亜細亜の街角
■ロケット・スチーマーでダッカへ移動1する
Home 亜細亜の街角 | Dhaka / Bangladesh / Mar 2005

ダッカとバングラデシュの歴史  (地域地図を開く)

バングラデシュの首都,1991年の統計ではダッカ大都市圏の人口は1354万人とされているが,実際には2000万人に達しているともいわれている。

1905年,インドを統治していたイギリスはイスラム教徒の多い東ベンガルと,ヒンドゥー教徒の多い西ベンガル州に分割して,独立を要求する民族運動の矛先をかわそうとした。この分割により,ダッカは東ベンガル・アッサム州の州都とされた。

1947年のインド独立に際して,東ベンガルはパキスタンの一部として独立を果たした。しかし,東パキスタンと西パキスタンとの経済格差は拡大していき,これにベンガル語公用運動の高まりが加わり,1971年にバングラデシュ独立が宣言された。

西パキスタンは武力でこれを阻止しようとして独立戦争が始まった。圧倒的に戦力が劣るバングラデシュを支援する形でインドが介入し,1971年12月にバングラデシュは独立を果たし,ダッカが首都と定められた。

バングラデシュ独立の夢はパキスタンの搾取から逃れ,豊かな国になることであった。しかし,日本の半分ほどの狭い国土に日本を上回る人口がひしめくこの国が経済発展に向かうのは至難の業であろう。地下資源があるわけでもないし,毎年洪水に見舞われる土地があるだけだ。

人口圧力は今後も続き,2050年の人口は2億人を越えると想定されている。農業中心社会にあっては人口圧力はそのまま環境圧力になる。環境問題の半分は先進国の過剰消費,残りの半分は途上国の人口問題に起因していると考えてよい。

クアカタの路上バスターミナル

クアカタ(09:30)→ボリシャル(14:45)とバスで移動する。バスは十分に老朽化した政府系の赤いBRTCバスだ。バスは2台停まっており,うち1台はダッカまで行くという。

クアカタ→ボリシャル 移動

ボリシャル行きのバスは(インド圏では珍しくないが),運転席のフロントガラスのひび割れがすごい。乗車率は120%,屋根にも人と荷物が乗せられている。6回のフェリーの待ち時間と乗船時間の合計は75分もある。

大型バスなので外の景色が良く見える。道路の周辺は一面の乾いた水田となっており,牛たちがそれほど多くない青草を食んでいる。農家の周りには池が掘られ,乾期の水源となっている。この人工のため池はバングラデシュのどこでも見かけた。

水牛がいる池では子どもたちが泥だらけになって遊んでいる。一つの川では近代的な橋の工事が行われている。季節的に訪れる洪水に対応するため道路は周囲よりかなり高くなっている。橋もそれに合わせ現在の水面から10mほども高いところを通っている。

ロケット・スチーマー船のチケットを入手する

ありがたことに,BRTCバスはボリシャルのガートのすぐそばに到着した。ロケットの事務所に行き3時間後に出るロケット・スチーマーのチケットを求める。何とか1等ダブル・ルームのキップ(480タカ)を入手できたのはラッキーであった。

ロケット・スチーマーとは船の両舷に水車のようなパドルが付いており,それで進むという外輪船である。旅行人で蔵前氏が強く推薦しているので乗ってみることにした。15:00過ぎに遅い昼食をとり,大型客船の停まっているメインの船着場で待つことにする。

停泊中の大型船は子どもたちのかっこうの遊び場になっている。中学生くらいの子どもたちは三層デッキの屋根から次々と飛び込んでいる。船の舷側は通行のため50cmほど鉄板が外に出ているのでこれは危険な遊びだ。

船着場でのんびり写真を撮りながら待機する。桟橋の近くには小舟も係留されておりそこは子どもたちの基地になっている。水に飛び込みクッションとして取り付けられているバナナの幹を使って舟にはいあがる。

水は薄い灰色で見かけはきれいそうだ。渡し板を通り三層デッキの船も探検してみる。鉄製の床の上に5列の敷き布が長手方向に広げられている。このデッキに何百人かの乗客が詰め込まれるのである。

英語が少し話せる物売りとの会話でロケット・スチーマーはメインの桟橋からは出ないことが分かった。ロケット専用の浮き桟橋はメインの船着場から2つ向こうにあるということだ。17:30を回っていたのであわてて荷物を持ってそちらに向かう。こちらの桟橋には大きな船が停泊しておらず,乗客だけが船を待っている。

ボリシャル→ダッカ ロケット・スチーマー船で移動

クルナの町から半日かけて来るにもかかわらず,ロケット・スチーマーは定刻の18:00に到着した。確かに舷側にはパドルが取り付けられており,それが水をかいている。残念ながらすでに暗くなっており写真はきれいに撮れない。船の装いといい,あふれる乗客といいまるで難民船のようだ。

実際に中に入ってみると下の甲板は(3等)は人で溢れており,歩くのもままならない。中央にはジーゼル・エンジンが動いており,暑いうえ騒音がひどい。

上の甲板(2等だと思う)は同じように混んでいるが,環境は少し良い。中央に仕切りがあり,そこから前半分が1等船室になっている。部屋は6畳,2ベッド,清潔である。相客は日本人で彼はクルナから乗ってきている。

一休みをしてエンジンルームを見に行く。何基かの巨大なジーゼルエンジンが連なりその先の巨大なホイールに連結されている。そこからパドルまでの動力伝達は分からない。

壁にはプレートが取り付けられており,そこには次のように記されている。@船名はP.S.Lepcha A1938年に建造 B1983年にジーゼルエンジンに改装 C全長190フィート,全幅25フィート D乗客数は1等16人,2等12人,3等は昼間で574人,夜間は324人となっている。

1等船室と食事

夕食は船室の前の空間がダイニングなる。給仕があらかじめ注文しておいた夕食を整える。イギリス統治時代のスタイルである。夕食のメニューはパン,魚のフライ,チキン,紅茶である。

こんなすごい料理が船代に含まれているのかと感心したら,さすがに甘かった。次の日の朝食と合わせて330タカを請求されることになった。1等エリアのデッキは専用になっており,暗い川面を強力なライトで照らしながら船が進んでいく様子をしばらく眺めていた。

ベッドはちょっと狭いものの快適である。03:00頃,いかりを下ろす音で目が覚めた。甲板に出てみると濃い霧の中にいる。船は岸の風景を基準に航行しており,それが見えなくなると停まるしかないのだ。

06:00に起床したときも川霧はまだ濃くて視界はきかない。船の振動がないのを幸いに日記を書いてしまう。07:00過ぎに船は動き出した。朝食が済んだあたりから川幅が狭くなり,岸辺の風景も近くなる。

ダッカが近づく

09:30に船はショドル・ガットではなく,少し北西側の船着場に到着した。ダッカに近づくと川の汚れはひどくなり,船着場に近いところでは,ゴミが浮かび,臭いもひどい。川は完全に死んでいる。

Ramna Hotel

ここからナショナル・スタジアムの近くの宿まで船で一緒だった日本人と一緒にリキシャーで行く。事前に料金をたずねると15タカと聞こえた。しかし,ホテルに着くと彼は100タカを請求した。あまりのことに近くの人たちに仲裁に入ってもらい,25タカで決着した。

North-south Road 沿いのRamna Hotel は,8畳,1ベッド,机,T/S付きで清潔である。275タカはバングラで泊まったホテルでは最も高い。さすがに受付もしっかりしているし,とても清潔で快適であった。

タカの両替をしておこうと,スタジアムの東側の銀行街に出かける。首都においてもTCの両替は難しかった。何軒かの銀行に断られ,ようやくバングラデシュ銀行の西側にアメックスがあり助かった。レートはキャッシュ,TCとも1$=60.8である。

ダッカ中央駅

ここから北に歩き,東に向かう通りをまっすぐ行くとダッカ中央駅に着く。中央駅の屋根は特異な形状をしており,僕の好きな建築物の一つだ。

窓口で「明日,スリモンゴル,Express」と書いたメモを差し出すと,時間を教えてくれたので,13:30発を選択した。駅の東側は2000年に散策したので,再度回ってみた。しかし,当時の市場がどうしても見出せず宿に戻る。

今日最後の仕事は電子メールである。地元の人に何回か聞いてようやく場所を探し当てた。宿から北に2つ目の交差点の右側,フジフィルムの看板が目印である。

ビルの2階にネットに接続されているPCはあるがふだんは接続サービスはしていないようだ。設定を変えてもらいダイアルアップで接続する。日本語は読めるが書き込みはできないので英語の短いメールを出す。

政治集会とデモ行進

バングラデシュは政治的には安定していない。1971年の独立後,初代と2代目の大統領は暗殺された。この国を動かしてきたのはアワミ連盟(AL)とバングラデシュ民族主義党(BNP)の2大政党である。

政権が変わるたびに政策が変わるという不安定要因がこの国の経済開発を遅らせてきた。街では政治集会が頻繁に開催され,野党の呼びかけによるゼネスト(ホッタール)も多い。

ダッカの市内でも政治的な集会や道路を埋めるデモ隊を見かけた。同時に宿の近くでは,デモ隊を規制する,あるいは交通規制をするための鉄条網の付いた可動式の柵が並べられているのを見かけた。

今回の旅行でも,クスティアからインドに抜けるとき,「明後日はゼネストがあり,交通機関が止まる」と教えられ,予定を1日短縮してインドに戻った。

居心地のよいホテル

275タカの部屋の寝心地はさすがに良い。ファンを回しながら薄いフトンを被って寝る。ダッカの中心部にありながらとても静かだ。

ラーマホテルの4階のテラスからは大きな通りを見下ろすことができる。近くに交差点がありその右側にはバススタンドがあるのか大小のバスの出入りが激しく朝から渋滞している。

ノース・サウスロードを歩く

朝の散歩はノース・サウス・ロードを南に歩き,朝食のとれる場所を探した。宿のすぐ南にあるスタジアムに通じる道路は鉄のトゲの付いたワイヤーが巻かれた柵で封鎖されている。わずかにリキシャーだけが通ることができる。

このスタイルの交通規制はダッカの市内で何回か目にした。大きなデモなどが行われるときはいつも軍隊が出動し可動式の柵で交通規制を行う。

昼間,歩道を占拠していた服の露店はなく,売り場の台だけが残されている。インド式の巨大なゴミ箱には,あらゆる種類のゴミが混ざり合っている。生ゴミも入っているので臭いがひどい。それをカラスがあさっているのは日本でもおなじみの光景だ。

路上で焼いているチャパティはさすがに食べる気にならない。結局,イングリッシュ・ロードを越えるまで食べられる場所は無かった。今日の朝食は薄いナン,ダルカリー,コークの組み合わせで30タカである。地方に比べるとさすがにダッカの物価は高い。

旧市街を歩く

イングリッシュ・ロードの南は旧市街になる。旧市街は入り組んだ路地と古い建物が密集している。車が通れる道路は少なく,建物の間をリキシャーがようやく通れる狭い道があるだけだ。

こんな狭い道でも旅行人のバングラデシュには旧市街の地図が掲載されている。よくもまあ,こんなところまで調べたものだと寒心する。旅行人のガイドブックには旅行者としての執念のようなものを感じることがときどきある。

民家と商店が多いので,思いがけない被写体に出会える楽しみもある。路地の横は排水溝になっているが,そこはゴミがどんどん捨てられるので,すぐに機能不全に陥る。ときどき下水をさらうことがあり,そのくみ出された量の多さに驚くことがある。

バングラデシュの環境問題|レジ袋

そのようなゴミの中には日本でいうスーパーのレジ袋も含まれている。バングラデシュではゴミを路上に捨てる文化が根付いている。一昔前は生ゴミ程度のものだっが,近年はレジ袋が含まれるようになった。レジ袋は排水溝をつまらせ,ちょっとした雨でも水が出るようになった。

また,オートリキシャの車輪にレジ袋が絡まり横転するという事故もたくさん発生している。そのため,2002年からは全国でレジ袋が禁止された。代わりに登場したので国産のジュートやコットンを使用した買物袋である。日本でも一般的になったエコバッグをバングラデシュでは一足早く実現している。

ジュートはコウマ(黄麻)という熱帯・亜熱帯性植物から作られる繊維である。少し前まではバングラデシュの主要輸出品目であった。黄麻は南アジアや東南アジアで繊維採取の目的で栽培されている。

播種から100日ほどで2-3mの高さに成長する。茎を水に浸して発酵させ,手で1本ずつ表皮を剥離させる。この靱皮部がジュートの原料になる。ジュートは生産から廃棄に至るまでほとんど有害物質を出さない。

黄麻から靱皮部を取った残留物はすべて産地の土壌に戻すことができる。一時期は化学繊維に押されて需要が落ちていたが,先進国の環境意識の高まりにより,その価値が見直されている。

ジュートで作られた,ざっくりした感じのエコバッグは,現在はNGOの仲介により,日本でも特定の売り場で販売されている。循環型製品でもある天然繊維に私たちはもっと着目する必要がある。

ショドル・ガット

磁石を頼りに南に向かうとブリゴンガ川に出る。細い路地から出ると風景は一変する。ショドル・ガットには大小の船がひしめき合い,活気にあふれている。ダッカでもっとも見ておかなければならな風景である。この風景は5年前と少しも変わっていない。しかし,水質の汚れは限界を超えている。

川は巨大都市ダッカの未処理の汚水を一手に引き受けており,その汚れはひどい。5年前にはガットで水浴びをしているところを見ても,違和感がなかったのに,今では不衛生極まりない。

川の国バングラデシュにおいては,川は最重要の運搬手段である。近年,道路が整備されトラック輸送の比重は高まっているが,水運はまだまだ主役の座をゆずりそうにない。生鮮食品を積んだ船が近郊から到着する。川岸の泥の上にそのまま接岸し渡り板が渡される。

船から大量のココヤシが運び出される。大きなカゴを頭の上に乗せ,バランスを取りながら集荷場に運ぶ。集められたココヤシは仲買人に買われダッカの市内に送られる。

リヤカー付き自転車の荷台には竹の囲いが取り付けられ,ココヤシやスイカなどが積み込まれる。運転手が重いペダルをこぎ自転車はゆっくりと動き出す。

バングラデシュの環境問題|水質汚染

おそらくメロンだろうね

旧市街の道で商売する

この砂利はどこから持ってきたのだろうか

2週間後にダッカに戻ると

2週間後にフェニから列車でダッカに戻ってきた。ボイロブ・バザール過ぎた頃から空模様が怪しくなる。やはり雨が降り出した。スコールと異なりやさしい雨である。

しかしダッカが近づくにつれて風が加わり雨脚も強くなった。嵐のせいか中央駅の手前で1時間近く停車した。夕方の5時少し前に駅に着いても雨は上がっていなかった。

しばらく様子を見ていたが雨は止みそうも無いのでリキシャーでロムナホテルに向かうことにする。上部は幌があるので雨は防げる。備え付けのビニールシートを両手で押さえて前から吹き込んでくる雨を防ぐ。

やはり相当水が出ている。深いところでは30cmほどもある。ゴミも汚物も水の中かと思うとぞっとする。この国を旅行するなら乾期しかない。ロムナにチェックインしてやれやれである。しずくで濡れたクツを乾かしながらシャワーを浴びる。

ポストの色分けはなんのため?

ロムナホテルからの雨上がりの夜景


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