亜細亜の街角
石油基地がこの街を造り出した
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バリッパパン(バリクパパン)  (地域地図)

バリッパパンの街はマカッサル海峡に面して広がっており,街のすぐ西側は海峡から細長く北に25kmほど切れ込んだバリッパパン湾になっている。バリッパパンの基幹産業である石油コンビナートはバリッパパン湾に面しており,石油基地と北東に位置するサマリンダを結ぶ道路が地域の幹線道路となっている。一方,バリッパパンと南部のバンジャルマシンを結ぶ道路はバリッパパン湾に阻まれ,大きく湾を迂回してバリッパパンとサマリンダを結ぶ幹線道路に合流している。

このような道路事情のためバンジャルマシンからのバスはバリッパパン湾を横断するフェリーにバスごと乗船してサマリンダに到着する。石油基地の南側,バリッパパン湾の入り口のところにフェリーターミナルとインドネシア国営の船会社であるペルニ社の事務所がある。

バリッパパンの街は幹線道路沿いに発展しており,街の東側7kmの海岸沿いの空港に通じる道路沿いにも市街地は拡大している。街の中心部ともいうべきバリッパパン・プラザの交差点から,サマリンダに向かう北行きの幹線道路と東に向かう空港道路が分岐している。

バリッパパン湾に面している西側はプルタミナの石油コンビナート群があり,この区画はおそらく関係者以外は立ち入り禁止となっていると思われる。この区画の北側には伝統的な水上集落が二ヶ所あるとガイドブックには記載されている。僕の泊まったアイダはバリッパパン・プラザの交差点から北に向かう幹線道路の左側にある。交差点からの距離は3kmほどであり,水上集落までの距離もおよそ3kmである。

この町の発展を支えているものは1973年から操業している石油精製基地と石油コンビナートである。これらの施設はインドネシアの国営石油会社であるプルタミナが所有している。この巨大な独占石油会社誕生にはインドネシア独立時の事情が深く影響している。

第二次世界大戦以前からインドネシアの各地では油田が発見され,それらは現在のロイヤル・ダッチ・シェル,エクソン・モビル,カルテックスという欧米の石油資本が支配していた。インドネシア独立後,反植民地主義を掲げるスカルノは欧米系の企業も資産を接収した。

国有化の影響は欧米資本の石油企業にも及び,3つの国営石油公社が設立され,それらは陸軍が実権を持つ「プルタミナ(国営石油会社)」に統合された。プルタミナはインドネシアにおける石油,天然ガスの開発・生産・輸送・販売を独占している。

新しく誕生したインドネシアにおいては,国家予算により軍事費をまかなう余裕はなかったので,軍は国有化された企業の収益で予算をまかなった。これは独立直後のいわば非常措置であったが,スハルト体制でも温存され,軍が政府の統制から経済的に半独立する悪しき慣行が制度化されていた。

この中でも石油産業を独占していたプルタミナはオイル・ショックにより急騰した原油価格により巨額のオイル・マネーを生むことになり,「国家の中の国家」といわれるほどであった。プルタミナは設立当初から陸軍の聖域であり,豊富な資金は軍の裏財源としてスハルト体制をを支えた。

現在では政府の規制を受けるようになったが,それでも石油を独占する巨大企業の利権にあやかろうとする腐敗した政府高官は後を絶たない。インドネシアは世界的にみてももっとひどく腐敗した政府の一つと名指しで指摘されている。

2004年の選挙で圧勝したユドヨノ大統領(2009年に再選された)に国民は腐敗体質からの決別を期待した。彼の一期目の最大の業績はまがりなりにも腐敗・違法行為の一部を摘発し,法治国家としてのインドネシアを取り戻したことにある。彼はその名前の頭文字からSBYと呼ばれ,親しまれている。

ハビビから政権を引き継いだメガワティ前大統領は腐敗体質からの脱却に関してはまったく国民の期待を裏切ってしまったので,選挙の結果はある意味では当然の帰結である。

ムアラ・ムンタイ→コタバグン 移動

06時にチェックアウトして船着場まで歩いて行く。船着場には誰もいない。しばらく待っているとチェス(エンジン付きの小舟)がやってきた。船頭はコタバグンまで20万ルピアで行くと言う。

サマリンダからロング・バグンまでの船代が25万ルピアなので,この値段はひどく高い。断ると10万,5万と値段は下がった。もう一人乗客がやってきて,一人7万ルピアで行くという船頭も現れた。

チェスの地元価格はデータが無い。ムアラ・ムンタイからタンジュン・イシュイまでが外国人料金で20万ルピア程度である。すると距離が半分で帰りの客が期待できるコタ・バグンまでなら一人でチャーターした場合は10万ルピア程度,二人ならば5万ルピアで十分であろう。

地元料金はもう少し安いだろうが5万ルピアの船頭にお願いすることになった。船頭はガソリンを仕入れるということで僕から前金を受け取った。このチェスは別の船着場でもう一人の乗客を乗せ06:30に出発した。コタ・バグンまではマハカム川本流を通るルートと,北側のムリンタン湖,スマヤン湖を抜けて行くルートがある。船頭は後者を選んだ。これは旅人にとってはありがたい選択であった。

ムリンタン湖までは幅が5m-20mくらいの自然の水路でつながっている。水路が狭く他の舟もいるのでちょっと危ない感じを受ける。水路の周辺には比較的程度の良い森が残されている。10分程度で水路を抜け,ムリンタン湖の東側に出る。

ここはムリンタン湖から尻尾のように伸びたところで,その先は水路を介してスマヤン湖に通じている。見える範囲の岸辺には家屋が途切れることはない。ときどき岸を離れたホテイアオイの大きな固まりが浮かんでいる。

07:05,水路を抜けスマヤン湖に出る。スマヤン湖を縦断するコースになるので進行方向左側は広大な水面となっている。はるかかなたに樹木の列が連なる対岸が見える。

天気は良くない。低い灰色の雲がたちこめており,いつ雨になってもおかしくない。湖面は波立っており,そこをチェスは時速40-50kmくらいで飛ばすので上下動はひどい。船首からは水しぶきが上がっており,前方方向の写真に入ってしまう。

進行方向右側の岸辺には浮き家あるいは水上集落が続いている。中には立派な水上モスクも見かけた。漁師の船とも何回かすれちがった。ムアラ・ムンタイに淡水魚が溢れているのは,このような水郷地帯を抱えてるためである。

そういえば,ムアラ・ムンタイでは名物の「オオテナガエビ」は見かけなかった。高い値段で買ってくれるコタバグンやサマリンダまで運ばれるのかもしれない。ボートは湖水地帯を抜けマハカム川の本流に出たと思ったら,そこがコタ・バグンであった。到着時刻は08時,1時間半のチェスの旅であった。途中で霧の中を通過したので人も荷物もかなり湿っぽくなってしまった。

コタバグン

船着場から上陸するとそこはバスターミナルになっている。何台かの小型バスが並んでおり,サマリンダ行きのものはすぐに見つかった。チェスで一緒にやってきたおじさんもサマリンダに行くというのでご一緒する。

バス代は2.1万ルピアである。出発は08:30ということなので,近くの屋台でコーヒーとドーナッツ(3000ルピア)といただく。船着場に降りて対岸の景色を眺める。

コタバグンの対岸の景色

こちら側の岸は水面から2mくらいは高くなっているが,対岸は水面とほんんど同じ高さになっており,川沿いにはムアラ・ムンタイと同じように高床式の木道がある。見える範囲の家屋はすべて高床式となっている。

コタバグン→サマリンダ 陸路移動

コタ・バグンからサマリンダまではマハカム川で120kmとなっているので,陸路も同じくらいの距離であろう。120km/2.1万ルピア=50km/US$の計算であり,アジアのバス料金としては少し高い部類に入る。

もっとも僕の頭の中の数値は原油が1バレル50$くらいのときのデータなので,現在ではこのあたりが平均値なのかもしれない。バスは大型より一回り小さく,それでも4人掛けになっているのでかなりきゅうくつであった。幸いザックは通路にあった箱の上に置くことができた。

道路は片側一車線できれいに舗装されており,周辺にはまったく森は見あたらない。全体として平坦な地形で腕時計の高度計は50m-90mを表示していた。途中で道路の一部が陥没しており,あちこちに水たまりができている。

道路の周辺には農地はそれほど多くはない。かといってプランテーションというわけでもない。焼畑から回復しつつあるようなところが多いという印象だ。緑が剥ぎ取られたところは非常に赤味の強い地面が露出している。

集落がところどこにあるだけの人口の少ない地域ではあるが,そんなところにも学校があるのか,小学生が集団で下校している。マハカム川にかかる近代的な吊り橋を渡ったのでじきにサマリンダかと思ったら,それから1時間ほどかかり,到着は11:30であった。サマリンダの少し手前では油ヤシ,バナナ,コショウなどの農園が目に付いた。

サマリンダ→バリッパパン 陸路移動

バリッパパン行きのバスは大型のベンツである。出発は12:15なのでムアラ・ムンタイから一緒のおじさんと昼食をとる。ミー・クア(スープメン)は6000ルピア,なんとなく雰囲気で僕が二人分を支払うことになった。

バリッパパン行きのバス料金も2.1万ルピアであり,なんだか5%の消費税が付いているようだ。出発してすぐにマハカム川にかかる近代的な橋を渡る。橋の上からは「Kotak Amal Masjid」が大きく見える。さすがにこではマハカム川は一段と川幅が広くなっている。

道路の脇にバナナの茎を輪切りにして地面に植えている畑を見かけた。う〜ん,これでバナナが再生できるのかなあ・・・。油ヤシの大きな農園もある。まだ,若木の状態なので開発されてから日は浅い。バリッパパン到着は15時くらいだったと記憶している。

Hotel Aida

バスターミナルは町から離れているのでアンコタ(乗り合いワゴン)で宿泊予定の「アイダ」に移動する。アイダはこの町で唯一の安宿であろう。しかし,建物はけっこう立派になっており,入り口の前の駐車場には車が停まっている。

部屋は8畳,2ベッド,トイレ・シャワー付きでとても清潔である。料金は10.5万ルピアと高いがちゃんとした朝食が付いているので,実質的な部屋代は8.5万ルピアに相当する。

翌日の朝食はごはん,野菜炒め,ゆで卵,コーヒーであった。久しぶりに野菜をたくさんとることができてありがたかった。その翌日の朝食はナシゴレン,キューリ,玉子焼き,コーヒーとこちらも満足のいく内容であった。

庶民の足はアンコタ

バリッパパンの庶民の足となっているのはアンコタと呼ばれる乗り合いワゴン車である。ターミナルが宿の北側と中心部の東側3kmほどのところにある。

アンコタの前部には系統番号が記されており,それぞれ走行路線が決まっている。路線内であればどこでも乗り降りすることができ,料金は3000ルピア(30円)の均一料金である。ただし,3kmを越えるあたりから割り増し料金となる。

たとえば,中心部の交差点から7kmほど離れた空港に直行するアンコタを利用した時などは6000ルピアほどだったと記憶している。北のアンコタ・ターミナルから水上集落に向かう系統もあるが,これは利用するのがとても難しかった。結局,水上集落の行き帰りは歩くことが多かった。

宿から空港に向う時は宿→中心部交差点→東アンコタ・ターミナル→空港というように乗り換えて行くのが確実である。料金はそれぞれ3000ルピアである。

水上集落を見に行く

宿で一休みをして,16:30頃から水上集落を見に行く。ボルネオ島にはマレーシア側,インドネシア側を問わず伝統的に水上集落が多い。ただし,そのような集落はどんどん取り壊されて陸上の家屋に変わっている。この時点で見ることのできる集落も,明日は見られるという保証はない。

陸上に密集している家屋と石油コンビナートを分断しているひどく汚い水路に沿って海側に歩いて行く。夕方になりかけているので家の前で遊んでいる子どもたちの写真を手早く撮る。忙しいけれど速攻で人数分のヨーヨーを作ってあげる。

ガイドブックではここと北側に分かれて水上集落があると記載されている。この石油コンビナートに隣接する水上集落はほとんどが取り壊されている。残された水上集落に通じる高床式の木道の右側はずっとぬかるんだ空き地になっており,そのだいぶ先には北側の水上集落が見える。北側のものは新しく生まれ変わったような家並みになっている。

木道右側のぬかるみにはたくさんの杭が立っており,かってはここに多くの水上集落があったことが伺われる。現在は引き潮のため,ぬかるんだ地面も満潮になると水に覆われる。この地域でわずかに残された水上集落は木道のだいぶ先にある。こちらから見る限りでは水上のロングハウスである。ここでも大急ぎで子どもたちの写真を撮り,ヨーヨーをサービスする。

この家の横はマングローブの林になっている。しかし,岸側には水上集落があったため,周辺の土地はずいぶんゴミが散乱している。人が居住するとどうしてもゴミが出るものであるが,やはりこのような光景を見るのはつらい。人間は自然を汚しながら生きていくしかないのであろうか。

石油コンビナートと水上集落

石油コンビナートと水上集落が隣り合わせにある風景は富を生み出すものと生み出せないものの差であり,現在のインドネシアが抱える貧富の格差をそのまま映し出している。

国民の1/3は貧困ラインの生活をいていながら,インドネシアの一人当たりGNPは3000$を越えている。シンガポールには合法・非合法な手段で財産を作った超リッチのインドネシア人がたくさん居住している。

生鮮食品市場

いったん陸に戻り,北側を歩いてみる。少し大きな市場がある。建物の部分とシートを屋根代わりにした露天の部分がある。ここで遊んでいる子どもたちを写真にする。ごめんね,いそいでいるのでヨーヨーは作ってあげられない。

魚屋にはヒモでしばられたドロガニ(ガザミ)がたくさん売られている。このカニはマングローブの根元の泥の中で暮らしている。穴の中に入っているカニを素手で取り出すのはなかなか大変な作業だ。

太ったカツオも売られている。インドネシアでカツオが獲れるのかとお思いの方もいらっしゃるかと思うが,カツオは基本的には熱帯・亜熱帯の魚である。カツオ(スズキ目・サバ亜目・サバ科・カツオ属)やマグロ(スズキ目・サバ亜目・サバ科・マグロ属)は高度回遊性魚種とされており,移動範囲が極めて広い。

カツオは泳ぐ速度は25km/h程度,最高速度は50km/hにも達する。背ビレから胸ビレにかけての部分を残し,退化してなくなっている。エサとなるイワシなどの魚を追って,大きな群れとなり,熱帯近くから初夏の頃に日本近海を北上し,秋が深まる頃に再び南に戻るという大移動をするものもある。

太平洋の場合,カツオの産卵海域は北緯35度から南緯24度あたりである。カツオの仔魚は水温25℃以上の海域で成長する。カツオの成長は1歳で31-44cm,2歳で59-65cm,3歳で64-75cm,4歳で70-83cmと報告されている。1.5歳くらいから産卵可能となる。

日本列島の近くまでやってくるものは体長30cmを越えたものであり,その頃になると適水温は17-29℃に広がる。カツオの一部は黒潮に乗って,あるいは小笠原方面から日本列島の太平洋側にやってくる。

そのようなカツオを日本近海で捕獲する漁法が一本釣りである。漁師がどのようにカツオを探し,釣り上げるかはコミックスの名作「土佐の一本釣り(青柳裕介)」の中で詳しく描かれている。

日本人にはなじみの深いカツオであるが,近年は太平洋中西部でのカツオの巻き網漁がメインとなり,日本,台湾,フィリピン,韓国,パプアニューギニア,インドネシアなどの船団が活発に操業している。この海域での年間漁獲量は約120万トン(日本近海の一本釣りは約7万トン)に上っている。

ということで,今回訪問したインドネシア,マレーシア,フィリピンの魚市場にはごく普通にカツオが並んでいた。もっとも素人の僕にはカツオとソウダカツオを見分けることもできないし,カツオの鮮度(カツオは傷みが早い)をチェックする方法も分からない。

近代化された水上集落

市場の近くの水上集落(先ほどの水上集落の北側)は新しく生まれ変わりつつある。ここは立派な木組みの高床式の木道と同じ構造の板敷きの空間の組み合わせで構成されている。板敷きの空間は家屋を建てるためのものであるが,広場のようなスペースとして使用されているところもある。

家屋も新しいものが多い。立派なモスクもあり,二階建ての家屋も散見される。ボルネオ島で見た中ではもっとも近代化された水上集落である。

人々は板敷きということを除くと,普通の地面の上と差のない生活を送っている。もっとも一部にはまだ再開発が済んでいないところもあり,その一画には比較的粗末な家屋が並んでいる。

この集落の南側には立派なコンクリートの桟橋があり,この用途は分からない。通常の漁船が使用するには桟橋が高すぎるのだ。大きな船が接岸するにはこのあたりは浅すぎる。

特に使用されてはおらず,水上集落の木道からちょっと冒険をすると,コンクリート桟橋に乗り移れる。南側には塀に囲まれた石油コンビナートがあり,高い煙突からは炎が上がっている。

桟橋のすぐ近くには板敷きの運動場があり,白いペンキでバトミントンコートのラインが引かれている。もっともこのときは,サッカー場になっていた。

ごはんをご馳走になる

桟橋の水上集落に再移動し先端部に行くと,漁師の家族が食事をしていた。この人たちは僕をその食事に誘ってくれ,ごはんと焼き魚をいただくことになった。おばさんはインスタント・ラーメンも食べるかと身振りでたずねたが,さすがにそれは辞退した。

お礼にこの家の子どもたちにヨーヨーを作ってあげると,近所の母親たちが子連れでやってきて,10個くらい作ることになった。子どもたちの集合写真を撮ったのはもう18時を回った頃であり,そろそろ写真の限界時間である。この家の人々にお礼を言って水上集落を後にする。

石油コンビナートの夜景

南側の水上集落の入り口付近から石油コンビナートの夜景を撮る。実際には薄暮の状態であったが,マニュアルで夜景の雰囲気の写真に仕上げてみた。コンビナートの塔にはいくつもの明かりがともり,なかなかの夜景である。

満足のいく朝食

06時に起床する。この宿はずいぶん近くからアザーンが聞こえる。しかも,複数のアザーンが合唱となりいやでも目が覚めてしまう。僕の部屋は2階にあり,階段を下りたところにダイニング・ルームがある。

スタッフが金属製の容器に料理を入れ,コーヒーや紅茶のサーバーを準備している。ビュッフェ・スタイルなのでオープンは07時であるが,準備ができれば食べることができる。この朝食は宿代に含まれている。

何種類かの金属容器のふたをとり中身を確認する。今朝はごはん,野菜炒め,ゆで卵,コーヒーの組み合わせにする。久しぶりに野菜をたくさんとることができたのでとてもありがたかった。

コーヒーもなかなかの味で満足のいく朝食であった。街でこのくらいの食事をとると少なくとも2万ルピアはする。それを考慮すると宿代の10.5万ルピアはそれほど高くはない。このダイニング・ルームは中二階のようになっており,もう一度階段を下りると受付のフロアになる。

バリッパパン・プラザ周辺を歩く

宿の向かいは小学校になっており,その前から街の中心部に向うアンコタ(乗り合いワゴン)をつかまえることができる。北から下ると中心部はT字の交差点になっており,正面(南側)が「バリッパパン・プラザ」になっている。

この交差点には歩道橋がついており,その上は交差点の雰囲気を写真にするのに都合が良い。この交差点の周辺は都市の雰囲気をもつ商業施設になっている。さすがは石油に支えられた町という感じがする。

まだ08時前なので商業施設の多くは営業していない。近くにATMの集まった建物があり,クレジット・カードや国際キャッシュカードでルピアを引き出せるようだ。インターネット関連の看板は見かけなかった。

マカッサル海峡

交差点の背後(南側)はマカッサル海峡になっており,幅250kmの海峡をはさんでスラウェッジ島と向かい合っている。低いにび色の雲が垂れ込めているため,空と海の色彩的な境界ははっきりしない。

その間をぬうように貨物船がゆっくりと移動していく。南西の沖合いには海底油田の施設らしいものがかすかに見える。この遠方の施設を撮るには僕の手持ちのコンパクトカメラでは力量不足である。こんなときはやはり一眼レフが欲しくなる。

僕が一眼レフにあこがれるのは撮像素子の大きさと明るい望遠レンズのためである。画素数はそれほど選択基準にならない。最近のデジタルカメラの画素数はコンパクト・カメラでも1000万画素を越えている。画像にするとラージで3648X2736画素である。

PCのスクリーンの分解能は1024X768画素のものが多いのでラージで撮った画像はこのスクリーンの3.5倍も大きいのである。当然,原寸大で表示すると画像の1/3も表示できないのだ。スクリーンサイズに合わせるということは,画素を1/3.5に間引いて表示しているのである。

プリントについても同様のことが言える。通常のプリントでは256dpi ならば十分すぎるほどきれいな写真に仕上がる。サービスサイズならば100万画素で十分である。実は画像のきれいさに大きく影響するのはCCDと呼ばれる撮像素子の大きさなのである。一眼レフはコンパクト・カメラに比して大きな撮像素子を使用しているので,(その他の光学的,画像処理の技術もあり)きれいな写真に仕上がる。

海岸を西に歩く

海岸沿いの表通りを西に向かい海に向う道があったので海岸近くに出る。このたりは簡単な造りの食堂が海岸を埋めるように並んでいる。近くに大きな生鮮食品の市場があるので,その関係者のための食事を提供しているようだ。

少し先には木製の桟橋があり,その周辺に小さな船がたくさん停泊している。それらは漁船にしては小さすぎるなと思いながら近づいて見ると,やはり漁船のようだ。桟橋は水面から2m以上高いところにあり,これでは魚の水揚げもままならない。

桟橋の先端からは街の様子がよく分かる。東側は街の中心部で,周辺よりひときわ高い20階くらいの建物が頭を出している。エンジンのない2隻の小舟が桟橋を回りこむように沖の方に漕ぎ出している。

船を安定させるため,両側には船の大きさに合わせたアウトリガーが取り付けてある。不思議なことにこの船は大きな植物を積んでいる。まるで観葉植物の鉢を届けに行くような感じだ。いったいどこに向っているのだろう。

西側は水上集落となっており,その前には何隻かの漁船が停泊している。水上集落からははしごが水面まで続いており,それにより船との間を行き来することができる。

オリヅル教室を開く

ここの水上集落も干潮時は泥の上,満潮時は水の上という構造になっている。子どもたちは人見知りが強くて簡単には写真を撮らせてくれない。

ちょうど家の前の板敷きの場所で女性が子どもたちに勉強を教えていたので見学する。生徒数10人の寺子屋である。じきに勉強が終わったので机を借りてオリヅル教室(実はこれ以外のレパートリーはない)を開く。

日本のオリヅルは難しいけれど,立体的な造形が受け子どもたちの人気は高い。子どもたちは僕の手伝いはあっても自分で折り上げたという嬉しさに顔がほころぶ。このくらい仲良くなると写真は自由になる。

大きな生鮮食品市場

桟橋の周りは生鮮食品の大きな市場になっている。果物市場ではちょっと変わったものを見つけた。表皮の感じは釈迦頭によく似ているのだが,ほぼ円形であり固い感じがする。バンレイシ科の果物を一通り調べてみたがこのようなものは見つからなかった。

魚市場はもっとも活気があった。海側にはトリ市場もあったが,インドネシアは鳥インフルエンザが流行していることもあり,足を踏み入れなかった。

しかし,旅行中にメキシコ発の新型インフルエンザが世界的に流行するようになり,帰国後に多くの人からインドネシアは新型は大丈夫だったのと心配された。どちらかというと,新型は先進国の方が危ないと説明することになった。

魚市場では多くの魚が扱われており,大半は名前の見当もつかないものであった。その中でマナガツオが目に付いた。マナガツオ(スズキ目・イボダイ亜目・マナガツオ科)は日本からインドにかけて大陸の沿岸に生息している。カツオの名前は付いていてもサバ科でありまったく別種の魚である。

中華料理ではよく丸ごと清蒸にされる。この料理が定番かと思っていたら,日本では照焼き,西京焼き,ムニエル,香味揚げなどたくさんのレシピが紹介されていた。

マナガツオはクラゲをよく捕食し,主要な食料にしている。近年,日本近海では大型のエチゼンクラゲの大発生のニュースが多い。漁業に深刻な被害を及ぼすが,効果的な駆除手段がないのが原状である。

ところがアジやカワハギはこの大型クラゲを集団で捕食することが判明している。試験的に柱状漁礁を造ったところ,カワハギなどの魚が住み付き,大型クラゲが減少したという報告もある。自然の生態系を上手に利用した駆除法が確立すると,漁獲も増加するという二次効果も期待できる。

ギンガメアジ(スズキ目・スズキ亜目・アジ科・ギンガメアジ属)の仲間と思われる魚は体長が40-50cm,この魚は西太平洋とインド洋の大陸沿岸に生息している大型魚で日本でも流通に乗ることがある。この大きさのギンガメアジ属も数種あり,とても種を特定できるものではない。

体長40-50cm,薄い赤色の色っぽい魚はキダイ(スズキ目・スズキ亜目・タイ科)の仲間と思われる。ただし,キダイの分布範囲は本州から南シナ海までであり,ボルネオ島の東には生息していない。

数は少ないが鮮やかな青色の足をもつオニテナガエビ(長尾目・テナガエビ科)もあった。サマリンダのバスターミナルの食堂でぜいたくをして(25,000ルピアだけれど)いただいたものだ。マハカム川上流部での市場ではまったく姿を見なかった。やはり高値で売れる都市部に出荷されているようだ。

西太平洋の熱帯地域の魚であろう,体長が80cmほどもある大きな魚がこの市場にもたくさんいる。顔がすごいのでカメラ・アングルを変えて顔を強調して撮ってみた。これは水中で出会ったら怖そうだ。

デモ隊と警官隊

表通りに出て西に歩くと官庁街に出る。州庁舎か市庁舎の建物のにデモ隊が押し寄せてきている。道路の両側は警官隊によりいちおう封鎖されている。建物の前と横には機動隊の装備をした屈強の警官隊が控えている。報道のスタッフも来ており,写真に対しては何の規制もない。

デモ隊が建物に入ろうとすると警官隊に阻止される。それではと,デモ隊は小型トラックから輪切りにしたドラムカンを下ろし,中に入れてあった古タイヤに火を付けて気勢を上げる。アスファルトの道路の上でタイヤを燃やすと道路が傷むので,デモ隊もそのあたりに配慮している。

頃合を見計らって警官が消火器で火を消し止める。建物の前の警官隊に対してデモ隊が水の入った薄いビニール袋を投げる。特に危険なものではなく,警官の盾にぶつかって水を飛び散らせる。

これも一段落するとデモ隊は警官隊に押され,小型トラックに分乗して移動して行った。なんだか,デモに対する訓練を見ているような気がするほど平和的な光景であった。スハルト体制が崩壊し,民主主義がすこしずつ定着してきたのでこのような反政府デモも許容されるようになったようだ。

このあたりには近代的な官庁や銀行の建物が多い。先住民族の伝統的な紋様を描いた盾の形をした門飾りのある建物が目を引いた。正面ゲートには「Komando」という文字が見えるので,もしかしてこれは軍部の施設なのかもしれない。

この建物の道路を挟んだ向かい側は公園になっており,そこにはボロボロになった旗を掲げる兵士の像がある。一人は近代化された軍隊の服装をしているが,残りの二人は先住民族のように見える。う〜ん,これは何を意味しているのかな。

砂浜

公園の背後はビーチになっている。水はきれいだし,砂浜にはゴミも落ちていない。しかし,ここにはだれもいない。まるで,一般の人をシャットアウトしたプライベート・ビーチのようだ。砂浜の少し陸側には東屋があり,その横には車が何台も停まっている。

う〜ん,ここはいったいなんなんだ・・・と思っていたら,機動隊の人員輸送車が到着し,さきほどデモ隊と渡り合った警官の一団が降りてきた。なるほをこの一画は警察の管理区画なのだろう。もっとも警官たちは一仕事を終えた気楽さから,陽気に僕に手を振って建物の中に入っていった。

小学校

大きな小学校がある。ちょうど昼食休憩の時間帯だ。子どもたちは校舎の裏手にある露店で昼食を買っている。インドネシアの学校ではこのような売店が併設されている。

子どもたちの食べているものをチェックしながら僕もインスタントヤキソバ,サテ5本,氷入りジュースをいただいた。合計で1万ルピアの出費である。こんなふうに子どもたちと一緒にものを食べるとすぐに仲良くなれる。

子どもたちに手を引かれた教室に連れて行かれ写真を撮ることになった。しかし,教室はそれほど明るくなくデジカメの性能が・・・,子どもたちは着席しててもけっこう動くので集合写真のうち一人くらいはぶれてしまっている。やはり外に出てきれいな集合写真がいいね。

空港に行くが・・・

アンコタを二回乗り継いで空港に行く。バリッパパンからマレーシアとの国境に近いタラカンに移動する航空券をジャカルタの代理店で購入したが,バンジャル・マシンからサマリンダに移動するときに盗まれてしまった。

航空会社は分かっているので,もしかしたらチケットを再発行してもらえるかもしれないという淡い期待を持ちながら空港に向った。

最初のNo.6アンコタで東アンコタ・ターミナルに行き,そこで空港の前を通るNo.7アンコタに乗り換える。空港に向う道は立派である。運転手にはあらかじめ空港で降ろしてくれとお願いしておいた。おっ,空港の建物らしいものが見えたと思ったら,運転手はちゃんと近くで降ろしてくれた。

空港ターミナルはなかなか立派である。スリヴィジャヤ航空のチケット窓口でパスポートを提示して予約の名前を確認してもらい,チケットの再発行をお願いしたが,イーチケットではないので,再発行は出来ないの一点張りでらちがあかなかった。結局,32.5万ルピアでもう一度買うことになった。

空港から戻る途中で雨になり,東ターミナルに到着した時は土砂降りになっていた。近くの建物の軒先に逃げ込んで雨宿りをする。この雨では歩く人はほとんどいない。傘があったとしてもほとんど役に立たない。熱帯特有の強い雨がやってきたら,ひたすら雨宿りをするのがこの国の流儀である。


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