亜細亜の街角
モンの人々と棚田,忘れられない町
Home 亜細亜の街角 | Sapa / Vietnam / Mar 2006

サパ  (地域地図を開く)

サパは標高1500mの高地にあり,フランス植民地時代に避暑地として開拓された町である。平地が少なく斜面にできているので街の中には階段や坂道が多い。ここを訪れる旅行者が多いため,北部最大の観光の町として発展している。それでもフランス時代の基本的な都市計画が現在も引き継がれており,観光地にありがちな乱開発から守られている。

メインの通りの両側にはホテル,レストラン,土産物屋,旅行会社が軒を連ね,旅行に必要なものはなんでもそろう。ベトナムには人口の90%を占める主要民族のキン族の他に53の少数民族が暮らしている。サパ周辺にはモン族,ザオ族,ターイ族などの山岳少数民族が暮らしている。

モン族,ザオ族の女性や子どもたちはサパの街中で土産物を観光客に売り,なにがしかの現金収入を得ている。男性も荷物運びをしており市場周辺でよく見かける。

サパ周辺のモン族は黒モンと呼ばれ,その名の通り,男性も女性も黒に近い藍染の民族衣装を着ている。女性の服装は円筒形の帽子,上着,五分丈のズボンか巻きスカート,膝当ての組み合わせである。腕の部分に控えめな色合いの刺繍をすることもある。

ザオ族も服装により区分されており,サパ周辺には赤ザオの人々が多い。女性の服装は藍色を基調としているが,上着の襟と袖口,腰の部分に華やかな刺繍を施している。頭部には赤系統の頭巾を被っている。

パソ(30km)→ライチャウ(80km)→サパ 移動

パソ(09:00)→ライチャウ(10:00)(13:00)→チェック・ポスト(13:50)→サパ(15:30)とバスを乗り継いで移動する。4時半頃雷雨があったがすぐに静かになった。埃だらけの道路にはちょうどよいお湿りになったことだろう。

チェックアウトをして8時前から宿の前でバスを待つ。9時少し前から雨が降り出し,近くの民家に避難したらラオカイ行きのバスがやってきた。車掌はサパまで6万ドンを要求するのでライチャウで乗り換えることにする。BSでチケットを購入したら4万ドン弱でサパまで行けるはずだ。

ライチャウのBSでチケットを買い,3時間近く待ってラオカイ行きのバスに乗る。ベトナム北部のバスの車掌は本当にあきれるほど性質が悪い。アジアのいろいろなところを旅してきた僕にとっても最悪と断言できるほどだ。

外国人(中国人を除く)と見れば2倍あるいは3倍くらいの料金は平気で要求する。このバスの車掌は僕がチケットを持っていたため,荷物代5万ドンを要求した。

そんなものはチケット代(23,000ドン)に含まれているだろうと言っても,荷物代は別だと言い張る。気が狂っているとしか言いようがない。彼は値を下げながらも執拗に請求を続ける。あまりのことに1万ドンを渡し,「写真を撮ってツーリスト・ポリスに報告する」と付け加えるとその金は戻ってきた。

バスは30分ほどで1000mの高原に達した。比較的なだらかな斜面は全て農地となっており,所々に山岳民族の集落がある。なかなか良さそうなところだ。13:40に小さな町を通過した。ここがたぶんタムドンであろう。10分ほどでチェック・ポストを通過する。バスはどんどん高度を上げ,山並みが連なる雄大な景色が目に入る。

例の車掌はかれこれ1時間も最後尾の席のモン族の人々と何やら激しいやり取りをしている。バス料金のことでもめているのであろう。次第に霧が出てきて3時に1850mの峠を通過する頃から雨になる。

Phong Huong Hotel

16:30にサパの外れで僕一人が下車する。ここから街の中心部までは1kmほどあるはずだ。雨の中を1km歩くのは願い下げだなと考えながらT字路をサパ方面に曲がるとホテルの客引きに出会った。7-8$,新しいホテルというのでバイクの後ろに乗る。

ホテルに到着すると聞きなれた声がする。水滴の付いたメガネを外すと,マイチャウで一緒であったスイス人である。再会を喜ぶのも束の間,彼は今夜の列車でハノイに戻るという。

このホテルは南北のメインストリートの1本東の通りにある。ほとんど新築状態で,部屋は16畳,2ベッド,T/HS付き,TVとテーブルも付いておりとても清潔である。

シーズンオフなので7$で宿泊できたが,オンシーズならば20$はしそうな部屋である。ホテルは家族経営で女主人が切り盛りしている。僕をホテルに乗せて来てくれた若い男性は長男のようだ。

6時に起床する。薄くて軽い布団でぐっすり眠ることができた。宿の家族もこの時間帯から起き出している。7時に市場のあたりに出かけたが,ほとんどのレストランは閉まっている。

今朝は霧が出てとても寒い。冬用のフリースを着ていても火が欲しくなる。市場で写真を撮ったが光が不足している上に霧のため写りは悪い。

雨宿りの幼稚園|お人形さんのようだね

市場の下に出て左に折れると幼稚園がある。ちょうど登園時刻で親に手を引かれた子どもたちが中に入っていく。年少組みの部屋に入れてもらう。

子どもたちは外と同じ服装のままである。帽子を被り,着込んだ姿はお人形のようだ。先生が電気ストーブを点ける。ヒーターの暖かさが心地よい。

最初は遠巻きにしていた子どもたちも写真を見せてあてげたあたりから慣れてきてひざに乗るようになる。一人の子どもがひざを占拠して争いになる。仕方がないので両方のひざに2人を乗せるようにする。

雨が強くなり帰るに帰れなくなり,そのまま幼稚園で雨宿りである。10時少し前にごはんになったので僕も朝食にする。昨日,スイス人と一緒に夕食をとったレストランでフライドライスをいたたく。競争が激しいので料理のレベルは高い。

サパの街並み

小学校の教室にて

教会の前は広場になっており,わずかに霧が薄くなったとき街並みの写真を撮る。フランス統治時代の面影が残る建物が霧の町によく似合っている。広場の向かい側に小学校がある。午前中の授業は終了し,子どもたちは帰宅している。

しかし,何人かの子どもたちが2階の教室に残っている。教室の一部はベッドになっており,この子たちはそこで昼寝をすることになっているようだ。

子どもたちは元気にはしゃぎ回り,それどころではない。集合写真を撮っているとムチを持った怖い女の先生がやって来て子どもたちを寝かしつける。

霧の中で菜っ葉を収穫する

学校から西側の階段を上り適当に歩いているとモン族のおじさんと一緒になる。彼の案内で大きな番犬のいる民家でお茶をごちそうになる。家の一部が土間になっており,そこに囲炉裏がある。焚き火の暖かさに手をかざし暖をとる。

畑の半分は一面に菜の花が咲いている。菜の花はアブラナ科の植物に共通の花で4枚の黄色い花弁が十字形に配置されているので十字架植物とも呼ばれています。アブラナ科には野菜として栽培されている品種がたくさんある。

メジャーなところでは白菜,キャベツのように葉が巻くもの,大根,カブのように根が肥大したもの,アブラナ,からし菜,チンゲンサイ,野沢菜のように葉を食用にするもの,ブロッコリー,カリフラワーのようにつぼみや花を食べるものなど極めて多様である。

アブラナ科植物の原産地は地中海沿岸から北ヨーロッパとされている。アジア大陸を東に伝播する間に多くの野菜に変化していったと考えられている。暑い気候を嫌うため,どのように伝播していったかは論争になっている。北の草原ルートか南のヒマラヤ山麓ルートかはまだ決着していない。

いずれにしても東アジアでは多様な野菜として栽培されており,北部ベトナムは緯度的に南限に近い。サパ周辺は高度が高いので栽培が可能なようだ。モンのおじさんは,裏手の畑に行きコール・ラビ(注)の葉の部分を摘んでカゴに入れる。ここでは葉っぱも無駄にはしない。霧が濃くなり少し離れた木がかすんで見える。

注)アブラナ科の野菜,キャベツの仲間で茎がカブのように肥大したもの。コールラビはドイツ語でコールは「キャベツ」,ラビは「カブ」を意味する。和名はカブカンラン,カブラタマナ。

カゴに入るだけ押し込み街に戻る。山の民族の足腰はとても強い。女性でも30kgくらいの荷物を背負ってかなりの距離を平気で歩く。おじさんは重いカゴを背負い僕の歩行速度で歩く。

市場の道路向かいに中国風の揚げたお菓子があったので2個いただき,おじさんと一緒にいただく。中にあつあつのアンが入っておりとてもおいしい。

モンの子どもたちが町でお土産品を売っている

市場ではモンの少女たちのお土産攻勢に会い,クッションカバーを1枚買うことになった。これでようやく写真がとれる。市場の食堂ではモンの人々が強い酒を飲んでいる。

女性も半分ほど含まれおり,近くにいると酒を勧められ閉口した。市場で働いている(キン族の)女性たちは昼間から酒を飲んでいる光景に眉をひそめている。

今日は霧が濃くて町の風景もほとんど撮れなかった。メインストリートを歩きモンの刺繍の値段をチェックして宿に戻る。

ちょうど夕食の時間で床に布を敷いて宿の家族が坐っている。僕にも声がかかり一緒にいただく。ごはん,玉子焼き,腸詰,ゆで野菜はどれもおいしい。食後にはいちごとオレンジが出る。どうもごちそうさまでした。

街中では土産物屋に民族服が並ぶ>

服装からしてベトナム主要民族のキン族の子どもたちであろう

小学校なのですぐに子どもたちが集まってくる

中心部の教会,手前に円形の広場がある

教会周辺の街並み

広場には食べ物の店が出ている

ここのメニューは焼いた卵とサツマイモとクリ

霧の中で新芽が幻想的だ

町中の子どもたち

雲海が下から湧き上がってくるとサパは霧か雨になる

バイクで村を訪問する

まどろみの中で教会の鐘が聞こえる。カーテンを開けると一面の霧である。しかし,空は明るいので昨日より期待はもてそうだ。宿の息子と11時からバイクで少し離れた少数民族の村に行くことにする。料金は8$と旅行会社に依頼した場合の半額程度である。

教会の近くにあるモン族の常設市を見ているとときどき霧が晴れ視界が開ける。バイクで少数民族の村に行ったときに分かったのだが,標高1300-1500mのあたりに雲海があり,雲海が少し下がるとサパでは太陽が顔を出し,少し上がると濃霧となる。

9時頃,宿の息子と出会い,彼が出発を10時にしたいと言うので同意する。そのまま宿に戻り,念のために予備を含め2個のバッテリーをチャージして出かける。

バイクは川沿いの道を南下する。霧が深くメガネをかけていると水滴で視界がきかなくなるので外すことにする。標高が下がると雲海の下に出て視界が開ける。

道路の右側は谷になっており,下の川の両岸のゆるやかな傾斜地は一面の棚田になっている。水はすでに入っているが田植えはまだのようだ。棚田は川沿いにずっと続いており,お気に入りに場所でバイクを止めてもらい写真を撮る。

道路の高さから見る棚田の光景はすばらしい。道路に近い棚田を観察すると棚田の畦はそれほどしっかりしておらず,クツをはいて歩き回るのは難しそうだ。

川の近くの一等地はすべて棚田になっており,集落は斜面と山の境界付近に固まっている。不思議なことにこの広大な棚田で働いている人はほとんど見当たらない。

一部には水が入っていない棚田もあり,そこでは水牛が草を食べている。対岸の山もかなりの高さまで棚田になっている。道路より低い棚田は特有のゆるやかな畦の曲線が美しい。しかし,道路と同等および高い位置にある棚田はただの水平線になってしまう。

棚田の写真はこのくらいの距離がちょうどよい

ちょうど水が入ったので畔の曲線がもっとも美しい時期だ

上から順番に水を入れ荒起こしが始まる

川向こうでは棚田の中に家屋が点在している

竹製の大きなブランコは少数民族の文化だ

つり橋を渡り村に入る。入口にツアーの車が何台も停まっている。近くの広場でモンの女の子が竹を組んだ巨大なブランコに乗っている。動きがあるためフレームがなかなか決まらない。

垣根の向こうではツアーの人々の周りにモンやザオのおばさんが土産物の売り込みに集まっている。ぼくも学校の入口の辺りで彼女たちに取り囲まれる。クッションカバーの値段を聞くと5万ドンである。サパの土産物屋のほうがずっと安いのでパスする。

少数民族の小学校|体育の授業を見ている

小学校のグランドでは体育の授業が行われており,子どもたちが回りに立っている。半分くらいの子どもたちは民族服を着ている。プリーツスカートの模様がすてきだ。

少数民族の小学校|私も撮って

少数民族の小学校|民族衣装がいっぱい

少数民族の小学校|ユニセフかばんが目立っている

3人の子どもたちが背負っているランドセル型のかばんにはユニセフのロゴが見える。モノをあげる援助が必ずしも良い結果を生むとは限らない。しかし,子どもたちに必要最低限の教育を受けさせてあげる援助は素晴らしいことだ。

女性たちは刺繍に精を出している

対岸の道路下の崖の色からすると石灰岩の岩山のようだ

板塀に囲まれた家

条件の悪いところが集落になっている

道路下も棚田が広がっている

丘の上が集落となっている

サパの町の下まで棚田の風景は続いている

雲海が滑るように迫りサパの町を飲み込もうとしている

小学校の子どもたち

少し遠くの滝を見に行く

サパに戻ると晴れており暑い。半袖になり冬用のフリースをザックに入れて昼食にいこうとすると宿の昼食に誘われる。来るものは拒まず,ありがたくご馳走になる。

午後はカカット村に行こうしたがどうも道が違うようだ。英語が上手なバイタクの運転手に聞くと道は分かった。しかし,その義理のため12kmほど離れた北西の滝を見に行くことになった。往復の5$(75,000ドン)は少し高い。

滝までの道路は舗装されており,それほど悪くはない。周辺の山はほとんど人の手が入っており,かなりの部分は茶色の畑になっている。山はどこまでも深く,見晴らしの良いところから見ると何重にも重なっており,最奥の稜線の上には夏雲が湧いている。

滝の入口で3000ドンを払い遊歩道を上り出す。少し上ると滝の全貌が見える。山の上から細い流れが下ってきて中腹に架かる橋の下を通り,大きな黒い岩のところで幾筋にも分かれている。

全体の落差は150mほどあり,なかなかの景観である。遊歩道は滝の右から上がり,橋を渡り左から降りてくるようになっている。気温が高いので近くで見る水の清涼感が心地よい。

土産物攻勢にさらされるヨーロピアンの女性たち

町の下の斜面を探検する

滝から戻ってきたらまだ15:30なので近くのシンチャイ村もしくはカカット村の方に歩いていく。近くの山は棚田になっているが,背景の大きな山の連なりは緑が支配しているように見える。

道なき道を適当に下っていくと畑に出る。ゆるやかな斜面で野菜が栽培されている。かなり広い面積でバラも栽培されている。ちょうど枝を切り,新芽が伸びるのを待っているところだ。

バラ園から上を見ると道路沿いに立派な建物が並んでいる。その多くはホテルである。サパのホテルの多さには驚かされる。所々に規模の小さな棚田がある。しかしお目当ては谷の底に広がる棚田である。

だいぶ苦労してその棚田のビューポイントに到達する。少し遠いが見事な棚田の曲線である。土地の起伏に合わせ曲線は変化していく。小さな丘は同心円状の幾何学模様になっている。少し時間が経つと光が反射するようになり,棚田は複雑な形状をした鏡のようになる。

アジアのいろいろなところで棚田を見てきたが,何回見ても新鮮な感動を覚える。それはこれらの曲線がほとんど人力だけで造り出されたものであり,人々の苦労に裏打ちされているからであろう。

これはいったい何だろう

滞在4日目|霧の中で作業するモンの女性

近くからの写真を許可してくれた

ガイド無しのトレッキング

カーテンを開けると晴れている。朝のうちに日本語環境のあるネット屋を探す。市場の階段を下り,右にカーブする道沿いに日本語で「日本語メール可」の案内がある。夕方,ハノイ以来2週間ぶりのメールを出し,日本のニュースをチェックする。料金は1時間半で8000ドンと格安である。

市場の牛肉入りフォーとモン族の常設市場の焼き芋を朝食にして川沿いの道を探検に行く。町から幹線道路を川に下る道を探しながら2kmほど南に歩くと道が見つかった。

下り口のところでモンの子どもたちが竹の杖を売っている。新しいものは2000ドン,リサイクル品は1000ドンである。この杖は足場の悪いところを歩くときの支えとして,あるいは犬に吠えられたときの用心のため重宝した。

道はひたすら下りで,かなりの悪路の部分もある。はるか下に川の流れとその両岸の棚田が見える。下りの斜面も棚田になっている。

何組かのトレッカーがガイドと一緒に歩いている。どうやらこの道はトレッキングルートになっているらしい。ルートの要所には物売りの子どもたちが待ち構えている。

川原から棚田が立ち上がっている

耕して天に至るとはこのことだね

村人の使用する道を通り先に進む

途中で出会った子どもたちにヨーヨーを作ってあげる

上から見下ろすと棚田の曲線がよみがえる

棚田の畦道を通り,小道をさらに下る。谷の棚田がだいぶ近くなってきた。同じ棚田でも水の入っていないものは物足りない。ようやく川沿いの道出る。足場がぬかるんでおり,飛び石づたいに行かなければならない。ここでも杖が活躍した。トレッキングの一行は川原で小休止となった。

僕はそのまま横の斜面にある小道を登る。高低差ができると棚田の曲線がよみがえる。このあたりの棚田はクワを入れてから水を入れるようだ。畦は狭く不完全なので歩くのは容易ではない。田植えまでにはまだ間がありそうなのでそれまでには整備されるのかもしれない。

水が入ると棚田の風景が引き立つのがよく分かる

おそらくすべての農作業は手作業なのだろう

谷一面の棚田

この橋が棚田ツアーの終点となる

子どもたちにヨーヨーを作る

村に到着すると物売りの子どもとおばさんたちに囲まれ,茶店に逃げ込み昼食をとる。メニューは5000ドンのインスタントラーメンしかない。

外で4-5才の女の子が遊んでいたのでラーメンができるまでの間に人数分の4個のヨーヨーを用意する。これを子どもたちにあげると物売りの子どもたちが集まってくる。

「君たちの分は無いよ」とは言えないので茶店の床下で作ってあげる。子どもたちは喧嘩もせず順番にヨーヨーを受けとる。

作業が終わると茶店の周りはヨーヨーをもった子どもたちでいっぱいになる。トレッキングのメンバーは民族服の子どもたちが撮れるのでこの機会を逃さず写真に納めている。

両岸を結ぶ竹の橋

天候が回復してきたので空気に透明感が出てきた

子どもたちと別れて棚田の写真を撮りながら幹線道路に戻る。トレッカーにたずねるとサパまで5-6kmらしい。道路沿いはどこでも棚田のビューポイントになっているのでなかなか足が進まない。45度はある急斜面で作業をする人々もいる。

それでも遠景はかすんでいる

手前の棚田の曲線もなかなか趣がある

山頂部にだけ樹木が残されている

モンの人々が一列になって斜面を耕している

道路側の斜面で30人ほどのモンの人々が一列になって斜面を耕している。これは絵になると思い斜面を登ろうとしたが,道が無い。一人があっちだよと教えてくれる。

ここも45度はある斜面で横に歩くのも大変だ。写真のお礼に籐で編んだ容器に入ったキャンディーをあげることにした。容器のふたを取り隣の女性に渡すと彼女は一回りして容器を空にして戻ってきた。

この籐の容器はどうなったのかと我が家のお土産品展示コーナーをチェックするとちゃんと残っていた。容器は展示コーナーの全面に出しておいたので,それを見るたびにこの日のことを思い出すことができる。

天気は回復したがまだ大気中の水分は多い

植林こそが持続的農業の必要条件である

滞在5日目|今朝も雲海が上がってくる

3月のサパの天候は2勝2敗の引き分けであった。出発の朝は上天気である。宿の屋上から眺めると街のすぐ下まで雲海が上がってきておりちょっとした風景を演出している。この雲海がもう少し上がると街は霧の中に入る。現在の上天気もいつまで続くかは分からない。

子どもたちが校庭に集まり体操をしている

市場で朝食をとり,その足で小学校を覗いてみる。子どもたちが校庭に集まり体操をしている。なんとなく手足は動いているものの,日本のラジオ体操のようにしっかりと体の各部分を動かすようなものではない。

前方の段の上では模範演技の女子児童が立っている。周囲には先生が並んでいるので僕もその近くから写真を撮る。


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