亜細亜の街角
■タクラマカン沙漠を越え西域南道に出る
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且末(チャルチャン,チエモー)  (地域地図を開く)

西安を出て河西回廊を西に向かうシルクロードは敦煌のあたりで天山北路,天山南路そしてタクラマカン砂漠の南の外れを通る西域南道に分かれる。

西域南道は敦煌→若羌→且末→民豊→干田→和田(ホータン)とコンロン山脈の雪解け水が流れるオアシスを結んでおり,喀什(カシュガル)で天山南路と合流している。

左の航空写真の中央部で道路がV字になったあたりが且末であり,その南にはすぐコンロン山脈が迫っている。且末のオアシスの生命線となっているのはコンロンから流れ出る一筋の川であり,西域南道ではそのように水が得られるところがオアシス都市となっている。

近年,若羌から青海省を通り蘭州に達する「青海ルート」もシルクロードの重要な支線として脚光を浴びている。且末の町の中心部は近代化されているものの,周辺は昔ながらの農村が広がっている,水路とポプラ並木の風景も残っている。

コルラ→且末移動

コルラ(18:00)→沙漠公路入口(22:30)→塔中(00:30)→且末(07:30)と600kmを寝台バスで移動する。宿から汽車站までタクシー(5元)で移動する。窓口で且末(チャルチャン,地元の人はチュエモアと言っていた)行きの夜行寝台バスのキップ(86元)を買う。汽車站の運行掲示板には120元程度の値段が書かれていたのでちょっと不安になる。

バスはタクラマカン沙漠の北辺を西に進む。周辺のグリーンベルトはほとんど途切れることは無い。道路の左は荒地,右は緑の農地という場面も何ヶ所かあった。このあたりは非常に平坦な地形で,コルラから沙漠公路までは975m±10mである。

途中のトイレ休憩でタクラマカン砂漠を見ることができた。沙漠の周辺部にはわずかな植物が生えており,その代表的なものは「タマリスク」だ。高さは1mに満たない地味な潅木である。

乏しい水分を利用するため,地中深くまで根を下ろし,乾燥や移動する砂と必死に戦っている。花の時期になると気品のある紫色の花房をつける。トイレ休憩のため外に出ることができ,記念の一枚を撮ることができた。

日が暮れてから沙漠公路に入る。石油ガスを燃やす炎がいくつか遠くに見える。深夜に沙漠の真ん中で一人の乗客が降り,照明の輝く施設の方向に歩いていった。

タクラマカン砂漠は南に行くにしたがって少しづつ高くなる。中心部では1175m,且末では1270mである。数100kmでわずか300mの高低差しかない。インド亜大陸が今でもアジア大陸の下にもぐり込んでいるため,砂漠の南側が少し高くなっている。

タクラマカンを西から東に流れるタリム川は,ほとんど平坦な地形を流れているために,ちょっとした変化で河道を簡単に変えてしまう。地質時代から現在に至るまで南側の隆起は続いているため,タリム川は昔から何回も北に移動している。川の流れが変わると,周辺の風景も大きく変化する。

真夜中に塔中で食事休憩となる。同じバスのウイグル人のおじさんが食事の注文など何かと世話をしてくれる。僕の旅はお金や情報だけではなく,このような多くの人々の善意にも支えられている。

彼の食欲はすごい。僕が少し残したうどんを二人前にして全部たいらげてしまった。タクラマカン砂漠の中心部に位置する人工的な町である塔中から道路は2つに分かれ,南西は民豊,南東は且末に向かう。

このことは且末の汽車站の地図を見て初めて分かった。従来のルートは民豊に出て,西域南道で且末に向かうものであった。それが,塔中から真っすぐな道ができたので,バス代も安くなったということだ。夜が明けると西域南道に出たらしく工事が多く,道路状況は悪くなる。

且末汽車站

07:30に且末の汽車站に到着した。汽車站の前で周囲を見渡す。どうやら交通賓館が唯一の宿泊施設のようだ(これはまちがいだった)。迷わずそこに停まることにした。交通賓館は汽車站に付属しており,新疆ではよくこのスタイルの宿がある。

両人間(2ベッド)の部屋代は100元,それを3日間の約束で70元にしてもらった。部屋は6畳,2ベッド,T/S付きで清潔である。床は大理石になっており,ベッドの寝心地も良い。エアコンも付いているが僕は使用しない主義だ。

問題はこの小さな町でどうやってまるまる3日を過ごすかである。とりあえず午前中は半分寝て,残りは日記を書くことにあてる。昼食は伴面(ラグメン,ラグマン)にする。この肉と野菜を炒めたスープ麺はとてもおいしい。しかし僕には量が多すぎ,やはり1/3を残すことになった。

且末の風景

宿の前の通りを郊外に向けて歩き出す。オアシスの原風景といえばポプラ並木と水路であろう。西域南道に来てようやくその風景に出会うことができた。崑崙山脈の雪解け水がこのオアシスを支えている。植林が盛んで道路の両側や畑の境界にはポプラが植えられている。これが地域唯一の木材資源になっている。

ウイグルの子どもたち

午後2時過ぎ,昼食のため家に帰る子どもたちがやってくる。新疆では北京時間より2時間遅れた新疆時間が一般的である。ということはちょうど学校の昼休みということになる。「止まって」という合図を出し,カメラを見せると子どもたちは並んで被写体になってくれた。子どもたちはみなウイグル人である。日常言語が異なるため新疆ではよく民族毎に学校が作られる。

小さな学校がある

この道をさらに行くとレンガ造りの学校があった。教室の正面にマルクス,レーニン,スターリンの写真が飾ってある。いいかげんに取り外したほうがいいと思うのだが。

昼休みが終わり,子どもたちが集まってくる。写真をとってあげようとすると,大人数が集まってきてちょっとどうにもならない。あきらめて外に出ると子どもたちがついてくる。しかたがないので何枚かを撮り,画像を見せてあげてお別れする。

お年寄りの穏やかな表情

道路わきのベンチで夕涼みをする

ロバを引いて家路につく

ポプラの枝を切って家畜の飼料にする

牧草の収穫風景

校の回りは畑になっており,刈り入れ直前の小麦が稔っている。近くの畑では村人が農作業をしているが,どれが作物でどれが雑草だか見分けがつかない。おそらくこの畑の緑は牧草なのであろうと推測する。

畑の端は植林されており,まるで林のようになっている。刈り取った雑草や枝ごと切り取られたポプラの葉も家畜の大事な飼料になる。この地域では緑色をした無駄なものは何一つないようだ。

水路とポプラ並木の風景

よく似ているので親子であろう

学校の帰りにしては遅い時間だね

再び子どもたちにつかまる

中庭に案内されてヨーヨーを20個ほど作ることになった

学校が終わる頃,子どもたちが家の中庭で遊んでいる。ウイグル人の家は外向きには壁と塀しかない。その代わり中庭があり,そこが家族の重要な生活空間になっている。子どもたちに手を引かれて,門をくぐり中庭に入る。

木の台があったのでオリヅルを教えてあげる。しかし,子どもたちはこのような作業に慣れておらずうまくいかない。代わりに水ヨーヨーを作ってあげる。こちらは子どもたちに大うけで,近所の子どもたちも集まってきて,20個くらいは作らされた。

殻から綿花を取り出す

朝食

7時に起床,汽車站の前の食堂で朝食をとる。包子を油で揚げたものしかない。僕は1個で十分であったのに,隣のテーブルのおばさんは4個をたいらげてしまい,それには驚いた。

これから学校に行く

元気そうな坊やだね

ポプラの枝を切る

メインストリートからわき道に入るとそこはもう農村になる。昨日,たくさんヨーヨーを作ってあげたので知ってる顔が多い。道路の脇に老人たちが坐っている。

僕は半袖なのに彼らは上着やコートを着ている。何かイベントがあるのかもしれない。壮年の男がポプラの木に登り枝を切る。彼らはその枝をトラクター車に乗せ,老人と一緒にどこかに出かけて行った。

農村を歩く

中心部には立派な学校もある

ここでのシルクロードは西域南道のことである

滞在時間の大半を農村部散策で過ごし3日目に町に出かける。コンクリート作りの新しい商店とアパートが並んでいる。新しい道には道路標識が立てられている。右は「絲綢路」と表示されている。

バザールの風景

市場が見つかり,何人かの子どもたちと珍しい商品の写真を撮る。ダイコンは赤いし,ニンジンは黄色い。ところが変わると野菜は変わるものなのだ。

肉屋では牛と羊を解体している。道具は小型の斧である。皮をはぎ,骨と分けられた肉はそのままフックでぶら下げられる。冷凍設備などは無いので,この一頭分を1-2日で売り切らなければならない。

ナンを焼く土釜もある。職人は生地をこね,形を整え,布でできた50cmほどのどらやき状の台に乗せる。職人は台の下を持ち,釜の中に手を入れ,側面に貼り付ける。釜の中には熾き火があり,ナンはその輻射熱で焼き上げられる。

羊肉とニンジンのポロフも作られている。羊肉は骨付き肉で,ニンジンは大きめに削り取られたものだ。たくさんの油で炒められるため,大鍋を傾けると油がたまるほどだ。もっとも,この料理はピラフのように炒めるのではなくスープで炊き上げるものである。簡単に言うと羊の肉とにんじんの細切りなどの入った炊き込みご飯である。

この地域特有の小さな帽子

どんぶりに入ったヨーグルト

ウイグルのおばさんが自家製のヨーグルトを売っている。材料は羊の乳であろう。彼女たちはどんぶりを積み上げ,風呂敷に包んで市場にやってくる。おばさんたちは大勢いるので固定客もけっこう多いようだ。どんぶり1杯で1.5-2元,特に非衛生的というわけではないが,量が多いのでなんとなく手が出なかった。惜しいことをした。

年配者の表情がとても印象的だ

近くにモスクがあるので礼拝に来たのかもしれない

砂まじりの風が吹き出すと戸外にはとてもいられない

夕方再びいつもの農地のあたりを散策していると,風が強くなった。ポプラの木が大きく揺れ,ザザー,ザザーと特徴的な乾いた葉づれの音をたてる。埃が舞い上がり,太陽は明るい円形の物体に変わる。

カメラが心配なのでザックの中にしまう。メインの通りに出て風の風物詩を眺める。ポプラの並木は防風林としての効果があることも体験できた。

各水路の水量を調整する

ロバ車を見ると反射的にカメラを向けてしまう

この地域ではたくさんのロバ車を見かける。暮らしは豊かになったとはいえ,人々の移動手段はもっぱらロバ車に頼っており,ロバ車は一家に一台の自家用車となっている。

ロバは馬に比べて小柄であるが,粗食に耐え,文句を言わずによく働く。でもその顔をじっと観察すると,「オレタチハドウシテコンナニクロウシナケレバナラナインダ」とぼやいている声が聞こえるような気がする。

現在はトラクター車で移動することも多い

何か日本語がプリントされている

この地域では女性の写真は難しくなかった

迷路のような土壁の集落を歩く

火花を飛ばす

ハミ瓜は一人では食べきれない

中心部の学校で子どもたちに囲まれる

今日は土曜日なのに学校がある。子どもたちについて学校に行く。生徒数が多いのか,道路を挟んで校舎が2つある。町外れで見たウイグル人の学校とは比較にならないほど立派だ。

校門の前で一枚撮ってみるとすぐに騒ぎになる。この学校は漢語教育のようだ。生徒たちの多くは漢人であるが,中にはウイグル人の子どもたちも混じっている。高等教育,職業のことを考え,親たちは漢語教育の学校に行かせているようだ。

今日の分のパンは焼いたのであとは買ってもらうだけだ

スカーフがとても似合っているね

再びバザールを歩いてみる

杏は箱の単位で買われていく

結婚式の会場

この少し後に,結婚式の会場で同じものを出された。油切れが良いものはとてもおいしい。花嫁の親族と思われる人が,「まあ,これをお上がりなさい」とポロフを出してくれた。建物の内部は暑いので,庭のぶどう棚の下に置かれた広いじゅうたんが敷かれた台の上でいただく。

このような場所で食事をするのは,ウイグルの人々にはよくあることだ。彼らの家の中には,だいたいこのような場所がある。建物の中には花嫁さんや,女性の親族,知人が集まっている。ここでは花嫁さんも自由に撮らせてくれた。

人々はおしゃべりを楽しむ

縫製工場というより家内工業に近い

タレント性をもっているね

トラクター車で大移動する

英会話教室

アパートに囲まれた公園に子どもたちがたくさん集まっていた。近くに行くと「こんにちは」と英語で話しかけられちょっと驚く。彼らは英会話教室の生徒たちであった。

先生がちょっと見ていきなさいというのでしばらくおじゃまする。買い物,遊びなどの場面を想定し,劇形式で会話の練習をしている。ででも,まだ丸暗記の段階のようだ。

子どもたちは大の写真好きであった。教室が終わるとアパートの敷地内のいろいろな場所で写真を撮らされた。写真を撮る,画像を見せてあげる,この連続である。


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