スラバヤはジャワ島東部にあるインドネシア第二の大都会である。その名前をもらった「スラバヤ通り」がジャカルタにあるので,これはちょっとややこやしい。スラバヤ通りはゴンダンディア駅の一つ南にあるチキニ駅の西側にある1kmに満たない短い通りである。
この通りは骨董品などを扱う200軒ほどの小さな店が集まっており,ジャカルタの観光名所になっている。インドネシアに行ったことのない方でもユーミンの「スラバヤ通りの妹へ(1981年アルバム”水の中のASIAへ”に収録)」という歌はご存知かもしれない。
妹みたいね 15のあなた
髪を束ね 前を歩いてく
かごの鳩や不思議な果物に
埋もれそうな朝の市場
やせた年寄りは責めるように
私と日本に目をそむける
でも “Rasa ・・・Rasa Sayan geh”
その次を教えてよ
少しの英語だけがあなたとの
掛け橋なら淋しいから Rasa Sayan geh
妹みたいね 小さなあなた
けれどとてもしっかりしてる
写真で見た波止場に着くころは
あなたくらい陽に焼けそう
オランダ造りの町もやがて
新しいビルに消されてゆく
でも “Rasa …Rasa Sayan geh”
その歌が大好きよ
土埃り 馬車がゆくスラバヤを
思い出せる 遠くても Rasa Sayan geh
この歌詞を読む限りでは現地案内役と思われる15歳の少女と歩いたところは「スラバヤ市」のように思えるが,やはりジャカルタの「スラバヤ通り」であろう。実際,スラバヤ市には港も殖民地時代の建物もあるので,もしかしたら「Jalan Surabaya」もあるのかもしれない。
この歌でもう一つ気になるのは「“Rasa ・・・Rasa Sayan geh” その歌が大好きよ」というフレーズである。ラサ・サヤンはインドネシア語,マレー語で「愛しい気持ち」を意味する。
この歌は何なんだろう。インドネシア民謡「かわいいあの娘」の中に類似のフレーズはあるけれど,どうもイメージが一致しない。もしかしたらマレー語圏のフォークソング「ラサ・サヤン」なのかもしれない。
コピ
スラバヤ通りは20年前とさほど変わっていなかった。ガイドブックの紹介文も半分くらいは20年前のものと同じである。ずいぶん昔にバリで買ったものとほとんど同じ女性像があり,思わず写真をとる。
店の裏手には屋台の茶店があったのでコーヒー(インドネシア語ではコピ)をいただく。インドネシアのコーヒーは豆とインスタントの二種類があり,インスタントの方はネスカフェと表示されていることが多い。
何も指定せずコピというとひいた豆とクリーム,砂糖にお湯を注いで出てくる。このコーヒーは3分間ほど待ってから飲むのが正しい。そのくらいの時間で豆の粉はカップの下に沈むので,上澄みの部分だけを飲むことができる。
ジャグサ周辺の路地
ジャラン・ジャグサの周辺にはたくさんの路地があり,朝食の散歩をかねてよくジャラン・ジャラン(散歩)していた。このような裏路地では人々の普段の生活を見ることができるし,子どもたちの写真も撮ることができる。子どもたちに写真のお礼として水ヨーヨーを作ってあげるとカンポンのあちらこちらから子どもを抱いた女性が集まってくる。
カンポンとは本来は「田舎」とか「ムラ」というような意味であるが,都市の路地裏に展開するムラ社会と同じような生活形態をもったブロックを指す言葉としても使われる。ジャカルタのような大都会でも人口の8割くらいはこのような都市カンポン,路地裏の人口密集地域に居住している。
今朝はオリガミを教えてあげることにする
水ヨーヨーは昔の縁日などで人気のアイテムであり,現在でもネットで注文すると宅配便で届けてくれるところがある。必要なものはヨーヨーセット,水と空気を一緒に入れるためのポンプである。
昔はヨーヨーの口の部分を縛るのにくろうしたものだが,現在の製品はパチンととめるプラスチックのクリップが付いているので簡単に作ることができる。今回の旅行ではザックに入るだけということで600個ほどをもってきた。
この日本のすぐれもののおもちゃは子どもたちにとても人気がある。最適年齢は4-10歳といったところだ。ともあれ,今朝の路地裏では希望者が多すぎ,見ていたおじさんの助言もあり途中で打ち切ることにした。
多少いびつでも自分で作ったものには愛着がある
朝食は「ナシ・ウドゥ」,ごはんに具入りのスープをかけたもので3000Rpである。まあ,日本でいうと「ネコマンマ」に近い。この日は日曜日だったので子どもたちが多いのでオリガミを教えてあげることにする。といっても,僕がちゃんと教えられるのはツルだけだ。食事をいただいたテーブルを使って何人かの子どもたちに紙を渡し,同じように折ってもらう。
不慣れな子どもたちにとってかなり難しい作業のようだ。何回か手伝ってようやく完成させることができた。形は多少いびつでも自分で作ったものには愛着があるのか,みんなとても喜んでくれた。僕の作った分はまだ自分では作れない一番小さな子にあげることにする。路地から出たところで朝食の代金を払っていないことに気が付いた。あわてて戻り食い逃げ状態を解消する。
インドネシア交通事情
ジャラン・ジャグサを南に行き交差するワヒッ・ハシム通りを東に行くとほどなくしてゴンダンディア駅に着く。この途中に四角い塔をもつ「Msjid Ctunyak」がある。モスクらしからぬ建物で,僕はここはレストランだと思っていた。今日は入り口にバリ島でよく見かけるヤシの若葉で飾られた長い竹が立てられている。この飾りは何かイベントがあることを意味している。
モスクの前の通りでは交通事故が起きており男性が倒れている。もう白バイがやってきて,倒れていた人は歩道に運ばれているところであった。インドネシアの交通マナーはひどく悪い。まあ,インドネシアに限らず東南アジアの交通マナーは日本に比べて格段に悪い。道路は車やバイクのためにあるもので,歩行者はその隙間をやっと通してもらう状況である。
四角い塔をもつ「Msjid Ctunyak」
車の方もちょっとでも隙間があると頭をつっこみ割り込もうとする。ウインカーは大きな通りから路地に入るようなとき以外ではほとんど使用されない。片側一車線の道路では対向車にお構いなしに追い越しをかける。対向車はライトを点滅させるものの速度は落とさない。あわやというところで無理やり先行車の前に出るような無謀運転なども日常茶飯事である。
そのような車の隙間を埋めるようにバイクが通り抜ける。インドネシアはバイクが庶民の足であり,道路には車の3倍くらいのバイクが走っている。このバイクの運転マナーは車以上にひどい。というより彼らにとっては交通規則はあってなきがもののようだ。
新郎の到着を待っている盛装の女性たち
さて,竹飾りのあるモスクでは結婚式が行われていた。建物の入り口には正装の男性と女性がそれぞれ左右に一列になって新郎の到着を待っている。
男性は「ソンコ」と呼ばれるイスラム帽を被り,白いシャツ,サロンを着用している。東南アジアのムスリム男性のイスラム帽は西アジアのものとは異なり,円筒型で頭全体を覆うようになっている。
女性は濃いピンク系のブラウスとサロン,年配の女性はブラウスと同系色のスカーフを着用している。インドネシアではムスリム女性のスカーフは「ジルバッブ」と呼ばれており,色やデザインはさまざまでマーケットなどではスカーフを被った頭部だけのマネキンがたくさん並んでいる。
この娘さんは特別の役があるようだ
結婚式のような公式の場ではほとんどの女性はスカーフを着用しているが,例えば列車の中で観察してみると着用率は50%程度である。インドネシアでは少なくとも女性のスカーフに関しては自由度があるようだ。
インドネシアは世俗主義国家であり,ムスリム女性といえどもスカーフの着用は個人の自由,裁量にまかされてきた。国民の大部分がイスラム教徒でありながら民主主義国家として機能していくためには「寛容と調和の精神」が必要であり,それは「シャーリアや原理主義」とは相容れないものである。
近くにはビデオと写真担当が待機していたので,彼らと一緒に結婚式の写真を撮ることができた。正装の女性たちを撮るのは既婚,未婚によらずまったく問題がない。
立会人の周囲に新郎・新婦と両親が集まる
花嫁はすでにモスクの中で待機しており,そこに花婿と両親,親族,参列者の一行が到着した。彼らは参列者を除きそのまま二階に上がり,続いて花嫁の集団が二階に向かう。二階の礼拝室では机が置かれ,立会人の周囲に新郎・新婦と両親が集まり,親族はその背後に並んでいる。インドネシア語のできない僕はどのような儀式が行われているかは分からない。
一方,下で待っている参列者は配られた菓子パン,チーズ,ミルクの入ったランチボックスを広げて食べている。僕もいただいたがさすがに一食分としては少し足りない。参列者はご祝儀を入れた封筒を渡していたので,僕も1万Rpを入れて差し出す。
コタ駅に移動する
結婚式でお呼ばれして軽い食事をいただいたのでそのままゴンダンディア駅からコタ駅に向かう。駅の下には食堂がいくつかあり,時間帯が合えば庶民料金で食事ができる。
周囲にはバジャイ(三輪車タクシー),バイクタクシーの運転手が集まっており,「タクシー?」の声があちらこちらからかかる。ジャカルタではさすがにベチャ(三輪自転車)はもう走っていない。
この辺りでは鉄道は高架になっており,一階でチケットを買い(コタ駅までは1000Rp),二階から乗車するようになっている。上り線と下り線のホームは異なるので改札のところで「コタに行きたい」と告げるとホームを教えてくれる。
反対車線には「錦糸町」行きの電車が入ってきた
ホームはなんとなく日本の都市交通のものに似ている。屋根はちゃんとホームを覆っており,これなら雨の日でも安心して利用できる。反対車線には「錦糸町」行きの電車が入ってきた。東京メトロの半蔵門線で使用されていた電車が遠く離れたジャカルタで第二の車両人生を送っているようだ。
日本の電車やバスはとても性能が良いし,まだ使用できる状態でも新型に切り替えられるのでインドネシアではずいぶん活躍している。コタ駅行きの電車も同系のものであった。
乗車率は130%程度でかなりの人が立っている
乗車率は130%程度でかなりの人が立っているにもかかわらず,なぜかつり革はなく,代わりに男性の背丈より少し高いところに金属のバーが取り付けてある。
コタ駅は始発駅のためとても立派だ
コタ駅はジャカルタから東に向かう列車の始発駅のためとても立派だ。待合室(といっても通路にベンチが置いてあるだけ)とホームは金属格子で仕切られており,キップを提示しないと中には入れない。
ジャカルタ歴史博物館
コタ駅のすぐ北側にはジャカルタ歴史博物館がある。1627年に市庁舎として建てられたもので,バタビアの時代はこのあたりが中心地であった。道路わきには大小の球形の石が置かれており「ん,これは何・・・」という感じを受ける。
道路を含め低い土地は広範囲に冠水していた
コタ駅周辺の様子を見ようと駅の南側の通りを歩いてみる。大きな運河があり,その向こうに線路が見える。この運河は本来はチリウン川の一部であり,コタ駅の東側を通りスンダ・クラパ港に注いでいる。
チリウン川が分流したもう一本の運河は真っすぐ北上しアンチョール遊園地の西側でジャカルタ湾に注いでいる。その他にも何本かの運河があり,それらは旧バタビアの城壁を守るため,および水運に使用されたようだ。
コタ駅の東側は運河に近いにもかかわらず,水はけが悪く,道路を含め低い土地はかなり広範囲に冠水していた。そのため線路に行くためには渡し板の上を通らなければならない状況であった。
バザール・イカン(魚市場)
さすがに駅周辺の見学はあきらめ,クタ駅からバイクタクシーでバザール・イカンに向かう。駅前にはベモ(乗合自動車)がたくさんいるが,「バザール・イカン」というと運転手は口々にバイタクで「行きな」とつれない返事である。
バイタク運転手の言い値は2万Rp(200円)であったが,せいぜい2kmなので1万Rpにしてもらった。これでもインドネシアの物価水準(地方では2000Rp/km)からすると非常に高い。
バザール・イカンは半島のように突き出したところにあり,その手前に海洋博物館とおぼしき古い建物がある。オランダ東インド会社の倉庫として使われていたものを博物館に改装したものだがどこが入り口かが分からなかった。
表通りの子どもたちは気軽に写真に収まってくれた
魚市場に向かう通りの両側には果物屋,雑貨屋が並んでおり,このようなところを見て回るのは楽しい。通りの突き当たりに巨大な魚市場の建物がある。時刻は正午を過ぎていたので照明は落とされ,薄暗く不気味な空間になっている。
周辺には魚を売る屋台がいくつか見える。扱っているものは太ったカツオやイカなどで,それほど興味の湧くものではない。魚市場の裏手には小さな家が密集しており,それらはおそらく漁師の住まいであろう。半分裸の子どもたちが走り回っており,写真を撮ろうとするとあっさり逃げられてしまった。
それに対して表通りの子どもたちは気軽に写真に収まってくれた。雑貨屋で水をもらいヨーヨーを4個作ってあげるとずいぶん喜んでくれた。
キャッサバ
今日はちゃんとした昼食はとっていないので,通りの屋台でキャッサバを油であげたものをいただく。これはけっこうおいしく,2個で1000Rpであった。
南米原産のキャッサバ(マニオク,マンジョカ)は世界中の熱帯地域で栽培されている。地上部は普通の低木であるが,地下に数本の細長い芋(塊根)をもつ。単位面積あたりの生産量はイモ類ではもっとも高く,荒地でもよく生育する。栽培も簡単で切った茎を地中に挿すだけで生育する。
皮をむき,芯をとってそのまま油で揚げていた
キャッサバは外皮や芯の部分にシアン化合物を含むので食用にするためには毒抜きが必要である。ちなみに世界のイモ類の生産量はジャガイモが3.1億トン,キャッサバ1.8億トン,サツマイモ1.4億トン,ヤムイモ0.4億トン,タロイモは0.09億トン(2002年データ)である。
ここの屋台で使用しているものはおそらく甘味種であろう。皮をむき,芯をとってそのまま油で揚げていた。味は甘味のちょっと少ないサツマイモに似ており,揚げてあるため喉につまる感じがなくサツマイモより食べやすい。
スンダ・クラパ港
バザール・イカンから橋を渡り北に向かうとスンダ・クラパ港に出る。僕の見たかった「ピニシ船」は運河を埋め尽くすように並んでいる。船は舳先を乗り上げるように,運河の壁面に対して直角に近い角度で停泊している。
インドネシアで現役の荷物運搬船として活躍している木造帆船ピニシ(現在はエンジンを装備している)は,50トンから1000トン程度で,数百年前からほとんど変わっていない。
アジアには1000年程度の歴史をもつ木造帆船がいくつかある。インドネシアのピニシ,中国のジャンク,アラビアのダウは交易船として,ヨーロッパが大航海時代(15-17世紀)に乗り出すはるか以前から,インド洋,アラビア海,ベンガル湾,南シナ海,ジャワ海などを巡っていた。
ピニシ船から積荷の材木が運び出されている
運河に停泊中のピニシ船から積荷の材木が運び出されている。クレーンなどの設備は一切無く,作業はすべて人力で行われている。板材をかついだ作業者が舷側から渡された板を伝って下りてくる。
これを見逃す手は無い。しかし,幅40cmほどの渡し板は人の重みで上下に揺れて歩くのはちょっとコツがいる。作業者のおじさんに手を引かれて船に乗り込む。
前部が少し持ち上がった甲板の一部が大きく開けられ,その下に荷物室がある。そこには,よくもまあこんなに積んだものだと感心するくらい大量の板材がある。下から持ち上げる人,それを受け取りトラックに積み込む人が忙しく働いている。この木材はカリマンタン島から運ばれてきたとのことだ。
ジャカルタの新ウオターフロントとなっている
スンダ・クラパ港からアンチョール遊園地までは3-4kmあり,やはりバイクタクシーで行くことにする。ミニバスの路線がないせいかバイタクの運転手たちは強気の料金を言ってくる。僕の希望は1.5万Rp,それに対して彼らの言い値は2.5万Rpであり,その間の溝は埋まらなかった。あきらめてミニバスでコタ駅に戻ろうとするとようやく1.5万Rpに下がった。
アンチョール遊園地は遊園地,ビーチ,ゴルフ場,プール,パサール(市場),ホテルなどから構成される巨大なテーマパークで,ジャカルタ市民の憩いの場となっている。アンチョールの西側には運河が走っており,再開発で高級住宅街に生まれ変わりつつある。30階建ての高層マンションもあり,ジャカルタの新ウオターフロントとなっている。
アンチョールは巨大なテーマパークである
入園料は12,000Rp,これで施設内を回ることができる。遊園地はさらに12,000Rpの入場券を買わないと入れない。まあ,公園のように整備された広い敷地内を歩くだけでも十分に価値はある。
縫いぐるみと記念写真をとる
着ぐるみのキャラクターはどこの国でも子どもたちの人気は高い。ここでもドナルド・ダックが子どもたちと握手をしたり,記念写真に収まっていた。
海岸の西側は護岸のための石が積まれており,そこから10人乗りくらいの遊覧帆船が出ている。人々はコンクリートの堤防に坐って海の景色を眺めている。残念ながらお天気はうすぐもりであり,泥の多い海底の砂が巻き上げられているため海の色はさえない。
いかにも南国の海水浴場という感じがする
ホテルの前の海岸は海水浴場になっており,たくさんの家族連れでにぎわっている。しかし,海に入っている人はそれほど多くはない。海岸にはココヤシの木が繁っており,いかにも南国の海水浴場という感じがする。イスラムの国らしく男性も女性も服を着たまま海水浴を楽しんでいる。
堤防の陸側には砂が敷かれ,カマボコ型の小さなテントが並んでいる。晴れても降ってもこのテントは役に立つ。人々は砂の上に敷物を敷いてくつろいだ時間を過ごしている。