやかな起伏の山並みが続いている。
国境を通過する
トビリシからエレバンまでは276km,直線距離ではその2/3程度であるが,線路はかなり遠回りをするようになっている。出発して2時間半でグルジア側の国境駅に到着した。
ここでは約3時間の停車である。パスポートは車掌が集めに来て出発の少し前にスタンプが押されて戻ってきた。その間,乗客は蒸し暑い車内から外に出て,駅の周りでのんびり夕涼みをしている。
僕も縁石に坐って暑さをやり過ごしていた。二人の少年がヒマワリの種を本体ごとプレゼントしてくれる。のんびり種を取り出して一つずつ食べる。まだ乾燥が十分ではないのでちょっと食べづらい。
列車は動き出し,すぐにアルメニア側の駅で停車する。国境係官が乗客のパスポートを集めに来る。僕のような第三国の外国人は別の係官に同行されて,ビザ発給所に連れて行かれる。
簡単なビザ申請書に記入し,30$を払うと,あっさりビザ・シールを貼ってもらえる。その後,別の建物に連れて行かれ入国スタンプを押してもらい,入国の儀式は完了した。
自分の座席に坐っていると,係官が再び呼びに来た。何か不都合があったのかなとドキドキしながらついて行くと,単にパスポートのチェックだけであった。全体としてアルメニア側の係官の対応はとても紳士的であった。
列車が再び動き出したのは23時,グルジア国境に着いてから5時間が経過していた。僕のコンパートメントでは乗客同士がチケットを確認しあい,ベッドの場所を決める。僕は上段になった。
アルメニアに入ると気温は下がる。最初は涼しいと思っていたら,すぐに寒いに変わり,長袖を着込むことになった。コンパートメントの窓が5cmばかり開いているので上段のベッドには風が吹き込む。夜中になるとこれが冷たい。布団に入っていても足元が寒,く眠りの質はひどく悪い。
列車の窓が開かないのは,一年の大半は窓を開ける必要が無いからだということが分かった。05時になると乗客は起き出したので,僕も下段に移動する。風が直接入るわけではないのに寒く,体は冷えたままである。
天気は良くない,厚い雲が空を覆い,その下に荒涼とした大地が広がっている。このあたりはステップ気候のようだ。そのうち少しずつ緑が増えてきた。農地が現れ,トウモロコシとモロコシが目立つようになる。
線路は大きくエレバンの西を迂回する。時速30kmくらいしか出ない列車はアルメニア側を10時間ほどかけて目的地に到着した。276kmの移動に要した時間は18時間であった。
リダおばさんの家とエレバン駅前の風景
エレバンの宿は「リダおばさんの家」にする。なんといっても駅のすぐそばで立地条件が良いし,料金は1000Dr(300円)と格安である。エレバン駅を出て,バザールの横の道を左に行く。
大きな木のある交差点の右前にある緑の門扉がリダおばさんの家である。駅から徒歩5分というところだ。僕が交差点のところに来ると,近所の子どもが「ここだよ」と緑の門を教えてくれた。
くぐり戸を入るとリダおばさんが出てきた。「泊まれますか」と聞くと,台所の横の3人部屋に案内された。建物は正面に二階建てのものがあり,右は客用,左は家族の住居になっている。
逆L字型に左側は台所と僕の部屋,トイレと続いている。残りは広い中庭になっており,ぶどう棚まである。客室にはコーカンド,バクーで一緒だったJさん,トビリシの宿で一緒だったKさん夫妻,それに初対面のLさんが泊まっている。
リダおばさんは60代,夫と3人の娘,2人の孫がここに住んでいる。この宿は台所を使用することができるので,夕食はみんなで協力し合ってトマトとジャガイモのスープ,ごはん,キャベツの浅漬け,トマトとキューリのサラダを作る。
できた料理は中庭のテーブルに並べ,日本人5人が席に着き,「いただきます」と感謝してから食事が始まる。今回の旅先で出会った日本人旅行者は一緒に食事をいただく前にかならずこの「いただきます」の儀式が入った。さすがに久しぶりの白いごはんはおいしい。
エチミアジン大聖堂に向かう
エレバンの近郊には西にエチミアジン大聖堂,南にホル・ヴィラプ修道院,東にゲガルト修道院という3つの見どころがある。さらに,北のセヴァン湖にあるセヴァン修道院も見たいので忙しい。
ツアーのように足がしっかりしていれば2日で回ることができるが,公共の交通機関で移動するならば4日かかる計算だ。エレバンの滞在予定は4日なので毎日一つずつ片付けていかなければならない。
初日は20km離れたエチミアジン大聖堂に行くことにする。駅前の大通りで市内ミニバスに乗り中央BT(キリキアBT)に向かう。ここは大きな通りを挟んで2つの発着所があり,エチミアジン行きはなかなか見つからなかった。
アルメニアの文字はグルジアと同様にラテン文字ともキリル文字とも異なり,5世紀の初頭に創出された。書き順が左から右であること,音と文字が1対1に対応していること,アルファベットの順序などからギリシャ文字を参考に創られたと考えられている。
グルジアと同じように数詞(アルファベットと数字を対応させている)を使用しているので,外国人にはまったくわけが分からない。エチミアジン行きのミニバスも周囲の人にたずねるしかない。
ようやく見つかったミニバスは1時間ほどでエチミアジンの町に到着した。現在エチミアジン(ヴァガルシャバト)となっているこの町は,聖グレゴリオスがアルメニアでキリスト教を布教していた3世紀末にはアルメニア王国の都で「ヴァガルシャバト」と呼ばれていた。
聖グレゴリオスはアルメニア王ティリダテス3世に洗礼を授け,303年にヴァガルシャバトにアルメニア最初の教会を建てた。このとき聖グレゴリオスは「神の子がこの地に光臨した」という啓示を受けたことからその教会はエチミアジン(エチは降臨,ミアジンは神の子を意味する)と呼ばれた。
エチミアジン大聖堂はアルメニア使徒教会の総主教(カトリコス)座が置かれ,人々の信仰の中心地となった。しかし,東ローマ帝国とササン朝ペルシアという二大勢力がせめぎあうところに位置したアルメニア王国は絶えず両国の干渉を受け,5世紀に滅亡した。
その後もアラブ勢力,セルジューク朝,ティムール朝などの侵攻を受け国土は荒廃した。10世紀には多くのアルメニア人は国を捨て周辺国に離散(ディアスポラ)することになった。
国を失ったアルメニア人および周辺に離散したアルメニア人はその後もアルメニア使徒教会とアルメニア文字を拠りどころに,民族のアイデンティティを守り続けた。彼らのこころの原風景はノアの箱舟が漂着したというアララト山であり,聖都ヴァガルシャバトの教会であったことだろう。
しかし,18世紀になるとアルメニア使徒教会を中心にまとまっていたアルメニア人社会の中でカソリックに宗派を変える人たちが出てきた。アルメニア使徒教会の総主教府にとってこれは受け入れ難いことであった。
総主教府はカソリックになったアルメニア人を敵とみなし,当時アルメニアを支配していたオスマン帝国に彼らの「宗派替え」を通告し,1827年に彼らは国を追われることになった。使徒教会にとってはカソリック化した人々はもうアルメニア人とはみなされなかったようだ。
ソ連時代に町の名はエチミアジンとなったが,独立後の1995年に再度ヴァガルシャバトに戻された。しかし,現在でも多くの人々はこの町をエチミアジンと呼んでいる。
エチミアジン大聖堂
エチミアジン大聖堂は基本的な構造は7世紀のものであるが,その後も改修が行われ,現在の姿になったのは17世紀のことである。大聖堂の基本構造は上から見ると正方形となっており(正方形プラン),その四辺に半円形のアプス (後陣) が張り出した特異な十字形構成になっている。
アプス(apseまたはapsis)は「後陣」と訳されており,壁面に穿たれた半円形,または多角形に窪んだ部分で,キリスト教の宗教施設によくみられる。教会建築では教会堂(内陣)の東端に至聖所として設けられることが多く,一般的に教会堂の壁面から張り出すことが多い。
正方形の中心には八角錐の屋根をいただく ドーム天井が架けられており,それを支えるため内部にはアーチと4本の太い柱がある。そのため,内部空間は建物の大きさに比してそれほど広いとは感じられない。
現在のエチミアジン大聖堂は聖遺物の収蔵館や鐘楼が増築され,7世紀の基本構造とはかなり異なっている。西側の入口から中に入ると前室に大きな灯明台がある。人々はローソクに火を点けて灯明台に挿していく。薄暗い室内でローソクの灯りに照らされた人々は何やらなまめかしく見える。
中央部の大ドームはまるでイスラム建築のように幾何学模様で飾られていた。ドームの上部にはたくさんの明り取りの窓があるので,グルジアの教会より会堂内部は明るい感じがする。東側のイコノスタス(聖障)は簡単な柵で仕切られているだけで至聖所はそのまま見えるようになっていた。
ハチュカル(十字架石)
幾何学模様の装飾は高さ6mほどのところまでで,その下は漆くいの白を基調とした壁面や柱面になっている。そこには多くのイコンやフレスコ画があり,上部と対照的な宗教空間となっている。この大聖堂は写真OKなのでいくつかを撮らせてもらう。
建物の外は石畳になっており,その外側は樹木のある公園のようになっている。大聖堂の全景を写真に収めようとすると樹木がジャマをする。敷地内にはアルメニア各地から集められたハチュカル(十字架石)が置かれている。
ハチュカルはアルメニア特有のもので,十字架とある種の意匠を彫りこんだ高さ3mほどの石板である。主に墓石として使用され,重要な出来事を記念する場合にも制作された。
聖フルプシィメ教会
エチミアジン大聖堂から歩いて10分弱のところに聖フルプシィメ教会がある。この教会の名前の由来となった聖フルプシィメについては悲しい伝説がある。
彼女は非キリスト教徒であるローマ皇帝から求婚されアルメニアに逃れた。しかし,そこでもアルメニア国王から求婚され,それを拒否したため殺害された。
フルプシィメが殺害された場所には殉教記念堂が建てられ,7世紀には現在の場所に聖フルプシィメ教会が建てられた。エチミアジン大聖堂は幾多の増改築が行われ7世紀の基本構造とはかなり異なっているが, 聖フルプシィメ教会は7世紀の初期アルメニア建築の姿を残している。
この教会はシンプルな形状をしているため,正面ではなくちょっと斜めから撮るのがよい。この教会の原形も平面図はほぼ正方形になっており,四辺にアプス (後陣) が配されているが,本体の壁面に収まるようにできている。搭状部は八角柱状のドームと八角錐の屋根で構成されている。
入口上部にはキリストの生誕と思われるフレスコ画が迎えてくれる。内部にはまず灯明台があり,ローソクの炎が揺らめいている。この灯明台は祭壇から柱の陰になっている。
正面に続く通路の両側には信者のためのベンチが置かれており,これはグルジアでは見られなかったものだ。正面の至聖所は半円状のアーチ構造になっているが,会堂から一段高くなっているだけで,視界をさえぎるものは何も無い。
教会の左側は墓地になっており,いくつもの石棺が並んでいる。中には立派な鷲の紋章を刻んだ墓石もある。聖フルプシィメ教会とエチミアジン大聖堂の間にもかなり大きな墓地がある。こちらは四角ではなくかまぼこ型の石棺が多い。
中央バザール
帰りのミニバスは中央バザールに到着した。ここから宿までは4-5km,街の中心部を眺めながら歩いて帰ることにしよう。
中央バザールは巨大なかまぼこ状の屋根をもった建物で,主として生鮮食料品を扱っている。雰囲気としては巨大な屋根をもった露店といったところだ。果物などはとてもきれいに並べられている。その分,市内の他のバザールに比べて値段は高そうだ。
中央バザールの近くにはモスクもある
バザールの向かいにはギョイ・メスジド(青のモスク)があるはずだがよく分からない。注意深く見ると青いタイルを使用したモスクとはとても思えない建物がある。
このモスクはもともとイスラム教徒のアゼルバイジャン人のためのものであったが,現在アルメニアにはほとんどアゼルバイジャン人は居住しておらず,イラン文化センターとなっている。ここは全く見る価値が無い。
共和国広場周辺
中心部の家並みはヨーロッパ的な感じが強い。窓から外に張り出した小さなテラスが特徴的だ。共和国広場に出ると,広場を囲むように,少し湾曲したアルメニア・マリオットホテル,往時のズヴァルトノツ大聖堂を模したような国立歴史博物館,時計台をもった優美な財務省などアルメニアを代表するような建物が並んでいる。近くの歩道上にはカフェが営業しており,ここの風景もヨーロッパ的だ。
トラム(路面電車)の陸橋
広場からティグラン・メッツ大通り南に行くと,トラム(路面電車)の陸橋をくぐる。
遊園地
その右側は遊園地になっており,おとぎ電車のようなかわいい乗り物が多い。
聖グリゴル・ルサヴォリチ聖堂
遊園地の東側の少し高くなった丘には巨大な聖グリゴル・ルサヴォリチ聖堂がある。大通りから聖堂まで幅の広い立派な階段が続いている。
その途中には二頭の馬にまたがる剣をかざした男性像がある。教会の外観はまったく現代的で,ドームが3つ横に並んだような形状をしている。内部は広く中央通路の両側にベンチが並んでいる。一度に400人くらいは座れそうだ。
正面には半円状のアプスがあり,そこは会堂より一段高くなった祭壇となっている。アプスの壁には聖母子像が飾られている。ちょうどミサが始まり,何人かの黒服の司祭が交互に歌うように聖句を朗誦している。