亜細亜の街角
マリコンの棚田で半日を楽しませてもらう
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ボントック(標高900m)  (地域地図を開く)

コルディエラ山群のほぼ中央部には旅行者が立ち寄るところとしてマウンテン・プロビンスとイフガオという二つの州がある。サガダとボントックはマウンテン州,バナウェはイフガオ州になる。

この地域の観光資源となっている棚田の造り方も少し異なっているので,両方を見ることにより微妙な文化の相違を発見することになる。

マウンテン州は面積2097km2,人口14.9万人(2007年)の小さな州である。州都のボントックはサガダから19kmほど離れたところにあり,人口はおよそ5000人ほどの小さな町である。

町の東側にほぼ南北方向にチコ川が流れており,幹線道路はそれと平行している。この道路はバギオからボントックを通り,北にあるLubagan で東と西に分かれ,西に向う道路はビガンに通じている。

ビガンからこの地域に移動するとき,この道路を利用できると行程が短縮できるのだが,少なくともバスは運行されていないらしい。

ボントックはこの地域の交通の要衝であり,南東方向のバナウェに向う道路が町の中心部から分岐し,チコ川にかかる橋を越えて伸びている。

ボントック地域の主要民族は「ボントック族」である。プロト・マレー系の少数民族でボントック語を母語としている。彼らの文化的特性は巨石記念碑,頭骨崇拝,動物供犠など他の東南アジア地域に共通する。

特にスマトラ島の南にあるニアス島や東インドのナーガ地域の文化・習俗との類似点が多いとされている。それらは,中国南部から各地に移動した壮大な民族移動の傍証でもある。

サガダ→ボントック 移動

サガダ・ゲストハウスのチェックアウト・タイムは08時である。今まで経験した中でも最も早い時間である。確かに,サガダに限らずボトックやバナウェの宿でもチェックアウト・タイムはとても早かったと記憶している。

06:30頃に朝食を求めて宿を出ると,坂の下で男性たちが何かを食べている。覗いてみるとおかゆであった。40ペソとおかゆにしては高いが,チキンとゆで卵が入っている。

発泡スチロールの容器にビニール袋を被せ,そこにおかゆが入れられる。スプーンもプラスチック製だ。食べ終わるとビニール袋が交換され次の客に使用される。

この粥屋のすぐ近くにはボントックに向うジープニーが停まっているので,食べながら乗客の集まり具合をチェックする。あと2-3人で満席になりそうになったので宿に戻り,チェックアウトする。

このジープニーの方に歩き出すと,わずかの差で動き出してしまった。宿の前でしばらく待って,次のジープニーに乗り込む。荷物を4つも通路に置いたおばさんの前に坐ったため,混雑すると足の置場がなくなり,自分の体重を支えるのに苦労した。

このジープニーはおよそ1時間,08時にボントックに到着した。今日はマリコンまで移動しそこで宿泊する計画であったが,マリコン行きのジープニー乗り場に行くと07:30のものはすでに出発した,次のものは12時だと告げられ,ボントックに泊まることにした。

宿のとなりの教会

ボントック・ホテル

マリコン行きのジープニー乗り場からメインストリートを南に歩き,ガイドブックにある宿をチェックし,結局,タウンホールの向かいにあるボントック・ホテルに泊まることにした。

建物は古い木造総二階であり,受付と食堂のある一階の一部はペンキ塗りの最中であった。二階の部屋(150ペソ)は4.5畳,1ベッド,共同のトイレとシャワーを含めまあまあの清潔さである。窓も付いており居心地は悪くない。

二階の端にはベランダがあり,そこの机は日記を書くのに利用させてもらった。朝食は一階の食堂でとることができ,野菜炒め,目玉焼き,ごはんのセットで60-70ペソであった。

ボントックの標高は900m,標高1500mのバギオよりはずっとましとはいえ,夜間はけっこう冷え込む。少し厚手の布を毛布代わりにして寝ていたら,明け方には長袖のトレーナーを着込むことになった。やはり,この季節には毛布が必要である。

この宿もチェックアウトは08時なので05時くらいから宿泊客は動き出す。06時に起床して一階の食堂で朝食をいただくことにする。ルソン島北部の山岳地域では食事代がとても高いので,この宿の朝食はいくらだろうとちょっとどきどきしながら注文を出す。

といっても,朝食に関しては選択肢は2つくらいしかなく,野菜が入っているものにする。ごはん,目玉焼き,野菜炒めのメニューは60ペソであった。値段の付け方はどうも客によるらしい。地元の人ならもう少し安かったかもしれない。

野菜不足の解消にはとてもありがたい食事ではあるが,野菜炒めの量はさすがに多過ぎて少し残すことになった。フィリピンの一般的な食事におけるごはんの量は茶碗に一杯程度なのでいままで残したことはなかったのに・・・。

宿の近くの子どもたち

ブタの解体

ボントックでは動物供犠(サンフォ)の風習があり,それにもっともよく用いられるものが豚である。供犠という言葉からは特別の祀りなどで捧げられるというイメージを受けるが,この地域では冠婚葬祭は言うに及ばず,田植えや新築祝いなどの日常的なイベントにおいても頻繁に行われるようである。

こうなると供犠というよりはイベント欠かせない食材の扱いである。もちろん一軒の家では豚一頭はとても食べきれないので近所の家庭に配ることになる。もっとも,豚一頭を出せるのは富裕層であり,供犠は階層を認識させるという側面があり,かつ富の再分配の一形式でもあった。

このような形で豚肉が食卓に上る文化は一昔前の沖縄にもあった。現在は少し怪しくなってきたものの,近年の沖縄は(きちんとした統計調査に基づいたものとしては)世界一の長寿地域であった。

しかし,明治・大正の頃まで沖縄の食生活は決して豊とはいえず,日常食の多くはサツマイモに頼っていた。そのような時代でも冠婚葬祭には必ず豚肉料理がでてきたという。

一軒の家で豚を屠るとそれを親戚やご近所に配る習慣があったので,豚肉を口にする機会は意外と多く,日常食の一部になっていたという。このサツマイモ食,豚肉食さらには昆布などの海草,豆腐,野菜を多食する食文化が沖縄の長寿の要因であった。

この長寿を支えていた食文化は戦後の米軍統治下で大きく変貌し,現在では少なくとも男性は日本の他の地域と比べて長寿ということにはなっていない。

宿に隣接している木造の古い教会の写真を撮っているとトラックから手足を縛られ,棒に括りつけられた豚が下ろされた。このような扱いを受けるとブタは甲高い声を上げながら抵抗(抗議)するのでとても目立つ。

豚は近くの民家の庭先で前足一本をロープでつながれた状態で自由になったが,家の人の話では今日の午後には肉になる運命だという。

両腕に入れ墨を入れたおばあさんが戸口に坐り,手に持った棒を動かしている。これはおそらく動物供犠の儀式の一部なのだろう。僕には食料になる豚に対する感謝の儀式のように感じられた。

町を一回りして戻ってくるとすでに豚は解体されつつあった。豚の解体には専門の人が呼ばれるようだ。彼は手馴れた様子で家の人と打ち合わせながら山刀で肉をさばいている。

ここでは豚のすべてが食料になる。解体屋のおじさんの後ろでは家の若い男性が腸を洗っている。地面には血がまったく落ちていないので,腸詰に使用したりそのまま固めて調理されるのであろう。内臓はすでに大きな鍋の中で煮立っている。

さきほどのおばあさんの前にはお皿に盛られた茹で上がったどこかの部位が置かれている。肉は小さな塊に切り分けられ,あるものは生の状態で近所に配られる。僕のように庭先に参加している人々には茹でた肉とごはんが振舞われる。

英語のできるおじさんが豚を茹でるときには塩は使用しない,茹でた豚肉は地面に落としてはいけないなどと食べるときの作法を説明してくれる。

やはりただの会食会ではなく,動物供犠の儀礼は現在でも生きているようだ。肉に付属している骨も地面に捨ててはいけないようなので,お皿にそのまま置くことにした。

チコ川の両側の風景

宿から東に向う路地を抜けていくとチコ川の西岸に出る。北には近代的な橋が架かりボントックとバナウェを結ぶ幹線道路が通っている。対岸には山が迫っており,わずかな平地に家屋が密集している。5000人ほどの人口が集中しただけで山間地の清流のイメージはすでになくなっている。

下流側に歩いていくとすぐに家屋はまばらになり,川岸では水牛がつながれている。水牛は農作業の大切なパートナーである。山間地の狭い水田では機械化は難しい。固くなった土地を鋤を使って起こし(荒起こし),水を入れて大きな土くれを砕いて田植えのできる泥田に仕上げる(代かき)。

このような作業には水牛が活躍する。この地域の動物供犠には水牛も用いられるが,豚に比べてずっと頻度は少ないだろう。なんといっても水牛は大切な労働力なのだ。

水牛がつながれている周辺の地面は草刈が済んだようにきれいになっている。水牛にとってはこのくらいの草ではとても足りないのであろう。稲ワラが周辺に置かれている。もっとも,水牛にとっては枯れた稲ワラよりも青草のほうがずっと好ましいことだろう。

この川原には何頭もの水牛がつながれている。現在は彼らにとっては農閑期にあたるのか,のんびりと寝そべっているものもいた。たしかに,川原から一段高くなった畑の土はちゃんと鋤が入っていた。

田植えが終わったのか水牛はのんびりとしている

こちらの水牛はお疲れのようだ

これが電気ショック漁法?

男性が岩のところで休息をとっている。彼の傍らには不思議な漁具が置かれていた。背中にかつげるようななった青い箱からはコードが伸びており,片方は網の支えに,片方は棒を経由して先端の金属棒に結ばれている。う〜ん,この仕掛けはうわさに聞く電気漁なのかと考える。

日本では厳しく禁止されている電気ショック漁法は電気ショッカーや鉛蓄電池などによって水中に電流を流して魚に電気的ショックを与えて気絶させ,浮上したところを捕まえる漁法である。

どの程度の電圧を与えると魚が気絶するかは分からないが,彼の鉛蓄電池はおそらく12Vのものであろう。この程度の電圧なら人間には実害はないであろう。しかし,電気漁は狭い水域では確実に乱獲につながる。

次代を担う小さな魚もすべて気絶して浮き上がってくるのですぐに資源の枯渇につながる。また,魚だけではなく水中の他の生物にも大きな被害が及ぶ。彼の網の中を見せてもらうと100匹ほどの小魚が入っていた。

日本では禁止されている漁法であるが,一部で使用が認められることもある。それは外来魚を駆除する場合である。諏訪湖にはブラックバス,ブルーギルなど外来魚が繁殖しており,本来の生態系の脅威となっている。

このため,県の特別な許可を受け,米国製の「電気ショッカーボート」が使用された。電気ショッカーボートの先端に取り付けた2本の電極ワイヤから数百ボルトの電流を水中に流し,感電して浮いてきた外来魚を魚を網ですくって捕獲する。

一緒に電気ショックを受けて浮き上がったフナやワカサギはしばらくして蘇生し水中に戻ったという。成果は3日間で3000匹,「予想以上の効果があった」と報道されている。「電気ショッカーボート」は一隻が450万円程度などで費用対効果の高い駆除方法である。

米国の名誉のために付け加えると,米国でも電気ショック漁は禁止されている。唯一,認められるのは特定外来魚の駆除である。

北米で駆除が急務となっているのは中国原産のハクレン(シルバーカープ)である。五大湖につながるイリノイ川では湖まであと70kmにまでハクレンの繁殖域が迫っており,五大湖をこの外来種から守るため,懸命の対策がとられている。

少年野球団

川原から一段高くなっている畑に出る。畦はなく石を並べたラインが畑の境界を表している。すでに鋤が入っているので,石の横を注意しながら歩く。

そのような僕の気遣いに関係なく,畑では子どもたちが野球に興じていた。といっても人数は6人しかいないので三角ベースである。バットは木の枝,ボールは布にガムテープを巻いたものである。守るのが三人ではとてもアウトにできないので,守備側に飛び入りし,30分ほど遊ばせてもらった。

土地は幹線道路に向って少しずつ高くなっていく。ところどころに大小の石で石垣を造り,段々畑のようになっている。家屋の下は高い石垣となっていることが多く,そこには石の階段も造られている。

こちらではおままごとをしている

上に上がると荒起こしの済んだ農地となっている

小学校を発見

畑の向こうに小学校を発見した。石垣を登ると卒業式(終業式)が行われていた。今日は3月31日なので始業式は2ヶ月後ということになる。校舎に張ってある白い大きな舞台用の布にはKinder Garden の文字も見えるので,幼稚園と合同のものなのかもしれない。

何人かの女の子のイフガオ風のスカートを着用しており,かわいい被写体になってくれた。小さなコンクリートの広場で子どもたちの寸劇があり,それが終わると昼食が出された。

僕にも半分に切ったヤシの殻に入ったビーフンとジュースが配られ,恐縮して受け取った。子どもたちと一緒にちょっと窮屈な机でいただく。

英語のできる先生がこの町でも写真のプリントができると教えてくれたので,町に戻り,プリント屋を探しコンパクト・フラッシュを読み込んでもらう。

しかし,プリント屋のPCは僕のメモリーの画像を読み込むことはできなかった。どうもカメラのファイル・フォーマットが読めないようだ。いったんストレージに取り込み,USB経由でPCに読んでもらえば可能だったかもしれない。

結果として僕のCFメモリーはこの町では読み込むことができなくて,子どもたちの写真を届けることはできなかった。次回の旅行からは自分のPCをもって出かけるつもりなのでこのような残念な結果にはならないだろう。

ネットPCと呼ばれるCD/DVDドライブ無しのコンパクトPCは4万円弱で買うことができる。このPCには120GBのHDDが内蔵されており,CFカードのスロットも付いているのでデジタルカメラの映像をUSBを経由しないで取り込むこともできる。

その画像をUSBメモリーに移してデジタル・プリント屋に持参すれば必要な写真がすぐに出来上がることだろう。これは子どもたちや母親にとても喜ばれるプレゼントになることは請け合いである。

旅先でたくさんの写真を撮ると,中には日本に戻ってから写真を送ってくれと要求されることがままある。これにはお応えしきれないので,現地でプリントできる方法が確立するととても助かる

正装のこの子は卒業生なのだろう

この子たちはけっこう写真慣れしている

親指と人差し指のサインはフィリピンではよく使われる

僕にも昼食が配られ恐縮して受け取った

最後の一枚を撮って小学校を後にする

午後は中心部の西側を歩いてみる

おそらく聖リタ教会であろう

橋の向こうから見るボントックの町(だと思う)

お祝いごとの家で食事をいただくことになる

この地域のハレの食事である

市場の果物屋
薄茶色の小さなものはメロンであった

卒業式の風景

今日は4月1日,カレッジの卒業式の日である。フィリピンの新学期は6月に始まり,3月末に終了する。2ヶ月間の夏休みはどちらの学年に含まれるものかはよく分からない。小学校1年生は6月入学なので一年という期間で考えると一学年は6月-5月と考えるのが妥当のようだ。

フィリピンでは(地域により異なるが)4月と5月がもっとも暑い時期とされ,そのため夏休みはこの時期に設定されているようだ。この時期のマニラは確かに平均気温が30℃にもなり,政府機関の一部はバギオに移転する。

とはいえ,海洋性気候のフィリピンではインド内陸部のように激しい暑季にならない。僕は雨の多くなる6-10月よりも乾季に旅行するほうがずっと良いと思っている。

マリコン行きのジープニーを探しているときに,卒業式に出かける親子連れを何組か目にした。多くは母親が付き添っており,彼女たちの服装は伝統的な民族衣装である。カレッジの卒業帽を被った女子学生も歩いている。

フィリピンの大学(カレッジを含む)進学率は約30%である。就職に際しては大学卒業は必要条件となるが,そもそも絶対的な求人数が少ないので,新卒者の就職難は日本の比ではないという。

マリコン・ライステラスに向う

卒業式に合わせ,マリコン行きのジープニーが発着する通りは露店に占拠されている。警察で場所をたずね,周辺を一回りしてようやくマーケットの西側の通りで見つけることができた。

このジープニーの出発時間は08時だという。出発時間は乗客の動向により簡単に変わるのか,近くの人も正確な運行時間は把握していない。何人かの人の情報を総合すると07:30-08:00,12時,14時らしい。

ジープニーはだいたい08時に満員の状態で出発した。僕は荷台の座席に坐ることができたが,何人かは屋根の上に上がっていた。また,後部のステップにも立つ人もいる。

町を出るとすぐに急坂が始まる。古いエンジンは力をふりしぼり,ジープニーはあえぐようにしてそこを上っていく。一気に1250mまで上り,あとはそれほど高低差のない道を進むことになる。

30分ほどでマリコン村の広場に到着した。ジープニーの料金は往復とも20ペソである。乗客は僕を除き全て地元の人である。ガイドブックには記載されていても公共のジープニーでここまでやってくる旅行者は少ないようだ。

マリコン村はすばらしい規模の棚田で知られている。しかし・・・,この広場からはどこにも棚田は見えない。何人かの人が広場の先に向って歩き出した。建物の横に下に向う道がある。

この降り口から先はすり鉢状の地形の半分くらいが棚田になっている。棚田は足もとから始まっており,広がりの全貌はカメラの中には入りきらない。

マリコン・ライステラス

ボントックには見どころはないが,ジープニーで30分ほど山を上ったマリコン村にはこの地域でもなかなか見られないスケールの大きな棚田が広がっている。「天国への階段」と形容されるバナウェの棚田が垂直方向の広がりをもつのに対して,マリコンの棚田は横方向の広がりが大きい。

航空写真では2cmがおよそ100mに相当する。左下に向かう白い線が僕の歩いたFoot Trail(強化された畦道)だと思われる。画像を動かしていくとその先に(南西方向に)棚田が途切れ車の通れる道路の終点が見える。ここがマリコンのジープニー乗り場であり,ここから石段を下ると棚田が始まる。

僕が訪問した小学校は右下の細長い茶色の一画であろう。白いFoot Trail はこの小学校まで続いているので僕も訪問できたようだ。小学校の少し手前のあたりが棚田の絶景ポイントであり,往復の間にずいぶんたくさんの写真を撮ることになった。

ボントックのあるマウンテン州の南に位置するイフガオ州には1995年に世界遺産に登録された「コルディレラ棚田群」がある。この世界遺産はイフガオ州の5地域の棚田に限定されており,マリコンのものは含まれていない。

世界遺産の登録時における世界遺産委員会の諮問的機関による棚田群の評価は,「世界でも重要な主食穀物のひとつである米の生産に寄与する,生きている文化的景観の顕著な事例である。

棚田は数世紀に遡るが今日でもなお活力のある伝統的技術・様式を保護している。同時に棚田は自然資源の慎重な利用に基づく,山岳地帯における持続可能な農業システムであることを明示しているだけでなく,非常に審美的で注目すべき人間と自然との調和を例示している」となっている。

要点を箇条書きにすると次のようになる。
(1) 米が生産される生きている文化的景観の顕著な事例
(2) 今日でもなお活力のある伝統的技術・様式の保護
(3) 山岳地帯における持続可能な農業システムの明示
(4) 審美的で注目すべき人間と自然との調和を例示

この範疇の評価であるならば,マリコンの棚田も十分登録基準を満たしているような気はするがそうはいかないようだ。確かにバナウェの垂直方向に連なる棚田の景観は特筆すべきものではあるが,マリコンの緩やかな斜面に形成された棚田も,それに劣らず美しい。

コルディレラ行政地域に点在する棚田がいつ頃造成されたかについてはいくつかの学説がある。古いものとしては2000年前のインドシナ半島からの水田耕作民族移住起源説があるが,最近の放射性炭素測定結果では7-11世紀という結果が得られている。

フィリピンの平地で栽培されている主要なコメはインディカ種である。それに対してこの地域で栽培されているのはティナワン(tinawon)種と呼ばれる熱帯ジャポニカである。

世界のコメの栽培種は「アジアイネ(Oryza sativa)」と「アフリカイネ(Oryza glaberrima)」がある。アフリカにコメの固有種があることに驚かれるかもしれないが,サハラ砂漠の南を流れるニジェール川の流域は古くからのコメ栽培地域である。

ここの浮きイネは品種改良がそれほど進んではおらず,野生種の特徴である「脱粒性」を失っていない。2009-10年にNHKで放送された「コメ食う人々」というシリーズ番組の中でこの地域のコメ作りも紹介されている。

アジアイネは「インディカ」と「ジャポニカ」に区分され,ジャポニカはさらに「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」に区分される。ちなみに,ジャポニカ種には長粒品種と短粒品種が混在しており,短粒品種=ジャポニカとする認識は訂正される必要がある(wikipedia)。

コルディレラ地域で栽培されているのは比較的寒さに強い熱帯ジャポニカであることは,この地域の民族がどこから,どのような稲作文化を携えてやってきたかを示す手がかりとなる。

ティナワン種は芳香があり,耐寒性,脱粒性(野生種のイネは熟するとすぐに種子が脱落する)が小さいという特徴がある。亜熱帯地域とはいえ例えば標高1500mのバギオの夏の平均最高気温は24℃程度である。これは日本の平地よりもコメにとってはずっと過酷な栽培環境である。好天に恵まれる地域ではもう少し条件は良くなるかもしれない。日本の稲では夏の最高気温が25℃を下回ると受粉確率が下がる。

このような環境で山地少数民族の人々は水田耕作のため斜面に棚田を造成し,生産性の低いコメを栽培してきた。現在でもコメ作りの状況は古い時代に比べてそれほど変わっていない。昔も今もこの地域でコメを栽培して生活するのは大変なことなのだ。

細い坂道を下ると水田の畦道に出る。すでに田植えは終わっており,イネは30cmくらいに伸びている。1本植えでかなり密植である。これでは田んぼの中を歩くことはできないだろう。草取りはどうするんだろう。

棚田の美しさは地形に合わせて緩やかに連なる畦の曲線によるところが大きい。稲が生長してしまうとこの畦の曲線がよく分からなくなり美しさは半減する。また,自分の視点より上部の棚田は階段状のラインの連なりになってしまい棚田の美しさは伝わってこない。

ここの棚田の畦は石垣により補強されている。この地域の年間降水量は4000mm(バギオでは4500mm)を越えており,それが夏期に集中しする。弱い畦では定期的な補修が欠かせない。石垣で補強された畦はバナウェのように土だけのものより明らかに丈夫であろう。

二つの近接した地域に異なる棚田ができた理由は斜面の差によるものであろう。マリコンの棚田のある斜面はバナウェに比べるとはるかに傾斜が緩い。そのため,一枚当たりの水田の面積に比して畦の高さはずっと低い。

畦ののり面の高さと横幅を乗じたものを畦の縦面積とすれば,同じ面積の水田を造るのに必要な畦の縦面積はマリコンの方がずっと小さくなる。このため,マリコンでは手間ひまをかけて畦を石垣で補強できたのではと推測する。

もちろん,マリコンでも傾斜の急な斜面の棚田は畦の縦面積が相対的に大きくなっていく。しかし,平均すると条件はバナウェに比べてずっと良い。棚田を歩くときにはどうしても畦を歩かなくてはならない。これはけっこう大変なのだが,マリコンには丘の上の集落に向う幹線道路ともいうべき畦道が整備されていた。

なんと,少し広くなった畦道がコンクリートで舗装してある。これにはちょっと驚いた。この道をたどっていくと,棚田の中を楽に歩くことができる。もう一つ,この棚田の変わったところは竹ざおで支えられたビニール・ホースによる給水である。棚田では上の段から一段づつ水を流していく方法が一般的であるが,ここでは何ヶ所も上からホースで水を引いている。

上から順に水を送るのでは間に合わないのであろうか,あるいは水を流すため畦の一部を切るのがいやなのだろうか。確かにこの棚田では一部を除き畦には水路がない構造になっている。

幹線畦道を歩きながら気に入ったところの写真を撮る。こんなに歩きやすい棚田は初めてである。一部の水田では田植えが行われている。ここで植えられている苗はずいぶん生長している。茎の部分だけでも30cmはゆうにある。平地の水田とはかなり栽培方法が異なるようだ。

棚田は尾根近くまで続いており,その上部は申し訳程度に森になっている。棚田はそれ自体が水を蓄えるダムの働きをもっているが,激しい雨の降る地域では上部の森は水量を調節するため,また水源として重要な機能を果たしている。

もっとも斜面全体を俯瞰してみると,十分な森が保存されていることが分かった。棚田の中には集落の家屋はない。棚田になっていない斜面と棚田の最上部,森との境界辺りに家屋が固まっている。

水田に比して人間はずいぶん小さい

水を引く黒いパイプがはしっている

ここでも田植えが行われている

下から見上げると棚田は水平線になってしまう

束ねてあるものがこの地域の苗である

特に目印などはつけないで適当に植えている

山の上の小学校

幹線畦道を登りきると丘の上に小学校があった。この周辺にも集落の家屋が何軒かある。子どもたちは明日の卒業式の準備のため大忙しであった。

先生の指示により男子は斜面のやぶの刈り込み,女子は花壇の手入れをしている。男子の使用している道具は山刀で,大人が農作業に使用するものだ。彼らは山刀をふるって2m以上に伸びている萱を切り,勢い余ってバナナの幹まで切り倒してしまった。

学校は丘の上部を平に削った50m四方くらいの平地にあり,男子が草を刈っている斜面との境界はやはり石垣で補強されている。

鉄を含む土は赤味の強い茶色であり,粒子が細かいので少し湿り気のある状態でつき固めると固く締まる。逆に大量の水分を含むとすぐにぬかるんでしまうことだろう。運動場はそのようにして造られている。

卒業式の催しが行われる建物の一面は壁がなく,背後はカーテンのように大きな布が張られている。床は運動場から三段ほど高くなっているが,同じように赤い土を突き固めた土間である。この空間で卒業式の行事が執り行われ,生徒や来賓は運動場からそれを眺める構図のようだ。

村の男性たちが近くから太い竹を伐り出してきた。中央に一本太い竹を立て,オレンジ色のテントの中心支えにする。テントの四辺をロープで引くとテントのような形が出来上がるが,かなり不安定だ。

女性の先生と高学年の女子は背後のカーテンに貼る文字や飾りを色紙から切り出している。このような文字飾りはフィリピンではよく見られる。

作業が一段落したので子どもたちにオリヅルを教えてあげる。なぜか先生もその輪に加わる。子どもたちは手先が器用であり,紙を折ることにも慣れている。難しい一部の工程を除きちゃんとツルを仕上げることができた。

先生は出来上がったオリヅルを回収して,文字が張られたカーテンに止めていった。このツルも式典の飾りの一部になった。この小学校は居心地がよいのでもっとここで時間を過ごしたかったが空模様が怪しくなってきた。

帰り道でもやはり写真をたくさん撮ってしまった

先生と子どもたちにお別れをして,棚田の中を通りジープニー乗り場に戻ることにする。もちろん,帰り道でも上から見た棚田のゆるやかな線の連なりを写真にする。

帰り道でもやはり写真をたくさん撮ってしまった

日当たりがいいのか苗代が多い

田植えの時期がもっとも棚田の曲線が美しい

本当に地形を上手に使用している

上から見る曲線は見ていて飽きない

斜面の緩急にかかわらず石垣となっている

これが棚田の中を歩くためのコンクリートのFoot Trail である

城の石垣のようにも見える

棚田は手入れが行き届かないとすぐに崩れる

中央部に補修の跡が見られる

斜面が急なところは水田が本当に狭い

この棚田群の水配分はどのようになっているのであろうか

この区画は田植えが終了している

広場に戻るとジープニーが到着したところであった

幹線畦道を通り村に戻る

幹線畦道を通り村に戻る

14時のジープニーで町に戻る途中で雨になった。15時からはそれほど強くはないが本降りとなり町歩きはできない。


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