ナルンは標高2100m,帝政ロシアの時代に辺境防衛のためロシア軍が造った町である。現在でも46,000人の人口を抱えているものの,冷戦が終わり町はその役割を終えたように寂れている。
ナルンは首都ビシュケクと中国のカシュガルを結ぶ幹線道路沿いに位置している。この幹線道路はトルガルトの国境が開き,キルギスと中国の物資輸送の大動脈となったにもかかわらず,ナルンを含むナルン州はキルギスでももっとも貧しい地域と言われている。
旅行者にとってもカシュガルからナルンに入るルートは可能であるが,公共交通がほとんど期待できずヒッチハイクに頼る状況なのでリスクの高いルートいうことができる。そのため,僕もこのルートは避け,カシュガル//オシュの国際バスを利用した。
イシククルからどうやってウズベキスタンに移動するかは頭の痛い問題であり,来たときのルートをたどってビシュケクに戻るのは面白くないのでイシククル→ナルン→ジャララバードというローカル・ルートを採用することにした。
このルートはほとんど日本では情報が得られなかったので,ナルンで交通状況を確認し,難しいようだったらビシュケクに戻ることにした。この町で少なくとも中間点のカザルマンまではバスがあることが分かったのでローカル・ルートで行くことにした。
街の中心部をナルン川が東から西に流れている。コチュコルとナルンの間にあるドロン峠の南側の川はほとんどナルン川に合流し,フェルガナ盆地に出る前にダムでせき止められ「トクトグル湖」となっている。この湖はオシュからビシュケクに移動するときその東岸を通過している。
僕の採用したローカル・ルートはナルンからしばらくナルン川沿いの道を西に向かい,途中で南西に転じてジャララバードに抜けるものである。
フェルガナ盆地に出たナルン川はウズベキスタンに入り,「シル・ダリヤ」という中央アジアを代表する内陸河川になる。
このシル・ダリアとパミールに源をもつアム・ダリアに涵養されていた「アラル海」は20世紀の半ばから流入水量が激減し,かっては琵琶湖の約100倍もの面積をもっていた湖は地図の上から消滅しようとしている。人類の営みが地域環境,地球環境に与える影響の大きさを我々はしっかり認識しなければならない。
2006年12月26日にナルン州でマグニチュード5.7の地震が発生し,6,883軒の家屋が全半壊する被害に見舞われた。地震の規模は小さいのに家屋の損壊が激しかったのは,日干しレンガと泥が主要な建築材料となっており,耐震性が非常に脆弱あったことに起因するのであろう。
今回旅行してきたイラン,パキスタン,キルギスタンには多くの地震の爪あとが残されている。僕はパミールの北側では地震は無いと考えていたがそうではなかったようだ。
バルスコン(約150km)→バルックチュ 移動
06時に起床,雨が降っているようだ。トイレのために外に出てみるとかなりの雨である。このまま降り続かれると今日の移動は厳しい。幸い07時を回ると雨は小ぶりになりなった。
08時少し前に「マルシュルートカ,ビシュケク」と伝えると,おじいさんは通りに出て車をチェックしてくれた。ちょうど08時に車がやってきて出発となる。出発するときおばあさんに100ソムを渡し「本当にお世話になりました」とお礼を言うと,僕の手を握りしめとても喜んでくれた。
この家には100ソム相当のペットボトルの蜂蜜を忘れてきてしまった。まあいい,お二人に食べてもらえればいいじゃないか。突然やって来た,ロシア語もできない旅人を暖かくもてなしてくれたお二人に感謝である。
マルシュルートカはとなりのタムガ村に寄り,しばらく停車して乗客を集めた。広場の正面にはサナトリウムらしい施設があり,周辺には集合住宅がある。タムガ滞在することになったら,あの集合住宅の一室に泊まることになったことだろう。
車はイシィク・クリ南岸の荒れた舗装道路を危険な速度で走る。かなりの振動で乗り心地は決して良くない。09:30頃,湖岸にボズ・ユイがいくつも並んでいるのが見える。ボコンバエフの少し手前であろう。
ここから山間の道路になりしばらく湖は見えなくなる。周辺はほとんど牧草地にもかかわらず,家畜の姿は見えない。10:10に小さな峠を越えると再び湖の景色が戻ってきた。11時にイシィク・クリの西岸の大きな町であるバルックチュのバスターミナルに到着する。ざっとチェックしたところではナルン行きのバスやマルシュルートカはないようだ。
バルックチュ(173km)→ナルン 移動
通りの向かいに乗り合いタクシーが並んでおり,運転手に「ナルンに行きたい」と言うと返事は「500ソム」であった。首を横に振っていると300,250と値段は下がり,それ以下にはならなかった。
どうやら250ソムが地元価格のようだ。距離的には1.5倍あるビシュケクからチョルポンアタまでが150だったことを考えると,この区間の料金は非常に高い。
バルックチュはキルギスで唯一の鉄道の終点である。乗り合いタクシーの運転手と交渉しているとき,列車がやってきたので一時中断して写真を撮る。
バルックチュからナルンの間は山越えになるので風景は良い。標高が上がるとボズ・ユイが点在しており,所々では馬乳酒も売られている。しかし,標高が上がるといつものように雨模様になり,写真はほとんど撮れない。
ホテル・アラ・トー
13:30にナルンのバスターミナルに到着する。運転手は「あと50でホテル・アラ・トーまで行くよ」ともちかけるが,即座に断った。地図で見ると宿までは1200mほどである。
バスターミナルは町の東側にあり,その間を大通りが結んでいる。大通りの北側にはナルン川が流れている。ソ連時代は中国国境が近かったのでロシア軍の駐屯地があり,ソ連が崩壊した後もそのまま残っている。
アラ・トーはソ連時代の古いホテルである。受付のおばさんに宿泊を申し出ると,100,200,500,600と紙に書いてくれた。部屋代のランクであろうと推測して100を指差した。
100ソムの部屋は6畳,1ベッド,T付き,机付きである。シャワー室は探してみたけれど少なくとも2階のフロアにはなかった。ほとんど汗もかかないのでたいした問題ではない。頭だけは広い洗面台で洗った。水の冷たさに震えがくる。
昼食はホテルのレストランでいただく。メニューを見ると料理名はロシア名で,説明は英語で書かれている。ジャガイモ,タマネギ,牛肉と材料が分かったのでそれにする。
従業員に確認すると「コールザッ」と教えてくれた。出てきた料理は油の使いすぎでしつこいし,肉はとてもタフであごが疲れるくらいだ。もうここで食べるのは止めよう。
こぎれいなマーケット
町の大通りを西に歩く。新しい小ぎれいな商店がある。市場経済の流れに乗ることができた人たちは車でやってきて買物をする。まあ,僕にはほとんど用の無いところだけど。
路上のバザール
州庁舎,劇場を過ぎその先で北に折れるとバザールに出る。といっても半分露店もしくは仮設テントのような商店が並んでいるだけだ。衣類と日用雑貨が主な商品である。その先に大通りと並行した通りがあり,その交差点周辺で食品類を扱っている。
建物の中のマーケット
通りの左側に大きなマーケットの建物があり,中は食料品の店がたくさん入っている。しかし,この建物の中は暗すぎてフラッシュ無しでは写真がつらい。トマトは熟しすぎて品質はよくない。何軒か回って良さそうなものをいただく。
建物の一画には遊牧民伝統の酪農製品が売られている。バター,チーズ,ヨーグルト,馬乳酒がポリバケツやポリタンクに入っている。販売単位が大きいので僕には手は出せない。となりではおじさんがどんぶり一杯の馬乳酒を立ち飲みしている。
売り子のおばんさんが白い直径4cmほどのボール状のものをくれた。とても固くて簡単には食べられない。前歯で少しずつ削り取っていただく。酸味が強い,どうやら乾燥させたチーズらしい。
チーズは遊牧民の文化ではあり,多くは乳がよく出る夏場に作られる。栄養の詰まったチーズは遊牧民の重要な食料ではあるが,移動生活においてはさらに持ち運びの便利さが要求され乾燥チーズができあがった。この地域では小さな塊をそのまま,あるいは削ってチャイの中に入れて柔らかくして食べている。
過去の経験から食料品を売っている建物の中に何か食堂があるはずだ。予想通り,壁際にカーテンで仕切られた一画に簡易食堂がある。長いテーブルが一つあるだけで,メニューも麺にスープをかけた一種のラグマン,金属製の蒸し器に入っている餃子の2種類だけだ。
昼食にマントウ風の蒸し餃子をいただく。日本の餃子より一回り大きなものが5個とチャイで35ソムである。この地域の物価は安い。酢とチリペーストを薬味としていただく。できが良いので全部入ってしまった。
僕は食べ物の写真をあまり残さない。というより,料理が出てきたら食べることしか頭になく,写真を撮ることは完全に失念してしまうことが多いからだ。ここの昼食は奇跡的に写真が残っていた。
パン屋が集まっている一画
近くにパンの店が集まっている。今までのものより一回り大きくて1個7ソム,妥当なところだ。パン屋のおばさんたちはとてもきさくで写真を撮れ,あの子も撮りなさいとかしましい。
その縁で杏ジュースと卵の店の番をしている女の子を撮ることになった。杏ジュースはコップに一杯で2ソムとは安すぎる。そのせいか売れ行きは上々だ。
この一画の人たちとはすっかり仲良くなったのでよくパンを買うことになった。滞在3日目には恒例の昼寝をしてから昼食のためマーケットに向かう。いつもと同じメニューの昼食をいただき,野菜を買い,パンの露店に行くと,おばさんたちはちょうどスイカを食べ終わったところだ。
ナルンの人たちのもてなしに気を良くしていた僕は近くのトラックからスイカを1個(60ソム)買ってきて,切ってもらった。人数が多いのであっという間になくなり,僕には一切れしか当たらなかった。
子どもたちもたくさんいたのでヨーヨーを作ってあげる。キルギスの子どもたちは積極的には手を出さず,回りでじっと見ている。顔はモンゴル系で日本人にも似ているし,こういうお行儀の良い子どもたちは好きだな。
ナルン川の風景
そのまま北に行くとナルン川に出る。確かに川は流れていた・・・。しかし,川岸はゴミ捨て場になっている。生ごみや,プラスチックごみ,住居を解体した時のレンガのかけらなどが分別されることなく捨てられている。この川は中央アジアを潤す貴重な水源のはずなのに・・・。
キルギスに限らず旧ソ連圏では水環境に対する配慮は極めて低い。アラル海はもう死んでしまったし,カザフスタンのバルハシ湖も水位の低下と重金属汚染で瀕死の状態だ。
環境を犠牲にして経済成長を追及してきたツケは決して小さくない。旧ソ連の失敗をそのまま,より大規模に再現しているのが現在の中国である。中国の河川は小さなものが集まり大きな水系を作っているので,上流の水質汚染は水系全体に影響を与える。
中央アジアにかぎらず,アジアの全域でごみ問題はひどい状態である。「ごみは土に還る」という時代は遠い過去の話だ。荒々しくも美しい自然が見どころのキルギスにおいても,人間の活動のあるところにごみが散乱している悲しい現実がある。
特に川沿いの状況はひどい。持ち主のいない土地に人々はなんら罪の意識も無くごみを捨てる。これは「共有地の悲劇」の一つの事例である。ごみを適切に処理してきれいな街づくりをといったところで,それは旅行者の感傷に過ぎない。
新しい市場経済という仕組みになんとか乗り遅れまいと必死にもがいている人々は聞く耳を持たないだろう。つらいけれど,それがこの国の現実なのだ。
家造りの現場
見たいと思っていた家作りの現場を見ることができた。基本的な材料は大き目の日干しレンガである。壁の厚みが必要なのでそれを二重にして積み上げている。窓枠や戸口の上部は板材で補強している。
屋根は普通の三角屋根で木材で骨組みを造り,トタンで葺くことになる。天井をどのように造るのかは下からでは分からない。過去の事例からすると,梁を何本も渡し,上を泥で固めるのが一般的だ。
低い山にはまったく緑がない
キルギスの草原は2500mを越えたところにしかない。緑豊かな地域だと思われているキルギスの中央部には半乾燥地帯の風景が広がっていた。ナルンの周囲の低い山にはまったく緑がない。まるで砂漠のような風景であり,盆地状の地形の底にあるナルンはオアシスのようだ。
カザルマン行きのバスの運行日
ナルンではどこを探しても炭酸水しかなかった。そのため思い切って水道水を飲むことにした。蛇口からは冷たい水が出ており味もまったく問題ない,それどころかおいしい。まあ,ひどい結果が待っているかもしれないが甘受しよう。
とりあえず今朝の腹具合は何の問題も無い。今日の課題はカザルマン行きのバスの運行日と時間を確認することだ。宿から大通りを東に歩き長距離BTに行く。
乗り合いタクシーの運転手が「ビシュケクかい」と聞いてくる。「カザルマン」と答えると,別の集団から300ソムという声がかかる。とりあえず彼らを無視して,建物の中に入り運行表チェックする。
カラコルでの経験からあまり当てにはならないと思いながらも,慣れないキリル文字のスペルをたどってカザルマンを見つける。距離400km,2と5の曜日の08:30と解釈した。
しかし,2と5の曜日は月/木もしくは火/金を表しているらしいが,この国の曜日の表現方法は分からない。窓口の女性に尋ねると2日後(7月20日)にバスがあるようだ。ということは5は金曜日ということになる。
ちなみにビシュケクまでは510km,毎日09時,10時,11時にバスがあるようだ。ということでナルンにはあと2日滞在せざるを得ない。2日後に移動した時の料金は300ソムであり,乗り合いタクシーの料金と同額であった。ほぼ同じ距離のビシュケク→チョルポンアタは150ソムであったので2倍の料金ということになる。
中国の大型トラックが何台も停まっている
長距離BTの裏手の広場をまっすぐ行くと南に向かう道に出る。道沿いには中国の大型トラックが何台も停まっている。中にはキルギスに対する援助と書かれた横断幕が張られたものもある。
今後,キルギスは中国との経済的関係を強化する一方で,政治的には民族の近いカザフスタンに近づくことになるだろう。資源も産業も持たない小国が生き残るのは容易ではない。
南に向かう道からの眺望
ここから北を眺めると正面に赤褐色の岩山がそびえており,その背後に蒼い山並みが連なっている。緑は水路沿いだけで,赤褐色の岩山は植物がしがみつくのさえ許さない厳しい環境のようだ。
ミニチュアの町並み
道路の右側の斜面は墓地になっている。概して言うとムスリムの墓地は立派なものが多いが,ここの墓地は特に立派で,まるでミニチュアの町並みのように見える。
シチメンチョウであろう
道路わきの木の根元にシチメンチョウの一家がいた。日本ではほとんど見かけることのない北米原産の鳥であり,北米では感謝祭のごちそうになる。胴体は金属光沢がある黒い羽毛で覆われており,頭部や頸部には羽毛がなく赤い皮膚が露出し,肉垂があるのですぐそれと分かる。
メスに比べてオスは大きく体重は9kgにもなる。雌雄による体格の差を性差といい,オスが大きい種はほとんど大きなオスが複数のメスと繁殖を行う。この仕組みによりオスは大きな個体の遺伝子が優先的に伝達され性差が生じると考えられる。シチメンチョウも繁殖期にはオス1羽に対しメス数羽からなる小規模な群れを形成する。
川の上に人工水路が通されている
近くに用水路があり,その横の道を歩いてみる。用水路は自然の水路の上を通って東に流れている。自然の水路と人口の用水路が立体交差している姿はちょっとおもしろい。
この立体交差を支えるコンクリートの壁はかなり傷んでおり,その内側に逆T字型のコンクリート・パネルが置かれている。ソ連から独立したもののこの山ばかりの小国はインフラ整備すらままならないようだ。
馬乳酒でほろ酔い
用水路は山の斜面にあり,下にはナルンの家並みがある。塀でこそ囲われていないけれど,中庭を生活の場とする中央アジアや西アジアの住居スタイルはここでも生きている。
橋のところで7-8才の女の子が1.5リットルのポリタンク3個に水を入れ,坂の上に運ぼうとしている。う〜ん,それは手が3本ないと無理だよ。1個を持ってあげ彼女の家まで運んであげる。ついでに水を少しもらいヨーヨーを作ってあげる。
それが縁で向かいの家に招待されてお茶とビスケットをごちそうになる。この家も靴を脱いで入るスタイルだ。お茶は電熱器を使って沸かしているので,よしんばあの用水路から汲んできた水でも大丈夫だろう。
その後で馬乳酒が出てくる。下戸というよりまったくアルコールがダメな僕は一生懸命断ったが茶碗に一杯を飲むことになった。ビールよりははるかにアルコールが軽いとはいえ酒は酒だ,体内のアルコール検出器が警報を鳴らしている。
ポンプ型のレバーをもった水道栓
下の道に出てぶらぶら歩いてみる。牛乳を集配するための大きな金属缶で水を運ぶ人に何回か出合った。もちろん,重い缶を手で運ぶわけではない。牛乳の缶がピタッとおさまる専用の二輪カートがあり,それで運搬している。
ポンプも変わっている。ポンプというのは適切ではないかもしれない。正確に表現するならばポンプ型のレバーをもった水道の栓である。日本の家庭でもほとんどが押し上げ型の蛇口になっている。それの押し下げ型だと思えばよい。
ただし,相当の力が必要なので,手押しポンプのように長い柄がついている。それを押し下げると水が出て,離すと自動的に押し戻されて水は止まるようになっている。
子どもたちが水をかけあって遊んでいる
バザールの前の通り,つまり大通りの1本北の通りを歩き露店の商品を観察する。角のポンプ式水道で子どもたちが水をかけあって遊んでいる。標高2100mのこの町でも昼間はけっこう暖かいので水遊びもできる。
緑と茶色の風景
ナルン川は赤茶色の風景の中を今日も悠然と流れている。バザールから離れるとごみも少なくなり,この地域らしい風景を楽しむことができる。大通りに出ると岩山の背後に緑の山が見える。斜面の一部は樹木に覆われている。片方は緑の無い岩山なので,二つの山の高度がここでは決定的な意味をもっているようだ。
モスクを発見
大通りの西外れには新しいモスクがあった。水を撒いて庭の手入れをしている男性に軽く会釈をして建物を見せてもらう。階段を上った2階の礼拝堂は施錠されているので中には入れない。
モスクからの眺望
2階のテラスのてすりに腰を下ろし,荒々しい岩山の景色をしばらく眺める。
アパートの前に小さなお店がある
アパートの前でテーブル一つを置いた小さな店の番をしている子どもの写真を撮ると,入口で遊んでいた5人の女の子が「私たちも撮って」とやってくる。集合写真の画像を見せてあげると歓声をあげ,いろいろなポーズの集合写真や一人一人の写真を撮らされた。
ちょっと峠の気分を・・・
長距離BTの少し東に大きな交差点がある。東はビシュケク,南東は空港,南はトルガルト峠に通じている。今日はちょっと峠の気分で南に向かう道を歩いてみよう。
07:30を回っているのに太陽はまだ東の山に遮られている。道路の両側に小さな流れがあり,岩だらけの斜面には乾燥に強そうな植物がひっそりと花を咲かせている。左の斜面には何軒かの家があり人影が見える。
3kmほど歩くと何やら少し傾いた標識塔が見えてくる。その先は未舗装の道路に変わり,右方向に急な上り坂となっている。下から見るとトラックがゆっくりと,歩くくらいの速度で急坂を上っている。
この道路は意外と交通量が多い。両方向合わせて1分間に1台くらいは大小の車が砂埃を巻き上げて通っていく。車の多くはセダンタイプの乗用車で,このような地域でも車は非常な勢いで増えている。
しばらくコンクリート製の大きなガードレールに坐って急坂を上るトラックを見上げていたが,いかんせん砂埃がひどい。急坂を上り切ると緩やかな丘の連なった地形となる。
谷を挟んだ対岸の斜面にはたくさんの斜めの筋が付いている。山羊や羊が歩いたけもの道であろう。緑を求めてこんな急斜面を移動しているのだ。それにしては斜面に緑がたくさん残っている。自分で斜面を登り出したら理由が分かった。
トゲだらけの潅木が行く手をふさいでいる。トゲは密生しており,ジーンズの上からでもトゲが痛い。これでは山羊でも手が(口が)出ないようだ。じゃまものの潅木を縫うように細いトレースが丘の上まで続いている。
丘の上の風景は感激が薄かった。同じような丘がはるか先まで続いているだけだ。トルガルトに向かう道路の少し上に建物が見え,犬の吠える声がここまで響いてくる。検問所があるのかもしれない。
客を歓待する遊牧民の文化
ナルンへの帰り道で馬に乗った親子を見かけた。彼らは水路を渡り斜面の家に向かっている。犬がいたのでちゅうちょしていた僕にとっては渡りに舟である。彼らと一緒にその家に向かう。
小川のところではその家の親子が水を汲みに来ていた。彼らについていけば犬の心配は無くなる。家の前の寝台に坐らされ,すぐにヨーグルトが出てくる。この家と馬に乗ったきたお客さんの子どもにヨーヨーを作ってあげると,ぼくもお客になったらしい。
家の中に案内され紅茶とパンをごちそうになる。食べ終わるといつもの「キルギス式のごちそうさま(すわっているメンバー全員が手のひらを見るようにして,顔を洗うように近づける)」でお開きになる。遊牧の生活から定住の生活に変わっても,客をもてなす習慣は変わっていないようだ。
スイカ屋
トラックで運ばれてきた大量のスイカが販売されている。1個60ソムで買い求めて,マーケットの横のパン屋さんが多い一画でみんなと一緒にいただく。
アパートの子どもたち
アパートの前で遊んでいる子どもの写真を撮ると,友だちが呼び集められて集合写真になる。