亜細亜の街角
廃墟となったビジャヤナガル王国の都
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ハンピ(ヴィジャヤナガル)  (参照地図を開く)

ハンピはカルナータカ州にある廃墟となったビジャヤナガル朝の都である。ビジャヤナガル朝は14世紀から17世紀にかけて南インド一帯を支配したが,単一の王朝ではなく4つの王朝が交替している。いずれの王朝もヴィジャヤナガルに首都を置いたので,首都名を4王朝の総称としている。

現在はハンピと呼ばれているこの地域は古い都の名前であるヴィジャヤナガルとも呼ばれている。ハンピは西海岸のゴアから東に約370km,デカン高原に位置している。

実はこのあたりがヴィジャヤナガル朝の版図の北限となっている。領土の北限に都を置いたのはひとえに北からのイスラム勢力の侵攻を阻止するためである。そのため,ハンピは堅固な城塞都市となり,イスラム勢力に対抗する最前線となった。ビジャヤナガルは「勝利の都」 を意味している。

カンチープーラム(10:45)→バンガロール(18:00) 移動

バススタンドに到着しバンガロール行きをたずねると近くのバスがそれであった。いちおうこのバスの車掌に行き先を確認する。バスに乗り込み席を確保する。水が残り少ないので買いに行くとなかなか見つからない。通り側のバスがいなくなるとその向こうに水が見えた。トイレ休憩で停車中にざっと一雨きた。あわてて窓を閉めたが座席はだいぶ濡れてしまった。

雨の後に気温は急に下がり,窓は再び開けることはなかった。それどころか,長袖を取り出して着込むことになった。

バスは高架道路でバンガロールのセントラルバススタンドの上を走り,郊外のバススタンドに到着した。タミールナドゥからのバスの一部はこちらが終点となっている。このバススタンドからはミニバスがセントラル・バススタンドまで行っている。

バンガロール(22:30)→ホスペット(07:25) 移動

バンガロール駅には待合室のようなところもないし,イスが用意されているわけではない。3時間をどうやって過ごそうと思案し,結局,床の上に荷物を置き,その前に座って日記作業をすることにした。周囲には同じように床に座っている人がたくさんいるので恥ずかしいという感覚はない。

駅の電光掲示板には列車の構成とホーム番号が記されている。21:55にホームに行くとすでに列車(Hanpi Express)は入線していた。8人用のボックス(6人+2人)は男性7人,女性1人で満席である。男性たちはいずれも気さくな人たちである。女性はちゃんと父親が同席していた。

列車が動き出すとすぐに座席は寝台用に改造され三段のベッドとなる。僕は下段で寝る体制に入る。窓は閉められているが天井の扇風機が風を送ってくるので長袖のトレーナーを着る。

ホスペット(08:30)→ハンピ(09:00) 移動

ほぼ定刻通りにホスペット・ジャンクション駅に到着した。この駅は町の中心部にあるバススタンドから1kmほども離れており,だいぶ歩くことになった。駅の周辺には小さなロッジが1軒あるだけだ。バススタンドは町の中心部だけあって周囲にはたくさんの宿泊施設がある。

ハンピ行きのバスはなかなかやってこない。どうみても30分に1本とは思えない。45分ほど待ってようやくバスがやってきた。バスはサトウキビとバナナの畑を抜け,奇岩と遺跡の中を走っていく。周辺には写真にしたい題材がたくさんあり,これは楽しめそうだ。問題は天候だ。厚い雲が立ち込めており,ときおり雨の前触れのようないやな風が吹く。

キラン・ゲストハウス

ハンピに到着するとゲストハウスの客引きが名刺を見せてくる。最初の200Rpのところに行くことにする。キラン・ゲストハウスの二階の部屋は6畳,2ベッド,T/S付きで清潔である。料金は250といわれ,これは客引きの息子が帰ってきてから交渉することになった。しかし,うわむやのうちに250Rpで泊まることになった。

まあ,部屋は清潔だし,蚊帳も付いているのでよしとしよう。3日間滞在してチェックアウトの時に1000Rpを出すと400Rpのおつりが返ってきた。客引きの息子の言うように200Rpとなったようだ。しかし,とても居心地がよかったので100Rpを宿の主人に戻した。

昼食はハンピバザールの北側にあるゲストハウス地区にあるプリンスでいただく。宿のおじさんがプリンスで19時からワールドカップの日本の応援をしましょうという名刺を見せられたからだ。しかし,ここのフライドライスは油できつくてお腹がびっくりしたらしい。じきにトイレに行くことになった。

ヴィルーバークシャー寺院

ヴィルーバークシャー寺院はハンピバザールの西の外れにある。巨大な塔門が東にあり,そこが入り口となっている。寺院は二重の周壁により囲まれており,外周壁に塔門が付いている。塔門は巨大ではあるが,工事中であり,かつ薄い黄色の単色に塗られているのでそれほど興味を引くものではない。

塔門の内側にはサルが群れている。ニホンザルに似ているが,尻尾は体以上に長い。このサルはすっかり人間になれており,参拝者の食べ物を飛びついてひったくるまでになっている。僕の目の前で子どもがバナナをひったくられて母親に訴えていたが,どうしようもない。

寺院の本堂は西側正面にあり,その右側に石柱の並ぶ小神殿がある。しかしここは住み着いている人があり,そのためひどく汚れている。石柱のレリーフを何枚か撮るのに留める。

寺院本体も周壁に囲われておりこれが内周壁となっている。入り口は小さな塔門のようになっており,そこで入場料2Rp,カメラチャージ50Rpを徴収するようになっている。これは現役の寺院としてはひどい料金だ。入り口から内部を覗きそれでお終いにする。

お母さんと一緒にお参りする

ヴィルーバークシャー寺院の南側の岩山

この寺院の南側は岩山になっている。岩山といっても花崗岩の大きな岩盤の上に大小の岩が積み上げられたようになっている。この造形は人の手によるものではない。花崗岩の巨大な岩盤が長い時間をかけて風化し,ある部分は岩山のようになり,それがさらに風化していくつかのブロックに割れたものだ。

巨大な岩が岩盤から転げ落ちそうになりながら,互いに支えあうような造形になる。また,そのような岩が岩盤から転げ落ちたところでは,滑らかな岩盤がむき出しになっている。この風景もなかなかすごい。ハンピの周辺の岩山はだいたいこのようにしてできたようだ。

硬い花崗岩といえども亜熱帯の強い陽光にさらされると部分的な温度の差ができ,膨張によるひび割れができる。このようなひび割れに水が入り込むと,さらにひび割れを圧し広げるように力が働き,ついには重さに耐え切れず分離してしまう。断面はしばしば、刃物で切り落としたようになる。

分割された岩が岩盤から転がり落ちると巨大な岩のオブジェとなり,そのまま元の位置に留まると大きな岩が積みあがったような岩山となる。この自然の造形はなかなか絵になり,周辺にある奇妙な形の岩を何枚も写真にする。また,岩盤の上で不安定ながらも転げ落ちそうで安定している岩も写真にする。

バザールの子どもたち

バザールの終わりのところで遊んでいる子どもの写真を撮る。小さな子はそのまま写真を撮ることができた。少し大きな子は写真はだめと言っていたが,もう一人の画像を見せてあげると写真を要求するようになった。お礼にヨーヨーを作ってあげるととても喜んでくれた。

しかし,ものを安易に子どもにあげるのは決して良いことではない。旅行者の顔を見ると「ペン,スクールペン」などと自動的にものをねだる子どもたちがこの村には多過ぎる。

渡し舟を見に行く

雨が上がったので近くの渡し舟を見に行く。ハンピバザールの道をそのまま進んでいくとトゥンガバドラー川沿いの道に出る。この川は西から東に流れており,大きな岩が水中にごろごろしている。現在は乾季なので水量は少なく,ゆったりした流れになっているが,雨季には大きな岩を押し流すほどの水量になるのだろう。川岸はガートのような石段になっている。水辺にも石造りの小神殿のようなものがあり,この施設はヴィルーバークシャー寺院に付属しているような感じを受ける。

寺院の北側には沐浴のための池もあるが川の方がずっと気持ちがよいだろう。大きな岩のないところを渡し舟が運行しており,バイクまでは運ぶことができる。ガイドブックにはおわん形の舟と形容されているがここのものは普通のボートであった。

ナーンディの神殿

ハンピバザールを東に向かって歩いて行くと途中から道の両側は石造りの回廊になり,ここは参道か参道の両袖になっているようだ。その先には巨大なナーンディ像が祀られた神殿がある。しかし,神殿の石組みは稚拙でとても300年間の風雨に耐えてきたとは思えない。近くの建造物も同じようなものだ。

ナーンディは西に顔を向けており,それはちょうどヴィルーバークシャー寺院の方向でもある。このナンディー像ははるか500mも先にある寺院の一部なのだ。そうなると本堂に入ることのなかった,ヴィルーバークシャー寺院の主神はシヴァ神ということになる。

石段の右側にはマータンガ山がある。山といっても石段から100mほど高い岩だらけの丘であり,ここも大きな角の丸くなった岩を積み上げたような構造になっている。この上からはハンピ一帯の眺望が得られるので登ってみたいと思っていたが,このときはどこにも登り口を見つけられなかった。

ヤスデを発見

長さ20cmほどもある巨大なヤスデを発見した。ヤスデは節足動物門・多足亜門・ヤスデ網に属する。胴体の下部に多数の短い歩脚をもっている。節足動物なので体は数十の節に分かれており,体節ごとに2対の歩脚をもっているため倍脚類ともいわれる。

肉食で毒をもつムカデと似ているため害虫とされているが,実際は腐食した植物を食べるおとなしい動物である。ただし,体表の毒腺から刺激性の液体や気体を分泌する種が多いのであまり触れない方がよい。刺激を受けると体を丸めるものが多い。通常は渦巻状になり, タマヤスデ(ダンゴムシ)はきれいな球形になる。

大きな岩の間を抜ける石畳の道

ナーンディ像を左に見て,大きな岩の間を抜ける石畳の道を行く。花崗岩の岩盤と石を組み合わせた階段が続いている。多くの巡礼者がその上を歩いたのか,石の表面はつるつるに磨かれ,午後の日差しに輝いている。

アチュタラーヤ寺院を眼下に見る

ナーンディ像から小さな丘を越える道の途中でアチュタラータ寺院を眼下に眺めることができる。この寺院は山に囲まれた南北方向の平地にあり,北側に参道が伸びている。同じように割れた岩を積み上げたような岩山の連なりを背景にして,なかなか絵になる。この寺院のレリーフや彫像はそれほど見るものがなかったので,風景の一部となっている岩山からの眺望がもっとも印象に残った。

アチュタラーヤ寺院

アチュタラータ寺院の正門は北に向いている。おそらく地形状の制約があったものと推測する。正門の前は50mほどの幅で列柱の参道があり,その間も石畳の参道となっている。列柱は2列になっており,列柱の間には石材が渡され梁の役目を果たしている。さらに隣の石材との間には平たい石材が渡され天井を形成している。このような構造物は300mほど続いており,大小を問わず寺院ではよく見られるので,当時の標準的な形式だったのだろう。

寺院は形式的には二重の周壁で囲われており,二つの塔門をもっている。二つの塔門はほぼ同じ形式であるが,内側のほうは寺院の一部という感じが強い。外周壁はほとんど崩れており一部だけが原型を保っているか復元されている。塔門の下半分は石造りであり,上半分はレンガで骨格を造り漆喰で化粧する方法がとられている。壁面のレリーフの素材は二つの塔門で共通している。

外側の塔門をくぐると中庭になり,右側に多柱式のホールがある。しかし石柱のレリーフは見るべきものはない。本堂を囲む内周壁は壁面と石柱により回廊を形成している。石柱にはそれなりの装飾が施されているがそれほどのものではない。本堂はいちおう前殿,前室,本殿の構成になっているようだ。聖室の手前には左右に小部屋があり,内部は真っ暗でなにも分からない。その奥の聖室も何もない暗い空間になっている。

参道を牛が通る

帰り道

モンスーンが近い

トゥンガバドラー川川沿いの道

ナーンディ像の手前のY字路を左に行くとトゥンガバドラー川川沿いの道に出る。この道も大きな石を敷き詰めた石畳となっている。巨石がごろごろしている川の風景はなかなかのものだ。

サルの親子

石畳の端にサルの群れがいる。ニホンザルに似ているが尾はずいぶん長い。群れの中で2頭のメスザルが毛づくろいをしており,そのそばに2頭の子ザルがいた。僕が近づくとそれぞれの母親の胸に逃げ込んでいく。2頭ともずいぶん小さく,まだ生後1-2ヶ月程度とみた。

お椀形の舟

お椀形の舟を見つけた。水の上に3個が浮いており,数個が岩盤の上にひっくり返して置いてある。基本構造は竹を編んだ大きな浅いカゴであり,裏面には黒いタール状のものが塗られている。残念ながらこの舟が人を乗せて動いているところは見ることができなかった。

川沿いの参道をさらに行く

ハンピでは珍しくサドゥーに出会った。サドゥーを日本語にするのは難しい。個人的には「出家遊行者」が近いのでは考とえる。古代インドではカーマ (性愛),アルタ (財産),ダルマ (宗教的義務) が人生の三大目的とされる一方で,瞑想や苦行などにより輪廻からの解脱を成就することが希求されていた。

この「人生の三大目的」と「輪廻からの解脱」は両立困難な命題であるため,人生を4期(四住期)に分け,前半で三大目的を達成し,後半は解脱のための修行にあてようとする考え方が生まれた。第4期は遊行期(サンニャーサ)と呼ばれ,サドゥーはこの時期の状態と考えらえる。だたし,現在のサドゥーは三大目的を放棄し,人生の大半を遊行にあてようと考えているようだ。

木の幹に神像が彫られていた。樹木が石像などを自然に包み込んでしまうことはよくあり,旅行者にとってはかっこうの写真題材になる。しかし,ここのものは木の幹を削り,神像を彫り込んだもののようだ。信仰のためとはいえ,木にとっては迷惑なことだ。

南に伸びるアチュタラーヤ寺院の参道

アチュタラーヤ寺院への参道が分岐しておりまっすぐ南に向かっている。この寺院は山間地にあり,寺院の基本軸は地形に合わせなければならなかったので,北が正門という構造になった。じっさい,寺院は東と西の山に挟まれたわずかな平地にある。

ラーマ寺院であろうか

道はさらに続く

キングズ・バランス

「キングズ・バランス」は手前の門か鳥居のような建造物のことであった。Krishna Devaraya 王の時代にこの建造物を利用して大きな天秤を作り,片方には王,反対側には金銀財宝を吊るして(置いて)バランスをとったとされている。王は自分の体重分の金銀財宝を集め,寄付したとされている。一説にはこのバランスを見ていた人々にばらまかれたともされている。

参拝者に出会う

複数の女性の一団がやってきた。持ち物からするとなんとなく参拝者に見えるが,そうではないかもしれない。インドでは女性だけの集団で参拝することはちょっと考えらえないからだ。


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