亜細亜の街角
ガンディーを生んだグジャラート州の州都
Home 亜細亜の街角 | Ahmadabad / India / Mar 2010

アフマダーバード  (参照地図を開く)

インド洋にくさびを打ち込むようにV字形に突き出しているインド亜大陸の北西側の付け根のあたりがグジャラート州となる。アラビア海に向ってサウラシュートラ半島があり,グジャラート州はこの半島部分と周辺部を占めている。

面積は19.6万km2と日本の半分ほどの大きな州で,人口はおよそ5000万人(2001年)となっている。州都はガンディナガールであるが,最大の都市はアーマダバード(人口430万人)である。

イギリス統治下のアフマダーバードでは綿織物工業が発展した。インド独立運動を指導したガンディーはグジャラート州の出身であり,アフマダーバードにアーシュラムを設立し,そこは独立運動の拠点となっている。

1920年頃にガンディーが提唱した英国製の綿製品の不買運動はこの地域で盛んであった綿織物工業と無関係ではない。また,英国による塩の専売制度に反対して1930年に行われた「塩の行進」もカンバート湾で昔から塩の生産が盛んであったことに関係している。

ガンディーの大衆運動は地域の特性に根ざしたものであり,それが全国的な運動に拡がって行き,ついには英国を追いつめることになった。インド独立後に成立したグジャラート州はアフマダーバードの北東32kmのところに新州都を置き,ガンディーナガル(ガンディーの町)と命名した。

ウダイプール(08:30)→アフマダーバード(14:15) 移動

寺院前の広場でオートリキシャーの運転手にバススタンドまでいくらと聞くと50Rpだという。交渉の結果,42Rpで行くことになった。この2Rpは曲者である。僕が50Rp札を出したら,おつりがないとゴネて,あわよくばおつりを出さない腹だと思われる。

もっとも,僕が「デラックスバスでチケットはもっていない」と告げると,運転手はひそかにほくそえんだにちがいない。実際,プライベート・バススタンドでは彼は僕の出した50Rpをそのまま受け取って戻っていった。差額の10Rpはこの代理店から受け取ることになった。

ここの男性はアフマダーバードまでは180Rpだとのたまう。僕が「町では160Rpとなっていたよ」と答えるとあっさり160Rpになった。500Rp札を出すと,350Rpのおつりが戻ってきて,これでチケットは手に入った。

08:10くらいに代理店の男性がバスはあれだよと指をさす。僕には識別ができず,分からないと言うと,別の男性が100mくらい離れたビルの前にいるオレンジ色のバスを教えてくれた。

そこまで荷物をもって歩き,近くの人にチケットを見せるとOKが出た。このバスは二階建てで,下は普通のリクライニングの座席,上は寝台仕様の座席となっている。

二回目の休憩場所はちゃんとしたドライブインでその分物価も高かった。一杯8Rpのチャーイはさすがに飲む気にならない。水だけは15Rpでも買わざるを得ない。4時間で1リットル弱飲むことになった。

水を飲むと少しだけ汗が出る。そのくらい空気は乾燥しており,皮膚からじかに大量の水分が失われていく。熱中症にならないためにも水は必需品である。この休憩所の裏手では農作業が行われていた。

Hotel Rupali

バスの終点は路上であった。すぐにオートリキシャの運転手に声をかけられた。駅までいくらとたずねると,1kmで10Rp,3kmなので30Rpという明快な返事が返ってきた。

駅前の「A-one」に行くと部屋は満室とあっさり断られた。運転手は建物の外で待っており,ここは泊まる外国人はほとんどいないよと言いながら彼の知っているホテルに連れて行ってくれた。

「Hotel Rupali」は建物の二階にあり,入り口の間口は半間しかない。受付の奥は一種のドミトリーになっている。個室はその壁向こうにある。

部屋の広さはシャワー室を含めると6畳,居住範囲では4.5畳といったところだ。Wベッドになっており,片方は荷物置き場として使用できる。トイレと水浴び場を含めてまあまあ清潔であり,大都市では150Rpの部屋としてはこれ以上のものは望めないだろう。

向かいにラッキー食堂がある

宿の路地を出ると向かいにラッキー食堂がある。インド的にはちょっと高級食堂である。ここでは水も買えるし,朝食と夕食もとれそうだ。とりあえず遅い昼食は近くの人の食べているミックスド・ウッタパにする。出てきたものはインド風のお好み焼きというべきものである。

インド人はこれをスパイスのスープにつけて食べているが,僕はそのままでも十分においしく食べることができた。値段も50Rpとこの種の食堂としてはお手ごろ価格である。

この食堂はちゃんとアルファベット表記のメニューと値段が壁に貼ってあり,安心して注文することができる。問題はメニューの内容がどのようなものかが分からないことだ。そのため,周りの人が食べているものの名前を聞き出し,壁のメニューで確認するという面倒な方法をとることになった。

ムスリム地区

小さな道には月と星をあしらった小旗が道路を横断するように飾ってあり,ムスリム地区であることが分かる。ムスリムの服装をした男性に確認すると,そうだムスリム地区だよと教えてくれた。もっとも,ムスリム地区という割には女性たちも写真に対しては忌避感はない。子どもたちと一緒に喜んで写真に入ってくれる。

大きな古めかしい門があり,その背後にモスクがあった。この門の向こう側は貧しいムスリム地区である。少し怪しげな雰囲気もあるが17:30のアザーンがあったのでモスクに入ってみる。礼拝中も異教徒は出てくれという人はいない。礼拝はムアッジン(礼拝時間を人々に知らせるアザーンを唱える人)の合図で執り行われた。イマームのいるモスクではこれはイマームの役割である。

ささやかな商売

礼拝後に英語のできる男性から質問された。
「君はイスラム教についてどう考えているんだい」
「いい宗教だと思います」
「世界の人々はムスリムはテロリストだと報じているけれど,本当のムスリムは平和な人たちなんだよ」
「僕もそう思います,イスラムが平和的な宗教であることはよく知っています」
このような会話が交わされ,その男性は満足したように握手をして立ち去っていった。モスクの外では礼拝帰りの人々を目当てに女性たちがささやかな商売をしている。

礼拝で近所の男性と一定の顔見知りになったので,路地も平気で歩くことができる。子どもたちの写真もたくさん撮ることができた。

お祭り

帰り道に大きな通りをたくさんの人の乗ったトラックが何台も通り,小さな荷車からはオレンジがふるまわれた。どのような祭りなのかは分からないが,バスで到着したときも同じように人々が集まって気勢をあげていた。そういえばバススタンドからオートリキシャーで宿に向かう走行中に先行するオートリキシャーからジュースの試供品を差し出され受け取った。

この宿は朝食が出る

スィディ・サイヤド・モスク(Sidi Saiyad Mosque)

ランド・マークとなるスィディ・サイヤド・モスクは宿の近くの表通りを南西に行ったところにあった。モスクは100m四方ほどの敷地にあり,四辺とも道路に囲まれている。道路の四隅から北東,東,南西,西に向かって道路が走っており,この一画は一種のロータリーのような構造になっている。

昨日はこのモスクの周辺道路を通りながら,横の建物がモスクとは気がつかなかった。僕の中にあるモスクのイメージは礼拝堂とそれに付属するミナレット(尖塔)である。

しかし,このモスクはかなり趣を異にしている。建物はある程度横に長く,ほとんど高さは均等である。両側に門柱のような構造があり,そこから連続するアーチがファサードを形成している。

東側に広い空間と池があり,ここは礼拝の前に身を清めるところだ。この時間は礼拝する人も無く,鳩の水のみ場となっている。中には羽ばたきしながら池に入り羽をきれいにするものもいる。人が近づくと鳩はいっせいに飛び上がり,再び戻ってくる。

現役のモスクなので池の手前からは土足厳禁である。クツと靴下を脱いで先に進む。まだ,この時間帯なら石畳は熱くなっておらず自由に歩き回ることができる。

モスクの内部は多柱式の空間となっている。つまり,縦方向,横方向とも一定の間隔で石柱が並び,それで天井を支える構造である。預言者ムハンマドの時代の礼拝所はナツメヤシの柱を並べて天井を支えている構造であったため,多柱式の礼拝堂空間は中東でもけっこう多い。しかし,この建造物の外観からはモスクと分かる要素は見当たらない。

西側の壁にはミフラーブがあり,壁の上部には非常に凝った透かし彫りの窓が設けられている。この透かし彫りが装飾の少ないこのモスクの最大の見所である。

この壁は内部からはきれいに撮れない。西に向いているので午後の陽射しで裏側から撮るのがよい。全体として非常にシンプルな構造であり,林立する石柱の空間をどのように写真に写し取るかが課題である。

小さな寺院で祈る

アフマド・シャー・モスク

スィディ・サイヤド・モスクの南西側500m足らずのところにアフマド・シャー・モスクがある。このモスクは1411年にこの地域の新たな支配者となったアフマド・シャーが最初に建造したものであり,その後に建造されたモスクの原型となったものである。確かにスィディ・サイヤド・モスクのファサードと池の配置はこのモスクとそっくりである。

入り口の部分が周辺より一段高くなっており,塔門のようなような構造になっていることから中央アジアの影響が少し見られる。建物は東に面しており,その手前には池がある。午前中の光なので,この池越しにモスクを撮影するとなかなかいい絵になる。

この地域がイスラム勢力の支配下にあったのは15世紀初頭の頃からであり,ムガール帝国よりも100年ほど前のことである。当時のインド北部はイスラムの奴隷王朝が興亡しており,アーフマダバードのイスラム勢力も地方領主であったのだろう。

この勢力は中央アジアからやってきたとされているが,それにしてはモスクの建物には中央アジアの影響(例えばイランのイーワーン様式)はまったく見られない。どのような経路でインド北西部にやってきたのか知りたいものだ。

ガイドブックにはたんに「急いで造る必要があったため,ヒンドゥー寺院やジャイナ教寺院を取り壊して得た石材を転用している」と説明されている。イスラム建築様式とインド建築様式が混在したため,このような姿になったのであろうか。

内部はやはり多柱式の空間となっており,ミフラーブもずいぶん簡素である。写真にする部分はあまりないので,お祈り用に敷かれた布の上に座って,のんびり柱の支配する空間を眺めていた。天井のところどころにある持ち送り式のドーム構造を見ているとき,ドームと天井の梁の間に細かい透かし彫りの入った窓があることに気が付いた。

多柱式の空間の屋根の上にもう一段高い二階部分を造り,その上にドームを載せる構造のようだ。ドームをより高くするための工夫であろう。ここで日本人の大学生に出会った。建築学を専攻しており,アフマダバードのイスラム建築を回っているとのことだ。確かにこの町のイスラム寺院はかなり風変わりな外観と構造をもっており,建築学を専攻している学生さんには興味の湧く題材であろう。

バナナをねだる象

MGロードを寄り道しながら鉄道駅に向かって歩く。いくつかの面白いものを見かけたので報告する。荷車に積まれたバナナをねだっている象を見かけた。象使いは荷車の回りに立っている男性の一人であろう。彼は象のためか自分のためかバナナを買おうとしているようだ。象はごちそうを前におあずけ状態になっており,思わず手ならぬ鼻を伸ばしている。

立派な幼鳥

露店の並ぶ一画には猛禽類の幼鳥がいた。すでに綿毛から親と同じ羽に変わっており,野生のものならば巣立ちが近い状態である。石畳の上にじっとしているので一枚撮らせてもらった。猛禽類は資料が少なく種を特定するのは難しい。ちがった角度からも撮っておけばよかったと後悔している。

大きさ,体色,尾羽の形などからトビの幼鳥であろうと思うが,まったく確信はない。この鳥を見ている時はインドでも鷹狩の習慣があるのではなどと考えた。帰国後に調べてみると3000年前にはモンゴル,中国,インド,中央アジアですでに鷹狩りは行われていたが,現在のインドではほとんど行われていないとのことである。

ティーン・ダルワーザー

ティーン・ダルワーザーはMGロードを横断するように立っている。アフマダバードが城塞都市であった頃の城門がそのまま残されたものである。城塞都市には12の門があった。城門はそれぞれ美しいレリーフで飾られており,バルコニーをもつものもある。

東側にあるティーン・ダルワーザー(3連の門)はその中でも特別のもので,上部のバルコニーからムガール帝国の皇帝やグジャラートのスルタンがジャマー・マスジッドに向かう行列を眺めていたとされている。それぞれの入り口は車一台が通るのがやっとの幅しかないため,現在は車両の通行にとってはかなりジャマな存在になっている。

ジャマー・マスジット

町で最大のモスクにはよくこの名前が付けられる。金曜モスクとも呼ばれ,金曜日の大礼拝はこのモスクで行われる。多数の人が一緒に礼拝するためには広い空間が必要である。

このモスクは礼拝堂と回廊に囲まれた石畳の中庭から構成されており,1万人は収容できるだろう。僕がここに到着したとき,オートリキシャーを連ねてヨーロピアンの団体が到着した。彼らとはできるだけ離れて行動することにした。

中庭の石畳はかなり熱くなっており,中央の池にアクセスするための幅の狭い布の上を歩くことになる。池は石畳の面から50cmほど高くなっており,周囲には座って手足や顔を洗うための石造りの台が配置されている。その台に座り池から手で水を汲んで足を濡らすととても気持ちがよい。濡れた足は3分で乾いてしまい,後には清涼感が残る。

中庭を囲む回廊を支えるものはアーチ構造ではなく石柱である。このあたりもインド的な要素が表れている。漆喰が施された(と思われる)回廊の壁面には大きな装飾体のアラビア文字が記されている。それはまるで墨で書いたように黒々としており,ちょっと東アジア文化を思い起こさせる。

礼拝堂の入り口は3連のアーチ門になっており,中央のものはひときわ大きく両側は極めて精緻な彫刻で装飾された柱となっており,イラン系のイーワーンを少し類推させる。それにしても,両側の柱の装飾の細かさは感嘆に値する。

ラジャースタンのジャイサルメールにはハーヴェリーと呼ばれる貴族の邸宅があり,そこの壁面飾りと同じくらいの精緻さである。これらの地域がイスラム勢力の支配下に入ったとき,この感嘆すべき石細工の職人が育成されたのであろう。

礼拝堂の中は柱の空間であった

礼拝堂の中は柱の空間であった。柱は12X26の構成になっている。もちろん構造上の必要性から柱がないところもあり,ガイドブックには260本と記されている。ミフラーブに向かって一列に横に並ぶ柱と柱の間に礼拝用のじゅうたんが敷いてある。柱にさえぎられて礼拝堂の全貌は分からないようになっている。

ここでも礼拝用のじゅうたんの上に腰を下ろして,のんびりと柱の作り出す空間や,天井のドーム構造を眺めていた。ヨーロピアンの団体は足早に礼拝堂に入り,写真を撮って出て行った。時間的な制約もあるだろうが,自分の感性で対象物を眺める訓練が必要だ。そうしないとテレビの画面で眺めるのとさほど差の無い記憶しか残らない。まあ,このようなものの見方は人それぞれである。

アフマダーバード駅に向かって歩く

アフマダーバード駅

スィディ・バシール・モスク

アフマダバード駅の南側にスィディ・バシール・モスクがある。モスクの一部と思われる二本の高い塔が見えるが,アクセスにはちょっと苦労した。ようやく探し当てて中に入る。2つのミナレット(尖塔)とその背後のアーチ門は基部がつながっているとされている。礼拝堂本体はすでに失われており,代わりに塔門の西側にとって付けたような新しい建物がある。

下から見上げるとイスラム建築のミナレット(尖塔)というよりは,ヒンドゥー建築にある塔(スタンパ)に近いという印象だ。しかし,この塔はやはりミナレットなのであろう。三層のバルコニーをもち,それらのバルコニーはたくさんの持ち送りの柱によって支えられている。胴部を含め全体が精緻なレリーフで飾られており,おそらくモスク本体も相当立派な建造物であったのではと想像する。

ダーダー・ハリ階段井戸

アフマダバード駅からダーダー・ハリ階段井戸までは2kmほどあり,オートリキシャーを利用したほうがよい。自分で探し当てることはかなり難しいと思ったほうがよい。地元のオートリキシャーの運転手ですら首をかしげるありさまである。駅周辺のオートリキシャーはけっこう性質の悪いものが多いので少し離れたところで乗車する。

到着したところはとても観光資源があるとは思えないところで,近くで働いている人に「ダーダー・ハリですか」と確認してしまった。階段井戸はその名の通りほとんどの部分は地下にある。僕は地下に降りるらせん状の階段があるのでは推定していたら,まったく外れた。井戸の最深部に向かって一直線の階段があり,ある高さ毎にフロア構造をもっていた。

何層かの階段を下りると最下層に達する。ここが井戸の底というわけだが,実際の井戸はその奥にある。井戸そのものはすでに埋められており,水はない状態である。施設の上から眺めると奥に向って一層ごことに明り取りの穴が並んでおり,その向こうに少し高くなった転落防止の壁をもった丸井戸がある。

この手前の四角い井戸は涼を取るためのものである。さすがに地下は外気に比べてずっと涼しい。王族の人々はこの場所で暑さを避け,ときにはとなりの井戸から汲んだ水で水浴びをしたのかもしれない。四角い井戸の底からのぞくと明り取りの空間に向かって何層ものバルコニーが並んでいる。この優れた施設をこのように朽ち果てるままにしていくのはいかにも惜しい。

井戸の近くの小学校にて

井戸の近くに学校があり,校庭にシートを敷いて全校生徒がヨーガの訓練をしていた。しかし,見ている限りではラジオ体操とさほど変わらない程度の真剣さであり,とてもヨーガによる体とこころの鍛錬にはつながりそうもない。

それでも大勢の子どもたちが一斉に同じ動作をするので絵になる。何枚かの写真を撮らせてもらう。学校の建物は比較的新しく,柱はインドでは珍しいほど太い。おそらく,2001年の大地震以降に建てられたものであろう。この地震でアフマダバードも被害をこうむったはずだ。15分ほどでヨーガは終了したのでぼくもここをおいとまする。

宿の周辺の風景

ネルー橋を渡る

スィディ・サイヤド・モスクから西に進むとサーバルマディー川にかかるネルー橋に出る。川幅が300mほどの大きな川であり,両岸は洪水対策なのか高いコンクリートの壁が建設されている。現在の水面から4-5mほど高いところにある。本来の河川敷きはその外側にあり,河川敷を有効活用するための工事にも思える。西側の河川敷は不法滞在者のスラムとなっており,小さな家屋が密集している。

川の北側にはガンディー橋が見える。ガンディーが目指したインドの姿はどのようなものであったのだろう。おそらく,経済の発展ではなく,宗教・民族の多様性をもちながら,人々がこの大地で平和で持続可能な暮らしをすることであったのではと考える。現在のインドは貧富の格差と資源を大量に消費する世界経済の中で自らの地位を高めようと動き出している。

ネルー橋の東側には洗濯場が集まっている

川の南側にはエリス橋が見える。川の西側ではウオター・フロントの再開発事業が進められようとしていた。河川敷のコンクリート堤防はやはり開発とつながっているようだ。東側には洗濯場が集まっており,洗濯物が盛大に干されていた。ヒンドゥー教では洗濯は下位カーストの仕事である。インドの旅行中にこのような光景を見たら,理不尽なカースト制により底辺の仕事にしか就けない人々がいることを思い出して欲しい。

公園でくつろぐ女性たち

ガンディー・アーシュラム

宿の近くからオートリキシャーで北に6kmのところにある「サーバルマティー・アーシュラム」に向う。「ガンディー・アーシュラム」といった方がずっと分かりやすい。英国支配からの完全独立を目指したガンディーは,ここを拠点として数々の運動を展開したところである。アフマダバードでは見逃すことのできない,歴史の刻まれたところである。

現在のアーシュラムには付属の博物館があり,ガンディーの生涯の活動を写真を中心に展示してある。いちおう英文の説明もあるが非常に難解で,ちゃんと読む気にはならない。また,書店では彼の写真のプリントが販売されていたので2枚購入した。一枚は糸車を回すガンディーの姿であり,もう一枚は塩の行進のときのものである。この行進の写真にはガンディーの横に若き日のネルーが写っていた。

庭の風景

アーシュラムは緑の多い土地に10軒ほどの家屋が点在している。川に近いところにあるイスに腰を下ろし,庭を眺めることができる。緑が多いし,食べ物が豊富にあるのでリスや小鳥がたくさん集まっている。人間が悪さをしないためか小動物はそれほど人間を恐れていない。じっと観察している,僕の足元をリスが走り回るようになる。インドのリスは本州のものより一回り小さく,外観はとても似ている。

川岸のフェンスには鳩,九官鳥,インコが仲良く餌をつついている。望遠レンズを持っていなかったので小鳥の撮影は難しかった。中にはずいぶんのんびりしたインコもおり,かなりの距離で撮影することができた。川岸の大きな木の最上部には川鵜と思われる黒い鳥が数十羽集まっている。そのためこの木の周囲は彼らのフンで白く汚れている。

川の風景

このアーシュラムはサーバルマディー川に面しており,川の風景を楽しむことができる。しかし,市内を流れる部分は両岸とも大きな護岸工事が行われいている。乾季の今の水面に対して6mくらいの高さに堤防が造られている。川岸をコンクリートで固め内側は土砂を入れて平地にしようとしているようだ。つまり,この堤防が完成すると,6mほどの高さのコンクリートの壁が延々と続くことになる。

川の中には船が固定され,そこから岸に向かって太いチューブが伸びている。船の動力で川底の砂を水ごと吸い上げて,岸に送っているのだ。三隻の船からのチューブが集まったところに一台の重機がついており,トラックに砂を積み込んでいる。この砂は堤防の外側の平地作りに使用されるようだ。砂を採取するのは水面の上昇を押さえる効果も期待できる。

子どもたちが戻ってきた

建物の中にはアーシュラムとして活動しているところもある。ここでは子どもたちの学校教育をサポートしている,学校を卒業した子どもたちがカード作りをしている。奥の部屋ではときどきヒンドゥーのお祈りが行われている。

祈りの言葉は分からないが,なんとなく仏教の読経に類似しているように感じた。たまたま祈りの言葉の中かに「ナムミョウホウレンゲキョウ」の一節が含まれていたせいかもしれない。

12:30頃に子どもたちが戻ってきた。彼らはここで暮らし,ここから学校に通っているようだ。帰ってくるとまず制服を私服に着替える。男の子の何人かは裏手で洗濯を始めている。ここの女の子の写真はほとんど撮れない。なにか,施設の決まりでもあるようにカメラを向けると逃げてしまう。


ウダイプール   亜細亜の街角   ビランガム