サンチーははインドの中央部に位置するマディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパールから50kmほど北東にある村である。この村に隣接する小高い丘の上にある整地された約400mX200mの土地に巨大な第1ストゥーパ(大塔)を中心に多くのストーパや僧院の遺構が残されている。
ここはインドにおける仏教の一大センターとして機能していたと考えられており,インドの初期仏教の姿を現在に伝える重要な文化遺産として1989年に世界遺産に登録されている。
ストゥーパ(仏塔)とは釈迦の遺骨を納めるためのもので,当初のものは土で盛られた塚のような構造をしていたと考えられている。サンチーの第1ストゥーパ(大塔)はマウリヤ朝の最盛期を築いたアショーカ王(在位は紀元前268年-232頃)により建立されたものとされている。
Jaiswal Lodge
車掌は「5分後に出発するよと」と大見得を切った。どうせインドのことだからと半信半疑であったが,意外にも5分後の12:15にバススタンドを出た。
バスは旧ユニオン・カーバイドの工場の東側の踏切りの手前で停車した。インドの踏み切りは待ち時間が15分くらいの場合もある。ATSのような安全設備がないので,通過予想時間に安全係数をかけて踏み切りを閉鎖している。
バスは幹線道路の路上で僕を降ろしてくれた。そのまま進行方向に歩くとすぐに「Jaiswal Lodge」が見つかった。二階に上がるとまだ少年のような従業員が出てきて部屋を見せてくれた。
ずいぶんきれいな部屋だと思ったらそれは300Rpの部屋であった。200Rpの部屋部屋は5畳,2ベッド,トイレ付き,まあまあ清潔である。シャワーは共同のものがある。
宿のすぐ前には高さ10mに満たない木があり,あざやかな黄色の花が満開になっている。花の形状からマメ科のものと推定した。
世界遺産の村の風景
村を歩いてみる。幹線道路はだいたい東西方向に走っており,それと交差する道路を北に行くとサンチー駅,南に行くと世界遺産のストゥーパとなる。特にバス停の表示はないけれど,ボーパールからのバスはこの交差点(説明のためメイン交差点とする)付近で乗降する。
さすがに遺跡公園に向かう道路はきれいに整備されている。歩道は大きな樹木の並木となっており,日陰を提供してくれる。この時期はマンゴーが花を付けており,樹木全体がくすんだ黄色に染まっている。マンゴーの花は小さく枝先にびっしり付くが,大きな実に成長するのは小枝に一つか二つである。それでも大きなマンゴーの木は百を越える実を付けることになる。
政府直営の「Gateway Cafe」があり,近くの歩道には翼をもった四足獣や獅子の像が置かれている。ライオンは現在でも野生のものがインドにおり,アショーカ王の石柱に代表されるように,権威の象徴として古くから使用されてきたのでまったく違和感はない。それに対して翼をもった四足獣はメソポタミアに起源をもつものでいわば舶来品の文化である。
整備された歩道の横には赤いハイビスカスの花が咲いている。日本では鉢植えのものが大事に育てられるが,ここでは歩道の脇にあるかん木の一つに過ぎない。その先には世界遺産地域と博物館の入場料の窓口があり,すぐ近くには博物館の入り口となるトラーナのレプリカが立てられている。博物館の先には警備の警察官が詰めており,ここが遺跡公園への入り口となる。
池の周辺の風景
幹線道路の南側にはのどかな田舎の風景が広がっている。メイン交差点の南西には大きな池があり,その向こうに牛や水牛がたくさん寝そべっている。その背後の丘にはストゥーパ第2塔が見える。乾季の茶色の斜面に赤味の強いオレンジ色の花をつけた木がたくさん見える。おそらくエローラ遺跡でたくさんあったデイゴであろう。
ナツメヤシの並木
牛の群れは100-150mほど先に固まっているが,池は横に長いためかなり遠回りをしないとそこには到達できない。周辺には地元の人々の利用する道があるので半周して牛の群れを見に行くことにする。道の両側にはヤシの木が並んでいる。インドでは珍しいナツメヤシである。西アジアではヤシといえばナツメヤシであるが,インド以東ではココヤシ,オウギヤシが大優勢となる。
ナツメヤシの果実はココヤシに比べるとはるかに小さく,その分たくさん実を付ける。熟した実を干して水分を減少させるとデーツと呼ばれる糖度の高い食品となる。日本でいうと干し柿のようなものである。日本では干し柿はそれほど頻繁に食べるものではなくなったが,ナツメヤシの多いところでは子どものおやつにもなっている。
ここには50頭ばかりの牛と水牛が寝そべっている
池を楽しく半周し,牛の群れのところにたどりついた。ここには50頭ばかりの牛と水牛が寝そべっている。比率は牛が6割といったところだ。周辺にはほとんど草がなく,近くの小屋の前に坐っている牛飼いの男性と少年は牛の群れを草場に連れて行き,彼らの食料を確保するという大切な仕事を果たしている。
これだけの群れが一日に食べる草の量は大変なものであり,そのような草地はこの辺りにはもうない。もっともすぐ背後の丘は遺跡公園となっており,そこには樹木が生い茂っている。残念ながら自然景観を保護するため公園は金網で囲われており,牛たちは中に入ることはできない。
この女性は気軽に写真に応じてくれた
牛飼いの妻と思われる女性は周辺を歩き回り,乾いた牛ふんを集めている。これは大切な燃料になる。また,彼女は遺跡公園の周辺を回り,枯れたかん木や枝などを集めていた。これも大切な燃料である。この女性は気軽に写真に応じてくれた。
インドでは(イベントを除き)女性の写真は難しいことが多いので,ちょっと感激である。お礼に牛飼いの少年にヨーヨーを作ってあげる。少年がヨーヨーで遊んでいる時,携帯の呼び出し音が鳴ったのには少なからず驚いた。牛飼いのおじさんが携帯を使用する時代になったのだ。
桑畑があった
メイン交差点の北西側には桑畑があった。10アールほどの土地にたくさんの桑の若木が育っている。かなり密度が高いので苗を育てているのかとも考えられるが,それにしては成長しすぎている。ここにはシルク研究所の看板があり,地元産の養蚕を研究しているようだ日本政府も二化性生糸の自給を目指すインドの養蚕農家をODAを通じて支援している。
インドでは高価な絹のサリーは女性のあこがれの品であり,親は結婚する娘に絹のサリーを持たせたいと願っている。このためインドは世界最大の生糸消費国となっている。ところが,インドの生糸は中国製に比べて弱く,強度が要求される縦糸には向いていない。このため,インドは毎年数千トンの生糸を中国から輸入している。国産の絹糸だけでサリーを作ることはインド養蚕農家の悲願でもある。
メイン交差点の南東側の集落
メイン交差点の南東側には新しい住宅がたくさん建っている。すでに西日が沈みそうで写真の時間帯は終わろうとしている。子どもたちの写真を何組か撮ったが,笑顔を写し撮ることができなくて苦労した。
子どもの誕生祝いに女性たちが集っている
大音量の音楽が流れている家がある。女性たちが集まっており,音楽に合わせてダンスを披露している女性もいる。この家の子どもの誕生祝いだそうだ。子どもはひどい音量にもかかわらず,眠たそうな顔を見せてくれた。
世界遺産の大ストゥーパは東西南北にそれぞれ鳥居のようなトーラナ(塔門)をもっているので,午前中でも午後でも同じように写真になるはずである。インドの世界遺産は均一料金で外国人は250Rp,インド人は10Rpと値段の開きが大きい。とはいうものの,世界遺産を保全するためには税金が使用されているのでこの程度は納得しなければならない。
遺跡公園は丘の上にあり,大きな板状の石を使用した立派な石段を登っていく。この丘を形成している岩は水平方向に剥離しやすい性質をもっているので,板状の石は簡単に加工できるようだ。石段は不ぞろいであり,手作業で仕上げたことが見て取れる。この石段はストゥーパが建造された紀元前2世紀のものではないと思われるが,いかにも遺跡と調和するものであり好ましい。
これを上り詰めると世界遺産の入り口のゲートに出る。立派なインドボダイジュの木が出迎えてくれる。しかし,その手前に駐車場がある。迂回路を通るとここまで車で来ることができるのだ。これは興ざめだね。やはり駐車場は丘の下に造るべきであろう。
ここは仏教徒にとっては聖地なのだ。ヒンドゥー教の聖地も丘の上に建っていることが多い。そのような場合,聖地までは自分の足で登るのが当たり前であり,その近くまで車で行けるようにしたらヒンドゥー教徒の反発は必至である。中には丘全体を聖なる場所として,ふもとから裸足で歩かなければならないようなところもある。
石畳の参道を歩く
公園の入り口からストゥーパに向って石畳の参道が伸びている。そこで日本人の旅行者に出会い,しばらく旅行の話しをする。現在は暑季なのでこの時間帯にはインド人観光客は少ない。
その中でスリランカからの巡礼者と日本人旅行者だけが動き回っている。公園内の石畳の参道をまっすぐ歩いていくと左に第2ストゥーパ,右に第1ストゥーパ(大塔)が見える。公園内はきれいに整備されており,道の周辺は芝生になっている。
ストゥーパの手前にはビハーラ寺院がある
ストゥーパの手前にはビハーラ寺院がある。レンガ造りの建物で最上部に小さなストゥーパが置かれており,仏教寺院というよりは博物館という趣である。
大ストゥーパの北門にたどりつく
大ストゥーパの北門にたどりつく。大ストゥーパは覆鉢(ふくはち),その頂上に位置する傘蓋(さんがい),覆鉢を上下二段で囲むにょう道,その外側を囲む欄楯(らんじゅん)からできている。
欄楯の東西南北には塔門(トラーナ)が配されており,細かいレリーフが彫り込まれている。北門の周りにはすでにスリランカの巡礼者が集まっており,オレンジ色の僧衣を着た僧侶がこのストゥーパのいわれを説明している。
すきまなくレリーフが彫られた塔門(トラーナ)
欄楯の内部の四面に置かれ仏像を除くと,塔門のレリーフはストゥーパで唯一の装飾と呼べるものである。塔門自体は二本の石柱の間に三本の横梁を渡した構造になっており,縦の石柱が最上部の横板の上に突き出している。本来は木造の門であったものをここでは石材で再現している。
塔門の形状は日本の神社の鳥居に類似しており,その起源であると考えられている。また,塔門は「トラーナ」と呼ばれており,「トリイ」と語感が近い。遠いインドに起源をもつ塔門がどのようなルートで日本に伝わってきたかは大いに興味のあるところだ。塔門を構成する縦の石柱および横梁には表裏ともブッダの生涯を題材にした細かいレリーフがすきまなく刻まれている。ストゥーパ全体の造形と塔門のレリーフが最大の見どころである。
スリランカからの巡礼者
遺跡公園の中に入ると上下とも白い服を着た一団がいる。聞いてみるとスリランカからのツアーだという。といっても,物見遊山のツアーではなく一種の巡礼のようだ。僧侶が同行しており,それぞれの遺跡のいわれやブッダの言葉などを説明している。そういえば,アジャンターで出会ったタイ人の集団も同じように白い服を身に着けていたし,日本のお遍路さんも白装束だね。白はなにか巡礼に関係する色なのかもしれない。彼らは大ストゥーパの周囲を回るとき裸足であった。敬虔な仏教徒にとってはここは聖地なのである。
スリランカからの巡礼者は二組見かけた。同じ集団が二分されているのかもしれない。昼頃にどちらかの集団のメンバーが紅茶を飲んでいたので,僕もお願いして飲ませていただく。彼らの飲んでいるものはセイロン・ティーである。
レンガで造られた基壇部分だけが残されている
第一ストゥーパの東側にはアショーカ王の石柱がある。残念ながら立っておらず二つに折れた状態で横に寝かされていた。その東側には大きな僧院跡がある。建物の上部はすでに失われており,レンガで造られた基壇部分だけが残されている。ここにもスリランカからの巡礼者が訪れていた。基壇だけの遺跡は僕にはさして興味の湧かないものであるが,巡礼の人々は大きな遺跡のあちこちを歩いていた。
周辺には円形の小さなストゥーパの基壇や途中まで半円形の形まで積み上げられたストゥーパも残されており,この地域がインドにおける仏教の中心地の一つであったことがうかがわれる。
細かいレリーフがすきまなく刻まれている
紀元前2世紀にはまだブッダを人間の姿で表す習慣はなかった。仏像が出現したのは入滅後500年以上経ってからことである。それは釈迦が「私の姿を拝んでどうしようというのか」と偶像崇拝を否定したこと,さらにブッダとなった偉大な釈迦の姿はもはや人の手で表現できないとされていたためである。
仏教初期のレリーフではブッダの姿の代わりに法輪,菩提樹などがブッダを象徴的するものとして表現されている。そして,比丘(出家者)たちはブッダの遺骨を納めたストゥーパをブッダの代わりに礼拝の対象としていた。
塔門からクランク状に進むと仏像が置かれている
塔門からクランク状に進むと仏像が置かれている。紀元前2世紀にはまだ仏像を造る習慣がなかったので後世のものであろう。クランク状の構造になっているため仏像は外側から窺うことはできない。仏像は東西南北に置かれているが東門のもの以外は頭部が破壊されている。仏像の両側の脇侍仏の頭部も同じように破壊されている。
東門の仏像は補修されたようだ。おそらくこの地域を支配下においたイスラム教徒による破壊であろうが,ストゥーパ本体や塔門などが破壊されずに残ったことはインドにとっても仏教徒にとっても幸せであった。
第三ストゥーパはそれほど見る価値はない
第三ストゥーパは参道の左側にある。第一ストゥーパ(大ストゥーパ)がすばらしいのでこちらは付属品のようなものだ。
第1塔の西側,一段下がった所にある僧院
第1塔の西側,斜面を一段下がった所にある僧院は中心部の中庭と外側の僧室の間が回廊になっている。この構造は仏教初期における典型的なヴィハーラ(僧院)の様式であり,アジャンターにある石窟にもこの構造がそのまま取り入れられている。
この僧院の手前には大きな人工の池があり,台地に降った雨水をここに蓄えていたと考えられる。おそらく,雨季にここを訪れると水のある池越しに僧院や平地を眺めることができるだろう。