正しく表現するならばペナンは島の名前であり,中心となる町は「ジョージタウン」ということになる。面積は285km2,総人口は70万人で,そのうち30万人はジョージタウンに居住している。住民には華人が多く,それに次いでマレー系,インド系タミル人が多い。
対岸のマレー半島側にはバタワースの町があり,その間は長さ13.5kmのペナン・ブリッジによって結ばれている。また,フェリーが頻繁に往来している。
1786年にペナン島はイギリスに割譲され自由貿易港となり,シンガポール,マラッカとともに「海峡植民地」の拠点となった。1832年に海峡植民地の中心はシンガポールに移ったが,ジョージタウンにはその時代の古い街並みが残され世界遺産に登録されており,現在でもマレーシアで最も人気のある観光地の一つとなっている。
クチン→ペナン 移動
クチンからペナンまではAia Asia で飛んだ。Aia Asia はマレーシアを中心に東南アジア,インド,中国に路線をもつ格安航空会社である。2010年には日本にも路線をもつようになり,ちょっとしたニュースになった。
Aia Asia の最大の特徴は低価格料金である。通常路線の半額以下なのだ。クチン→ペナンのフライトが261リンギットである。クチンで参加したロングハウス・ツアーが200リンギットなので,その安さが際立つ。
コストを最小限に切り詰めた経営により,世界で最も低コストの航空会社と評価されている。搭乗待合室は無く,乗客は搭乗口近くの通路に並んで待つことになる。飛行機が到着すると,乗客が搭乗口から出てきた。クチン空港では出発客と到着客が分離されていないのだ。
搭乗してみるとファーストクラスやビジネスクラスはなく,すべてエコノミー座席となっていた。搭乗率はほぼ100%に近い。乗客の大半は中国系の人たちであり,機内は異様に騒々しい。
世界の二大人口大国である中国とインドの人たちが集まったときの騒々しさは大変なものであり,かつ機内におけるマナーはひどいものだ。中国は礼節の国とされていたのでは・・・。
低価格の代わりにフライト時間は早朝や夕方以降になることが多い。ペナン行きも到着は22:20であった。空港からジョージタウンまではシャトルバスが運行している。最終は23:30であり十分間に合ったが,ガイドブックには22時が最終となっており,安全の面からもタクシー(38リンギット)を利用することにした。
SDゲストハウス
予定していた宿のオアシスは見つからなかった。その界隈を探しながら歩いているとSDゲストハウスの前でヨーロピアンの旅行者に呼び止められた。彼曰く,オアシスは3年前に閉鎖された,このSDゲストハウスはいいところだよ。深夜の時間帯になっているので,彼にお礼を言ってチェックインする。
18リンギットの部屋は4.5畳,1ベッド,トイレとホットシャワーは共同である。ベッドの一部が陥没したようになっている以外は問題ない。この宿は間口は狭いのに奥行きは50mほどもあり,いろいろなタイプの部屋がある。共有スペースも充実しており,通路のところどころにイスとテーブルがあり,くつろくことができる。洗濯物を干す場所もあり,日本語を入力できるパソコンも無料で使用できる。
中国的な町
ペナンは中国人の作った町である。宿の近くにも二階建ての街並みがあり,1階は商店,2階は居住空間となっている。このような構造の家屋は中国人の町にはよく見られる。
ペナンに到着した時のリンギットの所持金は170リンギットであり,これで3日間を過ごすことになる。もっともすでにタクシー代で38リンギットを使っているので正確な残りは132リンギットである。宿代が安いのでなんとかなるだろう。
久しぶりの飲茶となる
朝食は近くの中国食堂で飲茶を楽しむ。店員が出来上がった点心をワゴンに乗せて運んでくるので,気に入ったものを取る仕組みとなっている。点心が4皿,マントウ,中国茶の組み合わせで8.4リンギットと朝食にしては高いものになった。
というより,東マレーシア(ボルネオ島)では食事が6リンギットを越えることはめったになかったのでとても高い部類に入る。もっとも麺類やインド系の食事はだいたい5リンギットで間に合った。
露店と市場
カピタン・クリン・モスクの南側を通る「Lebuh Bachingham」と「Lebuh Carnarvon」が交差する角地にある市場である。道路に沿ったL字形になっており,正面から見ると入り口はとても重厚な造りとなっている。中には入らなかったが,周辺には魚や野菜を扱う露店がたくさんあった。この立派な市場はガイドブックの地図にもなく,ネットで探してみたがほとんど情報はなかった。
カピタン・クリン・モスク
カピタン・クリン・モスクは1801年に移住してきた裕福な南インドの商人によって建立された。マレーシアでは珍しいムガール様式のモスクである。
周辺の建物に対して少し向きが異なっている。これは,イスラム教の礼拝においては聖地メッカに向かって礼拝しなければならない規則があるためだ。そのため,モスクにはメッカに向かう壁面(キブラ)が必ずあり,そこにはミフラーブという窪みが設けられている。
カピタン・クリン・モスクも東側にアプローチ・ロードと入り口をもち,西側にキブラをもっている。アプローチ・ロードの左側には方形の台の上に乗せられた六角形のミナレットがある。
下の台の四隅にはムガール建築ではよく用いられているチャトリという小塔が配されている。また入り口の門もムガール様式に基づいている。
ヤップ・コンシ
中国では地縁と血縁が非常に重視される。中国からマレーシアに移住してきた華人は同族・同姓の氏族集団を形成し,同氏族であることを確かめ,絆を強める目的で共通の先祖を祀る廟(中国寺院)と会館(集会所)を建設した。
このような施設をコンシといい,漢字表記すると「宗祠」あるいは「公司」となる。コンシとは廟と集会所がセットになった複合施設であり,ペナン州には100を超えるコンシがあるという。
カピタン・クリン・モスクの東側を南北に走るカピタン・クリン・モスク通りを南に下るとアチェ・モスクの手前に「ヤップ・コンシ」がある。ヤップは氏族の姓に相当するが漢字表記は分からなかった。
寺院の右側にある白い建物が会館である。入り口には「Yap Temple」,最上部には1924年の表記がある。この寺院は入り口の左右を飾る龍をあしらった石柱が見事だ。
壁面には銅鑼のように円形のレリーフが飾られており,こちらも馬上で武器を扱う戦闘の場面がすばらしく精細な細工彫り込まれている。内部は赤や金色が使用されているものの,神像は小さく,先祖の廟らしい雰囲気が出ている。
コンシの周辺には古い中国風の居住区が集まっている
カピタン・クリン・モスク通りの周辺の見どころとしては「クーコンシ」がある。しかし,記憶が怪しいがなにがしかの見学料が必要なためパスした。僕としてはこのような観光地はなにがなんでも見たいというものではない。それよりも,近くの古い街並みを見ていた方がずっと楽しい。
この辺りには一つの氏族が集まって暮らしていたと思われる造りの建物があり,のんびり眺めていた。中には人々の生活感が家の外に出ているものもあり興味深い。
Masjid Acheh
カピタン・クリン・モスク通りはヤップ・コンシのあたりから「Lebuh Cannon」に変わり,南側の突き当たりに「アチェ・モスク」がある。アチェはスマトラ島の西北端にある地域で,東南アジアで最も早くイスラムを受容した地域であり,現在でもイスラム原理主義が盛んな土地柄である。
15世紀に興ったアチェ王国はスマトラの胡椒貿易を独占し,17世紀には最盛期を迎えている。その後,王国は衰退していき,北スマトラはオランダの影響下に置かれるようになった。
1808年にモスクを建造したサイド・フサイン・アイディッドはアチェ出身の裕福な胡椒商人であったためアチェの名が付けられた。インドネシア様式のモスクは赤い瓦を使用した大きな民家のような建物であり,ドームはない。「Lebuh Cannon」から見ると,太めのミナレットが灯台のように見える。
礼拝堂は壁面と二列の柱によって支えられており,正面にミフラーブと小さな説教台がある。床には横線の入った青いじゅうたんが敷かれており,簡素な造りである。インドネシア様式らしく礼拝堂の外側にも屋根が続いており,広い開放空間となっている。インドネシアのモスクではこの空間は人々のくつろぎの場となっていた。
屋台はとても多い
屋台はどこにでもあり,僕の目と舌を楽しませてくれる。ジョージタウンには中国系,マレー系,インド系の人々が共存しており,食堂や屋台もそれぞれに分かれている。食べ物と味覚は人間にとって最も保守的なものだろう。おいしさの基本は子どもの頃の食生活に基づいており,大人になってからおいしさの地平を広げるのはそれなりの努力が必要だ。
したがって,食習慣の異なる民族が共存しているからといって,食文化が混ざり合うことは簡単ではない。さらに,宗教が食習慣に与える影響も大きく,こうなると混在は一層困難になる。
現在の日本人は世界でもっとも多様な食文化を有しており,僕も西洋料理,インド料理,マレー料理,中華料理を分け隔てなく食べることができる。それでも,おいしさの基本はやはり子どもの頃の食体験に基づいている。
スリ・マハ・マリアマン寺院
スリ・マハ・マリアマン寺院は1883年に建てられたジョージタウン最古のヒンドゥー寺院である。タミール出身の人たちが建てたもので南インドの様式になっている。
クアラルンプールのチャイナタウンの近くにも同名のヒンドゥー寺院があり,同じ地域の出身者が建てたようだ。出身地域を離れても宗教や文化は失われず,新しい地域に根付くことになる。このような宗教施設は出身地域を同じくする人々のアイデンティティを確かめる場となっている。
スリ・マハ・マリアマン寺院は探すのに少し手間取った。ガイドブックにはカピタン・クリン・モスク通りに面しているようになっているが,入り口は一本東側の通りになっていたからだ。控えめな塔門が入り口となっている。
内部は参拝者がそれほど多くはなく,自由に写真を撮らせてもらった。石造建築ではなくコンクリート造りとなっており,明るい空間になっている。
寺院の中は広い空間となっており,中央にお堂のような聖室(神殿)があり,そこに主神が祀られている。周囲の壁面には極彩色の女神像,シヴァ神の象徴となっている黒いリンガが配されている。カーリー女神と思われた黒い女神は聞いたことのない名前であった。
ナタ・ラジャとパールバティのきれいな像が目につく。目鼻立ちは南インドのものとはかなり異なっている。マドゥライのミーナークシー寺院の塔門には彩色された神像が並んでおり,それらの神像は目が大きく,鼻はそれほど高くなく描かれている。これはドゥラヴィダ人の姿に似せたものなのだろう。しかし,ここの神像は目が細く東アジア的に描かれている。
この寺院の主神はスリ・マハ・アマン女神であり,建物の中にあるお堂のような聖室に納められている。さすがに異教徒の僕はその聖室に入り写真を撮ることはできなかった。聖室の入り口の両側には武器をもった女神が睨んでいるのが印象的であった。
奥にある女神像は穏やかな微笑みを浮かべている。この女神はおそらく南インドで古くから信仰されていた土着の女神であろう。
ヒンドゥー教がインド的な宗教に変貌していく過程において,このようなローカルな神々はヒンドゥーの神々と関連付けられ,その眷属に含められるようになった。この寺院にはシヴァ神とパールバティが祀られていることから,スリ・マハ・アマン女神も例えばパールバティの化身というように関連付けられたのでは推測する。
観音寺・ペナン最古の中国寺院
カピタン・クリン・モスク通りには見どころが集中している。カピタン・クリン・モスクから北に向かうと「観音寺」がある。
この寺院は1800年代に建てられたペナン最古の中国寺院である。現在の福建省や広東省から移民してきた人々がこころの支えとして建てたものである。コンシのように氏族とは関係のない寺院なのでだれでも気楽にお参りすることができる。
そのため,参拝者が絶えず,寺院内は線香の濃い煙が漂っている。この寺院は通りから少し奥まったところにあり,その間の広場には供えられた紙類や線香の残りを燃やす大きな焼却炉があり,その横では巨大な線香がくすぶっている。
寺院の概観はちょっと変わった二重屋根になっており,破風が片側に二つ設けられている。破風のライン上にはこれも珍しい飾りが付いている。
寺院の内部は普通の中国寺院と同じである。内部の文字は「観音菩薩」ばかりである。「観音菩薩」は「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」ともされており,中国では非常に多くの人々が信仰している。
チベット仏教では最高位のダライ・ラマは観音菩薩の生まれ変わりとされている。名称の由来は中国に伝来したサンスクリット語の仏典からとされているが,ゾロアスター教やインド神話との関連を指摘する学説もある。
参拝者はとても多く,人々の焚く線香の煙が空間を埋めている。たくさんの赤い提灯が下がっており,これも中国らしい。
外に出ると小鳥の入った大きなカゴが置かれており,お金を払うと小鳥を逃がしてやることができる。大乗仏教では珍しい光景だ。
観音寺の前の道路わきにはヒンドゥーの祠がある
観音寺の前の道路わきには大きな榕樹の木があり,その下にヒンドゥー教の祠があるのは,異なる宗教が共存するペナンらしい。
マレー人の集い
観音寺の北側には「ペナン華人会館」があり,そこではマレー系の人々の集会が行われていた。これなども複数の民族が共存するペナンらしい。もちろん,広い会場は二分されており,男女は分かれて座っている。
聖ジョージ教会
「ペナン華人会館」の北側には「聖ジョージ教会」がある。ペナン島は18世紀末にイギリス東インド会社に譲渡され,町はイギリス国王にちなみジョージ・タウンと名付けられた。そして,1818年に建てられた東南アジアではもっとも古い英国国教会は「聖ジョージ教会」と名付けられた。
装飾の少ない重厚な建造物である。正面はギリシャ風の石柱に支えられたポーチをもっているが,左側奥に白い大きなビルがあり,フレームに完全に入ってしまう。しかたがなので横から撮ることになった。
City HallとTown Hall
ジョージタウンの北東隅に「コーン・ウオリアス要塞」があり,その西側に「City Hall」と「Town Hall」がある。日本語にするとどちらも市庁舎であるが,「Town Hall」は町の指導者が集まる集会所であり,行政機能は有していなかったようだ。どちらも重厚かつ優美なコロニアル風の建築物で,南側が「Town Hall」,北側が写真にある「City Hall(1903年建造)」である。
北西部のウオターフロントが眺望できる
コタ・ラマ公園の北側は海岸沿いの遊歩道となっており,ここから北西方向の海岸が眺望できる。この辺りはウオター・フロントとなっており,高層ビルや高級コンドミニアムが海岸沿いに立ち並んでいる。
インド系の人々が記念写真を撮っていた
二つの建物とコーン・ウオリアス要塞の間は広い「コタ・ラマ公園」になっている。入り口のゲートのところでインド系の団体が記念写真を撮っていたので,一緒に撮らせてもらう。
コーンウオーリス要塞
「コーンウオーリス要塞」はレンガ造りで4mほどの城壁の上に大砲が取り付けられている。英国はペナン島を手に入れてすぐの1786年に当時のヨーロッパで最新の様式とされていた星形の要塞を建造した。当初はヤシの幹を組み合わせたものであったという。
ヴィクトリア・メモリアル時計台
「コタ・ラマ公園」の南側を通るライト通りが東海岸に達する直前に「ヴィクトリア・メモリアル時計台」が優美な姿を見せている。この時計塔は交差点に立っているのでよいランドマークになってくれる。
「ヴィクトリア・メモリアル時計台」は4層構造になっており,第1層が八角形の台座,第2層が四角形で窓とバルコニーを備えた塔,第3層は時計塔,第4層はローマ式の柱が金色のドームを支えている。
名前の通りこの時計台はビクトリア女王(1819年-1901年)の即位60周年を祝って1897年から建設され,1902年に完成した。残念ながらビクトリア女王はこの時計塔の完成を見ずに亡くなったが,高さ60フィート(即位60周年に合わせた)の時計台は現在も時を刻んでいる。第二次大戦中の爆撃によりわずかに傾いており,倒壊しなかったのは幸いである。
小鳥の鳴き合わせ
ビルの谷間にある駐車場にいくつもの鳥かごが下がっており,中国人が小鳥の「鳴き合わせ」を楽しんでいる。小鳥も鳴き方に上手・下手があり,良い声を聞かせると次第に上手になるという。良い声で鳴くのはすべてオスであり,それは縄張りの宣言であり,メスの気を引くためである。人間にとっての美声が必ずしも自然界でも有効とは限らない。
ともあれ,同種のオスを声の届く範囲に置くと,縄張り宣言はずっと激しくなる。これが鳴き合わせの効能である。この趣味が高じると優劣を競うようになる。日本でもメジロやウグイスでは古くから闘鳴(私的造語)が行われ,優勝したものには高い値段が付いた。幼鳥にこのような鳥の鳴き声を聞かせる飼育家も多かった。現在ではメジロは保護鳥になっているにもかかわらず,歪んだ愛鳥家も多い。
フェリーターミナルの西側にはコロニアル風の建物が多い
フェリーから連絡橋を見る
フェリーから連絡橋を見ることができる。ペナン島と対岸のバタワースはもっとも狭いところで3kmも離れていない。対岸へのフェリーはこのもっとも狭いところにある。それに対して,バタワースと結ぶ連絡橋は8kmほど南にあり,そこでの海峡幅は8kmほどもある。
1985年に完成したペナンブリッジの総長は13.5kmであり,マレーシアで最長の橋である。中央部は吊り橋構造となっており,その部分の最大支間長は225m,最大桁高は33mとなっている。この片側3車線の橋を通行する車は毎日6.5万台と許容量(8.5万台)に近づいている。そのため,第二大橋が建設中である。
バタフライ・ファーム
ペナン島には「バタフライ・ファーム」がある。蝶好きの僕としてはぜひ訪問したいところだ。場所はジョージタウンから10kmほど離れており,市バスで行くことにする。その前に腹ごしらえが必要だ。露店街の食堂でワンタンミー・スープをいただく。今日はちょっと歩くかもしれないのでアンマンを追加し〆て4.5リンギットとなる。
宿の受付にはバスの路線図が貼ってあり,テロッ・バハンに行くのは101であることが分かった。ついでに空港行きをチェックすると401Aである。バスターミナルに行って101を見つけ,テロゥ・バハンと告げると料金は3リンギットであった。所要時間は70分ほど,運転手はロータリーのところで降ろしてくれた。そこにはバタフライ・ファームの案内板があり,のんびり歩いて行くと15分ほどで到着した。
アカエリ・トリバネアゲハ(メス)
料金は20リンギット,6ドルを出しておつりをもらった。内部は池のある庭園と標本等の展示室に分かれている。庭園には数種類の蝶が植えられている植物の花やパイナップルの切り身,ハイビスカスの切り花に群がっている。もっとも数が多いのはオオゴマダラ(左上の写真)である。羽を広げた大きさは75mm程度であり,日本でも南西諸島に生息している。
もっとも目を引くものはアカエリ・トリバネアゲハ(アゲハチョウ科)である。マレーシアの国蝶であり,ワシントン条約の保護動物となっている。オスもメスも胸の一部がきれいな赤い色をしているので「アカエリ」の名前が付けられている。オスは羽を広げると15cmにもなる大きな蝶で,黒い羽に緑色にかがやく模様がある。トリバネアゲハは性差が大きく,メスは写真のように小さく,かつ地味な模様になっている。
頬の模様からするとグリーンイグアナかな
ここには蝶以外のいろいろな動物が飼育されている。トカゲ,ワニガメ,スッポンなどは大きくて観察しやすい。真っ黒なオオサソリは数十匹が固まっておりさすがに不気味だ。動物だけではなくウツボカズラなどの植物も育成されている。
展示室の方にはタランチュラ,モモブトオオルリハムシ,ドクトカゲ,ジンメンカメムシ,ハナカマキリなど珍しい昆虫や動物が飼育されている。しかし,ガラス容器の中であり,反射光のため写真はどうにもならない。やはり,ハイビジョンの映像で見た方がはっきり分かる。
これはマレーシア産なのかな
昆虫の標本室も見ごたえがあった。世界には感動的に美しい蝶や蛾がたくさん生息している。メガネトリバネアゲハ,モルフォチョウなどはため息のでる美しさである。甲虫のコレクションも充実している。
付属の売店にはすごい表情の仮面が土産物として並んでいる。半島マレーシアにこのような仮面文化があったかどうかの知識はないが,ボルネオからニューギニアにかけての地域なら可能性は十分ある。
森林博物館
バタフライ・ファームから5分ほど南に歩くと森林博物館がある。残念ながら閉鎖されていたのでトレッキング・ルートを歩いてみた。
周辺の熱帯林の中で針葉樹の林があった。すらっと伸びて,枝をあまり広げない針葉樹のシルエットをもっている。葉は枝の両側に互生しており,光沢があり,針葉樹にしては少し幅が広いし長い。この植物はクアラルンプールの南にあるシャーラムの町で見かけたことがある。枯れ葉がパラパラ落ちてきて,下の車に降り積もっていた。
近くには水のきれいな川が流れており,子どもたちの遊び場になっている。この川の上流部がトレッキング・ルートとなっている。熱帯雨林は温帯林と比べて珍しい生物がたくさんいるというイメージが先行しているが,実際には少し歩いたくらいでは簡単に出会えるものではない。
イチジクの仲間であろう
トウの仲間であろうか,細い木にグルグル巻きつきながら上に伸びている。そこまで他の木に巻きつかないまでも,大きな木を利用して上に伸びていくツル性植物も多い。大きな樹木が少ないし,川の近くということもあり林床はけっこう明るい。高さ50cmに満たない多くの幼木が機会をうかがっている。シダ類を除くと林床には草本植物が乏しい。
帰りにおもしろい植物を見つけた。幹にたわわに実をつけるイチジクの仲間だ。細い幹が倒れているだけでツル性ではない。このように幹に直接果実がつけるものを幹生果といいイチジクの仲間ではしばしば見られる。日本で見かけるイチジクは枝の先に実をつけるが,熱帯では枝に相当する部分が極端に短くなっているものもある。結果として幹に直接実が付いているように見える。
コタム・タワーの展望室は大失敗
コタム・タワーは旧市街の西側にある65階建ての円筒形のビルでジョージタウンのランドマークとなっている。上層階は政府機関や一般企業のオフィス,下層階はショッピングセンターになっている。58階の展望レストラン行きの専用のエレベーターで昇ってみると,降りたところで15リンギットを徴収された。しかも展望レストランは廃業していた。
展望室を一回りするとジョージタウンの全景を見ることができる。北から北西部の海岸は高層のコンドミニアムが立ち並ぶウオターフロントとなっている。東側は半島のように海に突き出しており,対岸のバタワースがすぐ近くに見える。南東側には小さな家屋が密集しており,その先端に水上集落もある。西側は中心部を除き緑が多く,その向こうには後背地の山が連なっている。
天后宮
天后宮(海南寺院)はチュリア通りの一本北側にある「Lebuh Muntri」にある。このあたりの安宿街の中心といったところだ。1895年に建設され,改装されて現在の姿になってのは1995年である。
ここに祀られているのは媽祖という女神(仙女)である。媽祖は道教の女神であり,航海・漁業の守護神として中国沿海部,特に台湾・福建省・広東省で強い信仰を集めている。
歴代の中国皇帝からも信奉され,元朝の時代には護國明著天妃に,清朝では天后に封じられた。そのため,媽祖を祀った廟は「天妃宮」,「天后宮」などとも呼ばれる。
この寺院も入り口手前の龍をあしらった石柱と両側の壁面の細かいレリーフが見事だ。中に入ると本尊の手前両側に円錐形の台があり,周方向に媽祖の刻印されたアーチ形の小さなプレートが置かれている。
一つの台には数百あるいは千を超えるプレートが取り付けられおり,それらのプレートの一つに一つにオレンジ色のLEDが取り付けられている。手前から見ると二基の電飾が本尊を飾っているように見える。
本尊には「天后聖母(媽祖)」と記されている。やさしいお顔の聖母である。媽祖はは宋代に実在した官吏の娘,黙娘(960年生まれ)が神となったものであるとされているので御年は1049歳ということになる。
タイ寺院
移動日の朝のリンギットの所持金は14リンギットである。このうち空港までの市バスが2リンギットなので,使用できるのは12リンギットであり,これで朝食と昼食をまかなわなければならない。
朝食は近くの食堂でワンタンミー・スープとアンマン(4.5リンギット)をいただく。スープの味は薄めで,唐辛子を浸したショウユを加えて好みの味を作る。この町のワンタンは横綴じではなく,テルテル坊主のように首のところを押さえるだけの簡単なものだ。
朝食後はチュリア通り→ペナン通り→ビルマ通りと歩き,タイ寺院とビルマ寺院を見ることにする。マレーシアの道路は完全に車のために造られており,歩道はおざなりの付属物となっている。
街路樹も歩道の真ん中に置かれており,いったん車道に下りて通らなければならない。交差点で横断歩道を渡るときも,背後からの左折車に注意しなければならない。これはかなり危険だ。
ビルマ通りの終端から2ブロック先にタイ寺院とビルマ寺院がある。どちらもそれぞれの国の特徴をもちながら,中国の影響が見られる。タイ寺院の巨大なパゴダは周囲を高い塀と樹木に囲まれており,写真にならない。
ミャンマー寺院
通りを挟みタイ寺院の向かい側にはミャンマー寺院がある。マレーシアはマレー半島の先端部を占めており,その北側はタイの国土となっている。しかし,マレー半島の半ばまではミャンマーの国土が伸びており,どちらも地理的にはペナンからさほど遠くはない。
マラッカ海峡の貿易にはこれらの国の人々も携わっていたことは二つの寺院から読み取れる。ミャンマー寺院の門には「緬佛寺」と記されており,「緬」はミャンマーの中国語表記(緬甸)の略称を表している。
寺院の入り口にはミャンマー寺院には必ず見られる獅子が迎えてくれる。日本でいうと神社の狛犬のようなものだ。
本尊となっているブッダの立像はみごとだ。ビルマ式の白いお顔がはるか上から見下ろしており,思わず伏し拝みたくなる。ビルマの仏像の特徴はお顔が白いことである。一列に並んだ白いお顔の仏像を見ていると,ミャンマーのいろんな寺院での思い出が浮かんでくる。
帰りは海岸通りで戻ってきた。ウオター・フロントには40階くらいの高級コンドミニアムが林立しており,中くらいのお金持ちはこのようなところに居住しているようだ。