貴陽の東184kmのところに位置する「黔東南苗族トン族自治州」の州都。黔(qian)とは貴州の別名である。苗族はミャオ族,イ同(人偏に同)族はトン族を意味し,この地域の主要民族である。
自治州の人口は約380万人,そのうちミャオ族が37%,トン族が24%を占めており,昔ながらの生活を送っている少数民族の村がたくさん残っており,民族風情の村として紹介されている。
凱里は人口40万人,市街地には漢人が多く暮らしている。市の中心部は2km四方ほどの大きさで,3kmほど北側に鉄道駅がある。中心部は近代的なビル街になっているが,周辺部は低層階の家屋が密集しており,そこかしこで庶民の暮らしを見ることができる。
凱里の周辺には多くの少数民族の村があり,ミニバスや軽バンに乗ってそのような村を訪れることができる。日本のガイドブックには細かい村や地名が入っていないので,現地の「旅遊図」のコピーを手に入れると便利だ。それさえあれば,地元の人に交通手段を教えてもらえる。
安順(105km)→貴陽(184km)→凱里 移動
安順(08:00)→貴陽客運站(09:15)→貴陽長途客運站(10:00)(10:30)→凱里(13:00)とバスを乗り継いで移動する。割と居心地のよかった安順の宿をチェックアウトして汽車站に向かう。
今日もずいぶん寒い,そのうえ小雨が降っている。天星橋で遊んだ日が好天だったのはとてもラッキーであった。いつもの餃子屋に行くと何も言わないうちに蒸し餃子が出てくる。
汽車站の貴陽行きの窓口には「体育館」と「汽車站」の2種類があるので,当然汽車站の方を選択する。しかしこれはまちがい。到着した貴陽客運站は短距離用のBSで遠距離用は鉄道駅前にある貴陽長途客運站である。たまたまそこには大きな体育館があるのでそのような表示になっている。
貴陽客運站で凱里行きは出ていないことが分かり,5kmほど離れた駅前まで移動しなければならない。幸いBSから外に出るとバス停があり,2路の路線図に火車站と表示されている。
昆明と同じワンマンカーの市バスに乗り火車站に移動する。なるほど,一つ手前に「体育館」という停留所がある。近くには汽車站は見当たらず広い路上に大型バスが斜めに停車しているだけだ。しかたがないので凱里行きのバスに乗り込み車内で40元を支払う。発車時にチケットを渡され,そこには63元と表示されていた。よく分からない仕組みだ。
凱里までの道はすべて高速道路になっている。標高1000m程度ではあるが,小さな山が連なるところに高速道路を通すのは大変だったであろう。斜面を削っても4車線の巾は確保できないので,谷側が橋の上という区間が随所に見られる。
それにしても貴州には平地が少ない。人々は斜面をそのまま使用し,あるいは段々畑にして農業を営んでいる。小学生が道路の横の斜面を登っていく,昼食のため家に戻るようだ。時刻は12時を回っている。
反対車線では大型トラックが逆方向で横転し,前部に小型車が食い込んでいる。中国では考えられないような交通事故が多い。高速を出るとじきに凱里に到着する。
市運司招待所
バスは市運司客車站に到着した。建物の外に出ると汽車站の上が招待所になっている。部屋は8畳,1ベッド,T/S共同,部屋は新しくとても清潔であるがトイレは中国レベルである。料金は30元である。
市運司客車站はどこに行くにもほとんど役に立たない。長距離および近郊の移動は東の外れにある長途汽車站を利用することになる。また,舟渓や青曼などには西の市場付近に停まっている軽車両が行ってくれる。
宿の北側にある営盤路の西半分は拡張工事中である
東西方向に営盤路と北京路が,南北方向に詔山路が走り,北京路との交差点が大文字,営盤路が小文字と呼ばれている。この2つの交差点が街の中心部になる。宿の北側にある営盤路の西半分は拡張工事中である。
中国では通りや地域ごとに再開発が行われ,全部を壊して新しく建て替えるようなことも珍しくない。ここでは建物の一部が取り壊される程度で済んでいる。道路は車両進入禁止になっており,道路面が低くなっているので商店からははしごや板が渡されている。
近郊の農村から野菜を売りに来る人も多い
歩道側には露店が並んでいる。その中には近郊の村から天秤棒をかついで野菜を売りに来ている人も多い。しかし,市内の商場にはトラックでたくさんの野菜が運び込まれており,小さな商売の売れ行きはかんばしくない。
小高い丘の上から見る凱里の街並み
詔山路に出て北に向かうと丘にトンネルが通っている。その横を登っていくとトタン屋根の並ぶ市場の向こうに市街地が見える。子どもたちが坂を上っていくので一緒に行くと,凱里市一小がある。
凱里市第一小学校の門構えは寺院の山門のようだ
階段の上に中国風の立派な門がある。門のところで内部を観察していたら先生が案内してくれることになった。入ってすぐ右側には幼児園がある。ここの鉄格子の門はしっかり閉まっている。中庭には冬服を着込んだ子どもたちが整列している。
この元気な二人も3回も写真に登場している
小学校の前には工事現場があり砂山で子どもたちが遊んでいる。写真に対する拒否反応は少ない。仲良しの3人組を写真に納める。この田舎町でも,ほとんどの子どもたちはピースサインで写真に収まっている。
塀を解体しレンガを再利用する
ここから見える丘の上の住宅はほとんどレンガ造り,瓦屋根である。工事中のところではレンガの回収が行われている。砕いたレンガ塀から壊れていないレンガを取り出し,付着しているセメントを削っている。
下校風景|買い食いして帰るのが地域のスタイル?
宿の前を南に歩いていくと永楽路に出る。この通りには小学生がたくさん歩いている。先を行くと凱里市第七小学がある。ちょうど下校時間で子どもたちが階段を下りてくる。
かわいい2人連れの女の子の写真を撮ると,周囲に子どもたちが集まってくる。男の子のグループは目立ちたがり屋が多くいつものようにあまりいい写真にならない。
下校風景|彼女たちの名前をメモ帳に書いてもらう
女の子のグループに「一列になって」と言うと,しゃがんでしまった。まあ,いいけどね。彼女たちはぼくが漢字を読めることが分かると筆談で話しかけてくる。僕も彼女たちの名前をメモ帳に書いてもらう。発音は難しくてトレースできない。
このメモ帳の名前については後日談がある。翌日,舟渓鎮の山の上の村でお祝い事があり,そのとき筆談にこのメモの続きを使ったところ,女の子が名前を見て,凱里市第七小学と書くではないか。どうやらその子の知り合いのようだ。う〜ん,世間は狭い。
今朝の朝食は油条(揚げたパン),豆乳,稀飯(おかゆ)
7時に起きて朝食屋を探したがメンの店しかない。しかたがないので向かいの店で定番のおかゆ,豆乳,油条(油であげたパン)の3点セットをいただく。
これは少数民族の使用する天秤棒
気温は昨日に比べて少し暖かくなったが冬服を着て出発する。営盤路を西に行くと市場がある。その前には野菜を並べた露店が集まっている。自分のところの畑でとれたものを売っているのだ。
半身の豚は肉屋で解体される
市場の中は暗く裸電球が光っている。肉屋では豚の半身が解体されている。近くではガスバーナーで豚の毛を焼いている。こちらの人々は皮付きの豚肉を食べるので毛はきちんと除去しなければならない。
赤い鳥は専用のタレを塗ったものであろう
トリはニワトリもアヒルもタレを付けてローストされたものが,山のように積んである。素材が分からない野菜の発酵食品も並んでいる。漢文化ではなく,少数民族の文化であるろう。
舟渓鎮に向かう
市場の西側の通りにはマイクロバスや軽車両が停まっている。行き先のプレートが運転席の前に置かれている。舟渓鎮行きはたくさんある。動き出した軽車両の運転手に料金を聞くと4元なので乗車する。
街を出るととたんに道路は悪くなる。舟渓鎮の少し手前に古い家並みの家があるので運転手にたずねると「地址:大中村」と書いてくれた。
車は舟渓鎮の橋のところで僕を降ろしてくれた。山と山の間に巾500mくらいの平地が広がっている。北から南に向かう幹線道路沿いの家はコンクリートのものが多い。古い集落は東北の高台,西北の高台,東南,西南と平地の外れにある。大切な平地の大部分は農地になっている。
橋の下ではコンクリートで固めた水路があり,村の人々が洗濯をしている。野菜等の洗い物は上流と決まっているようだ。洗濯の風景を撮り,近くに子どもがいたのでヨーヨーを作ってあげる。この珍しいおもちゃに,村人の顔もほころぶ。
ニワトリの販売所
橋の向こう側に斜面の小道があり,上には市場がある。今日はもう終わってしまったのか閑散としている。日本髪に似た丸まげを結った女性がニワトリを商っている。男性が品定めをして一羽を取り出す。彼が50元札を差し出すと25元くらいのおつりが戻ってきた。
ここも石灰岩の大地である
橋の手前から川沿いの道を西に歩く。右側に石灰岩の岩山がそびえている。乾季のため川の水は少ない。用水路や畦道を通り農作業を見に行く。
荒起こし|牛にとっては重労働だ
この時期は田植えの準備が行われている。裏作のアブラナを刈り取ってから荒起しを行い,それから水が入れられる。
再度,牛や水牛に引かせた鋤を入れて水と泥を混ぜる。さらに櫛状に歯の付いた道具を引かせ土の塊を砕き,滑らかにする。簡単な作業に見えるが鋤も櫛の歯の作業も熟練を要する難しいものだ。ましてや荒起しは技術と体力の必要な作業である。
若者が水牛に鋤を引かせていた。慣れないせいか角のところでうまく曲がれず水牛は勝手な方向にどんどん行ってしまう。そこで若者が鋤の扱いを失敗したらしくアームの部分が折れてしまった。自由の身になった水牛は畦の草を食べに行き,残された親子は壊れた鋤をじっと見ている。
一部の畑では田植えが行われている。10cmにも満たない小さな苗が10cm間隔で植えられていく。大変な密植でこれでは草取りもできないだろう。日本では苗は20cm,間隔は20-30cmはあるだろう。
集落の子どもたち
西南の集落は石灰岩の岩山の斜面に固まっている。集落の前には川沿いの道に通じる道路がある。家の2階から子どもたちが顔を出しているので,下りてくるように手招きをする。犬を入れて5人と1匹の集合写真となる。集落の女性の服装は一定していない。
積み上げた稲わらが風景におもしろいアクセントを与えている
集落の道路わきに稲ワラを棒や木の回りに円柱状に積み上げている。最上部には雨避けのカサが置かれている。これも稲ワラ製だ。この稲ワラの束は水田のいろいろなところに作られており風景におもしろいアクセントを与えている。
集落の家|高床の技術が生かされている
集落の家は土地に合わせて作られている。斜面には石を積み上げ家のための平地を確保している。それでも傾斜をカバーできない場合は,一部を高床式にしている。家の造りは木造,瓦屋根,板塀で僕の見た範囲は土間か板の間になっている。
石灰岩の平らな面を上にした石造りの階段
この地域では平地は余すところ無く農地として使用されており,そのため集落は斜面に造られる。農地から集落の中を抜ける石段が通路になっている。白っぽい石灰岩の平らな面を上にした石造りの階段である。
家の基礎部分にも同じような石が使用されている。木造の部分は木が日に焼けており,造られてからかなりの年月が経っていることを示している。
一軒の家の壁に張り紙がある
一軒の家の壁に張り紙がある。10日ほど前の日付で,「この家の主人の母親が亡くなった,親戚や知人の方は葬礼に参列していただきたい」と記されている。
そのとなりには,「多くの方に参列いただき大変ありがたく感謝にたえない,このお葬式には現金3758元,豚1頭,米1000斤,酒500斤・・・がかかりました」という感謝文も掲示されている。
出生,結婚,死去,人生のそれぞれのイベントにおいて,集落の人々は助け合って生きてきたにちがいない。
斜面には大きな石灰岩がゴロゴロしている
川沿いの道を西に歩くとしだいに上りになる。少し高いところから見るとこの土地が栄養分に乏しい石灰大地にあることが分かる。岩だらけの大地を農地にするため,どれだけの労力が必要だったことだろう。
■調査中
斜面の麦畑には大小の岩が転がっており,これがこの大地の原風景なのであろう。枝から藤のような花房をたらした木がある。白く可憐な花の向こうに棚田の景色が見える。
棚田の最上部に集落がある
ここから山の上にある西北の集落に向かう道路がある。この辺りの段々畑は石垣を積み上げて斜面を固定している。下から見ると白いひな壇が続いている。高台の上に集落がある。家の構造は西南集落と同じだ。屋根瓦はベトナムのフエで見かけたものと同じである。
屋根瓦は板状ではなく少しそっている。この瓦を曲面を下にしたものと上にしたものを横方向に交互に並べて,縦方向には上から下まで同じ曲面方向の瓦を重ねている。
水は曲面が下になった瓦の列を流れるようになっている。屋根の頂点の中心には瓦を組み合わせた紋様がある。これはただの飾りだろうか,それとも家紋のように意味のあるものなのだろうか。
盆地を俯瞰する
高台のビューポイントから見ると平地の水田や農地が一望できる。平地は余すところ無く利用されている。土地の傾斜等により田畑を区切る畦は複雑な曲線を描いており見ていて飽きない。南北方向の幹線道路が平地と斜面を区切るように走っており,東側の斜面も棚田になっている。
水路で洗濯をしていた子どもたち
高台から下りて川沿いの道を歩いているとコンクリートの洗い場があり,女性が半分茶色くなった菜っ葉を洗っている。ちょっとこの用途は分からない。女の子が4人水場で洗濯をしている。遊びが半分といったところだ。カメラを向けると並んでしゃがんでくれた。
写真のお礼にヨーヨーを作ってあげる。洗濯物の入ったたらいを持ち,家のほうに帰っていく子どもたちに「バイバイ」と手を振ると,子どもたちも手を振りながら坂道を上って行く。