ダージリンはヒマラヤの展望と良質な紅茶の産地として知られている。1835年まではシッキム領であったが,イギリス人が標高2134mの涼しい気候に目をつけ,避暑地として開発した。
そのような事情からこの町には植民地時代の古めかしい建物が多く残っている。また,斜面に広がる茶園はダージリンを象徴する風景となっている。住民はネパール人,シッキム人,ベンガル人,チベット人と多彩だ。
乾期の空が晴れる11-2月にかけて,近くのタイガー・ヒルから世界第3位の高峰,カンチェンジュンガの雄姿を見ることができる。また,ダージリンと下のニュー・ジャルパイグンを結ぶおもちゃのように小さいトイ・トレインは世界遺産に登録されている。
移動は22時発なのでガンガーの河口を見に行く
08時にコルカタのサダルストリートの安宿からシアルダー駅に行くためタクシーを探す。インドのタクシーはメーターを使用するのは少数派で,ほとんど事前に料金の交渉をしなければならない。
サダルの周辺に客待ちしているタクシーは一様にひどい料金をふっかけてくるので,少し離れたところのタクシーを利用しようとする。そこでも70Rp,80Rpという値段なのでお断りする。4台目でようやく40Rpの適正料金車を見つける。
駅に到着して運転手に50Rpを渡すとおつりが数Rpしかないとダダをこねる。インドでは「おつり」は鬼門の一つである。小額の商品に50あるいは100といったお札を出すとかなりの確率でおつりがないと断られる。
実際におつりが無いこともあるのだが,小銭を渡すのをいやがることも多い。
また,今回のタクシーのように,「10Rpのおつりがないので5Rpでがまんしてくれ」というちゃっかり型もある。結局,手持ちの40Rpを渡してサヨナラをする。
今日の移動は22時なので,駅に荷物を預けダイヤモンド・ハーバー(DH)を見に行くことにする。DHはコルカタから60kmほど離れたところにあり,ガンガーの流れの一つがベンガル湾に注ぐところである。そこはヒンドゥー教徒にとってはある種の聖地となっている。
DHまでの60kmの区間に30を越える駅がある。動く,止まるの繰り返し2時間弱で終点に到着した。車内では検札はまったくない。乗客の少なくとも半分は料金を支払っていないような雰囲気である。
ガンガーの河口近くははひたすら広い水の広がりであった。水面は土手のかなり下にあり,対岸はほとんど見えない。海とガンガーが接するとところといういイメージはまったく無いので早々と戻ることにする。
コルカタ→ダージリン移動
シアルダー駅(22:05)→NJP駅(08:30)→シリグリ→ダージリン(13:50)と約500kmを列車(263Rp)とジープ(50Rp)を乗り継いで移動する。出発の前日に鉄道予約センターに行ってNJP(ニュー・ジャルパイグン)行きのチケットを買う。
ダイヤモンド・ハーバーからシアルダー駅に戻り,リタイヤリング・ルームで昼寝をさせてもらう。長距離列車が多いインドの駅には旅行者のためリタイヤリング・ルームと呼ばれる簡易宿泊所がある。
シアルダー駅のものは1泊100Rpであるが,6時間限定で50Rpにしてもらう。大部屋にはドミトリーのようにベッドがずらっと並んでいる。ベッドは清潔で気持ちよく昼寝ができた。
発車時間の1時間前から待合室で待機する。待合室ではプラット・ホームの番号が分からないのでときどき連絡橋の上にある電光掲示板を確認する。21:30にようやく「Darjeeling Mail /9B」の表示が出た。9Bのホームに行くと,表示灯が車両番号を表示している。
ホームに下りると列車が入ってきた。車両の横にも番号が表示されており,それを見て列車と併走する人もいる。まるで早く乗らないと座席が無くなるというような勢いである。
自分の座席を見つけ,荷物を座席下に入れ,チェーン・ロックで金具に固定する。寝台は3段,上下の2段は固定で,中段は下段の背もたれになっている。それを持ち上げ上段から下がっている金具で固定すると寝台になる。
僕のブロックの乗客は,ヨーロピアン6人,日本人1人,韓国人1人で満席である。就寝当初は窓からの風が気持ちよかったが,次第に温度が下がり寒い一夜になった。薄い毛布かシュラフが夜行寝台の必需品である。
8時過ぎにNJP駅に到着する。駅の案内でトイ・トレインのチケットについて聞いてみると,今日は運行していないとの返事であった。あきらめて駅前からミニバスに乗り,シリグリに向かう。シリグリのBSで客引きにつかまり,乗り合いジープの荷物室(50Rp)に乗ることになった。ジープは満席になるまで1時間ほど待ってから出発した。
ジープはかなりの神風運転である。加減速が急で荷物室で横向きに坐っているとかなりきつい。途中1回の休憩をとりジープは無事にダージリンに到着した。トイ・トレインのかわいい線路は道路と並行しており,何十回も交差している。2回降りてくる列車とすれちがった。
Hotel Prestige
ダージリンは英国人が避暑地として開発した町だ。4月中旬でもさすがに涼しい。平地ではすでに酷暑の時期に入っており,避暑地は混み始めている。ジープスタンドから少し歩き「Hotel Prestige」に到着する。
このホテルは斜面沿いの2つの道路を結ぶ長い階段の途中にある。宿の主人の奥さんは日本人の「ケイコさん」である。2階の部屋(165Rp)は12畳,Wベッド,机,T/S付きでとても清潔で快適ある。夕方になるとグッと冷え込み,冬用のフリースを着込む。ケイコさんに「それはちょっと」と笑われる。
1日損をした気分
ちゃんとしたフトンを被り快適に寝ることができた。朝食に出かけ,帰りに写真を撮ったら何も写らない。暑い平地から涼しい高地に来たため温度ショックかもしれない。既存の画像は液晶画面に映るのに,撮影モードでは何も見えない。光学系もしくはCCDの回路がおかしくなったようだ。
カメラは午前中に何回か動かしてみたけれどだめだった。カメラがダメになると,街を歩いていてもすることがなくてとても寂しい。僕の旅に占める写真の大きさに今さらながら驚く。幸い夜に電源を入れてみると復活してくれた。1日損をしたけれど,次の朝からカメラを持ってお出かけである。
町の住民は多様である
驚かれるかもしれないが,ダージリンは西ベンガル州に位置している。しかし,ネパール,シッキム,チベット,ブータンが北側に控えており,町の住民も多様である。
僕が分かるのはベンガル人と東アジア人の差くらいである。ネパール人は独特の帽子を被っているので,時には識別可能である。
荷物の多くは人力で運搬する
通りの石段にネパール人の男女が坐っている。男性はロープを持っているので,あそらく担ぎ屋であろう。一仕事を終えた後のようにくつろいでいる。
斜面の町ダージリンでは,今でも相当割合の荷物は人力で運ばれる。大きな荷物を運ぶ人がいれば,レンガを運ぶ人もいる。頭のバンドで荷重を支えのは慣れないと大変である。
ボタニカル・ガーデン
ロイド植物園はダージリンの名所の一つだ。ジープ・スタンドから西に適当に歩くと植物園の敷地に出る。カメラ無し,カメラ有りで2回訪れたが,同じ人には出会えなかった。旅における出会いはまさしく一期一会である。
植物園の敷地は斜面をそのまま利用したもので,よく整備されている。周辺には杉,ヒノキなど日本でもなじみの植物が多い。温室の中から太いフジの木が幹を出し,フジ棚に花を咲かせている。
室の中も花盛りである,この地域固有の植物も多い。イチイのような針葉樹の根本から鮮やかな緑の若木が育っており,若い緑に引かれて写真にした。
チベット系の子どもたち
植物園からハッピーバレー茶園に向かう。その間には谷があり,谷を回り込む道を歩いていく。道路の下に家があり,子どもたちが遊んでいる。チベット系の子どもたちのようだ。
チベットに暮らす人々は強い紫外線のため年中日焼け状態である。色が黒く皮膚はカサカサというイメージが強い。しかし,平地(2000mだけど)で暮らすと日本人とほとんど変わらない。かわいい写真のお礼はヨーヨーにする。
ハッピー・バレー茶園を歩く
2005年4月,ダージリンの気候は異常である。例年は乾期なのでヒマラヤが見えてもおかしくないのに,今年は平野部が異常に暑く,ヒマラヤ山ろくが寒いため,モンスーンのように雲が湧き上がってくる。
空気中の水分が多いため近くの景色までがかすんでしまう。肉眼ではかなり見えても,写真ではかすんでしまうのは悲しい。この気候は茶園にとってはそう悪いことではないだろう。工場のスタッフの話では300-400mほど下で茶摘が行われているという。
朝方に摘んだ茶葉が茶園で処理されている。まず茶葉を熱い風で乾燥させる。乾燥が終わった茶葉はローラーですりつぶす。こうすると茶葉のタンニンが発酵を始める。この発酵時間が紅茶としての品質に大きく影響する。熟練の技術者がチェックし,ちょうどよい状態で過熱して発酵を止める。
茶葉をローラーで砕き,ふるいにかけて分離する。芯の部分が最高級で,1kgが1500Rpだという。これが正統のダージリン・ティーである。しかし,ダージリン以外の地域の紅茶もダージリンと称することが多く,本家では困っているそうだ。
ヨーロッパ人にお茶の文化が伝わったのは17世紀,オランダ人が日本から持ち込んだのが始まりとされている。英語のお茶は「tea」であるが,当時は「cha」と呼ばれていた。これは日本語の音訳である。
しかし,イギリス東インド会社を通して中国の広東からお茶が輸入されるようになると,広東語の「テー」から「tea」に変わっていったとされている。ともあれ,紅茶が作られるようになると英国では砂糖とミルクを加えた「ミルク・ティー」が労働者階級にも普及した。
中国からの茶葉の輸入量が急増すると支払いの銀が不足するようになった。このためアジア貿易を独占していた東インド会社はベンガル地方でケシを栽培し,アヘンを中国に輸出して貿易の均衡を図ろうとした。これがアヘン戦争につながることになる。
英国は植民地インドで茶の栽培を試みた。1823年にアッサム州で野生の茶樹が発見され,中国の茶樹との交配により,インドの気候に適した品種が生み出され,北インドで茶園が造られるようになった。現在ではアッサム,ダージリン,ニルギリがインドの三大紅茶生産地として知られている。
現在のインドは世界最大の紅茶生産国であり,世界の半分にあたる85万トンを産出している。同時にインドは世界最大の紅茶消費国であり,65万トンは国内で消費されている。
砂糖とミルクのたくさん入った濃い紅茶・チャーイが,街角の屋台で一杯3ルピーほどである。このチャーイは暑い気候のインドにとても合うし,カロリーや栄養の補給にもなる。僕もインドではよくチャーイ休憩をとっている。
2つの宗教が混在する空間
ダージリンの中心部は斜面の関係で東西の道は無く,南北道路しかない。郵便局の前の通りを北に行くとちょっとした広場がある。その北側にマハー・カーラ寺院がある。
名前からするとヒンドゥーの寺院であるが,そこではヒンドゥー教とチベット仏教が混在している。寺院の領域に入り,その不思議な空間に少なからず驚いた。ヒンドゥーの鐘とチベット仏教のタルチョガ一緒になっている。寺院の主神はカーリーである。
寺院の中ではヒンドゥーのバラモンとチベット仏教の僧侶が向かいあい,それぞれ信者に祝福を与えている。どちらから祝福を受けるかは信者の自由のようだ。一神教では考えられない,みごとな宗教の共存である。
チベット難民センター
町の北の外れにチベット難民センターがある。しばらく上りが続き,その後130mほど急斜面を下るとセンターに着く。ここには,チベット動乱で,あるいはその後の弾圧で国を逃れてきたチベット人が住み着いている。
センターでは毛糸作りとじゅうたん作りが行われている。働いているのはほとんど高齢者だけだ。若い世代はもう「難民」という意識は薄れているのかもしれない。
チベットは民族的にも文化的にも中国とは全く異なる独立体であった。元,清の時代に一時的に中国の支配を受けたが,それ以外はダライ・ラマによる政教一致体制のもとで統治されてきた。しかし,新中国では北京とチベットの関係は,解放と称する共産党支配が進められた。
1950年の人民解放軍によるチベットの解放(軍事占領)に始まり,1951年には17条協定に調印させチベットに対する中国の主権を認めるさせた。1959年にチベット動乱が起こり,ダライラマはインドに亡命せざるを得なかった。
文化大革命に象徴されるように,北京の支配はチベットの文化,宗教,習慣を大々的に破壊し,中国化してきた。表向きは信教の自由を標榜しながらも,宗教に対するひどい弾圧は,亡命チベット人から詳しく情報発信されている。漢人の移民政策により自分たちの土地にあってもチベット人はもう少数民族になっている。
登校風景
ダージリンには立派な学校がいくつもある。生徒たちはおそろいの制服を着ており,登校,下校時間はかっこうの被写体になる。植物園近くの道で大勢の生徒たちを見かけたので後をついていく。
ジープ道から外れ,立派な杉並木の道を行く。学校は3階建ての立派なものだ。男子はまったく来ないのでここは女子校のようだ。入口に教師が数人立っており,中には入れない(あたりまえだ)。