ボルネオ島北東部,セサヤブ川の河口近くに位置する面積303km2の島である。日本の島(主要4島と北方領土を除く)と比較すると西表島(289km2)より少し大きく,日本にもってくると10番目に相当する大きさである。
ボルネオ島との距離は数kmほどしか離れていない。地形的にはボルネオ島の一部であったものが,セサヤブ川の浸食により本島から切り離されたような島である。そのためか海を挟んだ両岸には沼沢地が多い。
石油が出るため太平洋戦争の早い時期に日本軍により占領され,バリッパパンの製油所(当時はシェル資本)から石油製品を移送する中継基地となった。1980年代はサマリンダの半分ほどの規模で原木が集められ,日本向けの積出港として賑わっていた。
タラカン島は北に向って30度ほど開いた扇形をしており,中央部から東部にかけては森林地帯となっている。人口は島の西南部位置する唯一の町であるタラカン・シティ(タラカン市)に集中している。
町の中心部から北西4-5kmのところに空港があり,バリッパパンと結ばれている。滑走路は西の海側から内陸に向っており,ボルネオ島から突き出した半島や島を眼下に眺めながらのアプローチになる。
また,町の近くには比較的よく整備された港湾施設があり,大きな貨物船も接岸でき,荷物の積み下ろしができるようになっている。タラカン市から北端までは道路が通じており,人間の居住している範囲はおよそこの道路の周辺に限定されている。
西側の海岸は沼沢地が多く,タラカン市は沿岸部のマングローブ林を含む生態系を保護することを目的にマングローブ林拡大プロジェクト(生命の森プロジェクト)を推進している。タラカン島においてはエビの養殖事業が行われており,養殖池の造成のため広大なマングローブ林が破壊されたようだ。従来のエビ養殖は環境の面から多くの問題を抱えている。
小さな池で大量(1m2あたり50尾程度)のエビを養殖するため,抗生物質を与えながら大量のエサを使用していた。病気が発生したり,池の汚染により放棄される養殖池も多く,その度に新しい養殖池が造成されることになった。
そのような教訓から,タラカンでは環境負荷の小さな粗放的なエビ養殖も行われるようになった。一定区画を網で囲い,自然の潮の満ち干きにより流入するプランクトンをエサにしている。養殖密度は1m2あたり5尾程度と自然環境に近い状態で育てられている。
バリッパパン→タラカン 移動
タラカン行きのフライト時間は09時なので07:30までには空港に到着したかった。宿の食堂は07時から営業開始であるが,06:45に荷物を持って食堂に行く。コーヒーを飲みながら料理ができるのを待つ。ナシゴレンと玉子焼きを平げ,コーヒーをもう半分飲んでからチェックアウトする。
宿の向かいには小学校があり,通学時間帯なので道路を横断する時は警官が車を止めてくれた。5番のアンコタは東ターミナルまで行くものもあるが,時間を優先させ5番,6番,7番と乗り継いで空港に到着した。
しかし,スリヴィジャヤ航空の窓口は閉じられており,08時になってようやく開いた。タラカン行きのフライトは09:55に変更されていたので急ぐ必要はなかった。チケット代は32万ルピアであった。空港の建物はまだ新しい。伝統的な板材で葺いた屋根がいかにもこの地域の建物という感じを与える。
搭乗手続きを済ませて待合室に入ると,けっこう大勢の乗客がいる。多くの島からなるインドネシアではもう航空機が主要な移動手段となっている。運行表示板を見ると,08時,09時台にはタラカン行きの便が3便もある。さすがにこれでは乗客が分散して赤字営業になるであろう。僕の便も搭乗率は20%ほどであった。
搭乗ゲートを出るときにサンドイッチのランチボックスを手渡された。複数の航空会社が競合している路線ではコスト削減努力がここまで徹底している。ゲートを出て少し先に停まっている飛行機まで歩き,タラップを上がって機内に入る。
僕の席は翼のすぐ横で視界がまったく悪かったので,ずっと後方の席に移動した。10:25,1時間半の遅れで離陸する。飛行機はボルネオ島の東側に沿って北上し,赤道を越える。
すぐに人工的な幾何学模様がいくつも見えてくる。平坦な緑の土地に茶色の道路が通り,その周辺には色の異なる巨大な区域が開発されている。比較するものがないので大きさは分からないが,一つの区域はゆうに数100haはあるだろう。
そのような区域は道路が縦横に走り,土地を横が1,縦が5くらいの比率の長方形に細分している。これは造成中のアブラヤシかパルプ用早生樹のプランテーションであろう。そのような幾何学模様の土地はタラカンに到着するまで至る所で見られた。ボルネオ島東側の開発はそれほど急ピッチで進んでいる。
プランテーション開発は平地だけではなく緩やかな起伏の土地でも行われていた。広大な土地は地表の緑はほとんど剥ぎ取られており,周辺とは隔絶した世界になっている。この茶色の区画は雲に遮られるまで続いている。
こちらは確実にアブラヤシ農園である。緩やかな丘の尾根と周辺に道路が走り,斜面はまるで等高線のように茶色の濃淡の線が見える。この一段ごとにアブラヤシの幼木が植えられていく。
アブラヤシの実は酸化しやすいので,収穫後は24時間以内に搾油しなければならない。そのため,搾油工場が農園の近くに造られる。搾油工場をフルに稼働させるためには,それに見合った量のアブラヤシの実を年間を通して周辺から収穫しなければならない。
このような事情により,アブラヤシ農園は搾油工場に見合った広さで開発される。その広さは(工場の規模にもよるが)最低でも数千ha,最大級のものでは25,000haにもなる。これがアブラヤシ農園が小規模では成立しない理由である。
このような広大な土地は他の農地からの転用ではとても無理なので,原生林を伐採し新規に造成することになる。バリッパパンからタラカンまでの距離はおよそ500km,この間に見た農園造成地の多さは驚くほどであった。
機内からは緑の大地の上をゆったりと蛇行しながら流れる川を眺めることができた。そのような景色の中にも引っかいたような茶色の筋がどこまでも続いていた。これは木材伐採のための林道である。
まず,木材伐採が進み,その後に大規模な農園開発が始まるのが通常のパターンである。雲が多いため連続的に観察できたわけではないが,内陸の100km,200kmの範囲では,この引っかき傷のない地域はもう存在しないのかもしれない。
11:02,眼下の雲の切れ目から町が見えた。おそらくカヤン川の三角州の付け根にあるタンジュン・セローの町であろう。このようにサマリンダの北側にも河口近くにいくつかの町が点在するが,陸路で移動できる状態ではないだろう。
そのためマレーシアに移動するためには,空路もしくは海路ということになる。インドネシア国営のペルニもバリッパパンからタラカンへの航路をもっているけれど,2週間に1便では旅の日程を立てるのが困難である。
タラカンが近づくとセサヤブ川の河口デルタが見えるようになる。半分水没しているような地域でも人工的な線が走っており,なんらかの生産活動が行われていることが分かる。タラカンの滑走路は海岸線と直交しているので,対岸のボルネオ島の湿地帯から沖合いの島に向って飛行機は降下していくルートとなっている。
タラカン空港は国際空港となっていた。マレーシアからの便があるのかもしれない。空港の建物はロングハウスを思わせる伝統的な形状であり,屋根は一瞬板葺きと思ったら色を似せた瓦屋根であった。
ホテル・ジャカルタ
空港の外に出るとタクシー以外の公共交通はない。とりあえずタクシーの運転手に安宿についてたずねると,Hotel Jakarta という答えが返ってきた。その宿まではいくらと聞くと,5万ルピア(500円)という返事である。さてさてどうしたものかと思案していると,乗客を迎えに来ていた英語の話せる男性が町まで送ってくれると申し出てくれた。これはありがたい。
彼が迎えに来ていた乗客は彼の叔父でロング・バグンの出身であった。僕が「ロング・バグンに行ってきた,とても良いところだった」と話すと,二人はそうか,そうかと機嫌がよくなりホテル・ジャカルタまで送ってくれた。
ホテル・ジャカルタは海岸通りから内陸側に向う道路沿いにある。部屋は4万ルピアと7万ルピの二種類がある。高い部屋は満室だったので自動的に4万ルピアの部屋になった。入り口のところに受付があり,そこから奥に伸びる廊下の両側に客室が並んでいる。二階にも客室があり,こちらはきっと高い方の部屋であろう。僕の部屋は奥の左側で4畳,1ベッド,トイレとマンディは共同である。清潔で居心地のよい部屋であった。
ここは家族経営であり,受付や食堂,清掃の仕事は女性が中心となっている。受付の女性はいちおう英語が話せる。ランドリー・サービスもあり,5点をお願いしたら,おばさんたちが「いくらにする」というようにちょっと相談してから5000ルピア(50円)ということになった。
これはあまりにも安すぎる。翌日はトレーナーの上下の洗濯をお願いし,そのときは1万ルピアを支払った。おばさんは5000ルピアのつもりでいたのに1万ルピアを渡されちょっと驚いていた。身振りを交えながらおつりはいらないよと伝える。
昼食
12時を過ぎていたので昼食を探しに外に出た。宿の前の通りには食べられるところがない。こんなときは横道に入ると見つかることがある。屋台がいくつか見つかり,ミー・クア(スープ麺)をいただく。
この屋台はちょっと変わっていた。調理は屋台で行い,客はその背後の家の1階部分に置かれたテーブルで食べるというスタイルだ。この屋台のスープ麺は絶品であった。
スープのダシが上手に取られており,甘い味付けのチキンとフィッシュボールとの取り合わせもみごとだ。夕方にもう一度来てみたら屋台は消えていた。早朝から午後の早い時間までの営業のようだ。
東南アジアではこのような営業形態はよくある。1日分の材料が終わればそこで店じまいである。それで暮らしていければ問題はなく,それ以上に金を稼ぐ必要はないということだ。
街の中心部
海岸通りと東に向う道路のT字交差点が街の中心である。宿はこの中心部から海岸通りを南に下ったところにあり,そこからさらに南に行くと水上集落がある。町中の交通機関はやはりアンコタ(乗り合いワゴン)であった。宿の前の通りと海岸通りを走っており,料金は3000ルピアである。宿の前からアンコタに乗り海岸通りを南に下ることにする。途中で水上集落に入ることのできる道を発見したのでそこで下ろしてもらう。
水上集落
タラカン市の海岸は干潟になっているため,水上集落は海岸の広い面積を占めている。しかし,幹線道路の周囲は家屋が立て込んでいるため,アクセスする道が限られている。ボルネオ島では伝統的に干潟の上に建てられる水上集落が多い。海岸近くの陸地に十分な土地があっても彼らは水上集落を選択している。この理由はいつか調べてみたいものだ。
タラカンの水上集落はとても規模が大きかった。小さな水路のあるところでは多くの漁船が係留されていた。やはり,この地域は漁業関係者が多いようだ。水上集落には立派な木道の通りもあれば,歩くとちょっと危ないような小さな通りもある。道に迷わないように僕はできるだけ大きな通りを歩ていたが,面白そうなところがあるとついついそちらの方に紛れ込んでしまう。
水上集落の床下は・・・
現在は干潮のため陸側の水上集落では泥の地面が露出しているが,少し低い土地には水が溜まっている。集落の床下はゴミ捨て場になっており,汚水が悪臭を放っている。陸側の水上集落はほとんどこの状態である。
公共サービスが機能していない地域では,人間の生活空間はどうしてもこのような状態になってしまう。ゴミがどれほど自分たちの拠って立つ環境を汚染しているかというを人々は認識しようとはしない。そんなものは放っておけばどこかに消えてしまうだろうというのが人々の感覚であろう。
そんなことよりも,今日の生活費を稼ぎ出すほうがずっと大事なことなのだ。それは,この水上集落が特別だということではなく,発展途上国ではあたりまえのことである。
人類は自然から金額に換算できないくらいの多くの無償の恩恵を受けている。自然は人間の汚した水や大気を浄化し,食料,繊維,木材,医薬品などあらゆるものを提供してくれる。人類の生活はこのようなサービス無しには成立しない。
しかし,20世紀の人類はGNP(GDP)という自分たちの経済的価値だけに着目し,自然のサービスの価値を正当に評価することはなかった。自然資本がどれほど減耗しても,それは経済指標に表れることはなかった。ここに,経済指標のもつ根本的な欠陥がある。
自然資本の減耗分を正当に金額に換算すれば,果たして現在の経済が成長しているかどうかは,はなはだ疑問である。20世紀の100年間で4倍に膨れ上がった人口と17倍に成長した世界経済は自然をひどく傷つけることになり,いつかは人類の生存自体が脅かされることになるだろう。
大きな水路と魚市場
幅20m-30mの大きな水路がある。この水路も大小たくさんの漁船で埋まっている。水路の両側には木道があり,汚れた水路を見ながら移動することができる。さすがに漁船を伝って水路を渡ることはできないので,何本かの木製の小さな橋が架かっている。
漁船がくぐれなければならないので,橋は現在の水面からは5mほど高い位置に取り付けられている。そのため,この橋の上は集落内でもっとも見晴らしがよく,水路の海側と陸側を見渡すことができる。
漁船の数はずいぶん多い。これだけの漁船が水揚げする魚の量はたいへんなものであろう。タラカンの人口を考えると地元だけで消費できるとは思えない。
水路の先(海側)には魚市場がある。漁船はこの市場で魚を水揚げし,そのまま仲買人に引き取られる仕組みのようだ。午後の時間帯では魚市場は閑散としており,ごく一部で取引が行われているだけだ。
金額の張るエビは大事に扱われている。マハカム川の流域で見かけたオニテナガエビもいる。淡水産のエビだと思っていたら,汽水域でも生息しているようだ。
他にも白っぽいエビも扱われており,ここの卸値は1kgあたり6-7万ルピアとのことだ。日本の市場での取引価格(冷凍エビで1200円)の半額程度である。
火災からの再建
広大な水上集落の中には新しい家屋が立てられている一画がある。大きな火事があり,およそ100mX150mの区画が消失したという。家屋が密集し,消防は機能しない水上集落では火災を食い止める術はほとんどない。
それでも一部の人々は水上で暮らすことを選択し,新しい木道の先には新しい家が次々と建てられている。しかし,かなりの人々は水上集落での暮らしに見切りをつけたのかもしれない。炭化した棒杭だけが残る区画もある。
木道の先に出る
新しい木道をまっすぐ行くと海に出る。タラカン島は狭い水路を介してボルネオ島と向かい合っているが,前方には陸地は見えなかった。立っている位置が低く,対岸は半分水没しているような低湿地なのでどうにも見えないようだ。
陸からつながっている水上集落から100mほど離れたところに独立した水上家屋があった。交通は不便になるがここならもらい火事の心配は無い。
さきほどは陸側の水上集落の床下のゴミについて言及したが,海側では床下が水面ということでゴミの所在は隠されており,見た目はきれいな環境となっている。
ここでは木道に挟まれた空間が水路として機能しており,両側には数多くの小舟が係留されている。このような水路は海から内陸に入り込んでいる。
つまり,水上集落の人々は木道により町とつながり,水路により海とつながっている環境で暮らしているということになる。海の恵みに依存している人々にとっては水上集落という生活様式はとても合理的なものなのだ。
幹線木道
木道の中には陸側から海に向ってまっすぐ伸びている広い木道が何本かある。このような木道の両側には家屋が連なっており,風景は陸上の町と大差はない。唯一,バイクが木道を走ると相当大きな音を出し,この音だけが水上集落にいるんだなあと実感させる。
商店も普通にある。生の魚も売られているが,干物の方がずっと多い。ここでは魚を保存する手段が少ないので,干物が好まれるようだ。日本のように半生の状態ではなく,カラカラに干したもので,水で十分に戻してから調理する。集落のあちらこちらでは干物を作る光景を目にした。
根茎(根塊)の皮をむく
そのような幹線木道から路地の木道に入ると,人々の暮らしを見ることができる。家の前の木道で女性たちが直径20cmほどもある大きな根茎(根塊)の皮をむき,適当な大きさに切っていた。
イモの上部には直径5cmほどの茎から切り離されたときの切り口があり,下部には長さ30cmほどの複数の根が出ている。女性たちの扱いからして食用になるようだ。帰国してから調べてみても正体は分からなかった。
オリヅル教室を開く
家の前で4-6歳くらいの子どもたちが遊んでいるので集合写真を撮る。この集落ではどこでも写真は問題なかった。子どもたちはお行儀よく並んでくれた。これを見ていた近所の子どもたちが集まってくる。
最初の集合写真は6人,次のものは11人になった。この家のおばさんがいるので,子どもたちは安心して集合写真に参加するようだ。この人数ではヨーヨーは作ってあげられないので,オリヅル教室を開くことにする。
年上の何人かを選んで紙を渡す。子どもたちは何が始まるのかと回りを囲んでいる。玄関前の板敷きのスペースで折り紙を始める。紙の端をそろえて折るというのは彼らにとって始めての経験なのであろう。折り方がずいぶんぎこちない。
端や角を合わせる,押さえながら折るという行為は慣れないと意外と難しいものなのだ。それでもなんとか,僕の助けを借りながらオリヅルに仕上げることができた。回りのギャラリーを含めて集合写真を撮ったら15人になっていた。
集合写真
水上集落の家庭は子だくさんであり,一人の写真を撮るとすぐに近所の子どもたちが集まってきてこのような集合写真になる。
マングローブの森
水上集落の外れにはマングローブの森が広がっていた。マングローブ好きの僕にとってはうれしい光景である。マングローブとは一種類の植物ではなく,汽水域に自生する樹木の総称である。
僕は訪問したことはないが,日本の西表島にはヤエヤマヒルギ,オヒルギ,メヒルギ,マヤプシキ,ヒルギダマシ,ヒルギモドキなどからなる広いマングローブの森が広がっている。樹種により海水の塩分濃度,泥の成分など好みの場所があるらしく,複数の樹種が住み分けている。
マングローブの自生する汽水域(淡水と海水の混ざり合ったところ)は干潟となっており,地面は厚い泥に覆われていることが多い。塩分が多く,柔らかく,かつ酸素の少ない泥地で生息するため,マングローブは独特の根を発達させた。
あるものは柔らかい泥地で本体を支えるために多数の支柱根を発達させ,あるものは酸素の少ない泥から地表に呼吸のための根(呼吸根)を伸ばしている。このため,マングローブの林は独特の風景を形成している。
また,一部のマングローブは繁殖においても独特の方法を採用している。花が咲き,種子ができるところまでは他の植物と同じであるが,種子は親木に付いたままで発芽(胎生発芽)する。
発芽した状態で下に落ちると,あるものは親木の近くの泥にささり,そこで成長を始める。また,あるものは潮に乗り遠くの場所で成長して分布域を広げる。泥と海水に上手に適応した繁殖方法である。
木道の先には水域があり,その先にマングローブの林が広がっている。潮が満ちてくるとこの林は水に浸かることになるのだろう。うまい具合にこの水路に架かる橋があり,それを通って林の中に入ることができた。
狭い木道は今は水のほとんどない水路に沿って先に続いている。ゴミの散乱している水路には高さ40cmほどのマングローブの幼木がたくさん育っている。さすがにゴミが多いのでこの写真は紹介する気にはならない。
細い呼吸根を出している種類がある。周囲は呼吸根で足の踏み場もないほどだ。密生している呼吸根と多数の幼木が混ざっているところがあった。こうなるとどれが幼木でどれが呼吸根なのか見分けがつかない。地面はぬかるんでおり,裸足にでもならなければとても近づくことはできない。
高さ1mほどなのに立派な支柱根をもつものもある。幹の途中からアーチ状の根を出して,成長する本体を支えようとする戦略である。この樹種はとても写真写りがよい。全体的にこの森には若木が多いので,人々の努力によりマングローブ林を復活させようとしているのかもしれない。
この地元の人の生活道路となっている木道はマングローブを近くから観察するのにとてもよいところだ。枝先に茶色の先端の尖った楕円形をた種子を付けているものがある。また,扁平な円形の種子を付けたものもある。
僕はまだ観察してことはないが,映像ではこの状態で発芽し,細長い胎生種子に変化していく。これだけたくさん種子があるので中には発芽したものがないかと調べてみたが,見つからなかった。
小さな花が付いている枝を見つけた。つぼみと花が散った状態だったので花は想像するしかない。おそらくジャズミンに似た白い小さな花であろう。
マングローブの葉はいわゆる照葉樹のそれである。一年を通して同じような環境なので季節的に落葉させる必要はないのだ。若い葉は少し薄い緑色でとてもすがすがしい色をしている。古い葉は色が濃くなり,その多くは虫に食われた跡が残っている。
植物としては汽水域という他の植物が入れなかった環境にみごとに適応したマングローブであるが,葉を食べる昆虫という敵の被害は防げないようだ。また,病気により大きな被害を受けることもある。
マングローブの天敵
マングローブにとって最大の天敵は人類であろう。長い間,人類はマングローブの価値に気づかなかった。人類にとってマングローブは海岸を埋め尽くすやっかいな森林であった。水上集落を造るにも,エビの養殖場を造成するにもジャマ者であった。
一部の樹種を除き製材用としては使い物にならず,薪炭材にするの程度の利用価値しかなかった。そのため,人類はマングローブの破壊にほとんどちゅうちょすることはなかった。
2008年に国連食料農業機関(FAO)は深刻なマングローブ林の破壊について報告している。1980年には世界で1880万haあったマングローブ林は2005年には1520万haまで減少している。25年間で20%が失われたことになる。
特にひどいのはフィリピン,インドネシア,マレーシア,タイなどの東南アジアであり,破壊された面積はこの地域だけで190万haにもなるという。破壊の主原因はエビ養殖池の開発,薪炭材としての利用であるという。
マングローブ林の破壊と我々日本人の生活は無関係と思われる方が多いと思うが,木炭と養殖エビは日本に大量に輸入されている。木炭の場合,国内消費量の70%が輸入品となっている。その気になれば国内で十分にまかなうことができるのに,安価な輸入品に押されているのだ。
主要な輸入先であった中国は自国の森林保護のため2004年に木炭の輸出を禁止した。それに代わって東南アジアからの輸入が増加している。実はマングローブは木炭にするには適しており,適切な技術で生産すれば備長炭に匹敵する品質となるという。
養殖エビがマングローブ林を破壊していることはいまさら書くまでもないと思う。1970年代から日本の商社が中心になり,日本で開発された「エビ養殖技術」をもとに東南アジアなどで低コストのエビ養殖場を開発していった。いわゆる「開発輸入」という手法である。
エビの養殖はうまくいくとコメを生産しているよりはるかに利益がある。農民は水田をつぶし,漁民はマングローブを伐って養殖池を造成した。その結果,エビの大量生産が可能となり,日本人は安価なエビを食べることができるようになった。
世界の1/4のエビを消費する日本はその90%以上を輸入に頼っている。輸入量は約30万トン,輸入金額は約3700億円となっている。この金額は牛肉の輸入金額の約3000億円を越えて,輸入食品の第一位である。エビの輸入先はインドネシア,インド,タイ,ベトナム,オーストラリアとなっている。
高密度のエビ養殖事業は持続可能ではない。貴重なマングローブを切り拓いて造成した養殖池は,大量に投入される飼料,薬剤などに汚染され,同時に池の底にヘドロ状の廃棄物が蓄積し,5年程度で使用できなくなる。
そうなると,養殖場は放棄され,別の場所に新たに造成されるようになる。残されたのは破壊され,汚染された土地であり,そのような土地を再生するのは容易なことではない。日本人の豊かな生活を支えるために他国の自然環境が損なわれていくという事例は他にもたくさんある。その一方で食料自給率は下がり,炭焼きのような伝統産業は衰退している。
そのような中でもタラカン市では少し希望が見えてきている。ここでは沿岸部のマングローブ林を含む生態系を保護することを目的にマングローブ林拡大プロジェクト(生命の森プロジェクト)を推進されている。また,マングローブ林をそのまま利用した自然に近い状態でのエビ養殖も始まっている。自然を破壊する生産スタイルから自然と共生できる持続可能なモデルができることを期待したい。
干潟の生き物
水の残っているところですばしっこく動くものがいる。日本のトビハゼの近縁種であるミナミトビハゼ(ハゼ亜目・ハゼ科)はマングローブの代表的な住人である。
干潟の泥地に適用した魚で,えら呼吸と皮膚呼吸を併用する変わり者の魚である。そのため水が引いた干潟の泥の上で長時間活動することができる。ここでは,身の危険が迫った時にすぐ逃げれるように浅い水域から離れようとはしなかった。
もう一つの干潟の住人はドロガニ(ノコギリガザミ,マングローブガニ)である。ドロガニは泥の性質と満潮時の水位にもよるが,ここではあちらこちらに大きなアリ塚のような巣穴を作る。大きなものは高さ50cmほどもある。どうも自分の体に対して不釣合いなほど大きな巣を作るようだ。
また,日本の干潟でよく見られる,シオマネキ(スナガニ科・シオマネキ属)の仲間も見ることができた。ここのものは鮮やかな青色である。シオマネキはオスの片方の鋏脚(はさみ)が異様にに大きいのですぐ識別がつく。
左右どちらの鋏脚が大きくなるかは個体によって異なる。このカニは砂を口に運び,それに含まれるプランクトンなどをこしとって食べる。そのため小さな鋏脚が生存に有利なのだが,オスの場合はメスに対するディスプレイのため,大型化したようだ。進化の袋小路の一例であろう。
すばらしい(ちょっとゴミはあるものの)マングローブを見ることができたので,今日の探検は大成功である。このような木道の近くにも家屋があり,子どもたちが遊んでいた。二人の女の子のきれいな写真が撮れた。
すると家の中から6人もの子どもたちが出てきて写真をせがまれた。はいはい,全員の集合写真を撮り,画像を見せてあげると歓声が湧く。木道はまだまだ先まで続いているが,そろそろ夕方の時間帯になったので引き返すことにする。
潮がだいぶ満ちてきたので,海に面したマングローブの根本は海水に覆われている。幼木は何時間かの間,完全に水に没してしまう。このような環境でもマングローブはしたたたかに成長していく。
水上家屋におじゃまして写真を撮る
マングローブ林の外れのところの水位は1mほどにもなっており,かろうじて枝を水面から出している若木の向こうに海に突き出した水上家屋が連なっている。しかし,木道からでは家屋がジャマしている。水上集落の先端部の家に上がらせてもらい,そこから写真を撮る。
周辺の家屋は中心部に比べてずいぶん簡素だ。水に浸かりかけた床下は子どもたちの遊び場になっており,海辺の生き物をつかまえている。家にあがらせていただいたお礼に,ここの3人の子どもたちにヨーヨーを作ってあげる。
夕食
タラカンの食事はずいぶん高かった。まともな食堂で食べると2万ルピアあるいは3万ルピアくらいなので,どうしても屋台でいただくことになる。昼食を食べたスープ麺の屋台はすでに営業を終えているので,その斜め向かいの屋台にする。
ここのミー・ゴレン(ヤキソバ)は量が多かった。プラスチックでコーティングされた防水紙(インドネシアではよく見かけた,料理を包むために使用する)に山ほどのヤキソバを入れられ,1/3を残すことになった。残った分は紙で包んであやまりながらおばさんにお返しする。
軽い下痢が始まる
昨日の午後から下痢が始まった。腹痛も発熱もないので単なる下痢であろう。自分の制御範囲にあるので大した不安はないが,外を歩くときはトイレを意識しなければならない。06時に起床し,07時に出かけようとすると雨である。宿の外にあるベンチに坐って雨の通りを眺める。08時に雨が上がり朝食に出かける。
ナシ・チャンプルが11,000ルピア
昨夜,チョプスイ(中華丼)が4万ルピアと言われた食堂でナシ・チャンプルが11,000ルピアだったのでいただくことにする。黄色く色付けされたごはんの上に妙なソースの付いたフライド・チキンとお飾りのようにキュウリとヤキソバが乗っている。これもインドネシアの代表的な料理だ。
警察学校
宿の前の通りを東に(内陸側に)歩いてみる。テニスコートの横にある建物入り口付近に女性たちが集まっているので見学に行く。ここは警察組織が運営する幼稚園であった。インドネシアにおいては長い間,警察は国軍の一部であった。そのため,警察組織の階級には軍隊と同じものが使用されている。ちなみに国家警察のトップである警察長官に就任するためには警察中将(三つ星)の階級が必要とされているという。
さすがに,軍隊が国内の治安を担当するというのは民主主義国家にはふさわしくないということで,民主化が緒についた2000年に国家警察という組織に改編された。
国家警察が国軍から分離されたことにより,国内治安の向上と市民に信頼される警察サービスが期待されている。しかし,長い国軍時代に染み付いた腐敗体質から抜け出すのは容易ではない。それでも,ユドヨノ大統領という新しい時代のリーダーの下で,少しずつ変化の兆しが見えてきている。
この幼稚園はおそらく国家警察が国軍の一部であった時期に設立されたものと推測する。その頃,国軍は(国家予算以外の)潤沢な資金を抱えていたはずだ。建物の中に入ると先生が歓迎してくれた。わけの分からない外国人をこんなに簡単に教室に入れていいのかなあと思うくらいである。
子どもたちは男女とも警察の制服に似せた服装である。女子の制服の合わせはちゃんと右前になっている。教室内で着用している子どもは少ないものの,警官の制帽も使用されており,服装だけなら立派な警察官である。
英語のできる先生がいくつかの教室を案内してくれた。机の配置はクラスにより異なっている。正方形の机をいくつか置いて,その回りに子どもたちが坐るものもあれば,机を一列に並べて子どもたちが同じ方向を見る配置もある。
警察官の子どもというわけではないだろうが,子どもたちはとてもお行儀がよい。やはり,規律というものを小さい頃から躾けられているようだ。ある教室では先生が折り紙を出してきてきたので,僕の紙と合わせて4羽を折ってあげた。ここでは子どもたちには歌をせがまれ,メダカの学校を歌うはめになってしまった。
東に向う幹線道路を進むと門の前に子どもたちが何人か坐っている建物があった。看板には「Indonesian Planned Parenthood Association」と記載されていた。う〜ん,これは意味が分からない。英語とインドネシア語の表記があるところをみると海外からの援助で設立されたもののようだ。
中に入れてもらうと障害児と健常児が交流するための施設という印象を受けた。障害をもった子どもたちを社会が支えていく仕組みがこの国でも機能していることは喜ばしいことだ。
内陸探検
アンコタ(乗り合いワゴン)に乗り,内陸部にある先の大戦で亡くなったオーストラリア兵士の追悼モニュメントを見に行くことにする。この情報は宿のフロントでいただいたタラカン観光のパンフレットにこの情報は記載されていた。運転手にパンフレットの写真を見せながら「ここに行きたい」と言うと僕を乗せてくれた。アンコタはタクシーではないので,運転手は自分のルートで目的地に近い場所で僕を降ろしてくれた。
ここからどうやって目的地に行くかは運転手もよく知らないようだ。まあ,散歩がてらのんびりと歩き出す。こんなふうに適当に町や村を歩くのは僕にとってはけっこう楽しい。ロータリーの中心部に石油の汲み上げ機械をそのまま使用したモニュメントがある。戦前から石油が出ていたタラカンらしいモニュメントである。
石油掘削作業の壁画
ロータリーの近くには石油掘削作業の壁画があった。岩盤等を砕きながら地中深くまで地層を掘り進むのは非常に高度な技術を要する作業である。石油を掘り出す以前から人類は水や塩を得るために井戸を掘ってきた。
長い間,固い岩盤を削るため先端の尖った重量のある金属を落下させる技術が井戸掘りの主流であった。これは「衝撃式掘削方式」と呼ばれている。19世紀から20世紀にかけて技術革新があり,「ロータリー掘削方式」が主流となった。この方式は先端部にドリル・ピットをもち,これを回転させることにより岩盤を削るものである。
井戸の場合は垂直方向であるが,トンネルのように水平方向の掘削には回転式の巨大なトンネル・ボーリング・マシン(TBM)が使用されている。この機械もディスクカッターあるいはカッターヘッドを回転させることにより,岩盤を圧砕,切削しながら坑道の全断面を一度に掘削していく。
石油掘削においては先端部のドリル・ピットと地上の間は掘削パイプを経由して回転力が伝達される。掘削パイプは掘り進むにつれて継ぎ足し,1000m,2000mもの深度まで掘削することが可能である。
ちなみに,人類が掘削した最も深い穴は12kmである。それでも,大陸地殻の平均的な厚さ30kmの半分に達していない。マントル上部に達する穴を掘削するためには深海から掘削する方がずっと有利である。
マントル探査計画のため4000mの深海から7000mの深さを掘削できる地球深部探査船「ちきゅう(5.7万トン)」が2005年に就航した。海洋地殻の厚さは10km程度なので,計画が実現すると人類はマントル上部の様子を直接観察することができるようになるかもしれない。
石油掘削においては岩石を削る先端部のドリル・ピットは摩擦熱が発生するため冷却が必要となる。また削った岩石等を地上まで運搬する必要がある。そのため,掘削パイプに高圧の泥水を注入している。
泥水はドリル・ピットを冷却するとともに,岩石の削りクズと一緒に掘削パイプの外側を通って地上に戻ってくる。高圧の泥水は掘削孔内部の壁が崩落するのを防ぐ働きももっている。
掘削が原油層に到達すると地下の圧力により原油が噴出する。これを止める手立てを講じておかないと大変な惨事を引き起こすことになる。そのため,地表付近もしくはより深いところに暴噴防止装置(BOP)をもつ。現在では掘削作業の相当部分が機械化されているが,タラカンで油井が掘られていた時期には手作業が占める範囲が大きく,その時代の作業方法がこの壁画から読み取れる。
コナギ
田舎道を歩いていると湿地にホテイアオイに似た花を咲かせている植物がある。葉の先端部が鋭尖形であり,花の高さが葉よりも低いことからコナギ(ミズアオイ科・ミズアオイ属)の仲間であろうと推定した。
原産地は東南アジア,そこから東アジア各地へ水稲耕作の伝播ともに伝わったとされており,日本にも水田耕作とほぼ同時期にやってきたと考えられている。和名は小菜葱であることから分かるように古くは食用にしていたようだ。
同属のミズアオイも古くから帰化した植物で,水田や水路に自生しており,大きな群落を作ることもある。しかし,日本では生息環境が狭められ絶滅危惧種に指定されているという。
小学校
歩いている途中で中学校と小学校を見つけ,小学校に入ってみた。すでに授業は終了しており,校庭では子どもたちが遊んでいる。集合写真を撮ろうとするとみんな動き回りなかなかフレームが決まらない。ようやく,みんなの顔が見える一枚を撮ることができた。
日本人墓地
目的とするオーストラリア兵士の追悼モニュメントは見つからなかった。地元の人にパンフレットの写真を見せても収穫はなかった。代わりに日本人墓地が見つかった。
郵便配達のおじさんのバイクの後ろに乗せてもらい,3分ほどでそこに到着した。石段を登ったところに墓地の門があり,しっかり施錠されていた。郵便配達のおじさんが近所の家に声をかけると,おばさんが門を開けてくれた。二人にお礼を言って,中に入る。
この墓地はコンクリートの塀で囲まれており,右側に共同墓碑,左側にインドネシア風の東屋がある。墓地の周囲はパンノキやヤシの木が繁っている。墓碑の表には「日本人共同墓碑」と記され,裏側には「旧墓地 自大正九年,至昭和八年」さらに「昭和八年十二月移墓」と刻まれている。
ボルネオ島では戦前から日本人が居住しており,各地に日本人墓地がある。このような人々がどのような目的でタラカン島までやってきたのかはほとんど調べることはできなかった。
ここに残る共同墓地が現在まで地元の人たちによりちゃんと管理されているのを見て,石碑に触れながらよかったねとこころの中でつぶやいた。実際,この墓地はきちんと清掃されている。周囲の樹木からの落ち葉はほとんど落ちていない。最近落ちたものであろうか,パンノキの特徴のある大きな葉が一枚だけ目立っていた。
モスク
新しいモスクがあった。礼拝堂はほぼ正方形で屋根は三段に折れた四角錐になっている。その頂点には小さなドーム状の金属製の飾りが取り付けてある。隅に付属している一本のミナレットがなければモスクとは気が付かないような建物であり,いかにもインドネシアらしいモスクである。
このモスクもミフラーブ(メッカに面した壁面を示すために設けられた壁の窪み)が4mほどの奥行きをもった立体構造となっている。このスタイルはカリマンタンの特徴らしい。立派なモスクではあるが,礼拝堂の内部にはだれもいなかった。こんなときはタイル張りの床(じゅうたんの上はちょっと気がとがめるので)に坐って,頭を空にする時間をもつことにしている。
スイレン
さらに東の地域を探検するためアンコタに乗り,石油掘削用のやぐらが見えたところで下車する。そちらの方向に歩いて行くと,道路脇に池があり,みごとなスイレン(スイレン科・スイレン属)が咲いていた。いままで多くのスイレンを見てきたが水にジャマされて真上から撮ることは難しかった。この池では岸辺に一輪咲いていたので思わず大写しにした。
スイレンの和名(中国名)は睡蓮もしくは水蓮である。形態や花のよく似たハス(蓮)の仲間とされていたが,現在ではハスはハス科・ハス属として独立している。スイレンの仲間は昼に咲き,太陽が沈むと花を閉じる性質をもっているので睡眠をとる花ということで睡蓮という名が付けられたという。
インドネシアで見られるような熱帯性スイレンの原産地はエジプトとされている。熱帯性スイレンは多くの園芸種が生み出されており,この池のものもすばらしい花を付けている。スイレン科植物の花は一般的に外側に4-6枚のがく片,内側には多数の花弁をもつ。がく片は緑色のものが多いが,しばしばがく片と花弁の形や色が連続することもある。
この池のものは周辺のピンクの部分は多数あるので花弁であろう。中央部の赤い部分は雄ずい(おしべ)であり,その内側に普通の形状の雄ずいと雌ずいが隠されているはずだ。
スイレンは被子植物の中でアンボレラ科に次いで原始的である。そのため花の器官の特異性決定に関与するホメオティック遺伝子の働きが他のものと少し異なっているという。そのため,がく片,花弁,雄ずいといった器官の形状が少し変わっているのかもしれない。
種子植物が陸上に進出したのがおよそ4億年前であり,3億年前はシダ植物が大繁栄して石炭紀と呼ばれている。その頃の陸上植物は水辺を中心に巨大な森林を形成していたが,緑一色の世界で現在のような色とりどりの花は存在していなかった。
花をつける顕花植物(被子植物)が登場するのは恐竜が繁栄していた2.1億年前である。花という生殖器官は蜜というご褒美をもち,昆虫を引きつけることができた。昆虫を利用して花粉を運んでもらうという生殖戦略は非常に効果的で,顕花植物は急速に進化していった。
スイレンはその中でももっとも古い部類に属する種である。新しい植物の時代を担ったパイオニアだったと考えると,今までは単にきれいな花だと思っていただけのスイレンも何かすごい植物に見えてくる。
ピサン・ゴレン
道路の横に用水路があり,その向こうの庭先で女性がピサン・ゴレン(揚げバナナ)を作っていた。バナナの中には生食には向かないものもあり,それを加熱調理することにより独特のおいしさをもつおやつができあがる。
この家ではフライパンの上で溶かした砂糖をからめている。キツネ色になったバナナは少し熱いうちがもっともおいしい。このおばさんにいくら支払ったかは忘れたが,1個10円程度であったと思う。休息もとれたし,おいしいおやつもいただいたし,先に進むことにしよう。
石油掘削用やぐら
石油掘削用やぐらはあちらこちらに立っており,炎を上げている煙突もある。ちょっとわき道にそれるが,そちらに向うことにする。ポンプを使って石油を汲み上げるためのサッカーロッド・ポンプがある。この場合のサッカー(sucker)はスポーツ(soccer)ではなく(ポンプの)ピストン装置を意味する。同じようにサッカーには赤ちゃんのおしゃぶりという意味もある。
サッカーロッド・ポンプはエンジンの回転運動によりサッカーロッドを経由してパイプの底のピストンを駆動し,原油を押し上げる装置である。石油汲み出しパイプが油層に届くと,地下の圧力により圧縮されていた天然ガスが膨張し,その圧力で石油は自噴する。しかし,全体の20-40%ほどが汲み出されると圧力が下がり自噴は停止する。ここまでに汲み出された量を一次回収という。
大きな油井では原油を分離した後の水や天然ガスを油層に再注入し,残った原油を加圧して回収(二次回収)する。しかし,小規模な油井ではタラカンのようにポンプを使用して汲み出すことも多い。
サッカーロッド・ポンプの先端にはホース・ヘッドと呼ばれる重りがあり,これがゆっくりと上下している。汲み出された原油はそのまま送油菅に送られるため地上では見ることはできない。
アゼルバイジャンのバクーで見た汲み出しポンプの周辺には小さな原油溜りができていた。黒い粘つくような油であり,とても手を触れる気にはならない。揮発成分が無くなっているせいか,臭いはほとんど感じられなかった。
別の汲み出しポンプは送油菅が開放されており,そこから油混じりの茶色の水が出ていた。このポンプの近くには地面から突き出した煙突があり,その先端から炎が上がっている。周辺は深い藪になっており,とても近づく気にはならない。
腹具合がだいぶ逼迫してきた。いざとなれば近くの藪に入るという手段は残されており,精神的にはそれほど追い詰められてはいない。近くに民家があるのでそこでトイレを借りることにしよう。
トイレを借りたいという希望はなかなかうまく伝わらなかった。和式のトイレに坐る姿勢をとるとようやく相手も分かってくれたようだ。インドネシアでは和式に似たスタイルのトイレが多い。トイレを済ませ,お礼にこの家の子どもたちにヨーヨーを作ってあげる。
石油掘削用やぐらはいくつか見かけた。石油が出なくなったらこのやぐらは不要になる。解体費用がかさむためか,往時の風景を保存するためなのか,放置されたやぐらはタラカンの風景の一部となって並んでいた。
朝食
06時に起床する。どうやら下痢は収まったようだ。トイレの回数が多いときは紙を使用していると刺激が強くなるので,水洗(手動だけど)のありがたさがよく分かる。マンディと水洗トイレはインドネシア文化の好きなところだ。
朝食は宿の近くの屋台通りでおかゆをいただく。白粥の上に鶏肉を甘く煮たタレがかけてある。一緒にコメの粉を加工したサクサクした食感のスナックが付いている。このスナックは東南アジアの全域でよく見かける。
日本のスナックなら小麦かトウモロコシであるが,東南アジアではコメが主役である。クセの無い食べ物なのでサクサクと入ってしまう。塩味も付いていないので体にも良さそうだ。お粥の方はタレがちょっと甘すぎて口が飽きてしまう。
船着場に向う
町見物をかねて宿の前の通りを西に向う。10分ほどでT字形の交差点に出る。この交差点付近が街の中心部であり,ショッピングモールとケンタッキーがある。この交差点で南に折れ,しばらく歩くと昨日の水上集落に通じる路地がある。
近くに日本の交番のような警察署があったのでマレーシアのタワウ行きの船着場についてたずねると,紙に「Bout Tawindo / Indomaya Bout」と書いてくれた。距離は5kmほどあるとのことなのでアンコタに乗って南に向かう。
確かにけっこうな距離であるが,歩くことはできそうだ。道路の終点はUターンのできるロータリーになっており,ここがめざす船着場であった。立派なゲートがあり,「Port of Tarakan」と記載されている。
タラカンの次の目的地はマレーシアのタワウという町であり,ここから高速船が出ている。ただし,毎日運行されているわけではないので,その確認にここまでやってきた。
ゲートの守衛に運行日について確認しようとすると,守衛はゲートの内側の建物を指差した。今日は日曜日なので月曜日に船があるとありがたいなと思いながら,守衛の指差した建物に行くと閉まっており,情報は確認できなかった。
まあいいかとそのまま大きな突堤の通りを進むと埠頭に出た。構造的には埠頭は海岸に平行しており,突堤がそこにT字で突き当たっている。突堤も埠頭も海にコンクリートの杭を打ち込み,その上に建設している。
突堤の道路は歩行者用が分離されており,上には屋根がついている。この屋根がないと,雨の日に突堤から陸まで歩くのは難儀だ。T字の右内側には黄色の高速船が二隻係留されており,これがタワウ行きのものだと見当が付く。タラカン島の西側は水上集落が並んでいるので分かるように,比較的遠浅の海岸となっている。
大きな貨物船が接岸するためには,かなり沖合いに埠頭を建設しなければならない。そのため,陸から続く突堤は400mほどもある。埠頭の先端から北側を眺めると規模は小さいが石油積出し用の埠頭が近くにある。その先はずっと水上集落が連なっている。
埠頭には「NOZOMI」という表示のある大きな貨物船が接岸しており,貨物が積み込まれている。さすがのこの大きさの荷物は貨物船のクレーンを使用する。貨物を積んだトラックがやってきて,フォークリフトで下ろし,クレーンで積み込む。この作業がずっと続いていた。
南側では作業船に固定された杭打ち機械がコンクリートの柱をたたいており,乾いた音を響かせている。どうやら,もう一つの埠頭を造ろうとしているようだ。肝心なタワウ行きの船の日程は確認できなかったが,埠頭で商売している男性の話では明日の月曜日に船が出るらしい。
しかし,この情報は誤っていた。翌日,宿をチェックアウトして高速船のチケット売り場に行くと,「今日は船が運航されていない」とあっさり告げられた。正しい情報は火・木・土曜日の10:30出港,09時ごろから出国手続きが始まる。
幹線道路に戻り,港のゲートの少し北側から突堤の様子を眺めてみる。やはりこのあたりの海岸もだいぶ沖合いまでマングローブが水面から顔を出しており,遠浅になっていることがうかがわれる。
岸近くには4-5mに成長したマングローブが,その先には水面から1mにも満たない幹を伸ばしている若木がある。少し潮が満ちてくると水面下に沈んでしまうようなものもある。マングローブはこのような過酷な環境で繁栄を続けている。
南側の水上集落
船着場の北側の水上集落に入ってみる。やはり幹線道路からアクセスのできる道は限られている。この辺りからは対岸の島がすぐ近くに見える。それがボルネオ本島なのか河口に点在する小島なのかは分からない。前日の水上集落からどうしてこれが見えなかったのか不思議だ。
水上集落のかなりの部分は浅い水の上にあった。幹線となるような立派な木道はなく,幅1mくらいの狭い木道が家々をつないでいる。家屋はすべて木造,トタン屋根であり,もちろん平屋である。
マングローブの発芽種子
木道の上から潮の引いた干潟が見える。何かが這いずり回ったような跡が残っており,その近くにマングローブの発芽した種子が横になっていた。幹になる部分は小さな種子に比べてずいぶん長く伸びている。根はほとんど伸びていない。人の手で泥に植えられるとそのまま成長しそうだ。しかし,このままではうまく根付くかどうかは分からない。
昨日見たマングローブの林からは,毎年多数の種子が海に運ばれることだろう。それでも,うまく根付くのはほんのわずかであろう。人の手で植林することにより,自然状態よりはるかに効率よくマングローブ林を復活させることができるだろう。マングローブは植林後はほとんど手がかからないはずだ。わずかな労働力で大きな成果が期待できる。
干潟で遊ぶミナミトビハゼ
水上集落の陸側は干潟になっており,そこはミナミトビハゼの縄張りになっている。トビハゼの名前の通り泥の上でも危急のときは尾びれを使って素早くジャンプすることができる。しかし,ふだんは胸びれを使って体をくねらながら泥の上を這い回る。そのため泥の上には彼らの這った跡が残っている。
ある程度縄張り意識のある魚なのかもしれない。大きなものがやってくると,小さなものはあわてて逃げ出す場面を何回か目撃した。木道を人が歩くとトビハゼはあわてて逃げていく。そっと足音を忍ばせて木道を移動し,近づく作戦が必要だ。
どこかのテレビ番組でミナミトビハゼの雌雄の見分け方を説明していた。かなり記憶は怪しいが,背びれが立っているものはオス,後ろに倒れたようになってるものがメスだという。トビハゼの仲間は干潟の生活に最大限に適応しており,水中では溺れてしまう種類もあるそうだ。
ここの集落の子どもたちは写真に対して警戒感がなく,自由に撮ることができた。もっとも,そのような子どもたちが僕の後をついてくるので,こちらはちょっとわずらわしい。
魚を焼いている
この集落の中にも幅はそれほど広くないものの幹線木道のようなものがあり,そこで魚を焼いている家があった。開きや大小の魚が混ざっており,魚好きの僕にはごちそうに見える。町の食堂でいただくと2万ルピアはしそうな魚を欲しいと言うと,あっさりお皿で渡してくれた。「いくらですか」と言っても,「いらないよ」とあっさり退けられてしまった。
あつあつの魚を手でむしって食べるのは快感でもあり,口福(これは美味しんぼ用語)を味わう。十分にごちそうをいただいたので,これはぜひともお礼をしなければならない。近所の子どもたちを集めてヨーヨーを作ってあげる。もちろんこの中には僕の後をついてきた子どもたちも含まれている。子どもたちはたくさんおり,1ダースほどを作ったところで材料が無くなってしまった。
マングローブ公園を見つける
宿に戻り水浴びをして軽い昼食をとる。ヨーヨーの材料を補充して町歩きを再開する。T字交差点を北に歩いていくと高さ3mほどのコンクリートの塀で囲われたマングローブ林がある。
塀にはマングローブに生息している白さぎやテングザルの絵が描かれている。この塀で囲われて一画はマングローブの保護公園のようだ。さすがにテングザルはお目にかかれるとは思わないが中に入ってみる。料金は2000ルピアである。
第一印象は高密度の森
公園の内部は木道が整備されており,そこを巡りながらマングローブを観察することができる。実はこの公園は海からは少し内陸側にあり,この公園の海側には水上集落が広がっている。
満潮になると海水は水上集落と道路をくぐるようにしてこの公園に流れ込んでくる。しかし,その量は小川が流れ込んでくる程度である。そのような環境でも成育するマングローブ林の原始の姿を観察できる素晴らしい場所である。
第一印象としてマングローブ林がこれほど高密度に育つものかと驚いた。高さ15-20mほどもある大きな樹木の周辺には1-2mの若木が密生している。マングロ-ブ林における若木の生存競争は非常に厳しい。
多くの若木が太陽を求めて成長を競い合い,その中で幸運に恵まれたものが次の世代の成木になることができるのだ。僕は若木の密度に驚いたが,それは植物の世界ではごく当たり前のことだ。森の最盛期にあたる極相林においては太陽の光の大半は巨樹により遮られてしまい,そのような巨樹の寿命が尽きたとき,初めて次の世代が成長する機会が生まれる。
この公園の中のほとんどの場所は大きな木の茂みに覆われているため薄暗い。これらの若木が親木にとって代わるにはまだまだ時間が必要なようだ。この公園の中でもっとも繁栄しているのは幹の途中から多数の支柱根を出しているものである。この種類は成長すると,幹の周囲は四方八方に密生した支柱根で囲まれ,容易に近づくこともできない。
そのような支柱根の間を縫うようにして若木が育っており,その中には地中から呼吸根を多数伸ばしてものもいる。仮に公園内を自由に歩くことができたとしても,物理的に歩けるものではない。そのような環境を木道から眺めることができるのが,この公園の素晴らしいところだ。
地元の小学生がたくさん見学にきていた。彼らの写真も何枚か撮ったが,マングローブ林の素晴らしを紹介するだけで手一杯のため割愛せざるを得ない。
ここの最大級の樹木は根本部分は支柱根と一緒に曲がっているが,高さ2mから上の部分は比較的素直に伸びている。それでも,2mあたりの幹径が20cmを越えるものはほとんどない。これはマングローブの特徴なのか,この公園のものが最大径にまで成長していないせいなのかは分からない。
公園の樹木にはところどころに名前を記したプレートが取り付けられている。幹から複雑な支柱根を出しているものは「Bakau」と「Bius/Tinomo」,普通の樹木のような幹をもっているものは「Api-Api」である。もう一種類,プレートの取り付けられている樹種があったが確認を怠ってしまった。
インドネシア名 |
学名 |
和名 |
Bakau Api-Api Bius/Tinomo |
Rhizophora apiculata Avicennia alba Bruguiera parviflora |
フタバナヒルギ ヒルギダマシ ヒメヒルギ |
公園の外に出る
木道は海とつながっている水路にかかる小さな橋を渡り,公園の外につながっている。水路の土手はなんとか歩ける状態であった。ここは大きな木がなく明るいので,若木を観察するにはよいところだ。
水が引いて泥だけの状態の水路にはウミニナや鮮やかな青色の小さなカニがいる。水路の岸でじっと待っていると,おなじみのミナミトビハゼも近づいてきた。この魚をこんなに近くから撮影できたのは初めてである。
カニクイザルとテングザル
ここではカニクイザル(オナガザル科・マカク属)にばったり出会ってしまった。公園の中からエサを探しに水路に下りてきたようだ。
ニホンザルによく似た顔と体型をもっているが,尻尾は体長と同じかそれ以上に長い。頭頂部の毛が三角形に立っており,これはカニクイザルの特徴である。このサルは公園の水路側にたくさん見ることができた。公園内は薄暗いので,水路に出てきたものが良い写真になる。
カニクイザルは東南アジア全域に分布しており,ボルネオ島でもっともよく見かけるサルである。主として果実や種子を食べるが,名前のようにカニを食べることもある。この公園の個体は人間に慣れており,ばったり出会っても敵意を見せるようなことはなかった。
この公園の入り口に像が飾られていたテングザル(オナガザル科・テングザル属)はボルネオ島の固有種で,一属一種の珍しいサルである。
水辺の熱帯雨林やマングローブ林などに生息する。1頭のオスと複数のメスからなる群れをつくり,成樹上生活を送り,木の若葉,果実,種子などを食べる。テングザルのオスの成獣は鼻が長く垂れ下がり,そこから天狗にちなんだ和名が付けられた。
天狗とは無縁の英語名は「Proboscis monkey」,そのものずばり「長いしなやかな鼻をもつサル」である。こちらの種は住処である熱帯雨林やマングローブ林が破壊されたため,絶滅危惧種に指定されている。かってはこの辺りでも見られたのかもしれないが,現在ではとてもそれは望めない。
板根をもつマングローブ
公園の中に切り株が残っていた。この木の根は板状になっている。熱帯雨林のように表土の薄いところでは巨樹は巨大な板状の根を発達させて本体を物理的に支えようとする。
泥という支えに乏しい環境ではこの板根構造が本体を支えるのに役に立つ。これでマングローブの根の構造としては支柱根,呼吸根,板根の三種類を見たことになる。
巨大なカニの巣穴
公園内の一画には巨大なアリ塚のような土のかたまりがいくつもある。干潟の泥地でこのようなものを構築するのはノコギリガザミ(ワタリガニ科・ノコギリガザミ属)の仲間であろう。
平滑で鈍い光沢がある甲羅は楕円形に近く,横幅が200mmに達する大型のカニである。インド洋,太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布し,日本でも房総半島以南で見ることができる。英語名は「mud crab」のためドロガニと呼ばれることもある。
ここではマングローブの根元や干潟の泥地に大きな巣穴を掘る。掘り出した泥は巣穴の外に積み上げていく性質があるようだ。この地域の泥は比較的粘り気があり,乾くと固まるのでこのような巨大なオブジェになる。
昼は巣穴に潜み,夜間に水辺で餌を採る。そのため,大きな巣穴(泥山)は見たことはあっても,その主は市場以外では見たことはない。
ノコギリガザミは大きな鋏脚を使って貝類の殻を砕いて捕食する。貝の殻を砕くほど力の強いハサミは人間に対しても凶器となりうる。このカニはワタリガニの仲間なのでインドネシアでは食用になる。市場ではいつもヒモで縛られ,生きたままで売られている。
味は濃厚で美味という評判であるが,僕はまだ食べたことがない。コミックスの美味しんぼ20巻に掲載されている「カニカニ大合戦」は,松葉ガニ,マッド・クラブ,ワタリガニ,上海ガニのどれがもっともおいしいかというテーマであったが,個人的には毛ガニが一番だと思っている。
公園の横は大きな道路になっていた
マングローブ公園の北側は普通の陸上の土地になっている。フェンスによって荒地・アスファルトの道路とマングローブの森が隔てられているのはちょっと異様である。こちら側は埋め立てのように人為的に開発されたようだ。
マングローブ公園の海側には水上集落が広がっているので,そこにアクセスする道路が必要でだったと解釈した。水上集落の外れは30トンくらいの大型漁船がひしめいており,他の水上集落とは異なる風景となっている。大型漁船で大量の魚を捕獲するため,近くには製氷工場もある。
水路沿いの家屋の子どもたち
さらに北側に歩いていくと小さな橋があり,水路の両側には家屋が立ち並び,水路側には棒杭で支えられた板敷きの作業場がせり出している。ここは人々の台所でもあり洗濯場でもあり,ときには子どもたちの遊び場にもなっている。
橋の上から水路を眺めていると,子どもたちが集まってきて,さかんに僕に手を振ってくれる。橋の横の斜面を降りて子どもたちのところに行くと,写真をせがまれた。
はいはい,集合写真にしようね。でも人数が多すぎるので男の子と女の子に分けて撮ることにしようね。(やはり,女の子の方が絵になるからね)とは決して口にしてはいけない。
小さな子どもにはヨーヨーを作ってあげる。数に限りがあるので大きな子にまでは回らない。仲良く遊んでくれることを期待しよう。この子たちは僕がさらに北に歩いてくのを道路まで上がって見送ってくれた。
エビの養殖場を見学してから再びこの橋を通ると,子どもたちにつかまり,さきほどの場所でオリヅル教室を開くことになった。帰路につく僕を子どもたちは板場からずっと見送ってくれた。ちょっとほろっとするような出会いであった。
エビの養殖場
少し先には広大なエビの養殖場が広がっている。干潟の泥を積み上げて畦を造り,そこに水を入れる。風景としては水田に似ている。エビは汽水域でよく繁殖するので,ここの水も塩分を含んだものであろう。夕暮れの時間帯であったせいもあり,ずいぶん寂しげな風景に映った。
養殖場ができるまではこの辺りはマングローブ公園と同じようなところであったかと思うと胸が痛む。一見,水田のような構造をもった養殖場は自然環境のように潮の干満により海水が循環することがない閉鎖環境である。
そのような環境で高密度の養殖が行われるため,数年でエサの残りやエビの排泄物がヘドロ状に蓄積し,さらに使用された薬品等の汚染なども加わり養殖場としては使用できなくなる。放棄された養殖場に海水を引き入れても元に戻るには長い時間が必要となるだろう。
人々は次のマングローブ林を切り拓き,新しい養殖場を造成する。この養殖場の隣にはこれから養殖場になるのか,放棄された土地なのか,マングローブの若木が少し生えた土地もある。
宿をチェックアウトして08時にタワウ行きの船着場に到着すると,船が運航されるのは翌日だと告げられ,再び宿に戻ることになった。僕の部屋はすでに清掃されており,シーツと枕カバーは交換されていた。ここの女性たちの仕事はとても素早い。
今朝,出がけにメインザックの底部にカビが生えているのに気が付いた。今の部屋はけっこう湿度が高いので,あり得ないことではないが,ちょっとショックである。ときどき,ザックの虫干しをしなければならないようだ。
空港の南側の養殖場
タラカンの滞在が一日伸びたので空港の南側のあたりを歩いてみた。広さ1haほどの養殖場施設がいくつも並んでいる。中央部に何面かの池があり,その周囲をトラックのように幅5mほどの水路が囲んでいる。この水路はおそらく海につながっているのであろう。
養殖場の向こうは森になっており,かってはこの一帯が豊かな森林であったことがうかがわれる。森と養殖場の境界には白く枯れた大き木が寂しそうに立っている。
通常,エビ養殖場は小さな池で1m2あたり50尾程度のエビを養殖するため水車を回して酸素を供給している。この養殖場では水車が見当たらないので,養殖方法が異なっているのかもしれない。
海につながる水路には大量のウミニナが生息している。この巻貝もマングローブの森の住人である。彼らの食料はマングローブの落ち葉である。落ちたばかりで,まだ腐食していない葉をイモムシが木の葉を食べるように削りとっていく。ウミニナのフンはマングローブや植物プランクトンの栄養分として再び利用されることになる。
炭素,窒素,リンなど生物の体を作るのに必要な元素は生物の営みを通じて循環されていく。これが自然の姿であり,循環に必要なものは太陽エネルギーだけである。言い換えると(一部の例外はあるものの)太陽エネルギーがすべての生物の営みを支えているともいえる。
地球に生命が誕生してからおよそ40億年が経過している。そのほとんど全てといってよいほどの時間を生物は太陽エネルギーで生命を連綿とつないできたのだ。
石油・石炭・天然ガスという化石化した太陽エネルギーに支えられている現代文明も,21世紀に入り,ようや太陽エネルギーに回帰する動きが出てきた。風力,波力,水力などもすべて太陽エネルギーが姿を変えたものである。
おなじみのミナミトビハゼ(ハゼ科・トビハゼ属)も愛嬌のある姿を見せている。今回は横から眺めているので,飛び出した眼球の様子がよく分かる。
胸びれを使用して身をくねらせながら干潟を移動し,小さな動物を捕食する。危険が迫ると尾びれを使用して見事な連続ジャンプを披露してくれる。英語名は「mudskipper」,そのものずばりの命名である。
養殖場で働いている人たちに,この魚を食べないのかと質問すると,彼らはとんでもないとでも言うように手を振って否定した。人間に食べられることがないので,環境さえ残されていれば,この一族は繁栄することができるようだ。
水路には鮮やかな青色のカニが歩き回っている。小さいうえに距離があるので観察しづらい。その中の一匹の鋏脚が異常に大きくなっているのでシオマネキ(スナガニ科・シオマネキ属)の一種であることが分かった。
シオマネキは熱帯・亜熱帯地域の干潟に穴を掘って生息する。日本でも本州の太平洋岸,四国,九州の泥の多い干潟に生息している。潮が引くと地表に出てきて採餌活動をする。身の危険を感じると素早く巣穴に逃げこむので,観察する時は隠密行動が必要となる。
水路に架かる橋を渡って養殖池の土手を歩いてみる。作業小屋の近くでは稚魚が複数の小さな池で飼育されており,そこには体長2cmほどの稚エビと,4cmほどの稚魚がひしめいていた。稚エビは半分透き通った体をしており,まだ真っすぐな体つきである。
果物市場
空模様が怪しくなったのでアンコタ(乗り合いワゴン)で街に戻る。通常は3000ルピアであるが,運転手はタクシーがどうのこうのと言い,1万ルピアに対して4000をお釣りとして戻してくれた。
雨は2時間近く降り続き,その間は昼寝をして過ごす。日本で暮らしているとほとんど昼寝などの習慣はないが,旅先では暑さのためと運動量が多いのでよく昼寝をしてしまう。
午後はT字交差点の近くの果物市場を回ってみる。現在はドリアンの季節らしい。多くの店ではドリアンが並べられている。値段は安いもので15,000ルピアから5000ルピア程度である。これらの品質はどうみても良いとはいえない。
ドリアは熟すと自然に落下するするという性質をもっている。そのため,落ち場所が悪いと泥や朽ちた葉が付着してしまう。ここに並べられているのものは,そのような付着物がきちんと取り除かれていない。この値段ではしかたがないのかもしれない。
上物は2万ルピアはする。売り子の少年が「これはいいものだよ」と言うように,ゴミを取り除き終わったものを見せてくれた。このドリアンは枝が付いているので自然落下のものかどうかはよく分からない。
この大きさのものはとても一人で食べられるものではない。僕ならば四半分もあれば十分だ。ということでタラカンではドリアンにはありつけなかった。
代わりに大きなマンゴーを買った。一個7000ルピアのマンゴーは25cmほどもあり,とても一人では食べきれない。宿でおばさんに皮をむいてもらい,半分を手数料として差し上げた。
水上集落の寺子屋
T字交差点から少し歩いて水上集落に遊びに行く。この時間帯は潮が満ちており,床下のゴミが隠されるので,それなりの風情が感じられる。子どもたちはそのような環境で泳いでいる。ゴミと汚水は大丈夫なのかな。
家の前の狭い板敷きを利用して女性がアラビア語の読み方を子どもたちに教えていた。インドネシアではこのような私設のアラビア語教育を多くの町で見かけた。
ここの生徒はほとんどが女の子で,みんな大きなスカーフを着用している。年齢の幅があるため先生は生徒のレベルに合わせた読み方を教えている。彼らはコーランを音唱できるようになるためこうして学んでいる。
寺子屋が終了したので,先生に断り同じ場所で折りヅル教室を開いてみた。三人の年長者を選んで,オリヅルを完成させる。ついでに,針と糸を用意してもらい,ツルを細い竹の棒の先につるす方法も教えてあげた。
子どもたちの興味はアラビア語を覚えるのとどちらが上だったかは書かないでおこう。これですっかり子どもたちと仲良くなり,たくさんの集合写真を撮る(撮らされる)ことになった。子どもたちとも知り合いになったので,この地域ではほとんど自由に写真を撮ることができた