亜細亜の街角
■近代化が著しい中国の首都
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北京(ベイジン  (地域地図を開く)

中華人民共和国の首都,20km四方の広がりをもつ大都市で,人口は約700万人を数える。元王朝がこの地を都に定め,明王朝,清王朝の皇帝は紫禁城で政務を行った。

現在はなくなっているが,紫禁城を囲むように5X6kmの都の城壁があり,東西南北に残る門の名前にその名残がある。現在の紫禁城は故宮となり一般に開放されている。

2008年の北京オリンピックに向けて,歴史の古い町並みを取り壊し,近代的なビルに建て替える工事が急ピッチで進められ,街の景観は日々変化している。旅行者が訪れる範囲では,道路は広く,高層ビル街,外資系のデパート,ファストフード店も多い近代都市になっている。

成田→北京移動

成田(14:45)→北京(18:40)とイラン航空(\34,000)で移動する。成田→北京の片道はイラン航空がもっとも安かった。日本では中国ビザが個人では取得できない。旅行会社に依頼すると1ヶ月ビザが6,000円になる。

成田で厳重な安全検査を受けてようやく機内に乗り込む。米国と犬猿の仲のイラン航空機はなぜか米国製である。女性の乗務員は黒ずくめの服にスカーフを被っている。北京までの飛行時間はわずか2時間半,機内食を食べ終わるとそろそろ中国大陸である。

北京空港は新しいし立派だ。入国審査はスムーズでカスタムはノーチェックである。中国農業銀行でCiti BankのTCの両替を断られちょっと腹が立つ。ここでは特定のTC以外は両替できないようだ。空港から市内までのシャトルバスは16元もする。さすがに沿海部の物価は高い。

京華飯店

京華飯店は立派なホテルで,その裏側に中国的な平屋の建物があり,そこがドミトリーになっている。部屋は15畳,6ベッド,T/S付きで清潔である。シャワーは24時間お湯が出る。部屋は人種も性別も無く,空いてる部屋に入れられる仕組みだ。

その夜は暑さのために寝苦しかった。2時と4時に目をさまし,あとはうつらうつらの状態で朝を迎えた。結局,6時にそっと部屋を抜け出して散歩に出かける。北京の6時は十分に明るく,人々はもう動き出している。かってとは比べ物にならないであろうが自転車もたくさん走っている。

街角の風景

高層ビル街とその谷間で

京華飯店の北側のブロックは高層住宅が並んでいる。北京の高層住宅にはベランダがない。ベランダに相当する空間はガラスで囲われ,外部屋のように使用されている。建物の壁面は凹凸がなく,最近普及してきたエアコンの室外機は壁に直接取り付けられており,あれが落ちてきたらと気を揉む。

北京の道路は広く,東京などよりずっと立派だ。この国では「土地は国家のもの」となっているので,都市計画は極めて容易だ。再開発地域の古い町並みをすべて(強制的に)取り壊しことができるからだ。その後に道路を拡張し,通りに面して高層ビルを建設する。この方法は中国全土で採用されており,都市の近代化(中国では現代化という)に大きく寄与している。

高層住宅の谷間に運動公園がある。中国人の健康志向はすごく,住宅地あるいは周辺には必ず運動公園がある。毎朝,運動公園には大勢の老若男女が集まる。運動器具は目的に合わせ,いろいろな種類がある。足を前後に動かすもの,腰を回転させるもの,股関節を伸ばすもの...,人々はひと汗かいてから屋台で朝食をとり,勤め先や学校に行く。

街は近代化されたが屋台は健在であった。7時くらいに朝食がとれるのは屋台くらいしかないのでありがたい。値段がとても安いので家で調理せずここで朝食をとる人々も多い。

僕がよくいただいたのは次のメニューである。包子:中華まんを小さくしたもの,中のあんは店により異なる。油条:小麦粉を練って棒状にして油で揚げたパン。豆乳:大鍋に入っていてまだ暖かい,油条をこれに浸して食べる。稀飯:おかゆ,たくさんの種類があり,値段相応の味である。

街の外観はきれいになったが,川はひどい状態だ。未処理の下水がそのまま垂れ流され完全にどぶになっている。環境悪化と引き換えの経済発展は決して長続きはしない。

中国の消費水準はまだ比較的低いがすでに急成長経済がもたらす高い環境コストを払っている。石炭への強い依存は全国いたるところで最悪の大気汚染を引き起こし,呼吸器系疾患は中国の風土病となっている。

また水質汚濁も深刻なレベルに達し,多くの河川の水は飲料水はもちろん灌漑にも不適なほど汚染されている。大陸の中国では大河川が広範な流域面積を占めることが多い。流域の一つの川で汚染が発生すると,それは本流の汚染につながる。

取壊しが迫る古い北京の住宅地

北京駅でチケットを入手する

今日の目標はTCの両替と西安行きのチケットを入手することである。京華飯店から木梶園を通り,永定門内大街を北に向かう。通りの両側は再開発が行われており,古い町並みは盛大に取り壊されている。

北京の5月は日差しが強い。2時間半で天安門前広場に到着する。門に面した東西の大きな通りは横断禁止となっており,歩行者は地下道を通らなければならない。

ここから東に歩くと北京駅がある。北京駅には外国人専用の窓口があるはずなのにどうしても見つけられなかった。中国人用の窓口で「西安,出発時刻,軟臥」と書いたメモを出すとチケットが発券された。料金は417元と高額である。一度は中国の1等車に乗ってみたかったので自分を納得させる。

駅の前には巨大な看板があり,列車の運行表が記載されている。日本人はこれを見て,自分の利用する便を簡単に見つけることができる。TCの両替は中国銀行で問題なくできた。

急速に変貌する街並み

食堂の姉妹

早朝は屋台だけの営業となる

この三輪タクシーはもう滅んでいることだろう

箭楼と正陽門

今日も早起きをして,高層住宅の近くの屋台で朝食を取る。雲ひとつ無い快晴で,早朝はとても気持ちがよい。油条と豆乳の組み合わせは久しぶりの朝食のメニューである。

宿から木梶園まで歩き,前門行きのバスに乗る。この路線はとても混んでいて3回とも坐れなかった。天安門広場に着くと,土曜日のため中国人観光客がすごい。それでも広場は溢れるという状態ではない。天安門広場はそれほど巨大である。

正陽門をくぐり天安門広場に向かう

広大な天安門広場は凧揚げの名所であった

市民はここで凧揚げをし,観光客は記念写真を撮っている。中国の凧は形が決まっていない。目を引くのは動物凧である。鷹はまるで本物のように空に舞い,爬虫類や魚類もいる。15年前にここで天安門事件が起きたとは信じられない平和な光景だ。

広場の周辺にはいくつかの建造物がある。正面には現在は故宮と呼ばれる巨大な紫禁城があり,その南に面した門が天安門である。入口の壁には巨大な毛沢東の肖像が掲げられている。1945年10月1日,彼はこの門の上から中華人民共和国の成立を内外に宣言した。

1900年の義和団事件に始まる20世紀の大部分は,中国人民にはつらい時代であった。その苦しみは中華人民共和国の成立後も続き,人民の生活がようやく安定したのは20世紀の最後の1/4に過ぎない。

歴代の皇帝が政務をこなしてきた紫禁城から中国全土に号令を発した毛沢東は,自らも皇帝になろうとしたのかもしれない。10億の人民と,多彩な歴史的背景を有する地域を統治するため,中国はいつの時代も絶対的権力者を必要としてきた。

中国が一つの中国であるためには共産党一党独裁という権力基盤が必要なのかもしれない。そして,共産党幹部の中から皇帝を選び出すための粛清という名の権力闘争を勝ち抜いてきたのが毛沢東である。

毛沢東は共産革命をなしとげた英雄であるが,革命後の統治に関しては全くの素人であった。彼にとって階級闘争がすべてであり,新国家の建設は階級闘争の継続でなければならなかった。

無知がまかり通った大躍進では数百万人の餓死者を出し,文化大革命では伝統的な文化を破壊し,無政府状態を引き起こした。彼の階級闘争はいつも破壊と犠牲者を必要としていた。ケ小平が毛沢東より長生きしたのは中国の幸せであった。

毛沢東の次に「赤い皇帝」の座に着いたケ小平は秩序の回復と経済発展に力を注いだ。天安門に集まった学生運動において,彼が何より恐れたのは,秩序の崩壊であった。秩序を維持し,権力を分散させないため彼は断固とした武力鎮圧に踏み切った。

天安門の民主化闘争の中に,彼は自分を失脚させ,国を崩壊の瀬戸際に追い込んだ文化大革命の影を見たのかもしれない。ケ小平の統治理念は政治的安定と経済の発展であった。彼の死後,共産党は集団指導体制に入ったが,権力を一人に集中する統治方法は変わっていない。無くなったのはカリスマ性で,江沢民そして胡錦濤には,もう皇帝の影は薄れている。

中国で最も知られた光景

紫禁城はそれほど見るべきものはない

紫禁城は明以降の歴代の皇帝の居城となってきた。天安門をくぐると広場と宮殿が交互に現れる。皇帝はその中の一つである太和殿の玉座に坐り執務を行った。重要な行事のときは,文武百官がその前の広場で威儀をただしたことだろう。

数千人の後宮の女性たちにも一人一人に邸宅が与えられていたので,紫禁城の広さは想像を絶するものがある。どこまで行っても同じような建物が並び,すぐにもういいよという気分になる。

台湾の故宮は国家的文化財の博物館になっていたので,北京の故宮にもそのような施設があるかと期待して入ってみると,ひたすら同じような建物の集合体をみせられがっかりである。中国の国宝はどこの博物館で見ることができるのであろうか。

大きな建物の床は地面より数m高くなっており,上り用と下り用のためか2つの階段がある。その階段の間は石造りの斜面になっており,そこには龍の紋様が刻まれている。

中国では玉をもった龍は皇帝の象徴とされる。そのため多くの場所の装飾に龍のモチーフが使用されている。この石の紋様の精緻さ,見事さにはちょっと驚かされた。

歴史博物館に展示されていた陶磁器の名品


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