ボルネオ島の北東部には二つの半島状の地形が東に突き出している。どちらも地図では名前が確認できないので便宜上北側半島,南側半島と呼ばせてもらう。北側半島の先端とフィリピンのミンダナオ島サンボアンガを結ぶようにスルー諸島が点々と連なっている。スールー諸島は海を分断しており,南側がセレベス海,北側はスルー海となっている。
ラハ・ダトゥは北側半島の付け根部分に位置している。ラハ・ダトゥの南にはもう一つの半島があり,その付け根部分にタワウの町がある。南側半島の先端部にはセンポルナの町がある。ここはダイビングで有名なシパタン島やマブール島に向う起点となっている。
タワウ→ラハ・ダトゥ→サンダカンを結ぶ幹線道路の周辺にはタワウヒルズ国立公園(タワウの北側),ダヌム・バレー(ラハ・ダトゥの西側 ),タビン・ワイルドライフ・リザーブ(ラハ・ダトゥの東側),キナバタンガン川流域(サンダカンの南側)など自然を観察することのできる保護区が点在している。
逆に言うと,サバ州東部の低地ではそのような保護区以外ではボルネオ島の自然は残されていない。保護区以外の地域はほとんど開発され,タワウ→サンダカンの幹線道路はさながらアブラヤシ街道となっている。
ラハ・ダトゥの町は南北の半島に囲まれた大きな湾の最奥部にあり,内陸部を通るサンダカンとタワウを結ぶ幹線道路は東西方向に鋭角のV字形を描きラハ・ダトゥの町に寄り道するようになっている。
幹線道路のV字の先端は街の中心部であり,北側の幹線道路に沿って飛行場の滑走路が伸びている。湾の北側に町は広がり,南側は広大な湿地帯となっている。その境界付近に小さな入り江があり,周辺に水上集落が広がっている。
幹線道路から分岐したJalan Pantai が海岸通りとなって北側半島の方に伸びている。この道路の海側にも街は広がっており,そこはかって水上集落がひしめいた干潟を埋め立てたところで,ここが街のウオターフロントとなっている。
この造成地にはショッピングセンターや中央市場,魚市場が集まっている。海岸通から一本内陸に入ったJalan Teratai の両側には商店は立ち並び,ホテルも集まっている。この二本の道路は南西から北東に向っているにもかかわらず,ガイドブックの地図は(方角は記載されていなかったが)上下方向で記載されているため,長距離バスターミナルから宿探しに歩くときにだいぶとまどった。
タワウ(160km)→ラハ・ダトゥ 移動
ラハ・ダトゥはタワウとサンダカンを結ぶ幹線道路の中間地点に位置している。当然,サンダカン行きのバスはラハ・ダトゥを通るものと思い込んでいた。07時にタワウのバスターミナルに行き,チケット売り場で「ラハ・ダトゥ」と言うと,窓口の女性は困ったような顔をする。
彼女は英語が話せないので近くの男性に助けを求める。その男性は大型バスの後ろに並んでいるワゴン車を指で示した。どうやら,大型バスはラハ・ダトゥには立ち寄らず,サンダカンに直行するようだ。
料金はバスでもワゴン車でもほとんど同じようだ。タワウ(160km)→ラハ・ダトゥのワゴン車は22リンギット,ラハ・ダトゥ(175km)→サンダカンのバスは22リンギットと表示されている。
バスのほうが荷物のスペースがあるので楽なのだが,便がないのでは仕方が無い。僕の荷物は最後尾の座席の下に置かれた。出発は08時なので近くの屋台で朝食をとる。ごはん,玉子焼き,魚のから揚げが3.8リンギットである。
車は08時に動き出したが,整備工場に立ち寄ったり,街中で乗客を拾ったりして,実質的な出発は08:30になった。途中で乗ってきた子連れの父親がタバコを吸おうとするので,「No somakinng」の表示を指で示しながら注意する。
彼は「何を言っているんだ」という顔をして,平気でタバコを吸い始めた。この地域はインドネシア出身者が多く,当たり前のルールも無視される。実際,インドネシアのタバコマナーはひどいものであった。狭い車内でこれをやられるとたまらない。窓を開けて外の空気を吸うことにする。
道路は片側2車線の高規格道路で,途中からは1車線となった。道路の周辺は7割方アブラヤシ農園になっている。開発(更新)直後の農園には高さ1mに満たない幼木が整然と並んでいる。3年あまりで果実の収穫が始まり,その後は20年ほど毎年収穫が可能である。
これだけアブラヤシ農園が多ければラハ・ダトゥの近くでも見ることができると思いきや,町が近づくと姿を消してしまった。ミニバスは2.5時間でラハ・ダトゥに到着した。小さな町だが地図の方角を読み違えたため,宿探しには地元の人にたずねることになった。
Iramanis Hotel と Tabin Hotel
Jalan Teratai (テラタイ通り)にはいくつかのホテルが集まっているが,高いか怪しいかのどちらかである。料金はIramanis もFull Fua も同じであった。僕にとっての違いはIramanis は机があり,これが決め手となった。
部屋は6畳,1ベッド,エアコン,トイレ・シャワー付きで清潔である。ただし,窓がないので入ったときにかび臭さが気になる。宿代は44リンギット,僕はエアコンを使うことはないのでちゃんと窓を付けてくれと言いたくなる。
Iramanis Hotel は44リンギットと僕の宿泊予算をだいぶオーバーしている。この分では一日で移動かなと思っていたら,初日に街を歩いている時にバスターミナルの近くでTabin Hotel を見つけた。部屋代は30リンギット,廊下にはボルネオの昆虫などの写真が飾られており雰囲気はよい。ということで二日目にはこちらに移動した。
30リンギットの部屋は8畳,ダブルベッド,マンディー付き,トイレは共同で清潔である。天井のファンは力がなく,ベッドまで十分な風はこない。まあ,窓を開けていれば暑さで困ることはないだろう。残念ながらここは怪しい方のホテルで,夜中に誰かが御用聞きに回ってきた。
市場の周辺
宿のあるJalan Teratai から南東方向に歩くと片側2車線の海岸通り,Jalan Pantai に出る。この通りの向こう側が埋立地となっており,漢字とマレー語が併記されたショッピングセンターがある。漢字は「人人百貨有限公司」となっている。
サバ州の先住民族(19世紀以前から居住していた人々)は多様で,52の民族に分類されるという。サバ州の人口は約280万人であり,そのうち半数は先住民族が占めている。残りの半数はサバ州が1963年に独立した後に近隣のフィリピンやインドネシアから経済的理由で流入した人々であり,地域の下層労働力を担ってきた。
先住民族グループに占める主要民族の人口区分は,カダザン・ドゥスン族(約30%),中国系(約20%),バジャウ族(約15%),ムルット族(約10%)となっている。19世紀後半から移住してきた中国系の人々の多くは都市部に居住し,商業・工業・金融など地域の経済を独占している。このような事情からサバ州では漢字を見る機会が多くなる。
ショッピングセンターの南西側には生鮮食品の市場と魚市場が続いている。生鮮食品市場の中は野菜や果物を商う店が密集しており,その前の歩道にも野菜,果物,雑貨を商う人々が集まっている。おそらく自分の畑で収穫したものを直接売っているのであろう。
魚市場
隣の魚市場はもっとも活気のあるところだ。この建物は床から1mから2.5mほどの高さまで壁がなく,半オープン構造になっている。水を大量に扱う魚市場なので閉鎖空間にすることはできない。床はコンクリート,魚を陳列する台もコンクリート製であり,白いタイルが貼られているため清潔感がある。台の上にさまざまな魚が置かれている。
魚の種類,量ともにタワウと同程度の規模をもっている。小型の魚種の鮮度は問題ないが,大型魚の中にはちょっと怪しいものもある。この市場の売り手はほとんどが男性である。カメラを持つ外国人が魚の写真を撮っていると,「どうだこの魚は」と言わんばかりに魚を持ち上げて写真を要求する。
ロウニンアジ
おじさんが持ち上げたのは体長1m近い大きな魚である。体型からギンガメアジの仲間,大きさからロウニンアジ(スズキ目・アジ科・ギンガメアジ属)だろうと推定した。ギンガメアジの仲間でこんなに大きくなるものはロウニンアジだけで,最大のものは1.5mを越える。
生息域はインド洋,東部太平洋の熱帯・亜熱帯の沿岸域である。生息域は九州の南端にまで広がっているので,日本でもわずかながら流通するらしい。日本語は「浪人鰺」,和名の由来は単独行動する大型個体を浪人武士に見立てたものである。また,いかつい顔に前鰓蓋骨の線が入っている様を切り傷跡のある浪人に見立てたという説もある(wikipedia)。
実際,ロウニンアジの成魚は群れをつくらず,単独で外洋に面した沿岸地域を遊泳する。手持ちの図鑑では「美味」とだけ記載されていた。「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」には,本種は味のいい魚であるが漁獲量は少なく,むしろ釣りの対象魚である。本種をはじめギンガメアジ属の魚は刺身(生で)に塩焼きにと用途の広い食用魚であると記載されている。
このサイトは日本の魚市場に流通している大多数の魚を網羅しており,東南アジアの魚の特定にずいぶん役に立った。”魚貝の物知り度”の評価があり,「この魚を知っていたら博士」から「これを知ってなきゃハジ」まで5段階で評価されるのでなかなかユーモラスである。
ニシキブダイ
サンゴ礁を彩るブダイの仲間も置かれていた。手持ちの図鑑によりアミメブダイであろうと判定したが専門家の判定はニシキブダイ(スズキ目・ベラ亜目・ブダイ科・アオブダイ属)であった。インド洋,東太平洋の沿岸部の浅い海に生息する。
ブダイの仲間は草食性で,おちょぼ口で死んだサンゴに付着する藻類をかじり取る。このため口の先端部にある歯は融合してクチバシ状になっている。確かに,口は大きく開くようにはなっていない。ブダイの仲間の体色は性差,成長差,個体差が大きい。この市場には青とオレンジの派手な色彩のものと薄い灰褐色の地味なものが一緒の山に並べられていた。
派手なものがオス,地味なものがメスであろうと勝手に解釈していたが,専門家の意見では,地味なものはベラ科のクサビベラであろうとのことであった。魚の世界で名前を調べるのはなんとも難しいことだ。
ラハダトゥの魚市場で見かけた熱帯性の魚については調べるのが困難だったので「WEB魚図鑑」の皆様のお知恵を借りて名前を特定した。僕のような素人の質問に丁寧に答えていただき,感謝である。
チョウチョウコショウダイ
茶色の水玉をあしらったサンゴ礁によく合う魚がある。チョウチョウコショウダイ(スズキ目・イサキ科)である。コショウダイの仲間はインド洋から東太平洋に広く分布しており,日本近海でも何種類かが食用にされる。
ただし,日本近海のものはコショウダイの名前の由来となっている茶色の斑紋が小さくなり,暗銀白色のタイに類似している。サンゴ礁では斑紋が生存に有利に働くのかはっきりしており,逆にいわゆるタイらしさは失われている。
イトヒキキントキ
子どもの頃食べたキンメに似ている赤色の魚の山があった。イトヒキキントキ(スズキ目・キントキダイ科・イトヒキキントキ属)である。この仲間はインド洋,東太平洋の熱帯・亜熱帯域に生息しており,日本でも市場に並ぶことがある。とはいえ,キントキダイ科の何かと特定するのは専門家の力を借りなければならない。
キントキダイの仲間だけあって体長(25cm)に比して口と目がとても大きい。そのため英語では「Big eye」,中国語では「大眼鯛」と呼ばれている。夜行性であり大きな目はそのために必要になる。大きな口を開けて小魚や甲殻類を飲み込むらしい。僕の記憶の中にあるキンメ(キンメダイ目・キンメダイ科)はまったく別の魚であるが,赤い体色と大きな目の感じが似ており,古い記憶が呼び覚まされたようだ。
袋を持った子どもたち
この魚市場の中にはビニール袋をもった子どもたちがたくさんいる。彼らは客が買物をすると,ビニール袋をさっと差し出して,利用してもらい,何がしかの収入を得る。
男の子は積極的に写真を撮ってくれとせがみ,女の子は僕が気が付くまで待っている。彼らは一様に画像を見るととても嬉しそうな顔を見せる。このような子どもの小遣い稼ぎ(もしかしたら生活費稼ぎかもしれない)はインドネシアやフィリピンでもよく見かけた。
隔離されるニワトリ市場
僕が旅行していた頃,インドネシアは新型の鳥インフルエンザ(H5N1)によりトリからヒトへの感染が大きな問題になっていた。2009年8月時点における死者数は110人(感染者数は135人)を数え,家禽であれ野鳥であれトリに近づくことはそれなりのリスクをもっていた。
インドネシアの感染者数,死者数が突出して大きいのは,鳥インフルエンザに対する水際作戦にあたる,感染した家禽(ニワトリ,アヒル,カモ)および感染が疑われる家禽の処分がほとんど行われていないことが原因の一つに上げられている。
貧富の差が激しいインドネシアでは家禽肉およびその卵は庶民も口にできる貴重なたんぱく源である。一般の家庭にも当たり前のように家禽が飼育されており,日本のように感染した家禽の半径10km圏の家禽をすべてチェックすることなどはとてもできない相談である。
また,適正な補償無しに財産である家禽を行政的に処分することも相当困難である。このような事情からインドネシアでは感染した家禽の処分によるウィルスの封じ込めがうまく機能していない。さらに,多くの家庭で家禽が飼育されているためは,ヒトが家禽に接する機会が非常に煩雑であるため,家禽からヒトに対する感染が多いという事情がある。
そのようなインドネシアの事情を知っているためか(ちょっとうがった見方かな),インドネシアから近いラハダトゥの家禽市場は干潟の上にあり,木道か渡し板を通らなければたどりつけない。これは一種の隔離政策なのであろうか。
木道の桟橋
魚市場の裏手には二本の木道が海に向って伸びており,漁船の船着場に通じている。大きな船着場は魚の水揚げに使用され,小さな船着場は子ともたちの通学に利用されている。こちらも使用されているのは普通の漁船である。
乗客を降ろすため,船の先端部を桟橋に直角にして近づける。しかし,舳先と船着場の間は60cmも開いており,高さの差もあるので子どもたちには難しい。船と船着場の両側に大人が立ち,手を引いて移動させている。
この光景はおもしろい写真になったが,フレームが甘かった。船着場で引っぱっている大人の一部が入っていない。コンパクトカメラのズームは不連続に近いのでこのような小さなミスが起こることになる。
船着場とのすき間を狭めようと,船着場に固定されているロープを船上から引く。人間に比してずいぶん大きな船は少しずつ動き,すき間は40cmほどになる。この間隙なら子どもたちでも一足で渡ることができる。
街の南西に水上集落が広がる
埋立地の近くを通るパンタイ通りは埋立地を過ぎた辺りで北に向きを変えてタワウとサンダカンを結ぶ幹線道路につながっている。この通りが街エリアと水上集落エリアをほぼ区分している。
パンタイ通りから南西方向に弧を描いて海岸線が伸びており,少し先に水上集落が見える。おそらく,往時は現在の埋立地のあたりからずっと水上集落が広がっていたのであろう。遠浅の干潟が続いており,水上集落を形成するにはとても良い地理的条件になっている。
しかし,現在は街の中心部に近い海岸は埋立地となっており,埋立地と残存する水上集落の間はまるで緩衝地帯のように干潟になっている。そこには家屋を支えていたおびただしい数の柱の残骸が残されている。
ラハ・ダトゥにおいても水上集落は都市開発の妨げになるとしてどんどん取り壊されていく。また,水上集落の生活に見切りをつけて陸上生活に切り返る人も多いようだ。
水上集落はボルネオ島では伝統的な集落の形態である。水上集落に居住している人々の大半は漁業に携わっており,家からそのまま小舟で漁に出かけられる利便性や,蚊のいない環境,トイレが不要など多くの生活上の利点がある。彼らは陸上生活ではなく,水上生活を選択したのだ。
しかし,ボルネオ島では小舟による漁から5トンから15トンクラスの漁船による漁に変わってきている。ラハダトゥでもこのような船が沿岸や近海で操業し,魚市場の背後にある埠頭で水揚げする仕組みになっている。
魚市場に並んでいる魚のほとんどはそのような漁によるものであろう。マレーシア経済の発展によりもたらされた変化の中で水上集落の人々はどのように生計を立てているのか知りたいものだ。
小学生につきまとわれる
陸側から海に向ってまっすぐ伸びる木道がある。海に向ってという表現は適切ではない。正確には湾状の地形を切り取るように木道は伸びている。木道と海岸の間は広いところで500mほどあり,その区画が水上集落になっている。つまり,木道は集落のもっとも外側(海側)となっている。
この木道は途中まではしっかした作りであった。しかし,入り江のような地形を渡って少し行った辺りからかなりお粗末になっていた。渡し板の長さは不ぞろいで,すき間も多い。構造もあまりしっかりしておらず,歩くと少し揺れる。
この幹線木道から陸側に向って何本もの木道が分岐している。その反対側は家屋の無い海となっている。分岐している木道はかなり揺れるので,注意して歩かなければならない。
幹線木道は1km以上も続いており,少し歩くと,干潟の海を挟んでラハダトゥの町を一望することができる。街の東側には貨物船の停泊する埠頭があり,周辺には銀色に光る円筒形のタンクが並んでいる。
学校帰りの小学生の写真を撮ってあげるとずいぶん喜び,何人かの子どもたちは僕の後をついてくる。子どもたちは水上集落の道案内のつもりなのか,自分の家を紹介したいのか,「こっち,こっち」と横道に誘う。
しかし,とりあえずこの主要木道の先端部まで行ってみたかったので彼らの案内を無視して歩いて行く。小さな食堂があり,10歳と12歳くらいの女の子が店番をしていた。ガスレンジがあり,その下にはプロパンガスのボンベが置かれていた。
お皿を抱えた写真を撮らせてもらい,お礼にヨーヨーを作ってあげる。この先の木道はかなり危ない状態であったので木道の先端部まで行くことはできずに引き返すことにする。
しっかりした幹線木道のとこまで戻ると,横道のゲートのところに子どもたちが集まっていた。このゲートは横道の木道を塞ぐように立っており,ドアが施錠されると先に進めないようになっている。水上集落にも地区のようなまとまりがあるのだろうか。
水上家屋は現在の海面から2mほど高いところにあり,たくさんの杭が上の家屋を支えている。観察した範囲では漁業用の小舟はほとんど見当たらなかった。ところどころにある杭だけが立っている干潟には小さなカニがたくさんうごめいているが,手持ちのカメラでは遠すぎる。
幹線木道を子どもたちが歩いてくる。横道の木道に移り,横から写真にする。子どもたちの歩く木道の背後には近代的な街の建物が迫っている。
ここでもゴミがひどい
現在は潮が満ちている状態なのか木道の下はほとんどが海面となっている。干満を繰り返す海は水上集落から排出されるゴミを沖に持ち去り,その一部を海岸部に残していく。海と陸の境目にはそのようにして集められたゴミが散乱している。かっての廃棄物は自然の力で分解され,ゴミを床下に捨てる生活には不都合は生じなかった。
しかし,現代の廃棄物の大半を占めるプラスチック製品は自然界ではほとんど分解されることがなく,無残な姿をさらしている。沖に運ばれたものを含め,このような廃棄物が環境にどれほど悪い影響を与えているか人々は認識していない。沿岸の漁業資源に依存して生活してきた人々がゴミで沿岸を汚染したり,漁業資源のゆりかごともなっていたマングローブ林を破壊していくという図式である。
海岸通りを歩く
海岸通りとはJalan Pantai のことである。タワウとサンダカンを結ぶ幹線道路から北側半島の海岸に沿って走る地域の幹線道路である。ラカダトゥの街中では中央分離帯をもつ片側二車線の立派な道路である。
その通りを西にたどって行くと北側(左側)に長距離バスターミナルと青いドームをもったモスクがある。このモスクは異教徒が入ることは許されなかった。アジアの多くのイスラム諸国を訪問し,モスクを見学してきた経験がある僕にとってこの扱いは信じられないものであった。
僕は100を超えるモスクを見学しているが,礼拝時に入ることを断られたことはあっても,中に入るのを拒否されたことは一度もなかった。マレーシアよりずっとイスラムが生活に根付いている西アジアでも歓迎をされることはあっても拒否されることはなかった。マレーシアの他の地域ではなんの問題もなかったので,どうもこれはラハダトゥ固有の考え方らしい。
海岸通りの海側はずっと埋立地になっており,海を見ることはできない。街路樹が木陰を提供しており,そこで果物のなどの露店がポツン,ポツンと営業している。その先の海岸部は石油工業地域になっている。
バジャウ人の家船
埋立地の西側には新しい商業施設ができていた。3階建ての長い建物が何列か並んでいる。入り口に「Psar Ekonomi」,「経済市場」と書かれた看板が掲げられている。この程度のマレー語なら意味が分かる。
直訳したものが経済市場である。ただし,マレーシアでは略語漢字が使用されている。こちらの方はときどき元の字が推測不可能なくらいに省略されていることも多い。
この商業施設の南側は海となっており,そこにはニ隻の屋根のついた家船が浮かんでいた。ここはスルー海にも近く,漂海民族のバジャウの人々も多い。バジャウ人はサバ州の先住民族人口の15%を占める大きなグループである。
ラハダトゥの水上集落の人々の大半はバジャウ人かインドネシアからの新移民であろう。多くのバジャウ人が水上集落に定住するようになっても,伝統的な家船の暮らしを続けている人もいる。
彼らは国境という概念をもたず,家族ごと家船に乗り,フィリピンとボルネオ島に囲まれたスルー海を自由に行き来してきた。時期は不明であるが,ドイツ人の女性写真家がバジャウの人々と過ごした経験を記した「海の漂泊民族バジャウ(ミルダ・ドリューケ著)」という本がある。
僕はまだ読んだことがないけれど,その中にはバジャウの人々は時間,お金,モノを所有しようとしないと記されている。家船一つを操り,自給自足に近い暮らしをしている彼らの様子がよく分かる。彼らは究極の自由民なのである。
もちろん,陸地にも彼らのように自給自足の暮らしをしている人々もたくさんいる。しかし,国家という概念が彼らの生活空間を縛り,経済開発が彼らの依拠する自然資源を奪い去っていった。
バジャウの人々は海が生活の舞台であったため,陸の人々に比べて国家や開発の束縛はずっと緩やかだったにちがいない。しかし,そのような生活も20世紀の終わりからは困難になってきた。
ラハダトゥの海に浮かんでいる家船の持ち主の国籍は分からない。しかし,彼らにしても貨幣経済にしっかり組み込まれており,自給自足の生活はとてもできない状況である。
船を動かすためにはエンジンやディーゼル油が必要であり,コメも陸で購入しなければならない。彼らはそのために魚をとって売りに来るが生計を維持するのは大変である。彼らのよき時代はもう過去のものになっている。
船着場にはバジャウ人の船が係留されていた。小さな家船の中には母親と6人の子どもたちがいた。もう一隻の家船の舳先には大きなプラスチックの穴開きカゴが置かれており,30cmほどのイトヨリダイに似た魚が50匹ほど入っていた。
彼らは魚を売ってコメや生活必需品を買う生活を送っているのだ。写真を撮ろうとすると母親が手を伸ばして,お金を請求する。僕は写真にはお金を払わない主義なので,子どもたちにフーセンを作ってあげる。
これでようやく写真のお許しが出た。町で買物をしていた大人二人,子ども二人が戻ってきて,家船はもう溢れそうだ。さすがにこの人数が一隻の家船に暮らしているわけではないだろう。
屋台がいっぱい
夕方になるとJalan Mawar には屋台が出る。昼間は普通の道路だったのに,夕方になると駐車中の車もすべていなくなり,そこに100mくらいにわたって食べ物の屋台が並ぶ。今日の昼食は宿の近くの食堂でまずいごはんを食べたので,この屋台で食事を選択できるのはとてもうれしい。
この屋台群でいちばんおいしそうなのは魚の塩焼きである。しかし,その屋台にはごはんはないのでお持ち帰りということになる。仕方が無いので,ごはん付きのところでエビのチリソース炒めと野菜炒めをいただく。これで3.5リンギットとマレーシアの食事としてはずいぶん安上がりである。
この屋台のおばさんと顔をつなぐことができたので,二日目の夕食は魚の塩焼きを紙にくるんでもらい,この屋台でごはんと一緒に手でむしっていただいた。魚好きの僕としてはとてもありがたい食事であった。
この食事は魚が5.5リンギット,ごはんが1リンギットであった。食事といえば次の日の朝食は中華麺にした。完全なスープ麺ではなくチャーシューのたくさん入った半スープであり,こちらはちょっと期待通りとはいかなかった。
夕方の礼拝
夕方の時間帯に宿の近くのモスクで礼拝が行われていたので中に入れてもらった。普段は洋風化した服装の人々も礼拝時にはサロンを着用している人が多い。しかし,さして広くない礼拝堂の最前部の一列しか埋まっていない。
朝一番に市場に行く
朝一番で生鮮食品市場と魚市場を訪ねる。市場の前はもう野菜や果物を広げるおばさんたちでいっぱいである。同じように魚市場もずいぶん活気があった。昨日に引き続き珍しい魚の写真を撮る。もう市場のおじさんやおばさんと顔なじみになっているので,「さあ,この魚を撮りなよ」と何回も声がかかる。
魚市場の裏手にある船着場では漁船が接岸しており,船上では魚の仕分けが行われていた。三種類の魚がいるらしく,3個の容器に放り込んでいく。作業をしているのは中学生くらいの少年たちである。容器に入れられた魚は船着場で重さを計量され市場の担当者が記帳していく。
アリノストリデを発見
市場の前に広げられている商品の中に「アリノストリデ」があった。これは映像でしか見たことがなかったので,売っているおばさんにお願いして写真を撮らせてもらった。
アリノストリデ(蟻巣砦)はその名の通り肥大した根塊の中にアリの巣に類似した空洞をもち,アリを住まわせる着生植物である。中にいるアリでよく知られているものは「トリデルリアリ」であるが,この根塊の中にいるものがトリデルリアかどうかは分からない。
まるまる一個の個体もあり,それを観察すると肥大した根塊の上部には枯れた葉の痕跡があり,下部には根のようなものも見られる。この着生植物は熱帯の樹木に取り付いてそこで成長する。着生植物は独立栄養で成長し,樹木から栄養を奪うわけではない。盃形に広がった葉の根本で水や落ち葉をため,それを吸収して光合成により成長する。しかし,空中ではどうしても窒素やリンが不足する。
そのため,根塊の中にアリの居住区を作り,その内壁にはアリの食料となるたんぱく質を含む粒子を作るようになった。不思議なことにこの居住区はアリが住み始めると自然にできるという。
アリは安全な住居と食料を提供してもらう代わりに,アリノストリデの害になる昆虫から植物を守る。アリの排泄物や死骸はアリノストリデの内壁から吸収され,不足する窒素やリンを補うことができる。
このようにアリと共生関係にある植物を蟻植物という。アリは熱帯の昆虫ではもっとも繁栄している種であり,多くの植物がアリと共生関係をもつようになった。ネットで調べてみると,アリノストリデを乾燥させたものは糖尿病の薬になるという。
バジャウ人の家船
昨日の商業施設近くの海には今日もバジャウ人の家船があった。家船と漁をするためのボートがセットになっている。ボートには刺し網が乗せられているので,おそらく追い込み漁のような方法で魚を捕らえるのであろう。家船にはエンジンは取り付けられていない。これでは長距離の移動は無理だ。
木道の上では魚が売られていた。氷がないので魚の傷みは早い。早朝に漁をして,午前中に売りさばくパターンであろう。しばらく見ていると家船は三隻,四隻と増えていった。彼らはここを自分たちの港にしているようだ。
生理用品の看板
この商業施設に生理用品のきれいな看板(ポスター)が貼られていたので思わず写真を撮ってしまった。マレーシア人の60%はイスラム教徒であり,イスラムは国教となっている。もちろんこの国では信教の自由は憲法で保証されている。
イスラム世界においては総じて女性の社会的地位は低い。これはイスラムが生まれた西アジアの乾燥地域の社会慣習によるところが大きい。
コーランの中には女子嬰児殺しを禁ずるなど女性と男性の平等を説く文言が数多くある。その一方で,ムハンマドを中心とするイスラム共同体が国家の体裁を整えていく過程で女性の権利を制限する表現や女性が男性より劣った存在であるとする記述が現れており,イスラムの早い段階から男女平等の理念が家父長制に変遷していったことをうかがわせる。
初期イスラム王朝の時代に男性が女性を支配する社会体制が確立しており,程度の差はあれ近代まで継続している。現在でも西アジアの国々では女性の社会的地位は低く,教育を受ける権利や財産権などは制限されている。
東アジアに位置し,英国の植民地時代を経験したマレーシアは,イスラム国家でありながら女性の社会的地位は非常に高い。女性の社会進出もあたりまえのこととなっており,全公的部門における女性の割合は約19%になっている。
2005年に発表された国連開発計画(UNDP)のジェンダー・エンパワーメント指数(女性の地位向上度を示す指数)報告書では,アジアの中でマレーシアはシンガポール,日本,フィリピンに次いで4位にランクされている。ちなみに,世界的にみると同時期の日本のジェンダー・エンパワーメント指数は38位となっており,先進国としてはかなり低い。
中国人墓地
Jalan Pantai をさらに東に向うと北側に中国人墓地が広がっている。斜面がジャマしているので道路からは見えない。僕はどこかにアブラヤシ農園はないかなと探しながら斜面を上っていくと,その手前に墓地を発見した。
中国人は独特の祖霊信仰をもっており,親(先祖)の墓を造り,年毎にお祀りすることは子あるいは子孫の義務とされてきた。それは儒教思想に裏打ちされた孝道(親への孝行を説く道徳の規範)に基づくものなのかもしれない。
生前に仕えるように,死後も親に仕えるという考え方から,墓を先祖の霊が宿る場所と見なし,毎年の清明節には多くの人々が墓参りをする。
清明節は農暦(旧暦)の24節気の一つである。現在の暦では4月15日あたりに相当し,春風が吹き,暖かくなると天地は明るく清らかになることから「清明」と呼ばれる。
人々は一年間風雨にさらされてきた墓を修復,清掃し,供物を並べて先祖に加護と平安を祈る。清明節は中国の休日となり,その期間中に全国で延べ3億人が墓参りをするという。
墓は先祖の霊が宿るという考え方から中国人は海外においても同じように墓を重要視した。ボルネオ島の各地には大きな中国人墓地がいくつもある。
ラハダトゥの墓地は海の見える丘の斜面にあった。風水の国のお墓なので方角や地勢に意味があるのかもしれないが,そちらの方面にはまったく興味のない僕にはコメントのしようがない。
斜面にある墓地の最上部には「大伯公廟」があり,白髭の老人の小さな像が置かれていた。この廟と墓地を守る一家の家がその背後にあり,トイレを借りると中国系の老人がお茶を出してくれた。英語は通じないが筆談ならできる。しばらくここで休憩させてもらった。
墓石は海に向いているので,ここから見るとすべての墓石は背を向けている。おそらく,すぐ近くの海を見下ろす斜面であったと思われるが,現在は埋立地に石油タンクと工場が建っており,海はだいぶ遠くなっている。
アブラヤシ農園
この墓地はアブラヤシ農園に隣接している。帰国後にgoogle map で調べてみると,南北が1km,東西の最大部が500mほどのものである。アブラヤシ農園としては規模はずいぶん小さい。現在の樹高は6mほどであり,若木の状態である。
アブラヤシ(ヤシ科・アブラヤシ属)は西アフリカを原産とするギニアアブラヤシと中南米の熱帯域原産のアメリカアブラヤシの2種が知られている。インドネシアやマレーシアで大規模に栽培されているのはギニアアブラヤシであり,一般的にこの種がアブラヤシと呼ばれている。英語名はOil Palm であり,日本の文献でもオイルパームとされることも多い。
ヤシの仲間なので幹の先端部の成長点から葉柄とそれにつながる羽状の葉を伸ばす。若木では年に30枚,成木では20枚の新しい葉を付ける。古くなった葉は葉柄の根元の部分から脱落する。そのとき葉痕が残るため,深い凹凸のある太い幹となる。
成長点のところに小さな花の密集した総花序をもち,多数の種子からなる球形の果房となる。受粉から果実が成熟するまでは約6ヶ月かかる。その間に次の葉が成長するため収穫前の房は葉柄に囲まれたようになっている。
未成熟の果実は黒っぽい色をしており,成熟すると赤やオレンジ色に変わってくる。果房の重さは20-50kgにもなり,そこには数百個の果実が付いている。一本の木はこのような果房を年に10-12個ほど産生する。一年を通して果実ができるため,農園の収穫作業も通年で行われる。
果実を収穫するときは,果房の根元の部分を鎌のような道具で切る。アブラヤシは年々成長し高さ15-20mにも達する。多くの農園ではハシゴなどは使用せず,長い柄に取り付けた刃物により果房の根本を切り,そのまま落下させる。
重い果房が高いところから落下してくるのでこの作業にはかなりの危険が伴う。また,果房を切る時に外側の葉がジャマになることもあり,そのようなときは葉を先に切り落とす。この葉も6mほどもあり,かなりの重さである。この作業も相当危険なものだ。
アブラヤシが20mにも成長すると収穫作業は困難になる。そのため,20-25年で更新される。更新作業はある一定地域のアブラヤシをすべて伐採し,跡地に幼木を植える。更新直後の農園はほとんど赤茶色の禿山のように見える。
この状態から3-4年で果実を収穫することができる。農園におけるアブラヤシのライフサイクルは,植樹から3-4年で初めての収穫があり,その後20年くらい毎年果実を収穫し,樹高が高くなりすぎたところで伐採・更新ということになる。
アブラヤシはその名前の通り,植物油を生産するため栽培されている。果肉と種子の双方から搾油され,それぞれ「パームオイル」,「パーム核油」と呼ばれている。両者は成分の組成が異なるため性質も異なり,植物油としてはっきり区別されている。
収穫された果房は搾油工場に運ばれ搾油される。搾油工程はおよそ次のようになっている。
(1) 殺菌と柔軟化のため高温の蒸気で蒸す。
(2) 回転するドラムの中に入れ房と果実を分離する。
(3) 果実をつぶして圧搾により油分を抽出する。
(4) 精製工場において精製する。
果実の残渣から種子は分離され,別の工程で破砕・圧搾によりパーム核油が抽出される。パームオイルの抽出にすりつぶした果実を煮込んで油分を分離する方法も行われている。
パームオイル,パーム核油の抽出・精製工程からは空果房,果肉の残渣,種子殻,油性成分の残渣などが廃棄物として出てくる。2008年のパームオイルの世界生産量は4000万トンを超えており,そこから排出される廃棄物重量はオイルの約4倍(1.6億トン)となる。
このぼう大なバイオマスををどのように処理あるいは再利用するかにより,その後の環境負荷は大きく変化する。現在は有機肥料として利用されることが多い。精製後の廃油成分から発生するメダンガスを燃料として発電するプラント,空果房からパルプを生産するプラントなどが研究あるいは稼動しているが,まだまだ十分とはいえない。
熱帯雨林が切り拓かれ,アブラヤシ農園に変わってしまうのはとても悲しいことであるが,すでにできてしまった農園についてそのことを嘆いていても始まらない。持続可能な,より環境負荷の少ないパームオイル生産を目指してもらいたいものだ。
農園の中を歩いてみるとアブラヤシの木が整然と並んでいる。地上から3mほどのところに成長点があるので,花や果実の様子を観察することができる。若木なので葉の数はとても多い。幹を囲むように葉柄が立っており,葉を含めた樹高は6mほどに達する。
葉柄は中央部が凹んだ板状になっており,両側には鋭いトゲがびっしりと生えている。一枚の葉の重さは20kgくらいはありそうなので,葉柄には相当の強度が要求される。
外側と内側の葉柄に抱かれるように,まだ熟していない黒い果実をたくさんつけた果房がいくつかできている。この果房は太い茎状の支持体で幹につながっている。果房を切り落とす時は,この支持体を切ることになる。現在,黒い果実はもうじき熟して赤やオレンジ色に変わる。
果房の上部に茶色のひも状のものが何本も垂れ下がっている。おそらくこれは枯れた花なのであろう。もう次の果実のための準備は進んでいるのだ。この状態から果実が収穫できるまでは6ヶ月が必要となる。
大きな葉柄は時期が来ると根元の部分から切り離されて脱落する。その葉痕は凹凸となって幹に残されており,着生植物が育ちやすい環境となっている。この農園でも多くの植物が幹の周囲に取り付き,樹肌が見えないくらいだ。
アブラヤシの若い葉は直立に近い状態であるが,時間が経つと水平に近い角度まで倒れてくる。葉の長さは6mほどもあるので,木と木の間隔はそれ以上に広げてある。この農園のアブラヤシは若木のため,内部は比較的明るい空間となっている。
農園の中には道路が巡らされ,収穫された果実は道路わきに並べられる。直径10cmを超える太さの支持体は刃物でスパッと切られている。果実は暗赤色になっており,幹に密着していた部分は日が当たらないせいかうすいオレンジ色である。果房を持ち上げてみると重さは20kgはゆうにある。
砂利道を歩いていくとこのような収穫物が何ヶ所かに集められている。農園労働者は区画内の樹木をチェックし,熟した果房を切り落とし,ここまで運んできたものだ。マレーシアではアブラヤシ農園の労働者は日本でいう3K労働であり,そのほとんどがインドネシア人だという。
集荷場所には房からこぼれ落ちた果実がまとまっているので写真にする。西アジアで見かけたナツメヤシと似ている。道路わきに果房を収集するためのトラックが停まっており,運転手は休憩時間のようだ。
彼は「こうやってトラックに積み込むんだよ」と実演してくれた。先端が尖った鉄棒で果房を刺して,それをトラックに放り入れる。これもなかなかの力仕事だ。彼の休憩時間をジャマしてはいけないのでお礼を言って戻ることにする。