民豊(ミンフォア,ニヤ) (地域地図を開く)
西域南道のオアシスの町。タクラマカン砂漠をまっすぐ縦断する沙漠公路はコルラと民豊を結んでおり,東のチャルチョンへは315km,西のホータンへは291kmのところにある。
民豊は別名「ニヤ」とも呼ばれている。町から北へ120kmの砂漠の中にあるニヤ遺跡がある。この遺跡にちなんで,もしくは遺跡が町の名前にちなんでいるのか分からない。町は本当に小さく,大きなロータリーの周りに2階建ての家が集まっているだけだ。
西域南道のオアシスの町。タクラマカン砂漠をまっすぐ縦断する沙漠公路はコルラと民豊を結んでおり,東のチャルチョンへは315km,西のホータンへは291kmのところにある。
民豊は別名「ニヤ」とも呼ばれている。町から北へ120kmの砂漠の中にあるニヤ遺跡がある。この遺跡にちなんで,もしくは遺跡が町の名前にちなんでいるのか分からない。町は本当に小さく,大きなロータリーの周りに2階建ての家が集まっているだけだ。
且末(10:00)→塔中(14:00)→民豊(18:30)と寝台バス(50元)で移動する。前日に汽車站の窓口でキップを購入しておく。昼間のバスにもかかわらず寝台バスである。
且末の町周辺の緑化地帯は広大であった。20kmX5kmほどもある地域で灌漑農業が営まれている。その農地がつきると小さな緑が点在する沙漠の風景に変わる。
やがて道は西域南道と塔中に向かう沙漠公路の分岐点に達する。当然バスは西域南道を行くと思っていたら砂漠公路に入る。西域南道では315km,塔中経由だと500kmくらいになる。西域南道は工事区間が多いので,遠回りをしても早いということであろうか。ということで思いがけなくも昼間のタクラマカン沙漠を移動することになった。
タクラマカン砂漠の周辺には「胡楊」の木が見られる。名前の通りポプラの仲間であるが,乾燥に強く砂漠の中の水脈を深い根で探し当て,過酷な環境の中でも生き延びている。
そして,枯れた後も1000年も立ち続けていることから「英雄樹」とも呼ばれている。しかし,タクラマカンの乾燥化により,中心部に近い地域の胡楊はすでに枯れてしまっている。
昼間のタクラマカン砂漠はまさに砂の海であった。その中を一本の道が続いている。粒子が細かく軽い砂は風により絶えず移動し,隙あらば道路を覆い隠そうとする。それを防ぐため全区間で葦(アシ,ヨシ)の枯れた茎が道路から20mくらいまでに格子状に植えられている。この葦は沙漠の写真を撮るにはジャマであるが大切なものだ。
一部区間の道路は葦の坊砂堤にもかかわらず砂に覆われている。移動中も少し風が吹き,砂が道路上に流れ出す。砂埃のため視界も良くない。しかし,バスは速度をゆるめることなく走り続ける。
砂の移動を抑えるための最後の切り札は周辺の緑化である。水を供給するための黒いホースが何列も延々と伸びており,その列に沿って植林が行われている。タマリスクに類似した潅木のようだ。
いずれもまだ若木の状態であり,この先も気が遠くなるような努力が必要である。この若木が大きくなったときには,砂対策に大きな効果が発揮されるかもしれない。
塔中の手前の分岐点で沙漠公路を南に向かう。西域南道が近くなると再び緑が増えてくる。民豊の手前で公路交通検査の看板がある建物があり,運転手は書類をもってこの建物に入っていった。民豊で下車したのは僕一人であった。
民豊では汽車站に付属している交通賓館に泊まった。何といっても周辺には宿のような建物は見当たらないのでしかたがなかった。しかし,この選択はとても賢明とはいえなかった。
部屋(35元)は10畳,2ベッド,T/S付きではあったが,シャワーは出ないし,洗面台の水も出ない,洋式トイレはひどい状態で,ベッドの清潔さは何とか合格点という有様だ。中国に洋式トイレを持ち込んだ人を呪いたくなる。
その夜のことだった。真夜中に雨だれのような音で目をさました。明かりをつけてみると,天井から水が漏り,水滴が掛け布団に当たる音であった。非常事態なので管理者のおじさんを起こして部屋の状態を見てもらった。おじさんは,僕をとなりの部屋に案内してくれた。真夜中の引越しとなった。
となりの部屋は今までの部屋より汚い。そして,暗いのでよく見えなかったが,不気味な羽音が聞こえる。窓ガラスが割れており,部屋はハエの溜まり場になっていた。あきれ返っていると,メインのブレーカーが落とされ真っ暗になる。
メインストリートに出ると両側の建物はほとんど平屋か2階屋である。「民豊県商貿一条街」と印された看板が道路をまたいで取り付けてある。しかし,その通りの両側には露店が並んでいるだけだ。民豊はその程度の町である。
ロータリーの近くには食堂街がある。食堂は家の中にもあるが,やはり外の縁台でいただくのが楽しい。カバブ4本とナンで夕食にする。縁台はたたみ3畳ほどの広さがあり,その上にじゅうたんが敷いてある。
クツを脱いでその上に上がり,小さなテーブルで食事をとる。テーブルにはやかんが置かれ,お茶はセルフサービスで飲める。ナンがちょっと固いときはお茶に浸して食べるのが地域の流儀である。
ここで人々はお茶を飲み世間話に花を咲かせる。この形式は中東のチャイハナの流れであろう。「チャイハナ」はペルシャ語に起源を持ち,チャイはお茶,ハナ(ハネ,ハーネ)は名詞に付く接尾語で「〜館」,「〜家」を表す。日本語ではその雰囲気から茶店が一番近い。
食事が終わると9時近いが,新疆時間ではまだ7時で明るい。通りをのんびり歩きながらウイグル人の子どもたちの写真を撮る。一人の子がアイスクリームを食べていたので周囲を見渡してみる。同じようなプラスチックのカップが備えられた機械がある。
近くの人に機械を指で示すと,近くの店からおばさんが出てきた。電源のスイッチを入れるとコンプレッサーが動き出し,ものの3分くらいでソフトクリームが出てきた。値段は0.5元である。これは中国の偉大な発明である。
眠れない夜を過ごして07:30に起床する。近くの食堂で朝食をと坐ってみたが,注文方法が分からず,ここでは日記を書くだけになった。それにしてもこの町は埃っぽい。テーブルの上だけではなく,ノートまでもがザラザラしている。
女の子が2人で歩いている。一人は漢人,一人は眉の間をつなぐ化粧をしている。かばんを背負い学校に行きそうな雰囲気だったので後をついていく。彼女たちはどこかの家に入ってしまい学校に行く気配はない。
あきらめて南東部のポプラ並木の方に歩き出す。並木の両側は日干し煉瓦の塀になっており,中にはとても入れない。偶然,この道沿いに学校を発見した。入口の看板には「尼雅鎮甫甫小学」と書かれている。
授業中のため校庭には子どもたちはいない。窓から教室を覗いていると先生が中に入れてくれた。生徒はすべてウイグルの子どもたちだ。彼らは漢語教育を受けていた。低学年ではまだ読み書きが中心で,先生の後に続いて声を出している。上級生には中学生のくらいの子どもたちも多い。
外に出ると3人の女生徒と未就学の子どもがいる。子どもの家が学校の敷地内にあったのでそこでオリヅルを教えてあげる。小さな子がフーセンに水を入れヨーヨーのようにしていたので,本物を4個作ってあげる。このヨーヨーはどこに行っても大人気である。
上級生が体育の授業のため外に出てきた。これ幸いと集合写真を撮る。女生徒は民族衣装が多く,いい絵になる。女生徒には個人写真を要求されずいぶんたくさん撮らされた。自分の画像がその場で見られるので彼女たちの要求は真剣である。
小学校は休み時間になった。低学年の子どもたちが教室から出てくる。みんなで「写真をとって」状態になる。全員を撮るため石囲いの上に並んでもらった。4枚組みの写真で全員を撮り終える。左の子どもから順に画像を見せてあげる。
続いて上級生が出てくる。彼らも写真を要求する。低学年生の前に坐ってもらいもう一度4枚組みの写真にする。
6月中旬,近郊の農地では麦の刈り入れが行われていた。麦の刈り取りはすべて手作業で行われる。この家ではトラクターの動力で脱穀機を動かしていたが,トラクターで麦の穂を踏んで脱穀する方法もある。日本に昔あった「千刃こき」のような道具が脱穀に役に立ちそうであるが,コメとムギでは種子のつき方が異なるのかもしれない。
作業は地面の上で行われるため,ゴミ,小石,麦の茎などの異物と混ざり合っている。家族総出でそれらをふるいにかけて取り除いている。さらに風選により軽いゴミを飛ばして袋に詰める。残った麦の茎は細かく裁断して家畜の飼料にするようだ。
男の子が荷車の車輪を回して遊んでいた。遊び道具などほとんどないところでも,子どもたちは身近にあるいろんなものを利用して新しい遊び方を考える。カメラを向けると一人が家の中に戻り,別の2人と一緒に戻ってきた。車軸に坐った4人を近所の大人たちも笑いながら見ている。
民豊の町の主要交通手段は馬車である。といっても,狭い町のことである,旅人がそれを利用する機会はほとんどない。一度,お客を乗せて動いている馬車に相乗りをしてみた。
一本道なので道に迷うことはまずない。幌のおかげで日差しが遮られとてもありがたい。1kmほど乗って1元札と5毛札を出すと,御者のおじさんは1元のほうを受け取った。