メダンの南70kmにある標高1300mの高原の町である。人口は1.3万人,オランダ統治時代にメダンの暑さから逃れるための避暑地として開発された。町はメダンとトバ湖を結ぶ幹線道路沿いに広がっており,主要部は北側のフルーツ・マーケットと南側のバススタンドの間の1kmほどである。
シバヤッ山とシナブング山という2つの活火山が近くにあり,火山性土壌の高原となっているため,現在のブラスタギは高原野菜の大生産地となっている。また,シバヤッ山周辺には温泉もあることから観光も重要な産業になっている。民族・言語グループとしては、バタッ・カロ人が主要民族となっている。近郊のリンガ村には彼らの伝統的な住居も残されており,天候に恵まれると2日間滞在しても退屈することはない。
メダン(07:15)→ブラスタギ(09:00) 移動
06:30にチェックアウトする。宿でブラスタギ行のバススタンドを確認すると,パラン・ブワンだと教えられた。言われたとおりイスターナの前でNo.23のミニバスを待つ。しかし,この通りにはほとんどミニバスは走っていない。
バイク・ベチャのおじさんがミニバスはジュワンダ通りだよ,2万ルピアで行くよと話しかけてくる。2万ルピアかと難色を示していると1.5万ルピアに下がった。ミニバス探しも面倒になりこのバイク・ベチャで行くことにする。バススタンドまでの距離が分からないので1.5万ルピアが適正かどうかは分からない。
ベチャは西方向に20分ほど走り,小型バスの停まっている路上で降ろしてくれた。運転手に確認するとブラスタスギに行くという。インド圏でよく見かける小型バスで荷物は屋根の上に上げる。
日本的な感覚では定員20名というバスに36名が詰め込まれた。料金が8000ルピアではぜいたくはいえないところだ。ツーリストバスなら3万ルピアくらいはする。バスは07:15に動き出した。高度が上がっていくと風が冷たくなり,長袖を着込むことになる。
シバヤッ・ロスメン
09時前にブラスタギのバススタンドに到着した。町の大通りを北に歩いてみたが目指すシバヤッ・ロスメンは見つからない。おかしいなと地元の人にたずねるとすぐに分かった。ロスメンの表示がずいぶん高いところにある。しかも,ロスメンは通りからみて奥の建物となっており,建物の前を通ってもそれとは気が付かなかったのだ。
僕の部屋は屋上の竹製のペントハウスである。部屋は8畳,ダブルベッド,トイレ・シャワーは共同,テーブルとイスが付いておりとても清潔である。この部屋では5万ルピアは妥当な料金である。難点は部屋の前がテラスになっており,そこで夜遅くまで話をしている人たちがいることだ。僕の就寝時間は10時なので,11時になったら「静かにして下さい」と注意することになる。
リンガ村の古い伝統家屋を見に行く
町から15kmほど離れたところにあるリンガ村にはバタッ・カロ人の古い伝統家屋が残されており,ブラスタギ近郊の観光名所となっている。バススタンドからNo.6のミニバスでリンガ村に向かう。
このバスは途中の町で15分ほど停車したものの,リンガ村の広場に行ってくれた。この広場の前には大きな集会所があり,バスから降りると男性がやってきてインフォメーションセンターに連れて行かれた。
彼は寄付台帳を広げ,名前と金額を記入しなさいと言う。寄付台帳には10万ルピアとか5万ルピアという数字が並んでいる。この台帳は外国人向けのもので,多くの寄付台帳がそうであるように水増ししている可能性が大いにある。僕は5000ルピアにしたら,彼はちょっと不満そうな顔で受け取った。
こんなことなら入村料として一定の金額を徴収する方がずっと気持ちがいい。この種の観光化したところはのんびりと写真を撮ったり見学させてもらうには不向きなところだ。村の中を回っていると子どもたちに「ベン,マネー」とまとわりつかれることになった。
高床の部分は石の上に乗っている
100年あるいは200年前の家屋はもういくらも残されていない。そのうちいくつかはすでに廃屋となっており,高床式の床下の空間だけが利用されている。家屋の造りは太い柱を使用した高床式であり,柱は地面に固定された石材の上に乗せられている。四隅および中央の柱は屋根の梁を支える通し柱となっている。
床は方形のものが多い。壁面は高さ1.5mほどしかなく外側に少し傾斜した縦張りの板壁になっている。屋根は四方から立ち上がる寄棟造りに近いが,最上部は妻側に舟形の張り出しをもつ二重構造になっており,日本でいう入母屋造りに近い。屋根材は茅か類似の素材となっており,日本の茅葺に比べるとずっと薄い。
屋根の棟先にには水牛の頭部をあしらった装飾が取り付けられている。屋根の棟先に聖なるシンボルを取り付ける文化は,大陸部,島嶼部を問わず東南アジアではよく見られる。ときにはそれは水牛の角そのものとなっていることもある。ミナンカバウの伝説をもつ西スマトラにおいては水牛は聖なるシンボルであったようだ。
水牛の角をより簡略化したシンボルにして屋根の棟先に取り付ける文化は,切妻屋根の両端部に破風板の先端を伸ばし交叉させた飾り板を取り付ける形で日本にも入ってきている。著名なものは伊勢神宮にある千木(ちぎ)である。千木文化のルーツは東南アジアであり,日本が黒潮海洋文化圏に含まれていたことの証でもある。
内部は仕切りのない空間となっている
この村での唯一の収穫は高床式ではない住居に入れてもらい,内部の写真を撮れたことである。この家は25畳ほどの広さがあり,一部は仕切られている。
床敷きの床の中央に囲炉裏が切ってあり,そこで煮炊きをするようになっている。この周囲が基本的な生活空間となっており,炊事,食事,家族の団らんの場となっている。子どもたちの遊びの空間であり,おそらくここに布団を敷いて寝るのだろう。
子どもが3人いたのでお礼にヨーヨーを作ってあげる。すると,子どもの友だちがやってきた。近所の子どもの情報網はあなどれない。「君たちの分はないよ」とは言えないので,合計7個を作ることになった。
屋根の梁構造は日本家屋と類似している
この家の屋根を支える梁構造は日本の木造軸組み工法と類似している。異なっている点は天井が無いことだ。そのため屋根までの広い空間は使用することができない構造になっている。
廃棄された伝統家屋も多い
伝統的な家屋を維持するのは大変なようだ。コスト的には同じ木造でも構造の簡単な切妻造りにした方がはるかに有利であろう。実際,村の中にはそのような家も多い。また,コンクリート造りの家屋も見られる。主を失った家は荒れるに任せており,一つの文化が確実に衰退していることを物語っている。
ブラスタギのシンボル
フルーツ・マーケットの近くのロータリーにある塔のいわれはネット上でもどこにも情報はなかった。ずいぶん目立つものなのでよく写真にはなっているものの,説明はない。最上部には武器をもった人々がいるので独立戦争の記念碑のようだ。
インドネシア独立戦争(1945-1949年)は第二次世界大戦においてインドネシアを統治していた日本が連合国に降伏した直後から始まっている。
独立を宣言したインドネシア共和国とこれを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で戦争となり,約80万人が犠牲になった。インドネシアの独立は血で贖われたものであり,この戦争に参加した将兵は独立の英雄として,戦争後に亡くなった者を含め国の費用で各地の英雄墓地に埋葬されている。
フルーツマーケットの珍しい果物
名前にたがわず果物の店は確かに多かった。オレンジ,マンゴー,アボガド,リンゴ,イチゴなどが主力商品のようだ。その他名前の分からない熱帯産果物も何種類かある。
写真の果物の一つはタマリロ(ツリートマト)であることが分かった。日本ではなじみのない熱帯産の果物の名前を確定するのはとても難しい。最近は「熱帯果物紀行」のサイトをよく利用させてもらっている。ナス科の植物で原産地はペルーの高原地帯,比較的耐寒性があると記されていた。
フルーツ・マーケットの周辺は雑多な市場のようになっている。土産物屋には大きな木彫りがあり,これはバリ島で見かけたものとよく似ている。バリ島での人気商品なので,この地域でもそれにあやかろうとしているのかもしれない。小型種のペットのウサギは子どもたちには人気があった。
揚げバナナ
バナナ(バショウ科・バショウ属)の原産地はマレー半島からニューギニア島にかけての地域とされており,人類とは数千年の長い付き合いがある。現在のバナナ類は世界の熱帯地域で広く栽培されており,生食用(バナナ)と調理用(プラテン)に大別さる。FAO(国連食糧農業機関)の統計では2003年の生産量はバナナが6929万トン,プランテン3297万トンとなっている。
調理用バナナはもっぱら加熱調理される。イモのような食材として使用する,蒸す,鉄板で挟みつぶして加熱する,油で揚げる,カルメラの中で加熱するなどいろいろな調理法がある。個人的にはカルメラを使用したものが好きだが,揚げたものも甘みが活性化するのかおいしい。
花付きの球根(地下茎)も売られている
花付きの球根(地下茎)も売られている。この植物は花を楽しむものであろう。2つの球根からはすでに花芽が出ており,白い花を咲かせている。
白いご飯と紫色のごはん
バナナの葉にくるんで蒸したごはんも売られている。どちらも粘り気が強そうなのでもち米なのかもしれない。紫色のごはんは熱帯ジャポニカ種であり,東南アジアや中国南部では陸稲として広く栽培されている。色も薄い赤からほとんど黒に近いものまである。このような色は種皮に含まれるアントシアニン系の色素によるものである。したがって玄米に近い状態で蒸し上げると色の濃いごはんとなる。日本でも赤米や黒米は古代米としてわずかながら栽培されている。
市場で出会った子どもたち
夕食はバススタンドの南側の食堂でワンタンミー・スープをいただく。これはなかなかおいしい。というのはインドネシアは「アジノモト」の大消費国である。日本の家庭ではもう味の素を料理に使用することはほとんどなくなったが,インドネシアや中国ではごく当たり前に使用している。そのおかげで日本人はそれらの国でなじみの味をおいしくいただくことができる。
日本人は化学調味料を自分で使用する機会はほとんどなくなったけれど,多くの加工食品には大量に使用されており,現在の若者は年配者以上に化学調味料に慣らされている。コミックスの「美味しんぼ」は化学調味料を親の仇のように悪く書いているが,ほどほどに使用している分には何の問題もない。
標高が1300mの高原にあるので日が落ちると急に涼しくなる。昼間は半袖でも,夕方からは長袖を重ね着することになる。僕の部屋はただでさえ涼しい構造なので夜は重装備で寝ることにする。上下とも長袖にして,毛布をしっかりかけても足元が寒くて目が覚める。それでも05時少し前のアザーンまでぐっすり眠ることはできた。
小学校の朝礼
フルーツ・マーケットの横を通ると制服姿の子どもたちが歩いて行く。後をついていくと学校にたどり着く。校庭では子どもたちが整列して朝礼が始まった。
子どもたちは音楽に合わせて体を動かしている。授業前のウォームアップといったところだ。先生の話ではここには3つの小学校の生徒が集まっているということである。といっても,制服ではその識別はできない。校庭の一部は日陰となっており,強い日差しのもとでは被写体の明暗の差が大きくなり,写真はまだら模様になってしまう。
モスクの付属幼稚園
元の道を歩いて帰るときモスクに付属の小学校があった。方形の建物の上に銀色のドームを乗せた本体はメダンでも標準型であった。正面右側にある一本だけのミナレットは5層の詠唱台がある。
この柵の付いた台は飾りのためにあるのではなく,かってはこの台の上からムアッジンと呼ばれる男性が,定時の礼拝を呼びかけるアザーンを詠唱していた。現在ではスピーカーが主流となっており,肉声のアザーンを聞くことはほとんどなくなっている。それにしてもこのモスクの詠唱台は3層ばかりない方がずっとすっきりする。
このモスクに付属する学校がそろそろ始まる時間だ。子どもたちは男女とも赤いチェックの上着と赤いズボンが制服となっており,女子は上着と同じ柄のスカーフを着用しているので,失礼な言い方ながら赤いテルテル坊主のように見える。整列が始まるとこの子たちはとても良い被写体になってくれた。
シバヤッ山を目指して歩き出す
町の北側には「シバヤッ山」が大きな姿を見せている。英文のwikipedia によると火山分類は成層火山となっており,最後に噴火したのは1881年となっている。
標高はガイドブックは2095m,wikipdia は2212mとなっており,その差は不明だ。ブラスタギの町から歩いてアクセスでき,比較的登りやすい山ということなのでトライしてみた。しかし,町から仰ぎ見るとかなりの山であり不安もよぎる。
長屋風の住宅に立ち寄る
フルーツ・マーケットの西側の道を北に進むとシバヤッ・インターナショナル・ホテルが左に見える。この少し高級なホテルの料金は35万ルピア(3500円)ほどである。そのまま北に進むと右側にサッカー場が現れる。
その少し先には長屋風のロングハウスがあり,軒先で子どもたちが遊んでいる。近づいてカメラを向けるとちゃんと並んでくれた。お礼にヨーヨーを作ってあげたいけれど,山登りが待ってるので,帰りに寄ることにする。
山から戻ると子どもたちの顔ぶれが少し変わっていた。まあいいか,「写真に入りたい人は集まって」とやったら35人くらになり,男女別で撮ることになった。画像を見せてあげるとさすがに小さい。少し拡大してスクロールさせながら見せてあげる。おそらくこの子だちにとっては初めてのデジカメ体験ではなかろうか。
比較的大きな子どもの家に入れてもらい,水をもらってヨーヨー作りに精を出す。しかし,手持ちの材料は15セットくらいなので,小さい順に作ってあげることにした。僕の袋が空になったのが分かったので,大きな子たちからはとくに苦情は出なかった。
収穫しているのは長ネギのようだ
この辺りの標高は1400mほどで,この後は緩い上りの道となる。道の両側には野菜畑が広がっており,葉物野菜,長ネギ,トマトが広い面積を占めている。一部の畑では長ネギの収穫が行われていた。実際のところ,畑を見ただけでは長ネギかタマネギかは識別できなかった。この収穫を見て,長ネギであることが確認できた。
しかし,インドネシアで長ネギを食べる文化があるのか疑問に思い,ネットで調べてみると,インドネシアの高原地帯で栽培し,長ネギが不足する日本の夏場に輸入している会社もあることが分かった。そういえば長ネギの旬は冬だ。また,インドネシア料理の材料にも長ネギがあり,普遍的ということではないが長ネギの文化はあるようだ。
火山性の土壌は一般的に植物が必要とするミネラルが豊富なため生産性が高い。インドネシアの総人口の半数以上が面積12.7万km2のジャワ島という小さな島に居住している。これはジャワ島が火山の島であり,かつ適度な降水量に恵まれているため,非常に生産性の高い農業が多くの人口を支えてきたのだ。
ブラスタギは一年を通じて雨に恵まれているので野菜栽培には好適な条件がそろっており,古くから野菜の大生産地としてジャワ島やマレーシア,シンガポールにも出荷されてきた。しかし,農薬の多用が野菜の安全性に暗い影を投げかけている。
ベモのスタンドがある
フルーツ・マーケットで売られていた果物の一部もこの周辺で栽培されており,いくつかの果樹園も見かけた。分岐点の先にベモがたくさん停まっており,ここで入山料(1500ルピア)を払う。標高は1500mでここまでの所要時間は45分くらいだ。
周辺の斜面は二次林が多い
傾斜の緩い簡易舗装された坂道をひたすら登って行く。還暦を過ぎた僕にとってもそれほどきついものではない。古くから比較的人口が多い地域であったので,周辺の森は2次林あるいは3次林になっている。大きな木はほとんど見ることはできない。その代り森は樹木が密生するジャングル状態になっており,とても歩けるような状態ではない。
ここから斜面を登る
緩い坂道は長くは続かなかった。標高1650mくらいまでは急な上りとなり,その後は下ったり,上ったりの道が続く。再びきつい上りになり,樹林帯の中を歩く道との分岐点がある。
舗装道路はその先に伸びており,特別な目印や表示のないところで道路からそれて,斜面をよじ登って入らなければならないので,地元のガイドでもいなければ見つけることはできないだろう。僕は少し前から路上で声をかけられたガイドを雇っており,この道を行くことになった。この分岐点の手前まではツアーの車も来ている。
タコノキのトンネルを進む
分岐点から斜面をよじ登るとその先はジャングルである。その中を細い登山道が伸びている。道の両側はタコノキの大群落となっており,高さ5-6mの壁となっている。
タコノキは茎の節の部分からたくさんの太い気根(指示根)を出す姿がタコに似ていることからこのように命名された。分かりやすい名前なので一度見たらすぐに覚えられる。道は狭く細長い葉が垂れ下がっているので,手で払いながら歩くことになる。
ようやく火口壁が見えた
狭い樹林帯の道を過ぎるとこわれかけた石段の小道となり,この辺りが外輪山の縁のようだ。見通しがよくなり眼下の森の向こうにもう一つの火山であるシナブング山を眺望することができる。こちらも成層火山であり,かなりきれいな円錐形をしている。
火山の外輪山を越える。その先は大きな岩がごろごろしているガレ場となっている。最後の噴火から100年,植物はこの辺りまで進出している。道の前方には高さ50mくらいの火口壁がそびえている。
火口壁の内側
火口壁の外側でも何ヶ所からの地点から水蒸気もしくは火山性ガスが出ている。さすがに火口壁のところで植物は進出をあきらめたのか,岩だらけの地形が観察できる。ところどころに硫黄の結晶が黄色の斑点を作っている。
火口の淵に立つと,何ヶ所かから噴煙や噴気が上がっている様子を観察できる。この辺りの標高は1900mである。火口壁の高さは一様ではなく,凹凸をもちながら火口を取り巻いている。
火口は石の模様とメッセージがいっぱい
火口の底は平らであり直径70mくらいのほぼ円形となっている。火口に沿って移動し,火口の背後の高い壁を正面にすると,まるでローマの円形劇場のような配置となる。実際にはローマ劇場の観客席は半円形であり,舞台の背後は音響効果を高めるようにすこしカールした高い壁面となっている。僕の立っている火口壁最上部はさながら,観客席の最上部ということになる。
20mほど下の火口底に下りることができ,小石を並べて絵や文字が火口底全体に描かれている。噴煙の中には有毒ガスは含まれていないのか心配になる。
火口壁から温泉郷とブラスタギの町を眺める
ガイドに案内されて火口壁の一部を歩いてみた。外輪山の内側は深い森林となっており,一部の平らな土地は農地になっている。温泉もその辺りにあるはずだが確認できなかった。火口壁が少し高くなると外輪山の向こうに緑豊かなブラスタギの町を眺望することができる。
火口壁が切れたところはビューポイントになっている。ここからはもう一つの火山であるシナブング山を望むことができる。北緯3度,赤道直下とはいえ標高2000mのビューポイントは涼しい風がここちよい。火口壁の降り口から外側を見ると雨水による浸食が激しいことが分かる。
来た時と同じ道をたどり,タコノキのトンネルを抜けて舗装道路に出たのでここでガイドとお別れする。ちなみに2時間のガイド料は5万ルピアであった。時間は13時を少し回ったあたりだ。帰りは余裕があるのでのんびりと歩き,気に入ったものを写真に収める。