人口は1000万人を越えるインドネシアの首都,東南アジアでも最大級の大都市である。この地域は16世紀にイスラム化されるまでは「スンダ・クラパ港」を擁する交易都市として発展した。16世紀に入るとジャワ島沿岸部は次第にイスラム化していく。1527年にスンダ・クラパはイスラム勢力に征服され,町の名前は「ジャヤカルタ(偉大な勝利)」と改名された。
16世紀末に香料諸島(現在のインドネシア東部の島々)との貿易を独占していたポルトガルに対抗するためオランダはコタ地区に東インド会社の拠点を置き,町の名前は「バタビア」と変えられた。オランダによるインドネシアの統治が進行するとともにバタビアは植民地の中心として急速に発展した。
第二次世界大戦中,インドネシアは日本軍に占領され,町の名前は旧称のジャヤカルタに近い「ジャカルタ」と改称され,インドネシア独立後も引き続きジャカルタとなっている。
街の中心は独立記念塔(モナス)を囲み1km四方に広がるムルディカ広場である。ここから南に1kmほどのところに安宿が集まっている「ジャランジャクサ」,北に3kmほどのところにオランダ統治時代の古い街並みが残るコタ地区(旧バタビア)がある。
コタ地区の中心部にあるコタ駅は鉄道の終点であり,時刻表には「ジャカルタ駅」と記載されている。ただし,列車により始発(終着)駅が異なるので注意が必要だ。
例えばジャカルタからスラバヤに行く場合はコタ駅から,バンドゥンやジョグジャカルタに行く場合はムルディカ広場の東にあるガンビル駅となる。また,ボゴールに行く各駅停車の列車はジャランジャクサの東にあるゴンダンディア駅から乗ることにとなる。
成田→ジャカルタ移動
インドネシア入国時には出国便(航空機,船舶)のチケットを所持している必要がある。入国審査時にチケットの有無はほとんどチェックされることはないけれど,所持していないことが判明するとトラブルになる。
そのため,今回の旅行ではガルーダ・インドネシア航空のジャカルタ・イン,バリ・アウトの1年オープンの往復チケット(日本帰国便の日付変更が無料で可能)を入手した。往路の行程はバリ経由ジャカルタ行きとなるため航空追加料金が必要となり,料金は104,000円である。ただし,ジャカルタ空港の空港税は別料金となる。
インドネシアは2004年から入国の際ビザが必要となった。ジャカルタやデンパサールなど主要都市の国際空港,国際港であれば30日の到着ビザ (Visa on Arrival) の取得が可能である。ただし,このビザは原則として延長はできない(なにがしかの手数料を支払うことにより延長するルートはあるらしい)。
17,500以上の島からなるインドネシアをしっかり見ようとすると,30日ではまったく足りない。陸路で第三国に出国する地点はカリマンタン島とチモール島に限定される。船舶を利用しても状況はさほど変わらない。
そのため,旅行計画を立てるとき,いつも出国地点をどこにするかということを考えておかなければならない。今回の旅行はマレーシアで2ヶ月ビザを取得できたので後半のインドネシアははかなり短縮することができた。
成田を11:00に出発しデンパサールには現地時間の17:30に到着した。途中でフィリピンの上空を飛行したようで,セブ島と二本の橋で結ばれているマクタン島を見ることができた。機内食は日本食が選択でき,それには大福が付いており,甘党の僕を喜ばせる。
デンパサールで18:30のジャカルタ行きに乗り換え,19時過ぎに到着した。国土が東西に非常に長い(東経95度から東経141度)インドネシアでは3つの時間帯がある。
経度差の46度は時差にして3時間に相当するので,時間帯の設定は必要なことだ。しかし,バリ島とジャワ島の間に時差が生じるため,日本からバリ,ジャワと移動する僕は2回も時刻合わせをしなければならず面倒なことになる。
ジャカルタ空港の正式名称は「スカルノ・ハッタ国際空港」,インドネシアの初代大統領スカルノと副大統領ハッタの名前にちなんでいる。ちなみにデンパサールのグラライ国際空港の名前はグスティ・グラライ将軍からきている。
スカルノ・ハッタ国際空港
イミグレーションの手前にアライバルビザのカウンターがある。窓口で25$を支払うとレシートを渡される。それを次の窓口で出すとビザのシールを貼ってもらえる。あとは通常のイミグレーションである。
なぜか,カスタムのグリーン・ラインでは荷物のX線検査を受けなければならなかった。新品の電化製品などは個人使用物品とはみなされず課税されることもあるので,入国時の検査を実施しているようだ。
2009年1月末の時点では1$=90円の円高となっており,両替レートは1万円は123万ルピアであった。空港内の両替レートは市内のそれとほとんど変わらない。インドネシアの最高額紙幣10万ルピアは街中では簡単に使用できそうもないので5万ルピア札にしてもらった。
金額のまちがいや意図的に少ない金額を渡されることがあるので,両替時には必ず金額を確認する必要がある。1万円で5万ピア札が24枚,5万円では123枚,時間がかかってもレシートの金額と照合する。
インドネシアでは旅行中に1万ルピアを100円で計算して物価の目安とした。5月中旬に再入国した時のレートはルピア高,円安の方に振れ,1万円は100万ルピアを少し切るほどになっていたのでずいぶん損をしたような気持ちになった。
この空港から市内に移動するにはエアポート・バスかタクシーを利用することになる。カスタムを通過したのは20時近くなっており,バスの運行はもう終わっている。
空港内にはゴールデン・バードのチケット・ブースがあり市内までの料金を聞くと19万Rpと告げられた。「う〜ん,高いな」と応えると,15万になった。どうやら車種により料金が異なるようだ。
ガイドブックによるとジャカルタ空港のタクシーはとても評判が悪い。その中で比較的安全とされているのがブルーバード系列のゴールデンバードである。チケットを買うと係員の女性がタクシーまで案内してくれる。車も新しく,運転手はそれなりに英語を話し,ジャラン・ジャクサまで行ってくれた。
ジャラン・ジャクサでは2つの宿で満室と断られ,ようやく「Kresna Hotel」に宿泊することができた。部屋(5万Rp)は8畳,2ベッド,トイレとマンディーは共同である。インドネシアの安宿ではシャワーの代わりに,水槽に水を貯め,そこから手柄杓で水をかけるスタイルが一般的である。
ジャラン・ジャクサ
ジャラン・ジャクサ(ジャクサ通り)は端から端まで歩いても350mほどしかない。この通りの両側と,そこから入った路地にはたくさんの安宿がある。欧米人のバックパッカーが集まるので旅行会社,レストラン,コンビニエンス・ストア,ネット屋ができ,とても便利な環境となっている。
ジャカルタの次の訪問地はカリマンタン(ボルネオ島)の南端にあるバンジャルマシンである。国営のペルニ船でも行くことができるが,週1便程度であり,かつ時間もかかるので,ジャランジャクサ通りの中ほどにある「ロベトゥール・クンチャナ」という旅行会社でチケットの値段を聞いてみる。
ジャカルタ→バンジャルマシンは40.5万Rp(4000円),バリパパン→タラカンは37.5万Rp(3700円)という安さである。これでは船を利用する気にはなれない。この料金の中には旅行会社のコミッションが含まれており,盗難のためバリパパンの空港で買い直したチケットは32万Rpであった。
インドネシア,シンガポール,マレーシアの主要都市を結ぶ空路は競争が激しくずいぶん安値になっている。僕の持っていった6年前のガイドブックの料金と比較すると宿代やバス代は2-3倍になっているにもかかわらず,主要な路線の料金は逆に半額程度になっている。
2008年にASEAN(東南アジア諸国連合)域内の「空の自由化」が始まり,新規の格安航空会社の参入が大きく影響している。マレーシアを中心の「Air Asia」やインドネシアの「Lion Air」はコスト削減が徹底しており,空を飛ぶバスといったところだ。
インドネシアでは2000年の規制緩和により新たな航空会社の設立が相次いでいる。航空運賃の引き下げ競争も始まるなど、航空産業は変革の時代を迎えている。利用者数も1999年の630万人から2006年には3400万人と急増した。
しかし,安全対策は置き去りにされてきたようだ。2002年から2007年にかけてインドネシアで発生した航空事故77件のうち事故調査報告書が提出されたのがわずか6件である。 欧州連合(EU)は2007年にインドネシアの航空会社51社に対し「安全性に問題がある」として域内での運航を全面的に禁止した。
この措置は航空産業が「世界標準」をクリアしなければならないと認識させた。EUの運行禁止措置はインドネシア政府の働きかけもあり,2009年に一部の航空会社については解除された。その一方で競争の無い路線はずんいぶん高いものになっている。バリ島からフローレス島のマウメレまでは一社しか飛んでないため178$と高額で,しかも込み合っている。
ミー・スープ(ラーメン)は5000Rp程度
もっともジャラン・ジャクサの外国人向けのレストランは地元価格に比べ3倍程度の値段なので,食事はもっぱら屋台や駅の食堂を利用した。屋台の卵入りナシゴレン(インドネシア風チャーハン)は7000Rp,ミー・スープ(ラーメン)は5000Rp程度,食堂の魚料理は15,000-20,000Rp程度である。
ただし,店によっては注文前と食べた後では値段が異なることもあるので,注文する前に値段を確認することを怠ってはならない。
スマトラ島のブラスタギの食堂では,最初のミーゴレンは値段を確認したので7000Rp,二度目のワンタン・ミーは値段を確認しなかったので14,000Rpを請求され,ずいぶん嫌な思いをした。
陰気な雨
1月末から2月初旬,ジャカルタは陰気な雨にたたられた。スコールに代表されるように熱帯の雨はザッと降って,後はカラッと晴れるパターンなのだが,ここの雨は梅雨のようにシトシト長時間降り続き,旅人泣かせである。
それでも,ジャカルタには5日間滞在したので,雨の合間を見ていくつかの観光ポイントを回ることができた。市内の交通機関の主役のはずのミニバスは行き先が分からないのでずいぶん使いづらく,列車とバイクタクシーのお世話になった。
イスティクラル・モスク
ムルディカ広場の北東に位置する国立のイスティクラル・モスクは東南アジアでは最大規模のものである。1961年のスカルノ大統領時代に建築が始まり,1978年に完成した。
このモスクの名前イスティクラルは独立を意味し,独立直後のインドネシアの意識の高揚がみて取れる。滞在2日目は金曜日なので集団礼拝を見学に行くことにする。
しかし,またもや雨である。天候が回復してきた11時にアザーンが始まった。時間がないのでバイクタクシー(バイタク)を利用した。値段交渉は難しく3.5km程度の距離に対してどうしても10,000Rp以下にはならなかった。ヘルメット無しでバイクの後部座席に坐りモスクに向かう。交通量が多く運転の荒いジャカルタではちょっとスリリングな体験である。
かっては巨大な太鼓でアザーンを知らせていた
モスクの入り口付近に履物の預かり所があり,僕もクツを脱ぎ,靴下をその中に入れ,預ける。番号札が手渡されるのでまちがいはほとんど起こらない。モスク本体の中心部は礼拝堂になっており,非ムスリムはそこには入れない。
礼拝堂入り口の手前に事務所があり,そこに常駐している英語のできるガイドがモスク内を案内してくれる。巨大なモスクとはいえ,構造はシンプルなのでわざわざ案内してもらうほどのこともないが,それがここのしきたりのようだ。
礼拝堂の周囲は回廊になっており,上部は庇のように2階部分がせり出している。そこには巨大な太鼓が置かれている。おそらく,スピーカー・システムが整備される前はアザーンの代わりにこの大太鼓を打ち鳴らしていたのであろう。
モスク本体の東側には石畳の広い中庭がある
ガイドは建物の1階部分を一回りし,3階から礼拝の様子を見学するようにと言いながら訪問者台帳に氏名等を記載するように求めた。必要事項を記入し,5000Rpをザカート(喜捨)として差し出すとあっさり受け取ってくれた。
クツの預かり所には1000Rpを払い何も苦情は出なかった。旅行記によっては50,000Rpを要求されたなどという表現もあるが,モスクは礼拝の場であり,自発的なザカートはあっても金額を指定して要求されることはない。
モスク本体の東側には石畳の広い中庭があり,その外側にミナレットがそびえている。モスクの大きさを伝える尺度してよく使用される「収容人数」は,建物内の礼拝堂に加えて,中庭の面積が含まれている。
今日は金曜日,集団礼拝日である
東南アジア最大といわれるこのモスクの礼拝堂で収容できるのはせいぜい1万人であるが,中庭を加えると数万人ということになる。今日は金曜日であり,普段の日よりずっと多くの人々が集団礼拝に訪れる。それでも礼拝堂が溢れることはなかった。
前列から一列ずつ埋まっていく
礼拝堂には徐々に人が集まり12時を過ぎると6-7割のスペースが埋まっていた。イスラムにおいては男女が一緒に礼拝することはない。多くの場合,礼拝堂内部に仕切りが設けられ,女性は隔離された空間で礼拝する。このモスクでは3階に女性用の礼拝所があり,同じく3階から見学していた僕は男性,女性双方の礼拝を見ることができた。
カテドラル(Gereja Katedral Jakarta)
イスティクラル・モスクの向かいにはネオゴシック様式の Gereja Katedral がある。国立モスクの目の前にローマ・カトリック教会のジャカルタ大司教座の建物があるのはインドネシアの宗教政策を端的に象徴している。
東西に散らばった多くの島から構成されるインドネシアは多民族国家であり,民族同様に言語,宗教も多様である。このような島嶼国家をまとめるため独立時には古いジャワ語の「ビネカ・トゥンガル・イカ(多様性の中の統一)」を建国の理念とし,国章にも刻み込まれている。
礼拝堂オーソドックスなスタイルだ
その意味するところは「多様な民族,言語,宗教をもつ集団から構成されるインドネシアをまとめるためには国民は寛容と調和の精神が必要である」とされている。この理念から国民の87%がムスリムにもかかわらず,インドネシアは信教の自由を憲法で保証し,イスラム教を国教としていない。全人口の13.1%はキリスト教徒,3.4%はヒンドゥー教徒となっている。
十字架で死んだキリスト像に祈る人々が多い
入り口の近くには十字架で死んだキリストを抱きかかえる聖母マリアの像があり,周辺にはローソクが灯され,たくさんの人々が跪いて祈っていた。おそらくこれは聖母信仰に基づくものであろう。新大陸やアジアにおけるローマン・カトリックの布教活動とヨーロッパにおける宗教改革の時差のため,アジアやラテンアメリカのキリスト教はローマン・カトリックが大多数を占めている。
三輪自動車のバジャイはまだ現役だ
経済発展が著しいインドネシアではバイクが庶民の足となっているが,ムスリムの女性がバイクを運転するのはまだ珍しい。彼女たちが街中を移動するときには「アンコタ」と呼ばれる乗り合い自動車を利用する。
個人利用の公共交通としてはタクシーもしくは「バジャイ」と呼ばれる三輪自動車がある。一昔前には「ベチャ」と呼ばれる三輪自転車が主流であったが,さすがにジャカルタではもう禁止されている。庶民の足となっている「ベチャ」も排気ガスが問題となっており,圧縮天然ガス車に変更されようとしている。
イスティクラル・モスクのミナレットはよく目立つ
ジャカルタの金曜モスクともいうべきイスティクラル・モスクのミナレットは大きな通りの正面にあるためよく目立つ。というより,モスクのミナレットが正面にくるように道路が造られたといった方が正しいかもしれない。
独立記念塔(MONAS)は新生インドネシアの象徴
ガンビル駅の西側には一辺が1kmほどある4本の道路に囲まれた「ムルディカ広場」がある。ムルディカはインドネシア語で独立を意味する。この広場とその中心にそびえる独立記念塔(MONAS/Monument Nasional)はまさしく新しく誕生したインドネシアを象徴するものである。
皿のような台座の上に高さ137mのオベリスク様の尖塔が立ち,頂点には燃えさかる炎をかたどった純金製のモニュメントが置かれている。内部にはエレベーターが設置され,展望台まで上がることができる。
ムルディカ広場装飾壁
ジャカルタ随一の名所なのでやはり雨の合間を縫って訪れた。さすがにこのくらい大きな広場なら地図無しでも見つけられると考えたのは少し甘かった。広場の周囲は柵で囲われており,開いている入り口を探して半周してしまった。
四角いムルディカ広場の中心に独立記念塔がそびえており,それを取り囲むように方形の石畳のベルト,芝生が配置されている。ここはジャカルタ市民の憩いの場になっている。モナスに入るには8000Rpの料金が必要であるが,広場を散策するだけなら無料である。
広場には巨大な装飾壁があり,インドネシアの歴史,文化,自然などを題材にしたレリーフで飾られている。また,宗教の多様性をそのまま表現したものもある。
独立記念塔(MONAS)は新生インドネシアの象徴であり,おそらくもっともたくさんのインドネシア人が訪れる場所であろう。そこに,インドネシアの歴史や文化を教科書のように教えるレリーフを置くというアイディアは分かりやすい。
必ずしもインドネシア固有というわけではないが世界最大の花である「ラフレシア」,世界最大の花序をもつ「スマトラオオコンニャク」,「スマトラ象」,「コモドオオトカゲ」も描かれている。いずれもインドネシアを代表する珍しい動植物であるが,乱開発が進むインドネシアでは,これらの動植物は人の保護がなければ生きていけないことにも留意しなければならない。
ちゃんとスカーフを被った若い女性の一団
もちろん,インドネシア統一の象徴であるモナスを見ようと,地方からも大勢の人々が見学に来る。ちゃんとスカーフを被った若い女性の一団がやってきたので写真を撮らせてもらう。やはり,このような服装の女性はいかにもインドネシアらしく,写真の良い題材になる。
ムルディカ広場を走る観光用電気自動車
ムルディカ広場は広さが8haもあり,歩いて回るのは熱帯の日ざしの中で歩いて回るのは大変である。そのため,団体客用(だと思う)に電気自動車が動いていた。他の発展途上国の大都市と同様にジャカルタの大気汚染のレベルは憂慮すべき状態であり,その中心部で電気自動車を走らせる意味はたいしてないと思うが,やはりこれは環境保全の一つのシンボルなのであろう。
モナスの最上部には展望台がある
モナスの近くを回ってみたが入り口は見つからなかった。地元の人にたずねると広場の北側にあるコンクリートの囲いを教えてくれた。ここが地下道の入り口になっており,入場券を買って中に入る。エレベーターの収容人数は15人程度なので,休日ともなれば相当の混雑が予測される。
写真を見る限りでは空気の透明感が足りない
展望台からの眺望はさすがにすばらしい。ガラス窓を通しての撮影をいうこともあるが,写真を見る限りでは空気の透明感が足りない。
なんといってもジャカルタは世界でも最も大気汚染のひどい都市の一つである。その原因は急速に増加している自動車と二輪車の排気ガスであり,呼吸器疾患も増加傾向にある。
イスティクラル・モスクの全貌がようやく分かる
地下の「博物館( Museum Sejarah Nasional )」にはジャワ原人の時代から大航海時代,オランダによる植民地支配,日本軍による占領,独立以降の近代化までのインドネシアの歴史がジオラマで展示されている。
インドネシア語と英語の説明文もあり,一周すれば大まかな歴史を理解することができるようになっている。僕はここで非常に英語が堪能なガイドにつかまり,9-16世紀のインドネシアの歴史について楽しい議論をすることができた。彼はガイド料を請求することもなく,握手をして外に出た。
TRAINEE の名札を付けた若い女性
チケットの窓口の近くには TRAINEE の名札を付けた若い女性が二人坐っている。おそらく研修期間中なのだろう。彼女たちの服装が日本の女子高校生の制服とそっくりだったので写真を撮らせてもらう。イスラムの国でこのようなミニスカートの女性がいるとは・・・やはりインドネシアは多様性の国である。
スマトラ・オオコンニャクのレプリカ
モナスの周囲には「スマトラ・オオコンニャク」のレプリカがいくつも配置されている。おそらく実物大のものであろう。この植物は世界最大級の花序(花の集まり)をつけることで知られている。花を咲かせるまでには7-20年という長い年月が必要であり,しかも,開花時間は2日しかない幻の花である。
花は花序とその付属体および仏炎苞(花や花序の下部にあってつぼみを包んでいた葉の変化したもの)の複合体の直径は1.5m,花序の高さは3.5mにも達する。花粉を媒介してくれる昆虫を引き寄せるため強い死臭を発する。そのため「死体花」というありがたくない名前も付けられている。また,その外観から「世界で最も醜い植物」にランクされている。このようなとんでもない花ではあるが,機会があれば見てみたいものだ。
世界最大の花
「スマトラ・オオコンニャク」が出てきたのでついでに世界で●●と呼ばれている植物を紹介することにする。世界最大の花としてはインドネシア,マレーシアに自生するラフレシアが有名である。ラフレシアは単一の花であるが,スマトラ・オオコンニャクは小さな花の集合体なので世界最大の花とはいえない。
世界最大級の花序をもつ植物
世界でもっとも背の高い花は南米アンデスの半砂漠高山地帯に自生するプヤ・ライモンディである。画像は 「世界の高山・極地の植生データベース(高山極域環境研究会&静岡大学理学部生物学教室)」 より引用した。ネットで検索しても900件しかヒットせず,日本ではほとんど知られていない植物のようだ。
この植物は栄養の乏しい土地で数十年をかけて栄養分を蓄積し,最後の年に最大で10mもの高さの花序を伸ばし,約3000もの花と600万もの種子をつけて一生を終える。開花するまでは鋭い棘のついた細長い葉を全方向に出し,ちょうど巨大な栗のイガのような形状をしており,花序ともに世界的に類例のない植物である。外観は東アフリカの高山で見られる「ジャイアントロベリア」に類似している。
世界最長寿の葉をもつ植物
画像は 「Male plant of Welwitschia mirabilis」 より引用した。ウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)はウェルウィッチア科・ウェルウィッチア属に属する1科1属1種の裸子植物である。学名の種名となっている「mirabilis」の意味は「驚異,不思議な」であり,和名の「奇想天外」はぴったりの命名であり,サバクオモト(砂漠万年青)では迫力がない。
アフリカ南西海岸にあるナミブ砂漠の固有種であり,極めて特異な形状と生態をもっている。砂漠に這うような短い茎から葉を伸ばす。葉は裂けやすいため,何枚もあるように見えるが生涯2枚だけの葉を伸ばし続け,寿命は1000年以上とされている。成長点を葉の基部にもち,このような生態をもつ陸上植物はなく,1000年間ゆっくり伸び続ける海藻のコンブを連想してもらえると分かりやすい。