ルソン島北部はフィリピンでもっとも山がちな地域である。南北に連なるコルディレラ山脈があり,その南端のバギオは米国統治時代に避暑地として開発された。
現在でも山脈中央部のマウンテン・プロビンス(マウンテン州)やイフガオ州は交通手段が限られ,独自の文化をもったイゴロットと呼ばれる複数の少数民族が暮らしている。イゴロットはスペイン人が平地民族と山地民族を区分するために使用した一種の蔑称である。
フィリピン政府は山地民族を「コルディエラ」と呼ぼうとしたが,コルディエラには平地の民族も含まれており,彼らと差別化を図るために自ら「イゴロット」と名乗るようになった。
フィリピンの民族集団はこの地域に移住してきた時期の古い順にネグリート,原マレー(プロト・マレー),古マレー,新マレーに区分される。ネグリートを除く集団は携えてきた文化の相違はあるものの,人種的にはほぼ同じである。
イゴロットはこのうち原マレー,古マレーに属する民族集団で平地で水田農耕を行っていた。しかし,後からやってきた新マレー集団により山間部に追いやられたと考えられる。
平地のない山間部で水田農業を行うため,彼らは棚田の技術を発展させ,見事な棚田を各地に残している。棚田は地域の重要な文化遺産であり,観光資源にもなっている。
サガダは石灰岩地帯に位置するため,多くの洞窟や切り立った崖がある。それらを利用して特異な葬送儀礼が残されており,観光客が訪れている。このような葬送儀礼は懸棺葬あるいは懸崖葬と呼ばれ,広義には「崖墓(自然の洞穴を利用した葬送)」の範疇に含まれるものである。
このような葬送儀礼は中国の四川盆地周辺でBC500年くらいの時期のものが見られる。この時期の懸崖葬の特徴としては船形棺,副葬品,岩絵が上げられており,類似の葬送文化は古代日本,東南アジア島嶼部で広く見られる。
それは中国奥地で誕生した懸崖葬,崖墓の風習が民族の移動とともに拡散していったと考えられるがその伝播ルートははっきりしていない。
しかし,現在の村人は彼らの祖先の葬送儀礼を観光資源にすることに対して決して快く思ってはいない。村の経済的発展は必要だが,祖先の墓を観光客の好奇の視線に晒したくない。このような複雑な心理をよく理解しておく必要がある。
ビガン→バギオ→サガダ 移動
ビガンのパルタス・バスターミナルから22:30に出発したバスは翌朝の03時にバギオに到着した。予定の04時よりも1時間早い到着である。バスの中ではウトウトした程度であり,やはり眠い。
しかし,この寒さではとても寝るわけにはいかない。バス会社の窓口にあるベンチで2時間ほど過ごすことにする。バギオの夜はとても寒く冬用のフリースは必需品だ。体を暖めるためようやく開いたなじみのお粥屋で一杯いただく。
サガダやボントック行きのバスは1km弱離れた北側のダングワ・バスターミナルから出る。05時も過ぎたのでそろそろいい頃だと歩き出す。バギオのメインストリートもいうべきセッション通りには24時間営業のカフェや食堂がある。フィリピンのバスターミナルは24時間態勢なのでこのような商売が成立するようだ。
セッション通りを突き当たり,マグサイサイ通りを北に上って行くとじきにダングワ・バスターミナルの入り口が見つかる。建物に囲まれた広場に面して複数のバス会社があり,けっこうきれいなバスが並んでいる。
正面にダングワ,左にリザルドのチケット売り場がある。サガダ方面に向うのは後者の方だ。ただし,バスの車体には「GL Trans」と表示されていた。サガダまでのチケットは220ペソ(440円)である。
ここのトイレはちょっと苦労した。メインザックは料金所に預け,中に入ると水が用意されていない。外のドラムカンの水はちょっとお尻を洗うにもちゅうちょするような水である。ということで久しぶりに紙を使用し,ドラムカンの水を汲んで流すことになった。これで今日の移動の準備は整った。
出発30分前の05:45にバスは入ってきた。僕の席は1番,メインザックを立てておいたら車掌に横にされた。山道はそんなに甘いものではないということだ。バスは定刻に動き出した。北部山岳地帯に向う道路はかなりの悪路と聞いていたのに少なくともマウンテン・プロビンスに入るまでは舗装された快適な移動であった。
マウンテン・プロビンスに入ると道路事情は急に悪くなる
路面はアスファルトではなくコンクリート舗装である。フィリピンではよくこの舗装形態を見かけた。アスファルト舗装はアスファルトを敷き,ローラーをかけるため複数種類の重機が欠かせない。
また,アスファルトを運搬し,加熱する必要もあり,意外と大変である。それに対してコンクリートは重機が不要でセメント,砂,砂利,水だけでできるので山岳道路には適している。
途中で「PAL Highest Point」の看板があった。標高は2250m,おそらくフィリピンの車が通るもっとも標高の高い道路という意味であろう。日本で最も高いのは乗鞍スカイラインの2700mだったかななどとつまらないことを考えていた。帰国後に念のために調べてしたら公共交通機関車両が到達できる最高地点は乗鞍エコーライン2716mであった。
マウンテン・プロビンスに入ると道路事情は急に悪くなる。未舗装区間が半分ほどあり,工事区間もたくさんあった。道路も急傾斜の斜面を削っているため,落石や路肩の崩落が頻発している。メンテナンスは相当大変であろう。
中型とはいえバスはまるで乗用車並みの速度で山道を走るので,横Gは相当のものだ。僕のザックは床の上で左右に動き回っている。運転手の技量は確かなもので危ないと思うような場面はまったくなかった。途中の村では日曜市が開かれており,高原野菜が目に付いた。棚田は全行程で見ることができた。中には管理が不十分のため畦がはっきりしないものもある。
サガダ・ゲスト・ハウス
12:30にサガダに到着した。目指す宿はすぐ先にあり,チェックインする。木造モルタルの二階の部屋は4.5畳,1ベッド,トイレ・シャワーは共同,床は板張りでとても清潔である。料金は200ペソとお値打ちである。
3月末とはいえ標高1500mのサガダの夜はそれなりに冷え込む。この部屋には薄い毛布が二枚用意されていたので快適に眠ることができた。きれいな床といい,清潔な寝具といい居心地のよい宿であった。
サガダは石灰岩地帯に位置している
外国人旅行者が多いせいかこの村の食堂はとても高い。ランチでも150ペソはするので,おいそれとはそのようなところには入れない。とりあえず,昼食は地元の人が多い食堂でいただく。それでも赤米のごはんと卵スープで50ペソである。肉を付けるとここでも150ペソになってしまう。
サガダ・ゲストハウスは村のほぼ中心部に位置している。村のメインストリートは宿から南に向かうものと東に向うものがあり,どちらも旅行者が立ち寄る範囲は1km程度のものだ。サガダは石灰岩地帯に位置しており,石灰岩独特の景観が随所に見られる。
石灰岩は炭酸カルシウム(CaCO3)が石化したもので,地球に海ができた頃に化学的に形成されたものと,生物起源のものがある。その多くは化学的に形成されたもので海洋プレートの移動とともにマントルに取り込まれている。
現在陸上に露出している石灰岩の多くは生物起源のものであり,その代表的なものはサンゴ礁である。サンゴは軟体動物であるイソギンチャクの仲間であるが,その中の造礁サンゴは炭酸カルシウムの殻を作る。
サンゴは有性生殖と無性生殖を使い分けている。満月の夜に地域の同種のサンゴが一斉に行う大産卵は海の幻想的な光景としてしばしば映像で紹介されている。
この産卵で受精した卵は「プラヌラ幼生」となリ海中を漂い,生育に都合のよい場所にたどりつくと,表面に付着し,口や触手などの軟らかい体とともに炭酸カルシウムの骨格を作り「ポリプ」となる。
ここまでは有性生殖のプロセスであるが,いったんポリプになりと無性生殖の分裂により増殖し,群体を形成する。この群体がサンゴと呼ばれている。つまり,一つのサンゴは同じ遺伝子をもったポリプの集合体ということになる。
もちろん,生きているのは表面のものだけで,内部は死んだサンゴの骨格だけが残されている。造礁サンゴが大規模に集まったところがサンゴ礁ということになる。
炭酸カルシウムは貝の殻,ある種の植物プランクトンや動物プランクトンの殻を形成する重要な物質である。炭酸カルシウム(CaCO3)の分子式を見て分かるように,その中には二酸化炭素(CO2)が含まれている。
海洋中の二酸化炭素は植物プランクトンによる光合成や炭酸カルシウムの形成により消費される。地球が誕生した時の大気はほとんどが二酸化炭素でおよそ60気圧あったとされている。現在の大気中の二酸化炭素は370ppm(0.037%)なので,誕生当時の地球には現在の大気中の二酸化炭素に比べて16万倍もの二酸化炭素が存在していたことになる。
このぼう大な量の二酸化炭素は石灰岩(炭酸カルシウム),有機炭素(生物とその遺骸,および遺骸が変性した石油・石炭・天然ガス・メタンガスなどの化石炭素)の形で蓄積されている。
地質年代を通して生物が有機炭素や炭酸カルシウムで固定化した炭素量は膨大なものであり,その量は大気中の二酸化炭素ではとてもまかいきれる量ではなかった。ところが地質年代を通じて大気中から二酸化炭素がなくなることはなかった。
それは,マントルに取り込まれた石灰岩が形を変え,火山ガスとして供給され続けてきたからである。この地球のダイナミックな営みにより生命の連鎖は維持されてきた。大気中から二酸化炭素がなくなると,地表の平均気温は-30℃にまで低下するとされている。
石灰岩は雨水(大気中の二酸化炭素を取り込んでいるのでわずかに酸性となる)に溶けやすい性質をもっているので,独特の地形を形成する。上部は水の流れにより化学的あるいは物理的に削られ,比較的削られづらかった部分は無数の剣を立てたような鋭い岩の突起となる。この地形はピナクルスと呼ばれている。
また,地下にしみ込んだ雨水は少しずつ岩を溶かしながら地下水路を形成し,ときには大きな地下空間を形成する。そのような地下空間が地表に現れるところが洞窟である。サガダには多くの洞窟がある。この地域に移住してきた先住民族はこの地形を利用して独特の葬礼儀礼を行っていた。一つは洞窟に棺を積み上げる風習であり,もう一つは断崖に棺を吊るす風習である。
スゴン洞窟
宿から南に下る道路の東側は谷を挟んで石灰岩の岩山を何ヶ所かで見ることができる。石灰岩の岩山にも時間とともに薄い土壌が形成され,現在では樹木に覆われている。それでも,崖の部分は植物がなく,灰色の石灰岩がむき出しになっている。
崖は平面ではなく鋭いピナクルスが折り重なるようにして連なっている。崖の下には洞窟と思われる黒い穴が顔を見せており,その左上の窪みには棺が置かれている。スゴン洞窟にはハンギング・コフィンがあるそうなので,おそらくこの洞窟のことなのだろう。
ハンギング・コフィンと呼ばれるこの風習は祖先の棺を水害から守るためとされているが,切り立った崖の中腹に置かれたり,吊るされた棺は特異な景観となっている。
棺を近くから見る趣味はないので,この崖を眺めるだけで十分だが,ガイドブックにいくつかの洞窟の情報が記載されているのでついつい訪問することになる。
最初の「スゴン洞窟」は民家の横の狭い石段を下りていくことになる。谷の底に道は続いており,それをたどって行くと石と木材で封鎖されていた。これは村人の意思の表れであろう。
村人は祖先の棺が観光資源になり,外部の人の好奇の目にされされることを決して快く思ってはいないのだ。この封鎖部分を回り込んで先を行くことは可能であったが,やはり村人の気持ちを尊重して引き返すことにした。
ルミアン洞窟
もとの道に戻るとすぐ先に分岐点があり,案内板がある。案内板の指し示す左に折れ,道を下っていく。この道路の西側はすばらしい棚田になっている。
ここは山に囲まれた盆地状の緩やかな斜面になっている。そのため棚田といっても平地の水田に近い光景である。当然,一枚の水田の面積も広い。村の家屋は山際にあり,平地はできるだけ水田にしたいという村人の考え方が見て取れる。
道路から崖の斜面を少し下りたところにビューポイントがあり,そこからしばらく緑のじゅうたんの風景を眺めていた。この棚田のビューポイントの反対側にルミアン洞窟への降り口があるはずだが,発見できずスマギン洞窟まで下りてしまった。
帰りに小さな柵でふさがれるようになっている降り口を見つけ,翌日に再訪してみた。途中までは手すりのある整備された急な小道を10分ほど下ると洞窟に出る。
高さ4mほどの洞窟の側面に多数の棺が積み上げられている。水の流れる底面には棺は置かれていないので,この風習は棺を守るためのものだと理解できる。
棺は木製で丸木舟のようにくりぬいた空間に遺体もしくは遺骨を入れ,その上に板で蓋をしている。蓋が容易に外れないように,底部との間に共穴をあけ,くさびで止めている。棺の表面には石灰岩の埃が付着しており,色彩的には周辺の岩に溶け込んでいる。
入り口には小さな掲示板があり,棺を開けたり,洞窟内部のものを持ち出さないようにと記されていた。掲示板に注意されなくても当たり前のことだ。洞窟は棺のある入り口から奥に続いているが,村人にとっては祖先が眠る聖なる場所なので中に入るのはためらわれた。
自分たちの祖先の葬送儀礼が野蛮なあるいは奇異なものとされることは,村人にとって祖先を侮辱されるような苦痛を感じることは容易に想像がつく。どのような地域においても,墓地や葬礼の場では一定の常識を働かせなければならない。
スマギン洞窟
ルミアン洞窟から5分ほど下るとスマギン洞窟に到着する。この洞窟は村人の葬礼の場にはなっておらず,自然状態のままである。内部は美しい鍾乳洞になっており,道路脇の土産物屋には洞窟内の写真が貼られている。
しかし,この洞窟はまったく整備されておらず,照明もないので中に入る場合は必ず地元の公認ガイドに案内を依頼しなければならない。懐中電灯を持参していても,日本の鍾乳洞見学のつもりで中に入ることはとても危険だ。
僕は中に入るつもりはまったくなかったので,ガイド無しで道路から洞窟の入り口まで降り,明るい場所を歩いてみた。入り口はとても広く高さは7-8mもある。
不思議なことに洞窟は入り口からすぐに下りになっている。入り口からわずかの区間は石を削って階段状になっている。この擬似石段の下までなら問題なく下りることができる。そこから下には闇の世界が広がっており,入り口を仰ぎ見るとまばゆい昼の世界の入り口が見える。
ぼくがこの洞窟の入り口付近を見学していると,フィリピン人女性を二人連れたガイドがやってきた。ガイドの手にはガソリン・ランタンがあり,さすがに明るい。
コールマンの製品はキャンプ地照明の定番品となっているが,さすがに100$くらいはするので,彼のもっているものは類似品であろう。燃料消費量により明るさは変わり,電球でいうと70Wから140Wに相当する。洞窟の中では懐中電灯の光よりははるかに周辺を明るく照らしてくれる。
この三人連れになんとなく誘われて僕も洞窟の中に入ることになった。女性客なのでそれなら僕でも行けるだろうと判断したのが大間違いであった。
洞窟の中の岩はコウモリのフン(グアノ)が付いているせいか滑りやすい。ランタンの明かりは強いが,巨大な空間のため天井ははっきりしない。また,影ができるので歩くのは意外と大変だ。
滑って岩に手を付くとぬるっとした感触である。これは恐らくグアノであろう。汚れた手がよく見えないのがせめてもの救いである。それでも,衣類に触れないように注意しなければならない。
もっともここまでは鍾乳洞探検の序の口の部分らしい。一行は濡れた急斜面を滑り降りていくことなったので,その手前で僕はリタイアした。この下に鍾乳洞のメインの見所があるらしいが,濡れては困る荷物をもっている僕には無理だ。ガイドはここを動かないでと言い残して下に降りていった。
急な下りの斜面なのでほとんど尻を着けて滑り降りる態勢だ。こうして僕は一人暗闇に取り残されることになった。まあ,自前のトーチを持っているのでいざとなったら,自力で入り口まで行くことができるだろう。それにしても,洞窟内の暗闇で45分くらいを過ごすという得がたい体験であった。
しばらくすると,もう一組の5人組がガイドに連れられてやってきた。彼らが洞窟の入り口に来ると,上のほうから声が響き,明かりが天井に影を作るようになる。一行は僕の前を通り,急斜面を滑っていく。
しばらくして,さきほどの3人が現れ,無事に外の世界に出ることができた。彼女たちの感想は「terrible」であった。この感想については彼女たちと僕は一致したことになる。ちなみにガイドフィーは彼女たちがいらないというのでそのままにした。
ミルクフルーツ(スターアップル)
旅行中のビタミン補給のため果物や野菜をよく食べるようにしている。メインストリートに少し大きな市場があり,買物をして帰る。トマトは中が2個で12ペソ,ミルクフルーツは2個で15ペソであった。
ミルクフルーツの正式種名は「スターアップル( アカテツ科・オーガストノキ属)」,学名はChrysophyllum cainito である。原産地は中央アメリカ,西インド諸島の熱帯低地であり,現在では世界中の熱帯地域で栽培されている。
スターアップルの名前は横に輪切りにすると断面に星型の模様が見られることから名付けられた。一方,ミルクフルーツの名前は切ると白色の汁が出てくることからと思われる。
正式和名はスイショウガキ(水晶柿),これは皮をむいて四半分にすると白い透き通った柿のように見えることから命名された。しかし,柿(カキノキ科・カキノキ属,学名:Diospyros kaki Thunb.)とはまったく無縁の植物である。
果実の表面色は紫系と緑系のものがあり,東南アジア産のものは緑系が多い。果肉は十分に熟した柿と同じくらい軟らかいので,僕は二つに切ってスプーンですくっていただくようにしている。
味はクセの無い甘さで2個くらいは難なく食べ切ってしまう。今日はトマトとミルクフルーツという立派なデザートをいただき,27ペソ(54円)の幸せであった。
朝食
起床時には全天に雲がかかっていたが,太陽が昇ってくると青空が広がってくる。とはいうものの,山の上には入道雲が発達しており,何かのきっかっけがあれば夕立なりそうだ。
朝食は宿の前で米国人の旅行者に誘われ,幹線道路から少し斜面を上ったところにある眺めのよいしゃれたレストランでとることになった。
彼の祖父はこのレストランのある建物の所有者だったという。現在は米国に居住している彼は祖父の代の縁でサガダにはよく旅行にくるということだ。
このレストランはコロニアル時代の雰囲気であり,ウエートレスがメニューをもって注文を取りに来る。朝食に関してはセットメニューになっており,選択肢はそれほどない。僕がごはん,目玉焼き,ハム,コーヒーのセットを注文すると,彼も同じメニューでパンを選択した。
彼の祖父の代の話を聞きながら楽しい朝食となった。朝食代は120ペソ,彼は僕の分まで支払おうとするのでそれを押し留めて自分の分を支払う。
欧米では割り勘に相当する文化は少数派で,誘ったほうが食事代を支払うという習慣がある。どうも日本人にとってはこのような形で食事をおごられるのは違和感がある。
セント・メアリーズ教会=聖母マリア教会
午前中はセント・メアリーズ教会からエコーバレーを目指すことにする。セント・メアリーズ教会をちらっと見て先を進む。セント・メアリーズ高校の辺りから登りになり,しばらく進むと墓地に出る。
その手前の見通しの良いところからはサガダの村落を眺望することができる。山の斜面の下側に家屋があり,その上部の山に連なる斜面は森になっている。
サガダには「祖先が植えた樹木はその子孫だけが使用することができる」という一種の慣習法があり,そのため村人は植林に精を出していた。
ところが,現在では共有地の樹木を切る場合は,誰が植林したかにかかわらず一律に税金がかかるという。これでは植林に対するインセンティブはゼロになってしまう。
村民に代わり地方政府が植林の責任をもつことになるのであろうが,果たしてうまく機能するものか疑問が残る。サガダのように森に大きく依存している地域では,森を適切に維持・管理するためには住民の参加が欠かせないし,それが住民の利益になるものでなければならない。
エコーバレーから戻ると教会の鐘が鳴り響き,子どもたちの手を引いた女性が集まってくる。子どもたちの年齢はだいたい6歳くらいであり,女の子は盛装しているので,プリスクールの卒業式典の一部がここで行われるようだ。
きれいな織物のスカートを身に付けている女の子のいたので,母親に「サガダの伝統的なデザインですか」とたずねると,「バナウェのものよ」という答えであった。
教会はこの地域では珍しい石造りである。広場のある入り口正面から見ると切妻屋根の単純形であるが,側面から見ると鐘楼と付属の建物があり,ちょっと複雑な形状をしている。
教会の内部は入り口から奥に向って一列に並んだコンクリート製のアーチが屋根を支えている。屋根は木造でトタン葺きであり,この地域の建築技術がそのまま使用されている。
正面の祭壇にはいろいろな形の石灰岩が積まれており,いかにもサガダの教会という印象を受ける。しばらく教会の中にいたが卒業式典は始まりそうにもなかったのでメインストリートに戻り,北側からエコーバレーに再挑戦することにする。
斜面の墓地には多くの石碑が並んでいる
斜面の墓地には多くの石碑が並んでいる。それらは一様に白く塗られ,斜面の上部にある十字架の方を向いている。サガダの人々がキリスト教に改宗してからどのくらいの時間が経過したのかは分からない。おそらく,現在ではほとんどの死者はここに葬られることになるのであろう。
これは通信設備のようだが先端部は十字架になっている
エコーバレーの下には降りられなかった
この墓地を縦断するとカルバリーの丘に出る。この丘の東側にエコーバレーが広がっている。谷の反対側には石灰岩の灰色の壁が広がっている。この壁は早朝の時間帯には日が当たらず暗く,ハンギング・コフィンにはふさわしい雰囲気をもっている。しかし,棺は見つけられなかった。
谷に下る細いトレイルがあったのでしばらく歩いてみる。標高が高いせいかツツジの仲間が散見される。ツツジ独特の枝分かれした小枝の先端部に淡い赤紫の花を付けている。
この丘も石灰岩でできているためトレイルのあちらこちらにアリ塚のように塔状の突起が地面から突き出している。そのような痩せた土壌をものともせず,五葉松の仲間が森を形成している。
残念ながらこの道も石灰岩の壁に阻まれて先には行けなくなった。ここから見ると谷底はまだまだ深く,向かいの崖の上には家屋が並んでいる。そこからの眺望は良さそうだ。丘の上まで登り,セント・メアリーズ教会まで戻る。
北からエコーバレーを目指す
宿から幹線道路を東に向う。こちら側の道路の周りにはそれほど家屋は多くはない。しかし,木造の個性豊かなものが多く,見ていて楽しい。道路は尾根のような地形にあり,少し外れると両側とも谷になっている。
岩のすき間を通りエコーバレーを目指
「Sagada Weaving」の建物があり,エコーバレーへの降り口はこの辺りなのだがどうにも見つからない。家屋の間の先に岩の割れ目のような地形があり,よもやと思って進んでいくとここが谷に向う道であった。
頼りない踏み跡をたどっていくと川に出た
しかし,この道は谷の比較的上部にある家に続いていた。この家の主人にエコーバレーに通じる道を教えてもらうことになった。正解は岩の右側の家の横から続く道であった。
サガダの観光スポットにはほとんど案内標識はなく,道は地元の人に尋ねることになる。頼りない踏み跡をたどっていくと川に出た。川は洞窟から流れ出しており,地下の川がちょうど地表に現れた地点であった。
この洞窟の開口部は高さが5mほどもあり,川沿いの道を内部に歩くことができる。30mくらい進むとかなり暗くなる。その気になるとさらに奥まで入ることはできそうだが,洞窟探検の趣味はないので引き返すことにする。
入り口が明るく輝いており,洞窟の外からのものより感じのでる写真となる。川をたどって行くと再びいくつもの大きな岩にふさがれるようになった洞窟があり,川はそこに吸い込まれていた。小さな道はその先にも続いているようだが今日のハイキングここまでで十分だ。
昼寝は旅の醍醐味?
宿に戻りベッドに横になったら,そのまま1時間以上も寝てしまった。旅先では日本にいるときとは比べものにならないくらい運動量が大きい。強い日差しも疲労感を増幅させる。そんなときは昼寝が一番である。日本ではほとんど昼寝などは考えられないので,旅でしか味わえない醍醐味である。私たちがなにげなく使用している「醍醐味」という言葉の語源はなかなか深い。このような難しい言葉の意味を知るのにインターネットは非常に役に立つ。「語源由来辞典」みよると醍醐味とは「物事の本当のおもしろさ,味わい深さ,真髄」となっており,その語源は次のように記されている。
醍醐味は仏教用語から派生している。「醍醐」とは牛や羊の乳を精製したもので濃厚で甘味のある液体をいう。涅槃経では乳を精製する過程の五段階を「五味」といい次のように呼んでいる。
・乳(にゅう)
・酪(らく)
・生酥(しょうそ)
・熟酥(じゅくそ)
・醍醐(だいご)
最後の醍醐が純粋で最高の味であるところから,「醍醐のような最上の教え」として仏陀の説法に喩えられる。このことから上記の意味で現在でも使用されている。
醍醐味の意味は分かるけれど,仏教の経典に記された「酪」,「酥」,「醍醐」とはどのような食品であったかについては文献ごとに異なる記述となっている。さらに古代日本の文献では関連して「蘇」という食品も記されている。
「現物教材 日本史18」というサイトではいくつかの文献の比較をしながら,どのような食品であったかが整理されている。その中からこれはという説を以下に紹介する。
酥:乳を加熱して表面にできた乳皮をすくい取って容器に入れる。これを温めてよく攪拌し冷水を加えて固めたもの。クリームもしくは粗製バター。日本でも一時期作られたかもしれないがすぐに廃れた。
蘇:乳を加熱して10分の1程度に濃縮した煉乳。さらに水分が抜けて固体化すればチーズとなる。
酪:乳を加熱して冷えたときに浮いてくる乳皮(クリーム)を除き,残りの乳に既製の酪をタネとして加え保温してつくる。脱脂の発酵乳,ヨーグルト状のもの。
醍醐:酥をさらに精製加工して作るものとされているので酥がバター状のものなら醍醐はバターオイルとなる。しかし,加熱濃縮型の蘇は脂肪とタンパク質が結合しているのでバターオイルはできない。日本では酥はあまり作られず,蘇が中心であったため醍醐は製造されず輸入品のみが存在した。
ちなみに,中国では現在でも餡を皮で包んだ中華菓子に「酥」という文字が使用されている。一方,中国の古い文献では「発酵乳,クリームやバターのようなもの」として記述されている。古い言葉の語源やそれが実際にどのようなものであったかをたどるのはかくも難しい。
昼食をとりアンバシン地区に向かう
気持ちの良い昼寝から覚めて13時過ぎにお出かけする。宿と幹線道路の間の坂道でバナナの葉にくるんだもちを売っていた。おそらくこの地域独特のものであろう。中には砕いたピーナッツが入っておりなかなかの風味である。1個は5ペソ,2個食べると十分に一食に相当する。
ついでに近くでココナッツの水を飲み,中の白い胚乳を半分食べて昼食は完了する。胚乳は実を半分に切ってもらい,表皮を削った即席のスプーンで白い部分をかきとっていただく。
旅行者は中の水(ココナッツ・ジュース)だけで満足する場合が多いが,この胚乳は栄養もあり,味も良いので試していただきたい。ココナッツの栽培地域では胚乳を削りとり乾燥させたものはコプラと呼ばれ,ココナッツ・オイル(ヤシ油)の原料として重要な産物となっている。
また,コプラを細かく砕いて粉末状にしたものはココナッツ・パウダーと呼ばれ,料理の味付けによく使用されている。また,お菓子の材料としても重要な素材となっている。
午後は昨日発見できなかったルミアン洞窟を見学し,分岐点まで戻り,西側のアンバシンの周辺を歩いてみる。赤く色付いた桑の実を眺めていたら,近くの二階から子どもたちに覗かれていた。
彼らに気が付き,降りておいでよと合図をすると4人に増えて出てきた。赤いポロシャツを着た女の子の笑顔がとても素敵だ。お礼に4人分のヨーヨーを作ることになった。
アンバシン地区の小学校
道路から少し奥まったところに「Ambasing Elementary School」がある。なぜか,学校からコメの入った袋を抱えた子どもが出てくる。教室の入り口のところに先生がおり,一人ひとりの子どもたちにコメの袋を渡している。
小さな子どもはザックに入れて背負って持ち帰る。透明な袋だったので中を観察すると雑穀が混ざったコメであった。う〜ん,これはいったいなんだろう。